第四章 それもきっとしあわせ(鈴木亜美)


 秋葉原での練習だけではものたりなくて、めぐみたちは丸子橋に行って、河川敷の現場で踊ってみることにした。


 途中のファミレスで食事をして、丸子橋についたのは22時ちかくだった。河川敷の現場は暗くてだれもいないので、三人はいくらでも踊ることができた。めぐみもゆいもれいかも、現役時代からリハーサル室がなければ、人目につかない公園や河川敷、鏡が欲しいときにはビルのショーウィンドーや駅の構内でストリートダンサーたちにまじって、ダンスの稽古をするのはめずらしいことではなかった。


 三人は足もとの土の堅さを確かめながら、それぞれの動きや距離を測りながら、鼻歌をまじえ、リズムにのって、なんどもなんども稽古をくりかえした。そして、セットリストにあわせて二回、通し稽古をした。彼女たちがへとへとになって、稽古を終えたのは午前三時だった。


 その日の本番は、お昼に西新宿のれいかのマンションに集まって、いちど簡単に通し稽古をしてから、新丸子のゆいの部屋に移動して、衣装に着がえ、日没まで待機することにした。


「スーちゃんに連絡してみる?」ゆいが訊いた。

「テキストやスケジュールは変更ごとに、あすかには送ってるから、状況はわかってるはず。やる気になればくるわよ。衣装とか機材とか準備だけはちゃんとしておきましょう」

 れいかはそう言った。


 ケイの車で、ゆいをワンルームマンションまで送り、西新宿のれいかのマンションによって、川口のめぐみのアパートへ帰った。寝て起きて午後12時には、れいかのマンションに行きたい。ふたりは、ぎりぎりの午前11時まで寝ることにした。さっとシャワーをあびて、それぞれ居間とダイニング・キッチンにわかれて布団にはいった。


 ケイの寝るダイニングと居間とをへだてるふすまのむこうから、めぐみの鼻をすする音と乾いた咳がときおり聞こえた。ケイはすこし気になったが、すぐに眠りに落ちた。


 朝起きると、顔を洗って、まっすぐ西新宿にむかった。食事はれいかの家でとることになっていた。れいかの部屋にゆい、めぐみ、ケイとそろったところで、れいかの手づくりのカレーライスを食べた。


「イチローは試合がある日は毎朝、カレーライスを食べてたそうですね」とケイが言うと、

「あ、それ、もう食べてないんだって」とゆいが言った。「いまは食パンとソーメンだって」

「え、それ、両方いちどに食べるんですか?」

「そうみたい」

「炭水化物、炭水化物じゃないですか」

「関西のひとは、お好み焼きや焼きそばをおかずに、白いごはんを食べるんでしょう」れいかが言った。

「ああ、それ聞いたことあります」ケイが言った。

「ラーメンライスだってそうじゃない」ゆいが言った。「家系ラーメンのスープにごはんを入れるとおいしいよ」

「そうですか、こんどやってみます」


 めぐみは朝からあまり口をきかない、ときどき鼻をすすったり、ティッシュを鼻にあてたりしている。


「ミーちゃん、だいじょうぶ?」ゆいが訊いた。

「うん、へーき」めぐみは言った。

「かぜ? 熱は?」れいかが訊いた。

「へーき。じぶんでわかってるから、きょう一日はもつ」

「ムリしないほうがいいわよ」

「熱はたいしたことないし、からだは動くし、声もでる。だいたい、熱からはじまって、つぎの日にのどがやられるのが、わたしのパターンだから」

「きつかったら、いつでも言ってね。ムリしちゃダメだよ」ゆいが言った。

「うん、ありがと」めぐみが言った。


 食事のあと、お腹がおちつくまで打ち合わせをした。そしてストレッチからはじめ、セットリスをにあわせてフォーメーションとダンスの確認をする。


 リビングには壁際のソファーセットのほかにモノはないので、三人が動くことはできるが、さすがに正式な距離をとるだけの広さはない。三人は歌を口ずさみながら、それぞれの歌の担当と動きを確かめる。きのうなんども練習したので、じゅうぶん頭には入っている。


