37話 ピアノのない朝






 3月、床タイルも届いて部室の雰囲気も変わって、あとは桜を待つだけだった。


 春休みはぼくの精神的あれこれとか、部員の帰省とかであんまり部室は開けなかった。その代わりぼくは純文学を食い漁る日々を送っていた。


 ある日町屋良平の新作小説『ショパンゾンビ・コンテスタント』が新潮にて発表されたと聞いて購入した。最初は、町屋さん面白いなぁという感覚だったのが、どんどん作品の描く才能の美しさやらヒロインのかわいさやら文章表現にのめり込んでしまい、時間を忘れて夜中に一気読みしてしまった。


 それから一気に眠気が襲ってきて、寝ようとベッドに入ったのだけれど、悪夢のような幻覚のような何かのせいでまともに寝れず朝には高熱を出していた。異常なくらいの吐き気ときつさに思わず叫びたくなる症状が出て、家族に救急車呼ぶ?と言われるくらいには、おかしかった。当時発症していた鬱と熱が組み合わさって、精神的にも肉体的にもかなり限界に近い状態にあったのかもしれない。


 ただそんな極限状態で読んだ小説が面白すぎて、ついに純文学にチャレンジしようと決心した。もう5月の春祭まで2ヶ月。4月には新しく新入生が入ってきて、ぼくももう3年になる。ああ、面白い小説が書きたい……と呪われたように筆を取る。


 仮題は『ピアノのない朝』とした。メモに走り書きする。



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『ピアノのない朝』


走ることを小説に置き換えるもよし

主人公はヒロインから見える景色を知りたくて、夢を追いかけるために、走りはじめる。すごく単純な性格。しかし主人公、実は追いかけているのは過去だった。

主人公は走りがしっくり来ず、思い悩む。そして主人公は自分の心情に気付く。ただ思い切り腕を振って走っていた小学生、中学生、陸上を始める前の単純な「走る」という作業に徹したいだけの自分に。

でも自ら「走る」ことを選んだのだから、他でもない自分自身が。確かに腕はノスタルジーを求めていたのかも、でも足はどうだ、常に新天地を求め貪欲に走った足は。

でもノスタルジーも原動力の一つなので、それらが連動すれば上手く走れる、ランナーズハイになれる、という物語。


つまり小説に置き換えれば、同じ景色が見たくて始めたのに、ただ物語を想像するだけだったあの頃に戻りたいだけということに気付く。

確かに思考はノスタルジーを求めていたのかも。しかし指先はどうだ。良い文章を目指している。





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 これに、ずっと前からメモにあった『音と光で出会う』というのを加えて、小説のイメージが膨れ上がっていく。


『走る』ことを思考、腕、足の三つからなる運動として、その三つが揃っていないとパーフェクトな走りは完成しない。そういう走りに対する哲学は、小説を書く行為の哲学に通ずるところがあるなぁと思いながら、ペンを走らせていく。メモの通り、ヒロインから見える景色を知りたい、追いつきたい、というテーマを据えて小説を構築していく。これはぼくのペンネーム『隣のレグルス』の意味にも重なる。小説と自分を重ねていく小説が、純文学には多い。かなり分かってきた。


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1走目→足、自然、喜び、だが感じず

2走目→腕、強振、過去

3走目→頭、思考、恋心、煩悩の開放

4走目→完成、バランス


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 ヒロインは仮題をつけた時点でおおよそピアノを弾く少女というキャラ付けが決まっていて、あとはスムーズだった。彼女が追いかける夢はピアノ。それから主人公とヒロインを結びつける設定が決まっていく。



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ヒロイン

ローテンション→ピアノを弾く

ハイテンション→弾けない

小さくて細い、ふれたら壊れそうな容姿


主人公

ピアノが聞こえない→走れない

ピアノが聞こえる→走る気になる


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 家が隣という設定にして、これで関連付けさせることに決めた。


 ただし冒頭が書けない。

 第一、音と光で出会うなんてどうしたら……と悩んだ末に、車のテールランプで帰りがわかって、その後にピアノを弾きはじめるという設定にしてみたが、その冒頭で始めるとどうもしっくりこない。音と光で出会う要素はなくてもテーマ性は損なわれないので、無理やり何度か冒頭を書いたものを全てボツにした。ぼくは書き出しが苦手だ。いや、これはぼくだけじゃないとは思うけれど。本当に冒頭は難しい。読者を引き込んでいく冒頭となると、より難しい。


 仕方がないので、冒頭にこだわらず、断片的にシーンを想像してみる。主人公がランニング中にヒロインと出会って、会話をするシーンとか……



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「マジックではないけど、霊的かも」

「霊的?」

そ、と短い同意。ソの字にすぼめた唇がかわいい。あ、いま走りたい、と思った。顔に風が吹きつけるつめたさに、爽快に顔をゆがめながら。

「感情を指に込めると、よいのが弾けるよ」

そ、返事をまねてみた。隣の彼女を盗み見る。なんの反応もなくて悔しい。

しばらくして、星空に向け軽くのびをし、

「あーあ」

明日は弾けないかも。



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 なかなか自分的には良さげな会話シーンにも思えて消さずにメモに残す。でも断片的なシーンを書いてしまうと、今度は繋げるのが難しい。

「だめだ〜」

 明日大学で書くか。と思ったけど、明日は一年ぶりの新入生勧誘戦争が待っている。またブースで待ちぼうけしながら新入生を捕まえる時期が来たのだなぁ、とぼんやり思う。


 今年はどんな新入生が来るだろうか。

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