18.5話【小説】『ブルー』
また呪われたように筆をとるけれど、それが紙をすべることはない。じりじりと時間が失われるたびに、心もそれに呼応するかのように削られ、ブルーになる。
「書けない。……どうしてなんだ」
急な吐き気が身体を駆け巡り、思わず筆を叩きつける。その瞬間、僕は心の底から叫びたかった! 何をだろう。分からない。でもお利口な僕は叫べない。目と口を大きく開くだけで、声はあげない。
ちょうど左手首のアンティークが0時をさしたのは、神様の皮肉だろうか。僕はむせび泣きながら真っ白な紙を破り、吐き気もまとめてトイレで流した。
たった今、二十一を迎えた。僕はひどく絶望している。
デビューすることもなくこの歳になってしまったからだ。
心がネガティブに染まれば、ブルーな気分だと誰しも感じるけれど、窓から見える晴れ空も同じブルーなのは気に食わない。これだから朝は嫌いなんだ。テーブルに置かれたこのナイフで宇宙が見えるまで切り裂いてやりたい。
「なにボンヤリしてるの。早く食べなさい」
「うん」
「もうすぐ人前に立つ人間になるんだから、しっかりね」
キッチンからママの声。姿勢を正して食事を始める。これも僕にかけられた呪いの一つ。僕は生まれてこの方、いい子ちゃんだ。
パパは国内最高の病院で働くドクターで、ママは元アイドルの専業主婦。この上ないほどの贅沢な家庭に僕は生まれた。ここに生まれてしまった瞬間からなんとなく将来は約束されていて、教師かドクターの二択だった。
嫌ではなかった。未来へのレールが敷かれているのは安心する。ただ性格からして、ドクターは厳しいと自他共に分かりきっていたから、僕は教師を目指した。英才教育のおかげもあり、勉強はそこそこ出来たし、人前で話すのは得意ではないが、時間が解決してくれるだろう。未来は希望に満ちていたはずだった。
でも僕は三年前、自らレールを内緒で降りた。小説を書くようになったのだ。それも本気で小説家になるために。両親に言えるわけもなく、孤独と罪悪感をまといながら書き続けてきた。
僕も夢を自らの手で切り開きたくなったから。
「そういえばハンス」
「なんだい? ママ」
「ハッピーバースデー。今日から大人の仲間入りね」
キッチンからとびっきりのスマイルをとばすママの顔を、目に焼き付けた。今日限りで、僕は人生を投げ出すつもりだから。
食事を終えて部屋に戻ると、遺書を書いた。流れるように筆が紙をすべるから、もう呆れて笑ってしまった。
両親への感謝。両親への謝罪。友人への感謝。友人への謝罪。その他お世話になった人への想いも書きなぐった。久しぶりに紙をトイレに流さずにすむ。
最後に、僕を呪った最愛の恋人に向けて文字を綴って終わりにしよう。考えていると、ちょうど電話が鳴った。
「おはよ、ハンス」
明るく透き通った声が耳から心臓を貫く。
「……ちょうど君のことを考えていたよ」
「あら、どうして? とにかくハッピーバースデー、ハンス!」
筆を投げ出した。ここで全部伝えてしまおうと思ったから。
「ねえ、君はどうして……」
「僕が好きなのか、でしょ? 何度も答えてるのにな。あ、今日ぐらい愛の言葉が欲しいとか? ふふふ」
いつもなら、ここから彼女のからかいマシンガンが火を噴くけれど、今日は至って真面目だ。「答えて」と冷たい声で言ったら、彼女も流石に笑うのをやめた。
「今日、なんか変だよ。まあいいけどね。キラキラしてるとこだよ」
流石の僕もうんざりだ。
「いつもそう言うけど、どこが輝いてるのさ。君なんか、僕よりよっぽどキラキラしてるじゃないか。天才歌手アレシアさん」
「……私、本気で尊敬してるのに」
「具体的に言ってよ。それに君に言われると皮肉にしか思えない」
彼女からのそれ以上の言葉が怖かったのか、彼女の震え始めた声が怖かったのか。自分でも分からないけれど、気がついた時には電話を切っていて、家すらも飛び出していた。
外は爽やかな風が吹き付ける鮮やかな快晴の天気だった。こんな時は雨でも降っていれば、まだ気持ちがいくらか楽なのに。僕なんかの為に世界は合わせてくれない。もう早くこの身を投げてしまいたかった。朝食で使ったナイフでも持って来ればよかった。