「あとは現場で柔軟にやりましょ。ぜんぶやりきれるとは限らないし、なにが起こるかわからないしね」れいかが言った。

 ゆいとめぐみはうなずいた。


 ケイの青い車に乗って、新丸子のゆいのワンルームマンションに移動した。


 三人がゆいの部屋で着がえているあいだ、ケイは歩いて多摩川の河川敷にようすを見にいった。ちょうど16時だった。


 大滝さんとはなんども連絡をとりあっていて、彼らもすでに現場ちかくの駐車場に車をおいて待機していた。ケイが丸子橋の見える土手にあがると、河川敷にちらほらと人の姿が見えた。関係者なのか観客なのかはわからないが、ふつうに散歩でもしているように振る舞っている。いまのところ問題はなさそうだ。


 よう、と後ろから声をかけられて、ふりかえると大滝さんが立っていた。


「ぽろぽろと人が集まりはじめている。うちの連中ができるだけ声をかけて、集まったり、騒いだりしないよう、頼んでる。いまきてるやつらは事情を理解して、気を使ってくれてるよ」

「みんな協力的だといいですね」

「まあ、人が増えるとどうなるかだな」


 けっきょく、場所は公式には発表していない。大滝さんたちが、じぶんたちのネットワークとその先のつながりを使って、なるべく公にならないよう、個人的なメールやラインでだけ、場所を伝えるようにした。いまのところネットで検索をしても、「丸子橋 イベント 追悼」などではヒットしない。


「三千人、集まりますかね」ケイは言った。

「ああ、だいじょうぶだろ。ここは東京の端っこだけれど、首都圏なら一時間あればここまでこれる。あのセットリストなら曲だけで90分。なんだかんだで始めから終わりまで二時間てとこだろう。始まってから場所をオープンにしても、そこから飛び出せば、半分は参加できる」

「警察にとめられなければ」

「そのために、おれたちがいる」


 冬の灰色の雲が空をおおっていて、夕日がどこにあるかはわからない。薄闇がひろがり、夜の気配がじわりとせまっている。


 大滝さんが、カンパを入れてもらう箱をつくったから見てほしい、と言った。ふたりで土手を降りようとした。そのとき、ケイくん、と声をかけられた。見ると、リュウジが立っていた。


 彼はすこし遠慮がちに言った。

「ケイくん、おれにも手伝えることあるかな?」

「うん、ぜひ」ケイは笑顔で言った。

 リュウジも笑顔を見せた。

「大滝さん、かれ、ゆいさんの弟で──」とケイは言いかけて、マズい、と思う。

 大滝さんの顔が険しくなる。

「おまえか、ゆいぼうの弟」どすの利いた声で睨みつける。

 リュウジはちょっと怯む。

「大滝さん、かれもゆいさんのこと、すごく心配してて……」ケイは言う。

 大滝さんは、じろりとケイまで睨みつける。

 怯むケイ。

 大滝さんはひとつ大きく息をすって、吐いたあと、右手をさしだした。

「大滝だ。ファン代表ということになっている。ようするに警察でいちばんしぼられる役目だ」

 いろいろと言いたいことはあったのだと思う。しかし、大滝さんはグッとそれを呑みこんだ。

「ご迷惑をおかけします」リュウジは大滝さんの右手を握った。

 大滝さんは強く握りかえした。

「いっしょにきてくれ、いくらでも手伝ってほしいことはある」


 ケイとリュウジは大滝さんについていった。

 大滝さんは歩きながら、運営のゴローさんは来るのか、と尋ねた。そして、

「女性アイドルのピークが14歳から21歳だなんて説はクソだ」と言った。「道重さゆみを知ってるか。彼女がモー娘。を卒業したのは25歳だ。乃木坂の白石麻衣は27歳。NegiccoのNaoとでんぱ組の古川未鈴は結婚してもアイドルをつづけている。そういうことをちゃんと研究しろって言っといてくれ」


