パルスベルク城塞攻略戦(6)
ヘレネたちの侯爵襲撃を間近で目にしたソロヴィヨフは、その手口の非道さと横暴さに心情を曇らせる一方で、作戦の成功に深く安堵してもいた。その後、広間を擁する城館の制圧は驚くほど迅速に行われ、パルスベルク城塞は陥落した。施設内では散発的な小競り合いこそあったものの、大規模な武力衝突は発生しなかった。兵たちの選択は十人十色である。ある者は降伏を受け入れ、ある者は自害し、ある者は近隣の村落へと逃げていった。領主と将校の身柄を押さえられてなお、命を賭して戦おうとする者など、いるはずがなかった。
帝国兵に化けたソロヴィヨフ隊と、ヘレネ率いる修道騎士団がパルスベルク候の身柄を拘束してから、ジルキン隊が城塞内部へと侵攻した。城塞中枢部への波状攻撃を狙った作戦だったが、血気に逸るジルキンの兵たちが遭遇するのは、いずれも将を失い戦意を取り落とした帝国兵ばかりであった。
モスクワ軍がパルスベルク城塞での完勝を果たした三日後。ヴィタリー・ジルキン中尉の戦死が、大隊司令部へと報告された。
遺体は本館二階の南側廊下で発見された。背後から頭部への発砲によるもので、おそらく突入時に遭遇した帝国兵との交戦が原因だと推測された。勝利の定まった戦場での、不慮にして名誉の戦死だと、誰もがそう判断した。
「ジルキン中尉のことは、残念です」
占拠したパルスベルク城塞内の執務室でソロヴィヨフが一服しているところ、トカチェンコ准尉が殉職した小隊長に対する憂いを口にした。上官であるマニロフ少佐は、日暮れ前には城塞に到着すると聞いていた。片付けかけの書類業務もほどほどに、ソロヴィヨフはペンを置いてブリキのケトルに手を伸ばした。あの小やかましいジョーク好きな役人気質の上司を相手取るんだ、すこしカフェインでも胃に入れないとやっていられない。そうした気持ちから、ソロヴィヨフは准尉を誘って珈琲を楽しんでいた。
「そうそう無血開城なんて、簡単にできるもんじゃないな」
「少尉殿の、ご同輩だったそうで」
「長生きはできないタイプだって、あいつ本人もわかってたと思う。ただ、敵と戦って死ねたことだけは、本望だったんじゃないか?」
「さあ。死んだことは、まだありませんで。しかし、指揮官が囚われても抵抗をやめない兵がいたとは。いかに帝国とて末端の兵となれば、その士気は千差万別なのでしょうな」
珈琲を飲み干し、トカチェンコは席を立った。捕虜の監視について、修道会側の人員と話しあうことがあるというので、彼はそのまま退室していった。そこへ、トカチェンコと入れ替わりになるように、詰め所にブルネットの女騎士がやってきた。
「きみは……」
「……エリーゼ・ガーデルマン修道騎士ですわ、少尉殿」
端的に名乗ると、エリーゼは室内のソファに深く座り込んだ。
「まずは、作戦の成功と完勝をお祝い申し上げます……おめでとうございます」
「ああ、ありがとう……」
社交辞令の一環で、ソロヴィヨフは反射的に珈琲を淹れていた。じっとりと湿った気質とでも称せばよいのだろうか。エリーゼは先ほどと変わらぬ無機質な表情のまま、ソロヴィヨフに語り始めた。
「捕虜の身の上のわれわれの方でも、大隊司令部に働きかけております。いかにパルスベルクを落としたといっても、近々少尉殿には独断専行の容疑がかけられるかと存じます。組織としてお咎めなしとはいかない、功績あれども綱紀粛正のための方便は必要でしょう。しかし、ご安心ください。無罪放免とまでは言いませんが、即日銃殺ということにはなりませんでしょう。せいぜいが譴責くらいだと、お気に留めていただければと思います」
「ありがたい限りだ」
珈琲の注がれたカップを受け取ると、エリーゼはその芳香を楽しみながら口をつけた。
「美味しゅうございます。少尉殿は、なかなか器用でいらっしゃるご様子で……」
「前線で続けていけそうな趣味でもないがね」
「その持ち前の器用さで、先日もうまく切り抜けられたのでしょうね……?」
