三
新左衛門は歩いた。
それはまるで執念に取り憑かれた鬼のようであった。いやまさに鬼であったろう。人を侮蔑し嘲弄し面倒事を他人に押し付けてのうのうとしている奉行所の連中を、この役目さえなせば必ず見返せるものと思い極めて、鉛に変じたような重い脚を引きずりながらひたすら歩む。
まなじりを引きつらせ、血走らせたまなこで、ついに蓮次の背中をみつけたのは、
本陣を過ぎた先の茶屋や飯屋が道の両側にたち並ぶなかの一軒から、ふと蓮次が道へと出てきたのだった。
ほんの二十歩ほど先で、しかもちょうど昼時で店店は繁盛していて、往来する人人の間からかいま見たのであったが、まず間違いではなかろうと人波を縫うようにして新左衛門は近づくと、蓮次の肩をぎゅっとつかんで声をかけた。
「おい、蓮次」
はっと顔を向けた蓮次は、裂けんばかりに両目を見開き、新左衛門を見つめた。のも一瞬、くるりと振り向くと脱兎のごとく走りだした。
「まて、蓮次」
声をかけながら、新左衛門は追った。もう歩きどおしで三日めだったし、先夜も二刻ばかりしか眠ってないものだから疲労がたまっていて、すぐに息があがって肩で息をしはじめる。
「まて、まてともうすに、なぜ逃げる、蓮次っ」
行きかう旅人たちが、この奇妙な追いかけっこを怪訝な面持ちで見送った。
「だ、旦那が追いかけるからじゃありませんか」
「お、お前が逃げるから、わしも追いかけるのじゃ」
「じゃあ、追いかけねえでください」
「お前、やっぱり逃げなくてはいけないやましいことをしておるんだな」
新左衛門の言葉に、蓮次は唐突に脚をとめた。
そうして肩を激しく上下させながら、新左衛門を見た。
新左衛門も立ち止まった。
お互い、息がきれてまったく声がだせずに、はあはあ言いながら見つめ合った。
「や、やましいことなんざ、ありはしません」とぎれとぎれに蓮次が弁明した。
蓮次は新左衛門より三つばかり年下で、一見痩せているようではあるが、みっしりと筋肉のついた引き締まった体つきをしていて、やや四角くて彫りの深い顔に太い眉に大きな目を持って、その大きな目をけわしくし、油断なく新左衛門を見つめるのだった。
「平井の旦那こそ、なんで俺を追いかけるんですか」
「お前を迎えにきたんだ。帰ろう、蓮次」
「なぜです。なぜ帰らんといかんのですか」
「お前、訴状を持っているだろう。それをわたせ。そして今このまま国へ帰るのなら、お奉行も悪くはあつかうまい」
蓮次は、ぽかんと口を開けた。新左衛門の言葉の意味を理解しかねているようにも見えたが、何か言い逃れを考えているようにも見えた。そして数回呼吸を重ねると、蓮次は笑った。口を端をちょっと引きつらせてせせら笑うのだ。
訝しむ新左衛門をよそに、蓮次は言った。
「俺は、江戸へ出稼ぎに行くだけでごぜえますよ、旦那。いささか遅きに失しておりますが見分を広める意味もあります。ご公儀に直訴するためだとか、そんなたいそうな用事じゃあありゃしませんぜ」
蓮次の言は庄屋とほとんど同じであった。かねて打ち合わせをしてあったに違いないと新左衛門は感じた。
「出稼ぎに行くなら、なぜ江戸なんだ。城下町にだって働き口はいくらでもあるだろう。でなければ、名古屋や上方のほうがよっぽど国から近かろう」
「ですから、知り合いの店が江戸にあるんです。そこを頼って働きにいくだけです」
「ならば、なおさらだ、いったん帰って申し開きをせい。疑いがはれたら、また旅立てばよい」
「馬鹿をいわんでください。せっかく木曽まで来たってえのに」
「手段は選ぶな、と命じられておる」
言いながら、新左衛門は脅し半分で刀の柄袋をはずしにかかった。
「なんですか、斬ろうっていうんですか、できますか旦那、こんな人目がたくさんの往来で」
その、侍を侍とも思わない無礼な言いようにむっとしつつも、新左衛門はたじろいだ。気がつけば、立ち止まった数人の旅人が遠巻きに囲んでいた。こちらを不安げな表情でうかがっている者もいれば、権威を笠に着て威張り散らしている侍に冷眼視を向ける者もいた。そういう雑多な、人人の冷たい視線が矢のように新左衛門を貫くようだった。
それに公儀隠密の目が光っているから目立つことはするな、と奉行の居間で高山は言った。公儀隠密などというのは、田村奉行や高山のあらぬ妄想にすぎないとは思うが、かといって人目を四方から浴びながら乱暴な行為に及ぶ度胸など、新左衛門にはなかった。
「じゃあ、俺はいきますぜ、平井の旦那」
そう言って身を翻した蓮次の背中に、新左衛門は、
「どうしても行くというのか」
「ええ、行きますぜ」
「じゃあ、ついていく」
「ええっ?」蓮次はさっき振り向けた体をまたこちらに振り向けた。
「お前がやましいことはなにもないと言うのなら、べつにかまわんだろう」
「え、いや、そう言われましても」
「わしも役目を仰せつかった以上、お前が潔白であると見極めねばならん。だから、お前が江戸の商家へたどり着くまで、わしもいっしょについていく」
「そ、そんな」
「お前も、侍と同道したほうが、なにかと安心じゃろう」
「う、ううむ」
と蓮次はすぼめた肩の間に首をうずめるようにして、低くうなった。
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