 わかりました、とケイはこたえた。


 運営のゴローさんとも連絡をとって、ステージの設営は17時30分から一気にやろうと確認した。


 音響とネットの技術チームはすでにどこかで調整をはじめている。こんかい大規模な設備は必要ないので、マシンとソフトウェアの機嫌さえよければ、設置に手間はかからない。ステージも大物はふたつの工事用ライトだけで、それもなるべく大袈裟にならないようにする。ステージの縄張りは、工事現場のカラーコーンと規制バーでつくる。あとは技術スタッフのテーブルと、カンパの箱を置いたテーブルぐらいでいい。


 問題はいつ、めぐみたち演者を登場させるかだ。アイドルイベントの多くは、演者のステージパフォーマンスのあと、握手会や、チェキの撮影会へと移行する。しかし、こんかいは、ステージさえいつまで維持できるかわからない。めぐみたち自身は、カンパをお願いするのだから、その箱の横にでも立って、握手でも、写真でも、お礼をしたいと言っていた。やるなら、集まってきてくれた人に、さいしょに入り口付近でやったほうが、カンパも集まりやすいだろう。ただ、人の流れが滞ってしまうのが怖い。


 どちらにしろ、きちんと管理されたイベントではないのだから、お客さんを公平にあつかうのは不可能だ。そもそもカンパも自由意志のフリーイベントだし、演者だって、OLさんと芸能事務のアルバイトとフリーターである。もっとフランクに考えていいのではないか。


 ケイは大滝さんと話しあって、設営直後からめぐみたちにも来てもらい、人の流れを滞らせないことや、騒がないことをお願いしながら、握手などの対応をしてもらおうと決めた。


 日が沈み、河川敷には人影がふえはじめた。ケイが土手に立っていると、数人から、あいさんの追悼ライブの会場はここでいいんですよね、と尋ねられた。


 ええ、でも騒がないでくださいね、騒ぐとすぐ中止にされちゃう危険性があるんで、とケイは答えた。


 そうですね、追悼ですものね、みんなで静かに行いましょう。


 来てくれる人には良い人が多そうだと、ケイは思った。


 彼は、ゆいのワンルームマンションまで歩いてもどり、衣装に着がえて待機していた彼女たちに現状を伝えた。そして17時30分になったので部屋をでた。ここから丸子橋までは歩いて10分くらいだ。ゆっくり歩けばいい。そうすれば資材の搬入は終わっているだろう。


 めぐみは衣装のうえにネイビーブルーのモッズコート、ゆいはライトグレーのチェスターコート、れいかは白いダッフルコートを着て、多摩川にむかう。丸子橋に近づくと、ぱらぱらと人の流れができていた。みんな丸子橋の方向へ歩いている。


 めぐみたちが多摩川の土手にあがると、丸子橋の下の河川敷に、二本のバルーンタイプの照明が立っていた。その間を、赤、青、黄色、緑、ピンクというカラフルなカラーコーンが囲っている。ちょうど長方形のステージのかたちだ。そのカラーコーンのなかで音響とネットの技術チームはセッティングをし、なぜかストとれ5の女の子たちもいる。


 カラーコーンのまわりにはすでにファンの流れができていて、テーブルに置かれたカンパ用の箱のわきに普段着のストとれ5の女の子たちが立ち、カンパしてくれたお客さんにお礼を言って握手をしている。


「なにあれ、もうはじまってるじゃん」

 ゆいがあわてて丸子橋の下のステージにむかう。れいかとめぐみ、ケイもあとにつづく。途中、ゆいやめぐみに気づいたお客さんに、お久しぶりです、頑張ってください、と声をかけられ、求められた握手にこたえながら、人の流れをかきわけるように、ステージのカラーコーンのなかに入る。