「さて、おたくのヴィッテルスバッハ伯の面目躍如によるところが大きかったと思うが」
「……とぼけちゃってぇ」
長くしなやかな両脚を組んで、エリーゼは上目遣いでソロヴィヨフをねめつけた。平時より低血圧気味なのか、言葉に挟まる気怠い吐息の音が、ソロヴィヨフの耳にまで聞こえてくる。
「お姉さまであれば、あれくらいできて当然です……いま私が言っているのは少尉殿……あなたの内職について、でしてよ」
「内職だって?」
「ヴィタリー・ジルキン中尉を殺したのは、少尉殿ではなくて?」
蛇を思わせる灰色の瞳が、ソロヴィヨフの高鳴る心臓を射抜いていた。胸郭内で躍り狂うような鼓動を感じながら、ソロヴィヨフは自分のカップを口元に運んで平静を保とうとした。しかし、エリーゼの視線がこちらの首より下へ徐々に下っていくにつれ、意図せぬ動揺が高まっていく。
「いただいた報告書……以前とは違う、なんだかとっても嬉しそうな字体なんですもの。お気に入りのペンでも、手に入ったのでしょうか?」
「仕事の書類に感情なんか籠められるものか」
「いいえ、わかりますわ。荒々しい走り書きとはわけが違いますもの」
かろうじて言い返しはしたものの、手元に置いてあった万年筆を手繰り寄せるのを、エリーゼは見逃さなかったらしい。
「きれいな翡翠の万年筆。どなたかからの贈り物ですか?」
「ああ。妹から、もらったものだ」
「誰かに盗まれでもしたら、一大事ですわね。もしそうなった場合、少尉殿は殺してでも奪い返すクチ、らしいですが」
「……」
「フクク……別に、少尉殿の口からお答えいただかなくて結構です。少尉殿とジルキン中尉がどういった関係かなど、われわれ修道騎士が殊更に口を差し挟むことでもないでしょう」
独特の含み笑いを沈黙の相槌代わりにしながら、エリーゼは言葉をつづけた。
「少尉殿がどこのどなたと仲良くしようが、どこのどなたを手にかけようが、われわれがそれを追及しなければならない理由など、ございませんので」
「それなら、個人的に俺の弱みでも握りに来たのか?」
意を決して、ソロヴィヨフは暴露も同然の発言を口にした。針の筵で毒蛇に睨まれるのがよほど堪えた、というのもある。だが、それ以上にエリーゼがソロヴィヨフの秘密にあえて近づいてきた理由の方が気になったのだ。
「ま。お人聞きの悪い。少尉殿の評価は改められつつあるのですよ。もちろん、良い方向に。少尉殿がそういう人間であるならば、という、仮のお話ですが」
ジルキン中尉は無防備だった。だから、殺した。
悪い関係ではなかった。士官学校からの腐れ縁で、彼の過激な思想にはやや辟易するところもあったが、日常的な諍いで勢い任せに殺してしまうほど、憎んでいたわけでもない。そんな諍いがあったとすれば、白兵戦が不得手なソロヴィヨフなど、なすすべなく殴り倒されておしまいだ。仮に会話の中で神経を逆撫でされるような何気ない一言があったとしても、それを呑み込んで平静を装うことができねば、兵士どころか社会人として失格である。悪気があったわけじゃないのかもしれない。一人ひとりがそんな些末事で頭に血を上らせていたら、組織など健全に成り立つはずがない。自制こそが現代に求められる才能であり、国民国家を支えるために不可欠な精神性なのである。一時の感情で人生を棒に振るなど、愚の骨頂と呼ぶほかない。
仰向けに両目をかっと見開いたジルキン中尉だったものを睥睨しながら、ソロヴィヨフはそんな生産性のない理屈を頭でこね回していた。喉元に一発、額に二発の銃創は、ついさっきまでの確かな憎悪をソロヴィヨフに思い出させた。額への二発目は、倒れ込んでからのダメ押しに撃ち込んでやったものである。同期からは軍鶏と称され、勇猛果敢な戦いぶりで部下からの信頼も厚かったこの士官は、持ち前の闘争心を発露させるまでもなく、敵兵の装備を身に纏った味方によって殺されたのだ。たとえモスクワ側に目撃者がいようとも、それこそ隠れていた帝国兵と遭遇しての戦死としてしか映るまい。
ざまあみやがれ。
