新左衛門が郡奉行所に帰って、同心番所の部屋で書類の整理などをしていると、与力の高山たかやまがちょっとこいと言う。

 唐突な呼び出しを怪訝に思いながらも、ひとつ歳下の上役の肩幅の広い背をみながらついていくと、高山は奉行の居間の前で立ちどまった。

 高山は部屋に入るとそのまま脇座について、新左衛門は郡奉行田村たむらの前に座って頭をさげた。

 気味が悪いほどしんと静まりかえった部屋に、田村の咳ばらいだけが響いた。

 耳に痛いほどのその咳に不快さを感じつつ、新左衛門はそっと頭をあげた。

 田村は歳よりもずっと若く見える顔の、太い眉の間に深い皺を寄せていた。

「平井、そのほう、松戸村の受け持ちであったな。どうであった」田村は早口に訊いた。五十を過ぎているとは思えない若い声音であった。

「はあ」

 と新左衛門は質問の意図が呑み込めず返答に窮していると、

「はっきり答えぬか」高山の鋭い叱声が飛んできた。

「何か不審なことはなかったかと訊いておる」田村がいらだたしげに言った。

「別段ございませんでした」

 田村は溜め息とともに、高山とあきれたような目つきで見かわしてから、続けた。

蓮次れんじと申す百姓を知っておるな」

「はあ、庄屋善兵衛の次男ですが」

「その蓮次はおったか」

「いえ、今日は見かけませんでした」

 田村の婉曲な話の運びに、新左衛門はさら疑念を深めた。

「実は、松戸の隣の上条村の担当の、同心の……」と言葉に詰まった田村に、

「木下でございます」高山が耳打ちするように言った。

「うん、木下が上条の庄屋から聞き捨てにできぬ情報を手に入れてきた。松戸の善兵衛が蓮次を、江戸へと直訴にむかわせたと言うのじゃ」

 いきなり殴られたような気持ちで、なかば口を開けて新左衛門は虚空をじっと見つめた。今日、平然とした顔で話しをした善兵衛の老いた顔が頭をよぎった。

「直訴、ですか?」

「うむ、丸衣川改修の訴えであるようだ」

「に、にわかには信じられませぬが」

「貴様が信じる信じないはどうでもよい。とにかく、松戸村へ行って善兵衛を取り調べ、報せが真実で蓮次がおらぬようなら、追いかけて捕らえよ」

「はあ、しかし、直訴をはばんではならぬという藩法がございますが」

「よいか、平井」田村奉行はいらだたしげに膝を指で叩きながら話した。「わかっておらぬようだが、これは藩の浮沈にかかわる大事だ。我ら郡奉行所だけではなく、不逞にも家老も殿さえも飛び越えて、公儀へ直訴するなど言語道断。藩の面目が潰れてしまうではないか。面目だけならまだいい、下手をすれば藩そのものが取り潰しにされかねぬ。ゆえに、法度だのきまりだのと言っている場合ではない。なんとしても訴状を手に入れろ。手段はかまうな」

「しかし……」

 冗談ではない、とはっきり言える度胸はないが、新左衛門はむっとしたものがこみあげてきた。その面倒な任務をなぜ自分がやらねばならぬのか。

「私などでは」

 そう聞いて田村がいらだたしげに吐息をもらした。

「お前しかおらんのだ、平井」新左衛門がぐずり始めたのを見かねたように、高山が口をはさんだ。「お前は蓮次の顔を見知っておるのだろう。見知っておるお前でなくては、そやつを捕まえられん。ぐずぐず言うでない」

 それなら、情報を仕入れてきた木下だって蓮次を知っているし、新左衛門と同じ区域を担当している中村という同心もいる。どうせ、独り身で身が軽く日頃おとなしい新左衛門なら面倒ごとを押し付けても文句を言う度胸もあるまい、というくらいの理由で選んだのだろう。

「厳しい任務ではある」高山が続けた。「どこに公儀隠密の目が光っているかわからん。目立つことはいっさいまかりならん。馬も使うな。しかしものは考えようだぞ平井。日頃なんの役にもたたないお前にあたえられた、面目をほどこす絶好の機会ではないか、はげめ」

 居丈高な高山のその言いように業腹なものがあったが、不承不承、震える手で膝をつかみつつ、新左衛門は頭をさげた。

 と同時に田村が、すでに用意されていた通行手形と旅費のつもりであろう一両金を投げ捨てるように新左衛門の前に置いた。

「それでいつ発てばよろしいでしょう?」

「聞いておらなんだのか、今すぐだっ」田村がつかみかかるような勢いで怒鳴った。「ただちに屋敷へ帰ってしたくをせよっ」

 頭をたれたまま、手形と金子を受け取って新左衛門は座をさがり部屋を出た。

 襖を閉めるとき、なかから田村の声が聞こえた。

「あれで大丈夫か」

 高山の答えは聞きとれなかったが、軽侮するような短い笑声だけが耳にとどいた。新左衛門はただ静かに番所へと足をむけた。

 奉行所を出、新左衛門は空を見上げて、いやな空だと思った。

 陽は西の山並みに姿を隠して、その大半が群青色に染まった空の、西のまだらに浮かんだ雲の腹だけが赤く彩られ、底気味悪く感じられた。

 そう感じるのは、はたして今日の空が特別まがまがしいからか、新左衛門の鬱屈した心がそう見せているからだろうか。

 背中から腕をひろげて絡みついてくるような黒い影のようなものを振り払うように首をふると、新左衛門は一日歩き回って疲労のたまった重い脚を引きずるように屋敷へと歩き出した。

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