戦犯魔術師制裁機関

北元あきの

1.人狼戦線

 目の前に広がっているのは、荒れ果てた大地だけだった。

 放棄された塹壕と、切断された何重もの有刺鉄線網。

 野戦砲による執拗な準備射撃によって無数の穴が穿たれ、軍服を着た兵士の死体がいくつも転がっている。

 五体満足な死体ならまだいい。

 人のかたちをしていたものの残骸が飛散している様は、英雄譚で語られるドラマチックな戦場とはかけ離れた地獄だった。

 今朝がたまで降っていた冷たい雨と兵士たちの流血が混ざり合い、ぬかるんだ土からは死と鉄錆の臭いがした。

 汚泥を軍靴で踏みしめ、肩で息をし、ラスティ・フレシェットはただ歩いていた。

 まだ幼さの残る少年である。

 血と泥で汚れた四重帝国陸軍の野戦服を身にまとっていなければ、戦火に巻き込まれた難民の子供に見えたかもしれない。

 だが、彼は紛れもなく兵士だった。

 そして襟元にある薄汚れた階級章は、彼が少尉であることを雄弁に主張していた。

 肩に提げるのは、最新鋭の機関短銃。

 ベルトには予備の弾倉がひとつと、士官用の自動拳銃。

 背嚢はとっくの昔に放棄していた。


 だというのに。


 その程度の装備ですら、鉛の塊を背負っているのではないかと思えるほどだ。

 雨と汗で額にへばりつく黒髪をかきあげる気力もない。

 それでも、彼の赤い瞳だけは前を見据えていた。

 ここはもう、最前線ではない。

 ラスティの率いる一個分隊は敵の包囲を突破したのち一昼夜を行軍し、上官からの命令書にある集合ポイントに向かっていた。

 そこで仲間たちと合流し、友軍の支援を得て速やかに撤退する手はずになっている。

「……?」

 ラスティは眉間に皺を寄せた。

 気がつけば、遠くから聞こえていたすべての音がなくなっていた。

 矢継ぎ早に轟く、無数の野戦砲の叫びも。

 耳をつんざく爆発と悲鳴も。

 興奮と恐怖が混ざり合った、突撃する兵士たちの嬌声も。

 彼らを無慈悲になぎ倒す、重機関銃の電動ノコギリにも似た唸り声も。

 まるで玩具のようなライフルの銃声も。

 そして――敵国の魔術師どもがマギア・クラフトを使う声も。

 すべてが。

「なんだ……?」

 最初は鼓膜をやられたと思った。

 だが、違った。

 自身の小さなつぶやきですら、彼の耳はしっかりと捉えている。

「ハーディ軍曹」

 状況を確認するために、彼は足をとめることなく振り返った。

 いつもなら、そこには信頼できる副官がいるはずだった。

〈終末戦争〉と呼ばれるようになった、十五年も続くこの戦争に開戦当初から従軍しているベテランで、ラスティが新米だったころからずっと頼りにしてきた男だった。

 だが、そこには誰もいなかった。

 軍曹だけではない。

 戦場を一緒に渡り歩いてきた、彼の分隊はもう誰もいなかった。

「はっ……」

 苦笑で口元がゆがむ。

 分隊が自分だけになってしまったことを、ラスティはようやく思い出していた。

 みんないなくなった。

 彼の目の前で死んだ者もいれば、人知れず死んだ者もいる。

 あっけないものだった。

 作戦は完全に失敗した。

「大尉たちは、無事なんだろうか……」

 彼が所属している部隊の指揮官であるエアリエル・バスカーヴィル大尉は、残りの分隊を率いて集合ポイントに向かっているはずだった。

 バスカーヴィルが指揮し、ラスティが所属している部隊はわずか一個小隊。

 それでも、少数精鋭の機動力と一騎当千のマギア・クラフトの火力を併せもつ、百戦錬磨の魔術師だけで編成された部隊だ。

 どこの師団司令部にも所属することなく常に激戦地に派遣され、敵前線を突破して橋頭保を築き、後方攪乱工作を行いつつ前線の友軍と連携した殲滅戦を行う。

 彼らは、〈領域横断特別作戦任務部隊〉と呼ばれていた。

「くそ……」

 悪態を吐くことすら、すでに億劫だった。

 だが、死ぬわけにはいない。

 僕は絶対に死ぬわけにはいかない。

 僕が死んだなら、大尉は約束を守り続けてくれるだろうか。

 ラスティは呪文のように、胸中でそう唱え続けていた。

 おもりを引きずるような足取りが、さらに重くなる。

 緩やかな丘陵に差しかかっていた。

 視線をあげ、太陽の光に目を細める。


 影がある。


 多数の人影が、太陽を背にして丘陵の上に佇んでいる。

 無残な大地に伸びるその影は、希望を象徴するシルエットに思えた。

 友軍だ。

 彼らはラスティたちの部隊を回収し、撤退を支援する。

「たった一人で、見あげた根性ね。呆れるわ」

 硬質で涼やかな女の声が、頭上から響いた。

 逆光に照らされるその姿は、おとぎ話に語られる戦乙女のようだった。

 銀灰色の長い髪が風に揺れて輝き、同じ色の鋭い瞳がこちらをじっと見据えている。

 少女というには大人びているが、まだ若い。

 そういう年齢に見えた。

 すらりとした長身を包む野戦服。

 腰のベルトには細身のサーベル。

 さらに幾重にも重ねられたベルトに、十数本の短剣やナイフを帯びている。

「残念だけれど――」

 女は腰の後ろに右手を回すと、大振りの短剣を抜き放った。

 銀灰色の瞳に危険な光が灯り、口元が大きく歪む。

 獲物を見つけた獣の笑みだ。

 端正な顔立ちが、まるっきり台無しになる。

「味方はこないわ、カラーズ」

「ガルーか……」

 ラスティはぞっとしてつぶやいた。

 その女だけではなく、丘陵に並ぶ誰もが銀灰色の髪と瞳をもっていた。

 仄暗き狼の精霊の末裔たる狼の精霊人――ガルーども。

 敵国である連邦を構成する主要国家のひとつ――連邦ジェヴォーダン王国の人狼ども。

「ふふ。そうよ。ここは人狼戦線」

 ガルーの女が、文字通りに宙に舞った。

「我々、ガルーの戦士の戦場だもの」

 丘陵を駆け下り、襲い掛かってくる。

 ラスティは目を見開き、ただ絶叫した。

 機関短銃の初弾を薬室に送り込むなり、狙いを定めないままにトリガーを絞る。

 フルオート射撃。

 無数の銃火が瞬き、小気味いい銃声が幾重にも重なる。

 薬室から跳ねあがった空薬莢が次々と宙を舞って泥に落ちた。

 ガルーを相手にそんなものは無意味だと、彼はよくわかっている。

 事実、彼女は弾丸など物ともせずに突っ込んでくる。

 強靭な身体能力をもつガルーのタフさの前には、九ミリの弾丸程度では心もとない。連中特有の身体強化のマギア・クラフトである狼狂戦士――〈ウールヴヘジン〉を使われた日には、重機関銃の掃射ですら安心できないと、ハーディ軍曹も嘆いていたものだった。

 ガルーの女が眼前に迫る。

 短剣が太陽の光を浴びて鈍く輝いていた。

 その刃の軌跡は、閃光にも似て美しかった。

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