松戸村庄屋善兵衛の屋敷の戸をたたくと、善兵衛が出てき、新左衛門の姿を見て目を丸くした。

「どうなさいました平井様、こんな遅くに、それもそのような旅支度で」

「蓮次はいるか」

 唐突な問いに、善兵衛はさらに目を見開いた。

「い、いえ、おりませんが」

「どこに行った」

「あの、ご質問の意味がわかりかねますが」

 この狸親父め、と新左衛門は腹の中でののしった。蓮次が直訴に江戸へ立ったというのが真実なら、このとぼけよう、善兵衛なかなかの役者である。

「ともかく、おあがりになってください、平井様」

「そんな暇はないのだ、善兵衛。理由は言わずともわかるであろう」

「さて、ますますわかりかねますが」

「どこまでしらをきるつもりだ。おぬしの息子の蓮次が江戸へ向かったということはわかっておるぞ」

「はあ、たしかに蓮次は江戸へ向かいました」

「いつだ」

「今朝です」

「何をしに?」

「江戸へ出稼ぎに行かせました。あとは、まあいささか遅きに失しておりますが見分を広めさせるためですな」

「しらじらしい」

「はあ」

「おぬしらが、蓮次に訴状を持たせて幕閣に直訴させようと企てておることは露見しておるぞ」

「訴状?直訴ですと?」そう言って善兵衛はたからかに笑った。「まさかまさか、平井様、なにかの間違いでございますよ。蓮次はただ、働きにゆくだけです」

「それならそれでよい、これからわしはそれを確かめにゆかねばならん」

「え、今からですか?」

「そうじゃ」

「こんな夜もふけてから……。確かめに行くとおっしゃるならお止めはいたしませんが、今日は拙宅に泊まられて明日の朝、ご出立なされてはいかがですかな」

「それでは蓮次に追いつけぬではないか」

 田村奉行は旅費として一両しか用意してくれなかった。なんとも吝いものである。これっぱかりでは、旅籠代だけでも足がでそうなくらいだ。馬は使うなと高山は言ったが、馬どころか駕籠すらも雇うことができはしない。新左衛門は己の脚で駆けに駆けて蓮次に追いつかねばならぬ。

 立ち去りかけて新左衛門は振り向いた。

「蓮次はどの街道を進んでおる?」

「はあ、中山道でございますよ」

「東海道ではあるまいな」

「そんな大回りする余裕のあるほど、旅費をわたしておりませんでな。中山道に違いありません」

 新左衛門は暗がりの中で、提灯のあかりをうつす善兵衛の目をじっと見つめた。

 ――どこまで信用してよいものか。

 ともかく新左衛門は歩き出した。

 蓮次が今朝、ここを発ったとすれば、単純に考えて、今はすでに十里程度さきで宿をとっていることになる。

 新左衛門は、松戸から三里を歩き西の藩境を出て、さらに南へ四里進んで中山道の鵜沼宿へ到着した。

 もし善兵衛の言うことが嘘で、蓮次が東海道へと向かったとすると、ここから木曽川を渡り犬山を抜け名古屋を通り東海道の宮宿へといたる。たしかにそんな大回りをしたとは考えにくいが。

 新左衛門は腹を決めて、中山道をゆくことにした。

 もう二里進めば太田宿おおたじゅくに達し、四里歩けば伏見宿ふしみじゅくに達する。

 刻の感覚が麻痺してしまっているが、明け方まで一刻あるかないかだろう。それまでにどちらかの宿に達すればちょうど出立する蓮次に出会えるはずだ。あくまで希望的観測にすぎないのだが、新左衛門は震える脚を引きずるようにして、中山道を進んだ。もたもたしているわけにはいかない。最悪でも下諏訪までに追いつかなくては、蓮次が中山道をまっすぐ進んだか甲州道中へと道を折れるかわからなくなる。そうなってはおしまいだ。

 が、新左衛門は自分の甘さに苦笑した。陽が昇っても、太田宿へすらも達しなかった。

 早朝の刺すような冷たい空気の中を、はあはあとあえぎながら歩いた。

 息をひとつ吐くたびに、白い息が刃物のような陽光のもとを舞った。

 日頃、藩領内の村村をまわって足腰は鍛えられている自信があったのだが、もはや脚は綿のうえを歩いているようだし、目も回って伸びる道が左右にうねるように揺れている。

 ――これはいけない。

 もう限界だ、どこかで休息をとなねば倒れてしまいそうだ、と朦朧とする頭でどこか休めそうな場所をさがしていると、一町ほど先に茶屋があるのが目に入った。

 なんとかそこまでたどりつき、笠をもぎとり縁台に倒れ込むように座った。手っ甲も脚絆も放り出して大の字になってごろりと横たわりたい気分であった。と、なかから背中の曲がった老婆が達者な足取りですばやく寄ってきた。新左衛門はともかく茶となにか食べ物を注文すると、すぐに温かい茶と握り飯がふたつ出てきた。

 茶をがぶがぶと呑み、握り飯をむしゃぶりつくようにして食った。

 すきっ腹に心地よく食い物が流れ込んでいった。

 ふと見渡せば、茶屋は木曽川きそがわの土手に建っていて、街道にはもう行き交う人たちがけっこういるし、目のくらみそうなほど広い川を、渡し舟が白く波の尾を引いて対岸へと流れていっている。

「ばあさん」新左衛門は店の奥にむかって叫んだ。「ここはどこだい」

 呼ばれた店の老婆は別段迷惑そうな顔をすることもなく、勝山かつやま村です、と教えてくれた。

「じゃあ、あの渡し場は栗栖くりすの渡しじゃないのかい」

「へえ、そうですよ」

 新左衛門は肩を落とした。

 ――なんということだ。

 鵜沼宿からまだ一里ほどしか進んでいなかったのか、と気力も体力も足の裏から地面へと抜けていくような脱力感であった。疲れがどっと湧いて出てきたようであった。そうして、腰かけたまま、新左衛門はうとうととまどろんだ。

 ふと気がつけば、陽射しがさっきよりも強い。

「おい、ばあさん、わしはいかほどこうしておったかの?」

「へえ、もう半刻はぐっすりお休みでしたよ」

 はあと吐息をついて、新左衛門は立ち上がった。これ以上怠けていては、夜通し歩いたのが台無しだ。

 それでも休んだおかげでいくぶん疲れがとれたような心持ちだった。

 今日中に蓮次に追いつくのは無理そうだ、と思いながら新左衛門はふたたび歩きはじめた。

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