武蔵の平野は見事なものだ、と新左衛門は思った。

 目を細めて八王子から東を眺めれば、どこまで続くかと思われるほど空がずっと広がっていて、四方を山に囲まれた郷里の、狭隘な土地を思い浮かべてこの景色とくらべると、なにか心の壁すらも取り払われていくような、浮き立つような気分になった。

 そういう気分になるのは江戸という終点がもうすぐ間近に迫っていることもあるのだろう。

 江戸で蓮次がおとなしく商家で働きはじめればよし、幕閣の行列に駆けこむようなら是が非でもとめねばならぬが、ともあれ、旅の終わりは目の前にある。

 陽はだんだんと傾いて空気は冷たかったが、手足がかじかむほどでもなく、新左衛門のはずんだ気持ちをなえさせる要素はまるでなく、高揚した気分のまま、ちょっと後ろを振りかえりながら蓮次に話しかけた。

笹子ささご峠で雪に降られた時はどうなることかと思ったが、この辺りまでくると、まったく雪の気配すらないな」

「あの時は、平井の旦那が大騒ぎしていただけでしょう。俺はこの雪は続かない、降り積もるほどでもない、と最初っから言っていました」

「まあ、たしかにお前の言う通りではあったがな。あ、おい、あそこに見えるのは八王子宿じゃあないのか。ここで無理してもしかたがない、今日は早めに宿をとることにするか」

「旦那におまかせしますよ」

 そうぶっきらぼうに答えた蓮次が、次の瞬間、あっと小さく声をあげると突然駆け始めた。

 おいどうした、と新左衛門も後を追った。

 その先、半町もないだろう、乾いた田と水路が流れる道端の、茶色く干からびた雑草の中に、灰色の小さな塊があった。

 何かと思いながら駆け続けると、子供が横たわっているようである。

 先にたどり着いた蓮次が、その男の子に声をかけながら抱き起こした。ぐったりと力なく蓮次の腕の中で頭を上向け、蓮次が体をゆすると、それにあわせて首がくらくらと振り子のように揺れるのだった。

「おい、しっかりしろ。すごい熱じゃあねえか。どこの子だ、この辺の子か」

 蓮次がいくら声をかけても、その子供はまるで反応する気配がない。

 みたところ歳は七、八歳、近隣の百姓の子だろうか、灰色のつぎはぎだらけの粗末な野良着を着て、ぼさぼさの髪をして、倒れた時にでもついたのだろう、顔は土で汚れていて、目をぎゅっとつむって、苦しそうに肩で息をしている。

「どうする、蓮次」

「どうするって、このままほうっておくわけにはいかんでしょう」

「とにかく、宿をとって介抱してやろう。どこの童か知っている者もいるかもしれんしな」

 蓮次が子供を抱え上げ、ふたりは小走りに走って、八王子宿でやどをとった。

 旅籠のおかみにわけを話し、どこの子供か知らないかたずねたが、まるでわからぬと言う。では、と医者を呼んでくれるように頼んだが、

「みたところ、風邪じゃなさそうですね。子供だから、突然熱が出ることなんてよくありますよ、お客さん。医者を呼ぶほどじゃあないでしょう。ひと晩したらけろっとしてますよ。え、まあそこまでおっしゃるなら呼んで来ますが、適当な熱さましの薬を出されて代金をふっかけられるのが、おちですよ」

 おかみは、そんなことを言いながら、しぶしぶといった態で部屋から出て行った。

 やってきた医者は、けっきょくおかみと同じ診断をして、薬を取りに来るように言って、あっという間に帰って行った。

「あの医者、二朱もふんだくりやがった」

 薬を持って帰って来た蓮次に、新左衛門はぼやいた。

「まあ、親元に届ければ、返してもらえばいいだけの話ですが、このなりじゃあ、どうみても、ぽんと二朱を出せる家柄じゃあなさそうですね」

「この辺りの百姓の童だろうな、おかみの言ったように、遊んだ帰りにでも突然熱がでたのかな」

「そんなとこでしょう」

「ながびかなければいいのだがな」

「今夜は、俺が面倒みますんで、旦那は寝てくれてかまいませんよ」

「ば、馬鹿を言え、それではわしが人でなしみたいではないか。交代で看病してやるよ」

 そう言って蓮次はくすりと笑った。

 まったく新左衛門には期待をしていないと言いたげでもあり、意外と善良な面があるのだなと言いたげでもあった。

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