第22話 シャクティ・スペック博士の青い林檎
「しかし、市長は何を考えているんでしょうか」
「あの人の考えを理解しようとしてはいけない。深淵のようなものだ」
「私には何も考えていないように見えます」
「案外そうかもしれん。しかし我々は彼に従うほかない」
「なんにせよ、博士に報告するのは気が重いですね」
「あれも深淵だからな」
ミートバーグ役場の別棟にSHARK庁はある。
サメの骨格標本。比較用の人体標本。スピルバーグのサイン(レプリカ)。サメの生息地図。水着会社のポスター。などの並んだロビーをビキニの『隊長チーム』が脇目も振らず通り過ぎて行く。いや新人の隊員だけは珍しげに辺りを見回して、№2のマイクルにたしなめられていた。
目指すSHARK庁特別顧問専用室は最上階にあった。
ハンサムを見失った翌日のことである。
「ハンサムはここから?」
まだキョロキョロしながら新人が訊いた。
「ヤツがいたのは実験施設って話だ。おい『乳首』、博士の前では行儀よくしろよ」
「そのあだ名やめてもらえます?」
「ところで隊長、いいかげん実験施設のほうは調査させてもらえないんですか」
「機密があるんだと」
「私らにまで機密にされてはね」
「まあな。だがそれほどヤバイ研究ということだ。下手に関わることはない。調査に必要な情報はよこしてくるだろう」
扉の前についた。三人はビキニをただしてからノックした。
「『彼』の協力者はティーンの若者だね。間違いない」
報告を聞いたシャクティ・スペック博士は即座にそう断言した。
室内には青林檎の香りが漂っていた。
【いっぱい食べるキミが好き】
奥の壁に大きく『サメキチ学会』のスローガンが掲げられている。シャクティ博士は元学会員なのだ。
顧問室は彼女の私室と化していた。
顧問という立場は微妙で、彼女は市に関する業務からは放任されていた。
ここと、別にある実験施設で研究を続けつつ、たまに気まぐれな指示を送ってよこしたりした。そしてそれは、たいてい後になってから正しい指示だったとわかるのだった。
S.H.B.Bからすれば雲の上の人物である。サメ人間捕獲の任務がなければ、拝謁する機会もなかっただろう。
隊長の横で新人の息をのむ気配がした。
シャクティ・スペック博士。ビッチ器官の発見者にして、サメ人間の生みの親。元サメキチ学会員の元天才少女。そのIQは実に8989を誇る。通称『シャーク専用クソメガネ』今も彼女を崇拝する成人男性は多い。
見事なブロンドの髪に、メガネの奥の澄んだ瞳。褐色の肌を白衣で覆っていた。
狂気や孤独が肉体の成長を妨げることがあるというが、シャクティ博士はどうなのだろう。彼女はまだ十代の容姿を保っていた。
飛び級を繰り返していたとはいえ、当時学生だった彼女がビッチ器官を発見してから10年は軽く経過している。実年齢は二十代後半かそれ以上のはずだった。
新人をマイクルが肘で小突いた。
隣で隊長が二度目の説明を始めた。
「……逃走車両の特定を急いでいますが、目撃情報もなく……またハンサムを銃撃した市民たちの中には新種のサメドラッグをやっている者もおり、運転手の顔はおろか、事件当時のことさえよく覚えていませんでした。他の住民も『血まみれの男とピンクの車の印象が強すぎて顔までは』と――」
「だからそんな報告は必要ない。一日調べて何も分かっていないんだろう? 彼は人の姿をしていて、捕食の際の変態も一瞬。顔さえ隠せば目撃情報を探しても無駄さ。私が今から言う者を探せば良い」
「いったいハンサムはどういう人物なのです」
「なぜそんな質問を?」
「ハンサムに仲間がいるのでは?」
「『彼』の存在は機密だ」
「しかし、現に彼を助けた人物がいる」
「偶然さ」
「例えば、産業スパイかニンジャが盗んだ可能性は?」
「『彼』だけ手に入れても凡人共には運用不可能だ。私の頭脳がなくてはね。攫うなら、まず私だ。だが私はピンピンしている。犯人からの要求もない」
「ハンサムが民間人を脅して運転させたのでは? 彼がどれほど狡猾かは分かりませんが、状況的に見て――」
「そのことについては私も訊きたい。無様にも逃がしてしまったにしろ、直に接触した君たちから見て『彼』はどうだった? 彼をどう見る」
マイクルが割りこんだ。
「どう見るも何も、ヤツはすでに何人も殺しているんですよ」
「それは習性の話。サメちゃんが『食事』をしただけのことでしょう? 私が知りたいのは『彼』の人格の部分。あなたたちにはどう映った?」
「人の命を食事だと――」
「よせマイクル――これを」
隊長は押収した『置き手紙』を見せた。博士は受け取ると、手紙の表面をさっと撫で、それからメガネをかけ直した。
「ふうん。これを『彼』が」
そう言って彼女は長い間、まるで筆跡鑑定かX線にでもかけるみたいに手紙を見つめていた。陽射しが、かすかに震える彼女のまつげを金色に輝かせた。
やがて根負けした隊長が尋ねた。
「どうして車両の持ち主がティーンだと?」
「うん」シャクティはもはや興味をなくしたように手紙を破り捨てると、椅子に座ったまま、ミュールを足先でいじりだした。妙に子供っぽい仕草だった。新人が素足の動きに見とれている。
「まず、逃走車両の持ち主は民間人。それも血気盛んなティーン」
