第9話 タコのぺしゃんこ。猫ちゃんええわこれ


 ハンサムは顔隠しの下で鼻をヒクヒクさせながら、売り物の魚たちを見てまわった。死んで並べられているものも、生きて動いているものもいた。


なまぐさい。でも何だか懐かしい臭いのような気がする……俺って漁師かなにかだったのかな。だとしたら記憶の鍵がここにあるんじゃないか? でも――」


 食べ物をあつかう市場の人間までビキニ一丁で仕事をしている。還暦近いようなおじいさんが、Tバックからダルダルの尻を覗かせて、魚をおろしたり、ホースで床を流したりしているのだった。


「スゴイ違和感だ……でも機能的ではあるのか? 俺は記憶が無いから変に思うのかな?」


 市場にも『パクパクカウンター』があった。服を着た人たちがその前に集まって、十字を切ったりしている。


「もしかして……あれって何かの被害者の数とかなのか? だとしたらこわいなぁ~。俺も何があるか分からないし観光は切り上げて警察署を探した方がいいかもな」


 だがしかし数分後、彼はのタコの前で座りこんでいた。もう夢中である。


「すげーなぁー! 好き。やっぱイカよりタコだよなぁ~。こいつ自分の手足が絡まったりしないのかな? 自分の足をエサと間違えたりしないのか?」

「兄ちゃん旅行客だね? ビキニじゃないからすぐ分かったよ」


 店主が和やかに話しかけてきた。

 だが危険である。

 タコをよく見ようとするあまり、ハンサムは顔の覆いを外してしまっている。移動式シャークアタックとでも呼ぶべき美貌ハンサムが丸出しになってしまっている。抜き身のハンサム。

 しゃがんだ上にうつむいて生け簀を見ているため、まだ人目にはふれていないが、極めて危険な状態である。

 店主は人の良さそうなおじさんだが、いかにも港町の男といった感じでたくましい。肉体が逞しいということは、性欲も逞しいということに他ならない。ハンサムの素顔ハンサムを見てしまえばひとたまりもないだろう。

 そんなことを自覚しないハンサムは、話しかけられると素直に顔を上げた。


「あ、はい、いや……俺は――」

「ハンッ――!」


 とたんにおじさんは感電したようにのけぞった。


「はん?」

「――ハンックション!  おお……チクショー」


 くしゃみである。

 くしゃみの瞬間頭を振ったため、ハンサムを見ずにすんでいた。だがそれも偶然の一時しのぎにすぎない。依然として美貌ハンサムは丸出しのままである。店主はすぐにでも鼻をすすってハンサムに向き直るだろう。まさにそうした。


