42.5話【小説】天体観測はもうやめた
「首を、絞められたの、お父さんに」
なんでもないデートの帰り、不意にふゆは言った。
ふゆがしぼり出した声が、絞められるふゆのイメージを鮮明にして嫌だった。それをかき消すように、
「いつ?」
と、詳細をせまった。
背後で気まぐれに点滅していた歩行者信号が、赤に変わる。ふゆの表情を夜が曖昧にしていくのを、黙って見ているしかなかった。生ぬるい風が真正面から吹きつけて、ぼくらの目線を下げていく。
ふゆは昨日、とだけつぶやいて帰路を急ぐ。そのふゆの華奢な背中に向かって、「なんだよその最低な親」「おかしいよ」「なんで首絞められるんだよ」などの言葉を投げたがどれも引っかからず、無反応を貫かれた。ぼくはふゆを追って歩きながらも立ち尽くしている気分だった。
しばらく歩いて、ふゆの住むマンション前に着いた。エントランスから漏れる光が、かのじょの痛々しい作り笑いを浮き彫りにして、ぼくは俯きがちになる。
「じゃあまたね、かいと」
「待ってよ。まだ詳しい話聞かせてもらってないんだけど……」
ふゆはかぶりを振って、「やっぱり、かいととは楽しい話をしていたいなって」と伏し目がちに微笑む。
まただ。そうやって誤魔化されるのは何度目だろう。
「楽しいを作るだけの関係とか、むなしいだけだと思う。いいから話してみてよ」
「いやー……いいって、ほんと、気にしないで」
その言外に「話してどうなるの?」「空気が悪くなるだけ」みたいなことが隠されている気がして、自分の頼りなさを勝手に露呈して、勝手に絶望する。夏は嫌いだ。細枝みたいな両腕が半袖でむき出しになって、ぼくの弱さがにじみ出ている気がして。
「だってふゆ、さすがに異常な出来事というか、ふつうに事件だと思うし……」
「やめて」
もう、ほんとにいいから、思い出させないでよ。踵を返して、ふゆはマンションの光の中に消えていこうとする。家の中には、きっと光なんてないのに。
ぼくはふゆの拒絶が嫌で、怖かった。
去っていくふゆの華奢な背中を見つめる。
ふゆの傷つききった心と、ぼくのふゆに怯える心、両方を包みたい。心に稲妻のようにきらめいた衝動に身を委ねて、気がつけばふゆを抱きしめていた。力を入れたら崩れ落ちてしまいそうな、小さな躰の感触は久々で、しかし体温があるだけの円柱みたいに無機質に感じた。
ふゆは一瞬、ぼくに身体を許しかけたけれど、すぐさま風になったみたいにするりとぼくの身体から離れて、
「ありがとう。今はいいから」
とだけ言った。ありがとうの耳ざわりが冷ややかで、鉄のフォークを噛んだときのような悪寒が走って、動けなくなる。バイバイ、と小さく振った手にすら何も返せなかった。
別れ際のバイバイ、までの記憶の、一秒一秒を思い出しながら帰った。
言葉も行為もぼくらの間では飾りものになってしまうのは、いつからだろうか、なんでだろうか。
夜が暗すぎる。
暗幕みたいな夜空を引いて、星を落っことして、星明かりに埋もれていたい。圧倒的に、光がたりない。
真夜中、ふと目が冴えた。
仰向けのまま、細腕を豆電球のオレンジにかざす。親に首を絞められたふゆのこと、ハグをすり抜けたふゆのことを思い出したら気持ちが覚醒して、途端に細腕をいじめたくなった。ベッドを出て、腕立て伏せをはじめる。一回ごとに埃くさい床に鼻を近づけながら、プルプルと震える両腕の情けなさに、怒り狂っていた。もっと、もっと細腕を傷つけてやりたい。
続けることが苦手だ。気まぐれに筋トレはしても、明日、明後日とどうしても続かない。今回もそうだろう。ドアのそば、今ではストッパーがわりに転がるダンベルを見て物哀しさに包まれた。確か、以前父がくれたものだ。
父の瞳が脳裏に浮かぶ。昔の優しい瞳と、今の余裕のない瞳。どちらも色素の薄い茶色なのは、変わっていない。
おぼろげな記憶の中で、父はいつも笑っている。サッカーボールを蹴り合うぼくらの頭上、空にドロリと溶けていく夕陽は、父と遊び尽くした公園で覚えた。母の「そろそろ帰ろー」が聞こえるまで、ぼくらは球遊びをやめたことはなかった。
父はいつも本気で戦う。サッカーなら、一対一のドリブルもシュートも手を抜かない人だった。
「とれんやろうな、かいとには」