「……そうおっしゃいますが、そこまで言い切る理由は」
「スパイやニンジャならもっとスマートに攫う。犯人は偶然サメ人間を拾っただけ」
「ティーンだと断定した理由は」
「無謀だから。血まみれの男を拾い、サメをも殺すS.H.B.Bから逃げ、跳ね橋を飛び越える。普通はどこかの時点でギブアップする。捕まっても怪我人を救助しただけと言えば放免される。なのに犯人たちは勇敢にも立ち向かう選択をした。怪我人を放っては置けず、ついでに自慢の改造車のパワーを試したかったんだろう。何よりその場のノリ。仕事を持つ大人はそういう思考にはならない。明日も仕事があるんだからね。『面倒事は御免だ』となる。犯人はそうではない。時間があり。自信過剰。そして情緒的」
「それはただの推測でしょう」
マイクルが反論するが、隊長が押しとどめた。彼はシャクティへ頭を下げて、
「犯人は若者。他には」
「それと運転手は性的に問題を抱えた若者である可能性が高い」
「……というと」
「サメ人間を車に乗せて食われていない。ハンサムに反応しなかったのだ。つまりは性的に何か問題を抱えている」
「なるほど」
「君たちの報告によると、犯人がサメ人間を病院周辺へ運んだ形跡はない」
「今のところは」
「ということは家でかくまっている。それに改造車も隠さなきゃならない。そういうプライベートな場所を持っている子供だ。普通は親が通報するが、そうなっていない」
「犯人は特殊な家庭環境にある……」
「犯人は親と交流がなく家を自由にできる人物か、一人暮らし。あるいは、親が警察と反目している場合。『旧市街』にはそうした家が多いようだ」
「ええ、それは――」
「いずれにしろ、犯人が心身や家庭に不安定なものを抱えている事は間違いない。通院歴や、補導歴、事件への関与歴を調べろ。親も子も含めてね。あとは警察や市長へとの衝突経験。ああ、それに車の改造は自分でしたようだから、整備技術をどこで習得したか。未成年なら改造資金はネット関係の取引で得ているかもしれないから、車やパーツ関係の売買も調べるといい」
「通院、犯罪歴と、家の事情。車関係……」
マイクルが慌ててメモを取り出した。
一呼吸置いてから博士は言った。
「いっそ報道してやったらどう? 私は研究が知られても『彼』さえ戻ってくれば問題はない」
「研究が表沙汰になるのは市長の望むところではありません」
「そう。小さい男だ。所詮、子供の無謀から出た友情ごっこ。大事になったと知ればすぐに仲間を売ると思うけれど、だめか」
ため息をつくとシャクティ博士は、もはや興味を失ったらしく、男たちに背を向けた。
隊長たちはその場にとどまった。
「もう行ったらどう」
「大変参考になったのですが……博士」
「まだ何かあるのか」
「私たちは一時的に追跡任務を離れなければなりません」
「……何だって?」
シャクティが振り向く。
「実は我々は市長とそのご子息の警護を申しつけられています」
「もう一度言って?」
「我々は明日、警護任務に就かなくてはなりません」
「『ウソでした』と言いなさい」
「市長直々の命令なのです」
「……バカなのか? この状況で」
「何でもご子息がゲイとの痴話げんかで怪我をさせられたとかで。それに市長はハンサムをそこまで危険視していないようです。『イタチザメの方がよほど人を殺している』と」
「『サメ人間への関与がバレなければそれでいい』と?」
「我々はそうは考えてはいません、ですが傷を負ったハンサムはしばらくおとなしくしているでしょうし、少しの間だけ――」
「私の作ったサメ人間がそこいらの雑魚以下か。まあ好きにすれば良い。こっちもこっちで好きにするよ」
「SHARK神祭が終わるまでの間です」
「もう行ってもらえる? あなたたち臭いから」
△△△
SHARK庁をでると自分の臭いを嗅ぎながらマイクルが言った。
「やはり隊長」
「いうなマイクル」
「我々はガードマンじゃない、S.H.B.Bなんですよ」
「資金を出しているのは市長だ。我々は正規の警察組織ではないんだからな。組織を維持するため、ひいては市民を守るためには市長の機嫌取りも必要なのさ」
「……言い過ぎました」
「それに、ハンサムに世話係がついているというのなら、考えようによってはいいことかもしれん。そいつらに人間の飯を世話してもらえばサメの本能も抑えられるんじゃないか」
「当面は、でしょう」
「まあな。捕獲は絶対だ」
「犯人は若者。かなり絞られそうなのに歯がゆいっすね」
新人も言った。
隊長とマイクルは頷いて、
「案外『マックス坊や』の同級生かもしれないな」
「そうだと助かりますね。犯人が『ピンクのフェアレディ』を学校で自慢していてくれると更にありがたい」
「あれは自慢したくなるかもな」
隊長はそう言って笑った。
「だが警護を手薄にもできん。明日のミバ校にはマックス坊やだけじゃない、市長や企業の重役たちも集まることになるんだからな」
「明日は大変な一日になりそうですね」
S.H.B.Bの三人は空を仰いだ。
今のところは穏やかな空だが、日暮れが近づいていた。ミバ高の方角がすでに赤く染まり始めていた。
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