「いやあ風邪かねえ? はん?」


 疑問形である。

 ハンサムが手で顔を覆っていたのが、一瞬彼には疑問だったのだ。

 くしゃみの飛沫が目に入ったのである。両手で擦っていたため、顔は隠れていた。セーフである。

 とはいえ、その状態も長く続かない。

 海の男は親切にも自分の手ぬぐいを差し出した。


「俺のせいか。すまねえな、失礼。コイツ使ってくれ」

「いや、ああ。ありがとう。ほら、もう大丈夫」


 ハンサムは顔を向けてにっこりと微笑んだ。白い歯が輝く。


「ハン――ッ! ハンッハハハッ!」


 爆笑である。彼はハンサムの顔を指さして笑いはじめた。


「顔、顔! 墨! ハンッハハハッ!」

「え?」


 ハンサムの顔が真っ黒になっている。指も黒くなっていた。

 手ぬぐいに捌いたばかりのタコの墨が染みこんでいたのだ。店主はそれを忘れてハンサムに貸したのだった。

 墨で汚れた顔からは美貌ハンサムが失われてしまっている。


「あれ? ええ~」

「いや笑っちゃ悪いな。新しいてぬぐい持ってくるから待っててくれ。ところでそのタコ買うんならオマケするよ」


 優しい海の男は、そう言って店の奥へ戻ろうとした。

 自分が一銭も持っていないのを思い出して、ハンサムは引き留めた。


「あ、あ、いいです。手ぬぐい。このままで大丈夫」

「……大丈夫って兄ちゃんナスビみたいになってるよ?」

「ホントこのままで。俺、タコ好きだし、ナスビだってけっこう好きかも。ホントに旨いや、この墨。これは良い墨だ。タコもこの街も最高! もう行かなきゃ」


 慌ててそう言った。親切にされるほどお金も記憶さえもないことが急に情けなくなってくる。

 店主にはハンサムの様子が、はしゃいだ観光客に見えたようだ。無理強いはせず、自分用のおやつを分けてくれさえした。

 ミートバーグの隠れた名物、タコを鉄板ではさんでぺたんこに焼いた煎餅である。売り文句は「サメも大好きタコ煎餅」。


「面白い兄ちゃんだねえ。ユーチューバーかい? じゃあこれ上げるから持って行きなよ、タコ煎餅。宣伝してよ。これ投げるとサメが寄ってくるんだ」

「いや、でも俺実はお金が……」

「いいから、いいから! お詫びお詫び!」

「いいんですか? ホントに~」

「いいからいいから~」

「じゃあ……うまァーい! やっぱタコだなッ」

「うれしいね~」


 このようにして海の男はタコによって救われた。

 サメはタコも好きだから。


「ありがとうございました~。しかし不思議な食べ物だなぁ~タコが押し花みたいにぺったんこになってる。さて、食べたし真っ黒は恥ずかしいからマスクはしておこう」

 店を後にするとハンサムは観光を続けた。

 万全の体制である。墨とマスクの二段構え。

 これでハンサムのハンサムが人目にふれる危険は消えたといっていい。

 だが、サメ人間は顔を見た人間だけを襲うわけではない。

 すぐ側の屋台の下でネズミが交尾している。ハンサムの片手が素早く伸びた。本人も気づかないあいだに、手のひらがサメのアゴに変わってネズミを捕食してしまっていた。

 これがサメ人間である。

 彼に移植されたビッチ器官は、生物の性的高まりに反応して、サメ遺伝子を活性化させる。

 その結果、彼の肉体はサメ化して無意識の捕食行動を起こすのだ。


 それは市場を出て裏道へ入ったときだった。


 料理屋からニンニクと古い油の臭いが漂ってきた。

 地元民の集まる商店街らしい。リゾート地から少し離れただけなのに、別世界のようだ。

 個人商店や民家がひしめき合っていて、路上駐車に不法投棄、野良猫やカラスも多かった。側溝から、湯気だかガスだか分からない、モヤが立ち上っている。

 花火工房と中華料理店が並んでいて、その間の狭い路地の奥からいかがわしい声が聞こえて来た。


「ンッ! 猫かな?」


 人類は猫が好き。ハンサムも立ち止まって油断なく目をこらした。

 隘路あいろには荷物が積み重なっていて、ハンサムのところからでは見通せない。


「猫ちゃん? 猫ちゃん? どこかな?」


 彼は猫だと多いこんでいるが、実際のところは違った。

 奥で身体を擦り合わせているのは、ティーンエイジャーである。

 物陰にティーンエイジャーがいる場合、約96%の確率で性的コミュニケーションにふけっている。サメ学会調べの統計にもそうある。

 実際、ここでもビキニ姿の若者が、お互いに性的マッサーをほどこしているところだった。その声が通りまで漏れているのだ。


「イエス……イエス……!」

「オ・オ・オ~」

「あの通路か……やっぱり猫の声かな? 以前の俺は猫が好きだったのか、それとも嫌いだったのか……実際に見て確かめてみたい」


 ハンサムは隘路あいろのほうへ忍び足で近づいていく。まだ彼は人の姿のままである。ビッチ器官への刺激がまだ弱いのだ。だがもっと近づいていったら、ティーンたちの興奮が高まっていったら、どうなるかわからない。

 しかも危険はそれだけではなかった。

 通路に積み上げられた木箱である。その中身は花火に使う火薬なのである。完成した花火の箱も混じっている。隣の花火工房が置いたものだ。

 爆発はサメの弱点である。

 そのため、サメの街ミートバーグでは花火が縁起物として扱われ、サメの祭りSHARK神祭では、一晩中花火が打ち上げられることになっている。

 祭りは近い。花火工房はまさに繁忙期で、火薬の扱いが乱雑になっていたのだ。

 ティーンたちは、火薬の箱の影でマッサーにふけっている。

 つまりサメ化を起こせば彼らごと火薬を噛み砕くことになる。そうなれば大爆発は必至である。実際、サメの死因の大多数を占めるのが爆発物の誤飲ごいんなのである。

 さすがのサメ人間も爆発に巻きこまれては無事では済まない。


「猫ちゃん猫ちゃん……」


 そんなことも知らず、ハンサムはティーンたちへ近づいていった。


「カムッカムッオ・オ~」

「イエス! イエッス! ええわこれ」


 ティーンたちも絶頂へ近づいていく。暴発は近い。

 声もだんだん聞き取れるようになっていった。そこでハンサムは思った。


「あれ? 猫かな? 人の声みたいな気がしてきた……」

「オウッオウッ!」


 やはり猫とは思えない声がした。ハンサムは耳をそばだてる。


「ハ~シ~ッ! ハ~シ~ッ! スゥ~ッ にゃーん」

「やっぱり猫だ! にゃーんっていったもの!」


 猫に間違いない。が、更に進んでいくと木箱の向こうからはっきり声が聞こえた。


「オ・オ~」

「あれやっていい? 本で見たヤツやっていい?」

「変わった猫だな。いや、やっぱり人だ。失礼――」


 ハンサムは察して引き返そうとした。

 そのときである。ハンサのつけていたマスクが、内側から持ち上がった。口がサメに変化して前方へせり出しはじめたのだ。

 しかしティーンたちはまだ絶頂に達してはいない。それなのにビッチ器官が反応しはじめている。

 答えはティーンたちが隠れているのとは別の木箱の上にあった。

 人間のカップルにだけ気を取られていたが、もうひと組、カップルはいた。

 それもハンサムの目の前にいたのに気づかなかったのだ。


 ネズミである。

 市場の残飯で丸々太ったネズミのカップルが、正常位で、それはそれはもの凄い交尾にふけっている。

 ハンサムは思った。


(速い――!)


 まさに火の出るような勢い。二匹の興奮はたちまちクライマックスを迎えた。火薬の詰まった木箱の上でである。


 瞬間、一帯に爆音が響いた。


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