それからあてもなく彷徨った。レンガ街の裏路地でナイフを買って胸の裏ポケットに忍ばせる。耳触りな街の中心を早歩きで抜け、進み続けるとだんだんと店が減り、建物が減り、人が減り、そして海が見えてきた。そばには静かにそびえ立つ教会と、その向かい側に、見るからに妖しげなテントがあった。
見た感じ、海に人がいる様子はない。
「あの海にするか」
僕の声ではなかった。振り向くと二十後半くらいの男が立っている。
「俺は占い師。兄ちゃん、自殺する場所、考えてたでしょ」
占い師にしては、白シャツにジーンズと随分と雰囲気のない格好。
「関係ないだろ」
「え、まさかの当たり?」
「その発言は職業的にどうなんだよ」
「まあ、タロットカードも何も使ってないしな」
ポケットから取り出したカード束をひらひらさせる。へらへらと笑っているのが、腹立たしい。
「何かあったのかい、兄ちゃん」
「さあ。占えば分かるんじゃないか」
「タダで占わせようとするとは、兄ちゃん策士だな」
まあどうせ死ぬわけだし、最後の気まぐれってやつだ。人生最初で最後の占いをしてもらおう。
「死ぬ前にたった一つだけ気になることがあるんだ。金はいくらでも出すから占ってくれ」
「では、こちらに」
そう言ってあの妖しげなテントの方へと案内される。
テントの中は妖しく光る紫の照明に、木のテーブルと二つの椅子が向かい合わせに並べられているシンプルなものだった。まず自殺を考えた理由を話せと促されて、思わず乗ってしまったが、これはもはや占いではない気がする。
僕は数年前に彼女と付き合い始めた。たまたま学校が同じだったのだ。意外なことに、彼女からの猛アタックにより付き合うことになったのだが、彼女は美人歌手として世界中の人を湧かせるような有名人であった。ゆえに、僕を好きになる理由がまるで分からない。僕の家は裕福だから、お金で付き合ってると後ろ指をさされたことはあるが、それはない。売れっ子歌手の彼女がお金で選ぶとは到底思えない。
今まで勉強一筋だった僕の意識が変わった。
彼女に追いつきたくて、彼女の隣で笑いたくて、僕はレールを外れた。僕も自分の手で夢を切り開いてみせたかった。本を読むのは嫌いじゃなかったし、文才もある方だと勝手に思い込んでいたから、小説家を目指した。彼女以外の誰にも内緒で書いてきた。タイムリミットは二十一歳まで。教師になる年齢だからだ。それまでに叶えれば、自らの手で輝いたことになる。僕は少しでも彼女に追いつける。そう思っていた。
「でも現実は甘くなかった。結局デビューどころかまともな小説も書けずに二十一。死にたくなるよ」
思わず深いため息をつく。
「所詮お金持ちの家のただの凡人だったんだ」
いつの間にかカードがテーブルに並べられていて、ブツブツと気味の悪い言葉が男の口から漏れている。
「……ふっ、こんなの占うまでもないね」
「は?」
「君は分かってないなあ。レールの上を規則正しく走るのがどれだけ大変なことか」
「公道よりも、整備されていない道を車で通る方が簡単だと言いたいのか」
「例えがずるいね。でもそうでもない」
ポリスが居るだろう、とニヤリと笑って人差し指を立てる。
「公道で一度もポリスにお世話にならないなんて、あまりにも難しいんだよ。興味関心のズレ、親との不仲、色んな理由で交通違反を繰り返して、ついには嫌気がさして公道なんか走らなくなる。そもそも、誰かの期待に応えようと懸命なやつなんか珍しいくらいだ。普通はもっと自己中心的に生きる」
僕の中の大事な何かが、たった今、崩されようとしている。言葉で殴られただけで、いとも簡単に。バラバラと。
「質問に答えるとしよう。彼女が君を好きなのは、つまりはそういう堅実なところなんだよ」
心は原型をとどめないくらい崩れて、ぐしゃぐしゃになった。ぐしゃぐしゃになったのは、本当は自分の顔だと気付いたのは、彼に冷めた目でティッシュを渡された時だ。人に泣き顔を見られるのは苦手だ。でもいいんだ、今日、これから僕は死ぬつもりなんだろう。そう僕に言い聞かせた。
「それにデビューしなくても小説家は小説家さ。夢に形なんかない」
言葉が出ない。何度も首を縦に振る。
「さ、おしまいだ。早く帰れよ泣き虫小説家教師。あ、料金は置いて行けよ」
「占ってもいないのに金を払わせようとするとは、お前策士だな」
心は青空のように晴れやかになっていた。
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