「どうしたの?」

 ゆいがストとれ5の子たちに声をかけると、来たら握手を求められて、カンパの箱もあったから、なんとなくこんな状況になった、と彼女たちはお客さんの求めに応じながらこたえる。

「こんなことまでしなくていいのに」めぐみが言う。

 ごめんね、ありがとう、とゆいやめぐみがストとれ5にお礼を言っていると、そのわきを、荷物を持ったゴローさんが通りかかる。

 れいかが言う。

「あ、ゴローさん、ごめんなさいね」

「え、なに?」ゴローさんがふりむく。

「ファイブの女の子たち」

 ゴローさんは握手会にまきこまれているストとれ5を見て、

「しょうがない。適当なとこで切り上げさせてよ」

「了解」れいかは言った。



 その間にも、ゆいさん握手してください、めぐみさん写真撮ってもいいですか、と声がかかる。しぜんと、ゆいもめぐみもストとれ5の女の子たちとならんで握手をしながら、騒がないでくださいね、静かにやりましょうね、と声をかける。


 ステージまわりや土手の上には赤い誘導灯をもった人たちがいて、彼らも来場者に、騒音に気をつけるよう、立ちどまらないよう声をかけ、人の流れを整理している。大滝さんが手配してくれたファン有志の協力者だ。


 ケイはあたりを見まわして、リュウジをみつける。カンパ箱のテーブルの端に立って、立ちどまらないでくださいね、と声をかけている。ケイはリュウジに近より、大滝さんは? と尋ねる。

 リュウジは、あそこ、と土手の上を指さす。

 土手の上の見晴らしのよい位置で、大滝さんが腕をくみ、全体を見下ろしている。

「いちおう、おれもステージ側にいて、なにかあったら大滝さんと連絡とりあうことになったから」リュウジが言う。

「了解。助かる」ケイは言う。「いまんところ大丈夫そう?」

 リュウジは土手を見上げ。

「大滝さんがあそこに立ってるあいだは大丈夫だよ。いなくなったら、トラブルがあったか、警察対応に行ってるかってことだね」

 なるほど、そのとおりだろうとケイは思った。


 人の流れはどんどん太くなり、河川敷にも多くの人溜まりができている。けれども、思いのほか静かだ。みんなこんかいの意図は理解してくれているようだ。へたに騒がしくして台無しにだけはしたくないとだれもが思ってくれている。