負けるぼくをからかっては笑った。負けず嫌いな性格は遺伝していて、ぼくも本気で立ち向かい、軽くあしらわれ、泣きべそをかく。
「泣くな!」
よく父は言っていた。
特に勝てないのは腕相撲で、毎回体重を目一杯乗せたり、時には両手を使って挑んでいたが、小学生のうちは、ついにどんな手段を使っても敵わなかった。
「ハタチになったら勝負しよ!」
「はっ、それでも負けんわ!」
という約束は、今でも覚えているし、父も記憶にあるらしい。
空に星が灯ったら、家の天文台スペースに集合して、斜めに傾いた竹のような望遠鏡から星を眺める父を見ていた。父も、星をまじめに見ていなかったと思う。スポーツの話、ゲームの話、くだらない何でもない話を共有していた。男の子たちの夜。
星の下へ出ようぜと、夜の散歩に行くのも好きだった。無論、星などおまけに過ぎず、ただひたすらに別の趣味を語っていた。暗闇を歩く父の背中が、ぼくにとっての懐中電灯であった。
いつのまにか朝。陽光が机上の写真立てに差し込んでいる。中では、ぼくと父が色素の薄い瞳を細めて、優しく笑っている。ぼくらは瞳だけよく似ていた。
リビングに行くと、母がおはようのかわりにため息をついた。
「どーしたん?」
「パパがもう朝からむかつくんよ!」
いつも父は朝四時くらいに起きて、それだけでよせばいいのに、母を起こすらしい。理由は暇だったり、何か用事があったり、様々だ。起こさない日でも、早朝のニュース番組を大音量で流すので、結局母は寝られない羽目になるのだそう。
今日は前者だった。薬がない、と母を起こしたという。
「ほんっと自己中!」
でもぼくが父を自己中と言うと母は怒る。「お前が言うな」って。息子の、という言葉が文頭から消えているのだろう。だから母がこんな風に愚痴を切り出してきたら、「ふーん」と「うん」を繰り返す。
母の愚痴を聞くのは存外嫌いじゃない。母はまあ大抵正当な理由で怒っているし、なにより最終的に、
「お前〜、パパをどうにかしろ! 前のパパに戻せ!」
と言って笑いはじめる。母が僅かでもすっとした表情になるのが嬉しい。だからぼくも笑い返す。悩みを吐き出してくれるのは、信頼の証だと思う。
でも今どうにかしないといけないのは、ふゆのお父さんの方だ。
ふゆのお父さんは酒乱で、アルコールが入ると人格が変わるのだと聞いたことがある。今回の首絞め事件も、きっとお酒が絡んでいるだろう。
対してうちの父は酒乱ではないけれどギャンブラーで、頻繁にスロットに通い、負ければ不機嫌になる。でも多分、子供の首を絞めたりはしない……。
ただ、母の顔にくっきり刻まれたクマとシワを見つめていたら、変な悪寒が駆け抜けて、何も悟られないうちに急いで部屋に戻った。「朝ごはんは?」と尋ねた母を無視して。
部屋のドアを雑に開け閉めして、ベッドに頭から入水。深海に沈むように、二度寝したかった。うちのパパは、家族に手をあげたりしない。机上の写真を見つめながら、縋るように何度も思った。それくらいに最近のぼくは不安定で、また同様に父も不安定だった。
またなんでもないデートの帰り。
心臓を鳴らすのが、ときめきから怯えに変わったのはいつからだろう。冷や汗をかくように血液が全身を巡って、体が硬直して上手く話せない。頭上にきらめく夏の大三角を首が痛くなるまで眺めて、隣のふゆが口を開くのを待った。
川のせせらぎと、遠くで地面を擦る車の音だけが聞こえる。まるで夜の淵に沈んでいるみたいだった。
「疲れちゃった?」
痺れを切らしたのか、ついにふゆが話しかけてきたので、ぼくも沈黙をやぶる。
「……考え事をしてただけだよ」
「なに考えてたの?」
「うちの父親のこと」
前にも話したと思うけど……と続ける。
……パパが落ちた。
……屋根から。
というメッセージを母から受け取った時、ぼくは入学したばかりの大学にいた。父は瓦屋で仕事をしているので、屋根から落ちることは稀にある。初めてではない。
骨折とかしてなければいいけど、と気楽だったぼくは、
……まじかー。
と、大した緊張感もなしに送った。しかし母から「危なかったけど」「しんだりはしてない」「でも大怪我」「今さっき手術終わったとこ」と連続して送られてきたメッセージを見たときは、心臓に風穴があいた感覚がした。
命を脅かされた?