斃れたジルキンに、ソロヴィヨフはすぐさま飛びかかった。所持品を虱潰しに漁っているうちに、目当てのものを発見した。翡翠の万年筆だ。
死体に覆いかぶさりながら、ソロヴィヨフは全身の皮膚に針を押し当てられるような感覚をおぼえた。研磨された視線が、彼の所業を四方八方から監視している。そんな錯覚を一身に浴びながら、万年筆をポケットにしまった。周囲を見回す。城塞の、ひと気のない南側廊下だ。時折遠くから怒声や叫びが聞こえてくる。侯爵の身柄は拘束したものの、城塞内の完全な鎮圧は、まだ成されていないらしい。ソロヴィヨフは大きくため息をつき、胸をなでおろした。
あるはずのない視線のうち、一つが本物であることに、彼は気づかなかった。
二杯目の珈琲に口をつけて、エリーゼは言った。
「お姉さまもお喜びでしたわ。あの中尉については、いつかは立場をわからせると仰っておられましたが。実際に彼の遺体をご覧になって、ご満足いただけたご様子でした」
「あの女が……?」
「尋問の最中に暴力を振るわれたと、たいへんお怒りでした。いくら敵軍の将とはいえ、投降した人間によもやそんな野蛮な振る舞いをするなんて。ああ、信じられませんわ。不謹慎ではありますが、そのような素行に問題がある人間ですと、殺されるほどの恨みを他人から買っていても当然……そうは考えられませんか、少尉殿」
エリーゼのグレーの光彩が、じっとりとソロヴィヨフを見やった。
あの状況は、故意的につくられたものではない。当時、城塞内の金品や歴史的調度品に関する取扱いについて、ジルキンから問い合わせがあった。ヘレネの用意したゲリラたちにどれだけ明け渡すか、また自分たちの私的な取り分について、どう口裏を合わせるか。そんな表沙汰にはしづらい話題だからこそ、ひと気を避けた場所での会話を求めたのである。
下卑た野郎だ。おこぼれに与るつもりでもあった自身の品性を棚に上げて、ソロヴィヨフはそんな感情を浮かべていた。
あの万年筆も、そういう盗人根性でかっさらっていったんだろう。奴は昔からそうだった。ひけらかすように女と酒と暴力で着飾って、見苦しいことこの上なかった。こっちが下手に出てやっていれば、いつの間にやら階級でも先を越されていた。
不愉快な人間だ。万年筆のことだって、何かと難癖をつけて返さないつもりじゃないのか? 何の権利があってそんなことができる? そして、なんで俺は、そんな無根拠な権利とやらにひれ伏してご機嫌を取らなきゃならないんだ? ふざけんな糞が。
気づけば、ソロヴィヨフはリボルバーの銃口をジルキンの後頭部に向けていた。軍人になって以来、最も引き金を軽く感じた瞬間であった。
「ともあれ、信頼と協調性に欠ける関係者を逃がすことなく処断できたことは非常に喜ばしいことです。今後もお姉さまともども、よろしくお願いいたしますわ」
ご馳走様でした。空のカップをテーブルに置くと、エリーゼは立ち上がった。
「私たち、とってもよい関係を築いていけそうですわね、少尉殿」
去り際に耳元でそう囁くと、エリーゼは淑やかな足取りで退室していった。冷めた珈琲の水面から、しばらく視線を動かすことができなかった。どす黒い珈琲は、底の知れない大地の裂け目めいたエリーゼの性質を連想させた。いや、あの黒髪の騎士だけではない。ひいては、ヘレネ率いるあの騎士団たちにも通じるものであった。
「よい関係……だって?」
エリーゼから告げられた言葉を、改めて頭で反芻してみる。見目麗しい外見からは想像もつかないほどの人道的グロテスクさを孕む彼女たちの集団から、一蓮托生を言い渡されたわけである。
自分は今からしゃぶられる、骨の髄まで。ともすれば、あのパルスベルク侯爵のように切り捨てられるのではないか。椅子に腰を据えながら、ソロヴィヨフは底なしの奈落へと転落するような、不気味な浮遊感を味わい続けるのだった。
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