 ステージの囲いはできているが、二本のバルーン照明はまだ点灯していない。あたりは薄暗く、流れる人影のなかを、赤い誘導灯だけがゆれている。


 めぐみのスマートフォンが鳴って、彼女は握手の場からはなれ、電話の相手を確認する。めぐみの表情が怪訝になる。通話をはじめると、いっそう彼女の顔が曇っていく。


 そのようすに気づいて、ケイやれいかがめぐみのもとに集まる。


 めぐみが、わかりました、よろしくお願いします、と言って電話を切る。

「どうしたの?」れいかが訊く。

 ゆいもきてようすをうかがう。

 ケイはなんとなく察して。「ソフィア園ですか?」

 めぐみがうなずく。「危篤だって」

「おばあちゃん?」ゆいが訊く。

 うなずくめぐみ、

「朝、やっぱり会いにいけばよかったな」とつぶやく。

「すいません……」ケイが謝る。

「ぜんぜん、ケイくんのせいじゃない……」めぐみの目にうっすらと涙が浮かぶ。

「どうしよう」ゆいがれいかを見る。

「行ったほうがいいんじゃない」れいかはめぐみに言う。

 めぐみは首をふる。

「わたしが行ったって、なにかできるわけじゃないし」

「でも、心配でしょ」と、れいか。

「ここを離れられないよ。せっかくみんな集まってくれたのに、終わってからでも──」

 めぐみが言いきらないうちに、声が聞こえた。


「その見通しはあまいな。終わってから行けるとは限らないぞ」


 そう言って、近づいてくるのは、田中あすかだ。カーキ色のトレンチコートを着て、うしろに大きなバッグを抱えたアベちゃんを従えている。


「スーちゃん!」

 ゆいが飛んでいって、あすかに抱きつく。

「ぜったい来てくれると思ってた。サイコー! やっぱりスーちゃんだ。大好き!」

「あんた、反応がシンプルすぎるよ」あすかがやんわりとゆいを引きはがす。「まずは、めぐみの問題をかたづけないと」

「あなたも、すぐ行ったほうがいいと思う?」れいかが訊く。

 うなずくあすか。

「終わってからでもいいって考えてるなら、あまいと思う。警察に強制終了させられて、身柄拘束されたら、それこそ一晩動けないんだからね。最悪の場合を考えておいたほうがいい」

 めぐみは黙って聞いている。

「なにも、むこうに行ってから、ずっとそばにいてあげろとは、わたしも言わない。ここからなら往復で二時間、きょうは道もすいてるから、もっと早く『行って来て』できるんじゃない?」

 あすかはケイを見る。

「できますね」ケイはこたえる。

「いますぐに行けば、二〇時まえには余裕でもどってこれる。行ってきなよ。そして戻ってきて」あすかが言う。「主役は遅れて登場したほうが盛りあがる」

 めぐみが言う。「わたし、主役なんかじゃない」

 あすかがじっとめぐみの顔を見て、言う。

「あいが『ストとれ』を離れたとき、あんたとゆいがいなきゃ、わたしたちも『ストとれ』を辞めてた。わたしたちが抜けたときも、いくらゆいがやるって言ったって、あんたがいなきゃ、つづかなかった。あんたは辞めたいまでも、『ストとれ』のために働いてる。『ストとれ』はあんたのおかげで、いまがあるんだよ。ここにいる人は、お客さんもふくめて、みんなそのことをわかってる」あすかはめぐみに近づいて、その肩に手を置く。「だから、みんな待ってるから、行っておいで。それで、じぶんの気持ちを整理してから、最高のパフォーマンスを見せてちょうだい」

 めぐみが、ゆいとれいかの顔を見る。

 ゆいもれいかもうなずく。

 めぐみにはまだ少し迷いがある。

 あすかが言う。

「おばあちゃんの顔を見て、ちゃんとお別れしないと、また後悔するよ。いまのわたしたちみたいに」


 そのことばを聞いて、めぐみはうなずき、あすかに抱きつく。


「ありがとう」とめぐみは言って、すぐにはなれ、駆けだす。ケイがあわてて行こうとすると、

「ケイくん!」あすかが言う。「ミーちゃんをお願いね」


 はい! とこたえて、ケイはめぐみのあとを追う。


 めぐみはカラーコーンの囲いを飛び越え、土手の階段をあがっていく。土手の上には大滝さんがいた。めぐみは大滝さんに駆けよって、その大きな手を両手で握り、

「大滝さん、いろいろありがとう、わたしちょっと抜けるから、ぜったい帰ってきますから、よろしくお願いします」

 そう言って道路のほうに駆けていく。


 いきなりのことで、ぼんやりしている大滝さんに、あとからきたケイが声をかける。

「すいません、現場を離れます。めぐみさんを送ってきますから、いっしょに戻ってきますから」


 大滝さんは、うむ、とうなずいて、右手の親指を立てる。

 任せとけって意味だろう、あるいは頑張れか、でも、この状況でその使い方、いいんだっけ、と思いながら、ケイはめぐみのあとを追った。


 ステージでは、めぐみとケイを見送ったあすかに、れいかが近づき、

「きてくれてありがとう」と言った。

 あすかは無愛想に言う。「セトリは見た。三人のフォーメーションで練習したんでしょ、センターはだれ?」

「うちとミーちゃんが交代で」ゆいが言う。

「あんた、ぜんぶセンターできる?」あすかが訊く。

 ゆいはちょっと考えて、うん、とうなずいた。

「よし、じゃ、それで行こう」

「あなたは大丈夫なの?」れいかが言う。

「だれにモノ言ってんの。先生の振り付けおぼえて、みんなに教えてたのはだれ? 三人でも、四人でも、さいしょの立ち位置さえ決まれば、あとは踊りも歌割りも問題ない」あすかは言う。「変えてなければね」