あの人が?
次の日、父と少ない時間だが病室で面談ができた。三人の妹と、母も一緒だった。父は大量の管と包帯に巻かれていた。
「しぬかと思ったわ……」
と、しんだような声で囁く。ふくみ笑いをこぼしながら、
「さすがやな、それで生きとるとか」
とぼくがボロボロの身体を指さして言うと、
「笑わせんな」
笑ったら色んなとこに激痛が走る……と言う。いつも通りの父でホッとした。
「腕相撲しよ」
ぼくは父の力のない腕を倒して、ハッと笑った。父はこれまた力なく、
「お前サイテーやな……笑わせんなまじで……」
とつぶやく。これだけで、ぼくは安心しきっていた。またすぐに死の淵から這い上がって、バリバリ仕事をする最強の父親へと復帰するんでしょう? ぼくが見舞いに行ったのはこれっきりだった。
帰ってきた父は、以前のような父ではなかった。
何ヶ月か続いた入院生活やリハビリで精神の安定を蝕まれたのか、必要以上に家族にあたることが多くなった。
例えば、帰ってくるなり、小学生の妹にちょっかいを出す。これだけならいいものの、最終的に、
「ぜーんぶ俺のせいなんだろ!」
と、逆ギレしたり。
例えば、耳が悪いと言って、テレビの音量を近所迷惑なレベルにまで上げたり。見かねた母がイヤホンを勧めたけれど、全く聞くそぶりを見せないどころか、あまり言うと怒っていた。なので、最近は母も何も言わない。
これらは大抵、薬が切れた時の行動で、父は頻繁に精神科を受診していた。その事実が、ぼくにはとてもつらい。いつしかぼくは父と目を合わせるのが苦手になっていた。
「つまり、怪我してから前より自己中になっちゃったって話だよね」
ふゆが髪の毛の触覚を人差し指に絡ませながら言った。続けて、
「でも……いいじゃん」
「なにが?」
「それでもお父さんのこと好きなんだから、いいじゃん」
「うん……」
以外、返す言葉もない。夏が溶けきった風がぬるい。ふゆはぼくの話を聞こうともしないし、ぼくに話をしようともしない。ぼくら今、夜の淵にいるみたいなのに、心同士は全然淵にはいない、もっと浅いところでびびっている。ふゆはなにを怖がっているんだろう?
「だからさ、ふゆも話してよ、お父さんのこと」
しばしの沈黙のあと、
「……あいつが酔って、お母さんの首絞めたから、わたしが止めたら、わたしが……」
その先は、夜闇に混ざって消えていった。沈黙の再訪。ぼくは、こわごわとふゆの左手に右手を伸ばす。
「ちがう」
と、ふゆは言って、一瞬つながれた手をほどいた。
「ちがう?」
出来る限りの優しいトーンで尋ねたぼくの顔は、ひどいものだっただろう。
「うん。わたし、やっぱり徹底して楽しくてしあわせな雰囲気の中だけで、かいとからの好きを感じたいな」
「ぼくはそれだけじゃダメだと思うんだ」
「うん。わかる、わかるよ。でもね、わたしはわたしが好きじゃないの」
困り眉で微笑むふゆがきれいで、ぼくは見入って沈黙してしまう。どうしてこんなにきれいなのに、自分のことが嫌いなんだろう?
「お父さんの話をしてる時の、憎しみに満ち満ちたわたしの顔、とてもじゃないけど、かいとには見せられない。かいとが受け入れるとか、受け入れないとかじゃない」
これはわたしの問題なの、とふゆは言う。
「ごめんね。わたしも、かいとのお父さんと同じで、自己中みたい」
そもそも、ふゆからお父さんの話を聞いたとしてぼくはどうするだろう。
デートから帰ってすぐ、ぼくは思考の海へと潜っていた。ふゆのお父さんに殴り込みに行く、これはふゆがきっと悲しむ。ふゆのお父さんに嫌がらせをする、これも同じこと。ふゆを安心させる。言葉で? 行為で? どちらも拒否されたばかりだ。ぼくはふゆに何もできない。弱いから。
考えることをやめたくて、自傷に走る。自傷と言っても、ただ腕立てをするだけ。今日は埃くさい床に鼻を近づけてから、なかなか腕が伸び上がらず、ずっと両腕がプルプル震えるだけ。背中に鉛でも乗せているようなだるさがあった。
「くっそ……」
床に五体を投げ出して、汗だけダラダラかいたぼく。弱さと向き合うことのつらさは異常だ。父はリハビリしていた時、これ以上の弱さと向き合ったのだろうか。鎧みたいな筋肉が上手く動かないつらさ、悔しさ……いや、それでも這い上がるのが父だ。現に筋力も体力も衰えたくせ仕事復帰しているのが父。ここで汗を拭ってもう一度立ち上がれないのがぼく。
父の背中が、果てしなく大きい。
「ごはん!」
とかすかに母の声がして、ぼくはようやく床から離れた。
ぼくが階下に降りると、妹三人と両親はもうテーブルに座っていた。
食卓に並んだ父の表情は不機嫌そうだった。うっすら開いた目が何かを睨んでいるよう。スロットで大負けしたか、仕事で嫌なことがあったか、どっちかだろう。父がぼくを睨むことは基本的にないが、きっとぼくが一番に視線を外している。こわいというより、嫌だから。大抵、こういう時の怒りの矛先は母にいく。
「お茶がねーんやけど!」
はあ、とため息を吐く父。母は「ごめんなさいねー」と呟いて席を立ち、お茶を注ぐ。妹三人は黙っている。
ぼくは気がつけば「正しさ」と「間違い」の旗を両手に持って、ジッと構えていた。ソースをかけたとんかつを口に入れながら鼻先を見つめて、自身の落ち着きを求めた。間違いなく、感情が昂ぶっている。
父の愚痴は続く。
「醤油もねーし!」
醤油がないのなら、自分で取ってくれば良い。仕事で疲れていると言っても、あの言い方はないだろう。正しくない。間違いの判定。
「白飯少ねーわ、足りんし」
少ないなら……これも、同じこと。正しくない。間違いの判定……。
惨めな父は、どうしても見ていられない。
「自分でやりゃあいいやん!」
目を見開いて叫んだ瞬間ぼくは、血がのぼる感覚を初めて知った。イマイチ喉奥から大声が出てこず、少しかすれた。大学生にもなって怒り叫ぶことなんて、ほとんどないから。
「イライラしとるけって、あたるのやめたら! おかしいやろ!」
「なんちか!」
父も真っ赤にした目を見開く。
なんちか! と叫ぶ父の大声はビリビリ肌が震える。正しい大声の出し方……。こんな時までぼくは正誤のジャッジをしている。というよりも、現実感がとうに消えて、客観的に場面を眺める感覚で、ただその場で父とぼくが叫びあっている。お互いが泣いているようにも思えた。
父はまた何か叫んで、茶碗と皿をまとめて放り投げた。ぼくら家族が囲うテーブルから離れた、ソファーの方へ。皿も茶碗も割れ散らかって、夕食のメニューだったサラダとトンカツが床に四散した。
「もういいわ! でていくわこんなとこ!」
食器の破片が散らばる中を、父は威風堂々歩き、ぼくはその背中を懸命に睨んだ。父はドアを乱雑に開け閉めすると、自室に戻っていった。
割れた食器と散乱した夕食を、素早く片付け始めた母の背中も嫌だった。チッ、と小さく舌打ちをしたら、途端に涙があふれそうになった。
「あんたが言う必要ないでしょ!」
と、母が不意に言った。
「許せねーだろ、あれは」
母はまだ何か言っていたが、水中にいる時みたくぼんやりとしか聞こえず、ただ溜まった涙がこぼれ落ちないよう、残りの食事を片すのに集中していた。妹たちは何も言わない。