「変えてないわよ」れいかが言う。

「じゃ、オッケーだ」

「さすが、頼れるー」とゆい。

 れいかがあたりを見まわし、

「衣装、ケイくんのバッグに入ってたはずだけど……」

「これですか」とリュウジがバッグをもってくる。

 そうそう、ありがとう、とれいかがバッグを受けとる。

「あれ、なんで、あんたここにいるの?」不思議そうなゆい。

「あんたが来るまえからいたよ。いまごろ気づいてんじゃねえよ」あきれるリュウジ。

 れいかはバッグのなかからブレザーをとりだし、あすかにわたす。

 あすかは、しみじみとブレザーのイチゴのエンブレムを見つめる。

「懐かしいでしょ」とれいか。

「やっぱ、ちょっと甘ったるいよな」とあすか。

 れいかは微笑む。

 あすかはスカートとリボンも受けとり、

「アベちゃん、ちょっと着がえてくるから、買ってきたコーヒー、温かいうちにスタッフさんたちに配ってね」と指示をして、物陰をさがして行こうとする。

「よっ! さすが社長!」ゆいが声をかける。

「あっ」とあすかは立ちどまり、振り返って、「おい、ハゲタカ! 買収したいなら、まずは計画書もってこい!」とれいかに言った。

 れいかは笑って、「了解」とこたえた。


       ☆


 ケイが運転する青い車は川口のソフィア園にむかっている。めぐみは助手席でずっと黙りこんでいる。なんで、よりにもよってこんな日に重なってしまうのだろう。神さまはつくづく残酷だとケイは思う。なにも彼女にばかりプレッシャーをかけなくたっていいだろうに。もともとこの世界は不平等にできている。選択肢がいくつも用意されていて、それを選びとっていける人生ばかりではない。容赦なく大きな流れに押しながされて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、溺れないように必死で顔をあげて、それでもやっぱり息苦しくて、たどり着く場所なんてぜんぜん見えなくて、でも、それでも、どこかに這い上がれるはずだと信じて、泳ぎつづけるしかない。力がつづくかぎり。そして、いつか僕らも力つきる。そのとき、僕はどこにいるだろう。彼女のおばあさんのように、どこかのベッドの上にいるだろうか、それとも……。なあ、ジェイ、おまえの慕っている神さまは世界のすべてを愛せと言ったらしいけれど、やっぱりおれにはムリだよ。嫌いなところがいっぱいだ。せっかく見つけたちいさな喜びさえ、わずかな時間で奪ってしまう。ジェイ、おまえだって泣いてたじゃないか、怒ってたじゃないか、それでもこの世界を愛さなきゃいけないのかい? だったらさ、ジェイ、おまえからも神さまにお願いしてくれよ。こんや一晩とは言わない。数時間でいいんだ。彼女のおばあさんの命とストロベリーとれいんのステージを守ってほしい。もし、その願いを聞いてくれるなら、いまよりも少し、この世界が好きになれるかもしれないから。


 十二月の都市の冷たい夜から滲みだしてくる闇を振り払うように青い車は走っていく。


       ☆


 丸子橋の仮設ステージのまわりは人波で埋めつくされ、奥のグラウンドまで数えきれないほどの人影がひろがっている。土手から河川敷へ降りてくる人の流れも途切れることはない。