自室に戻ると、いつも通り写真の中で父が笑っていた。茶色の瞳を優しく輝かせて。今しがたの怒りの灯った赤い瞳が思い出されて、ぼくは溜めていた涙たちが崩壊するのを止められなかった。
「こんなんじゃ、ふゆンとこの親と変わんねーわ……」
号泣は何年ぶりだろう。頭の中で昔の父の「泣くな!」が反芻して、溢れる涙が止められない。泣くなと叫ぶ父の優しい瞳が忘れられない。
雨が屋根と窓を打つ音が涼やかで、自室を水槽に思わせる。アクアリウムで呼吸するぼくは深海魚で、ベッドに五体が沈んでいく。
夜も深くなってきた頃、母がノックもせずに入ってきた。
「なに」
「電気もつけんで、なんしよん」
「別に」
それから母は謝りなさいよ、とか、言い過ぎよ、とか、わかりきったことを一通り説教したあと、
「パパ、ほんとに出て行ったよ」
とつぶやいた。
「うん」
ぼくらはわかりきっていた。父がちゃんと帰ってくることを。だから母も、「どうせ戻ってくるだろうけど」ということは口にせず、
「あたしのこと庇わんでいいから。パパの味方してやんなさい。パパも必死なんよ、色々と」
と言った。雨が少し弱まって、自室も穏やかな水音に包まれていく。
「庇ったわけじゃねーわ。なんか、悔しいだけ。ほんとはパパすげーのに、なんで一回屋根落ちて、自律神経乱したくらいで、あんな……」
めっちゃ悔しい……と息をかみ殺すようにつぶやく。強い口調で話し続けると、また涙が溢れそうになるから。
母は、ちゃんと明日謝りなさいということだけ強調して、出て行った。
それからはまた電気を消して、優しい雨の音を聞きながら、うずくまって涙を流した。「なんで」「どうして」が涙になってボロボロ溢れて、水中になった自室で一人、喘ぐように泣いて一夜を明かした。ずっと昔の父の声を思い出しながら、子供でいたいと強く思った。ティーンエイジを抱いたまま、永遠に眠っていたい。
次の日の夕食時、父は全員に「まあ座って、座ってくれ」と促して、あらたまってぼくの方を向いた。
「悪かった。俺も仕事で疲れとった、昨日は。でも言い訳にする気はない。ごめんなさい」
眉を八の字にしてそう言うと、父は頭を下げた。その拍子に、何かの薬が入ったびんがテーブルを転げ落ちた。ぼくは伏し目がちの姿勢を直さない。いや、直せなかった。やっぱりどこか、言葉にできない悔しさが、確かにあった。
「かいと!」
お前も、と母に促され、「ごめんなさい」と、ようやく謝ったら、父は唇をキュッと結んで頷いた。ぼくは、煙たい心を抱えたまま夕食をさっさと済ませ、また自室にこもった。今日は大学が休みだったのでほぼ一日中部屋にいるが、頭が狂いそうだ。入院していた時の父もそうだったのだろうか。
深夜、家族全員が寝ただろう時間にぼくは起き出して、天文台スペースに入った。ここに来るのは久々。当時父と隣り合わせで座っていた小さなソファーも、今じゃ二人では座れないだろう。ボフ、と勢いよく腰掛けたら埃が舞って咳が出た。
それから、ろくに星も知らないぼくは、立派な望遠鏡でひたすらに夏の大三角だけを眺めた。望遠鏡から片目を外して、三つの一等星を人さし指で結ぼうとしたけれど、曇っていて一つは隠れている。
父こそが、ぼくにとっての一等星だ。
細腕を見つめる。浮き出ている血管が木の幹みたいに張り付いていて、その内を流れる血を思う。父とつながる血潮が信じられないくらい弱いぼく。父が見えない何かと戦っている気持ちはわかるんだ。でも、ぼくに強烈な光を浴びせ続けた父の残像が、いくつになっても離れない。
ふゆだって、ぼくにとっての一等星だ。ぼくには勿体ないくらい眩い笑顔とビジュアル、なんで付き合えているのかわからないくらいきれいだ。そんなふゆが自分のことを好きじゃない気持ち、わかるにはわかるんだ。人間誰しも、自分を完璧だとは思えないから。そこに程度の差こそあれど。
雲が猛スピードで流れて、大三角が姿を現す。
ぼくは十九年ずっと甘えていた。今、空を流れる雲をこえる速さで、ハタチが近づいている足音が聞こえる。向き合う時がきている。
星だけ眺めて生きるのは、もうやめにしよう。
覚悟すると、ひ弱なぼくの足はすくむ。でも、いくら怖くても、自分のこと、未来のこと、人生のこと、全部誰かに任せていたいぼくは、ここで終わりだ。
星だけ眺めて生きていたら、朝がきたら生き方を見失う。そんなんじゃ、自立なんか程遠い。父を支えるだなんて偉そうなことは言えないけれど、ぼくが独り立ちして、羽ばたいていくことが、最大の親孝行なのかも。その準備すらぼくは怠っていたんだ。一等星になるなんて大それたことは言えない。でも、甘えるのはもう終わり。手の甲で力強く涙を拭って、ぼくはぼくに「泣くな!」と叫んだ心内、夜はまだまだ終わらない。
ふゆはすぐに電話に出た。
「こんな時間にどしたん?」
「今日星がさ、めちゃくちゃきれいで」
んー? と言いながらカーテンをシャッとめくる音がして、
「ほんと! きれい!」
と、電話越しに歓声が上がった。
「ちょっとさ、天体観測しようよ。夜の散歩がてら」
猫がでかでかとプリントされたシャツで、ふゆはマンションから出てきた。
「ごめん、わたし今日めっちゃラフ」
「普段がオシャレだから、ラフさが良いと思えるなー」
「すぐ何でも褒める。別にふつうだよ」
それにしても星がきれい! 夜空の星すべてを捕まえるみたいに、両手を広げてふゆははしゃぐ。少し歩を進めたら小川のせせらぎが聞こえてきて、なんとなしに手をつないだ。今日は拒まれなかった。
「しつこいって言わないでね」
と、ぼくが切り出すとつないでいた左手を離して、
「なにー?」
と言うあたり、察しがいい。
「あれから考えたんだよ」
ふゆのこととか、いろいろ。ふゆは黙って星空を見上げていた。吸い込まれそうなくらい、輝く星々を。
「でもやっぱりね、ぼくはふゆとどんな話でもしたいよ」
「そう……でもね、でも……」
でも、かいとはキラキラしていないわたしを愛せる?
とは思っていないのかも。他に理由があったり、単に話したくないのかも。性格の問題、気分の問題、人の感情はなによりも難解で、わからない。それでも、ぼくはふゆと話がしたいんだよ。わからないで片づけられる存在じゃない。
「ふゆの醜いとこ見ても聞いても、ぼくはそれでも好きだよ」
言葉は嘘くさい。だけど、言わないと真実にもならないまま、わからないままで終わってしまう。ぼくはわからないが一番怖い。
ふゆはこわごわとぼくの右手を掴んだかと思うと、そのまま手を握り直した。それだけで、今夜はゆっくり眠れる。これからのことは、また考えればいい。星がとてつもなくきれいな夜の淵へ、ぼくらはまた一歩踏み出していく。
「久々に天体観測したらやっぱ、いいな」
と言ったのは父だった。驚いた。天文台スペースの部屋を開けたら父がいて、そんなことを言うもんだから。もう深夜一時くらいだけど、仕事は? と言うかわりに、
「そうやね」
で済ませた。必要以上の言葉は、父との間ではいらないなと、いつも思う。
予想通りソファーには二人分腰掛けられるスペースはなく、
「痩せなよ、もうちょい。座れんわ」
と笑った。父もしゃあしい、と笑う。
「しゃあしいやなくて、ダイエットやってみたら」
「薬で太ったんたい」
父は喧嘩明けで照れくさいのか、ずっと片目を望遠鏡に埋めて、星に夢中なフリをしている。父は何かに夢中になると、何も聞こえなくなるので、星なんかまるで眺めていないのはバレバレだった。
「ね、腕相撲しよ」
「ばかか。元々ハタチになったら戦う予定やったやろ、まだはえーわ」
今は怪我で衰えた筋力を戻している最中なのだと、父は言う。
「今日もダンベルで筋トレしたぞ、お前も鍛えとけよ」
そういえばここ二日くらいやっていなかった。ぼくら、天井の星々を見つめながら、各々の筋トレで汗を流す。不思議と身体は軽かった。というより、父の前で何回か腕立てしたくらいでバテられない。負けたくないから。
「将来さ、出版社入りてーわ」
「大手がいいぞ、大手が」
今できる親孝行は、こうして男の子の秘密の夜を共有して、何か語り合うことくらいなのかも。実際、隣の父はうれしそう。でもぼくは子供としてじゃない、同じ成人として父と話していたい。でもまだ子供だから、二週間後のプレゼントは今のうちにねだっておこう。夏の大三角を右手でなぞりながら、「ねえ」って無邪気に話しかける。父の茶色の瞳を、久々に間近で覗き込んだ。
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