 ゆい、れいか、あすかは仮説ステージのはしのテーブルのところに立って、カンパしてくれた人たちと握手をしている。カンパ箱に一万円を入れてくれた男性がいて、ゆいが、うわー、ありがとうございます、とその手を握り、顔を見ると、

「うわっ!」と突拍子もない声をあげる。「社長!」

 あすかとれいかも気づいて、相手の顔を見る。

 ゆいと握手したのは、ひろし社長だ。


「こういうやり方があったんだね」ひろし社長は言った。


 あすかがゆいによりそい、言う。「わたしたちが持っていて、お金にかえられるものって、かぎられているの」

「歌やダンスは立派なスキルだと思うよ」

「そうかしら。ほんとうはその向こうにあるものをみんな見てるんじゃない。あるひとはそれを夢って言うし、実業家ならブランドとか、代理店ならストーリーとか」あすかは言った。「わたしは幻だと思ってるけど」

「快楽としての幻だね」ひろしは言った。「わかるよ。泡のように消えてしまうものだからこそ価値がある」

「どうせわたしたちも消えちゃうんだし」れいかが言った。

「なるほどね」ひろしは笑った。「ライブ、楽しませてもらうよ」

 去りかけたひろし社長に、あすかが声をかける。

「確認。振り込みは、年明け四日中に口座に入ってればいいでしょ」

「ああ、それでいい。なんかあったら連絡して」ひろしは言う。「これだけ人が集まったんなら、めどがたったでしょ」


 あすか、ゆい、れいかが顔を見合わせる。思わず笑いがこみあげてきて、おたがいの肩や背中をたたきあう。


「ゆいさーん」と若い男の声がして、ゆいが振り返る。

「木本さん!」ゆいが満面の笑顔になり、その男に駆けよって手を握る。「きてくれたんですね」

「だれかしら? 知ってる?」れいかがあすかを見る。

「木本……?」あすかはちょっと考えて、思いだす。「あーっ! あれだ、IT社長」

「あ、パーティで出会っちゃったって人?」


 木本はとても人の良さそうな好青年だ。ゆいと握手をしながら言う。

「また、ゆいさんのステージが見れるなんて、とても嬉しいです」

「わたしも、きてくれてすごく嬉しい」

「もし、お正月、お時間があったら、うちに遊びにきてください。みんなで新年会やってますから」

「ほんとですか、嬉しい、ありがとうございます」

「ぜひ、いらしてくださいね」と木本の横の女性が声をかける。木本と同い年くらいのきれいな人だ。

「はい……?」ゆいは不思議そうな顔をする。

「あ、ゆいさん、紹介しますね」木本が言う。「さおりです。来年の春、結婚するんです」

「はじめまして、彼から、ゆいさんの歌、とっても素敵だったって聞いていたので、お会いできて、とても嬉しいです」さおりはニッコリと微笑んだ。


 ゆいは事態がのみこめないまま、

「はい、ありがとう、ございます」と消え入りそうな声で言った。


「じゃあ、また、連絡しますね。がんばってください」

 木本とさおりは手をつないで仲むつまじく去っていく。


 あはははは、と大笑いしたのはあすかだ。

 呆然としているゆいの肩を抱き、あすかは言う。

「出会ったときにはもう、フラれてたんじゃねえか」

 ゆいが涙目であすかを見る。

「気にすんな。次だ、次」あすかはゆいの背中をたたく。

 ゆいがうなずく。

 れいかが時計を見て、

「そろそろ、どう?」とあすかに言う。

「よし、じゃ、はじめるか」


 あすか、ゆい、れいかがステージの中央にむかう。

 ステージの両脇に立つバルーン照明に灯がともった。


       ☆


 川口のソフィア園につくと、めぐみはあわてて車からおり、玄関に駆けこんだ。祖母の部屋のまえで、ちょっと立ちどまってから、意を決してドアをあけた。


 ベッドのわきに小泉園長と哲学する熊がいた。熊は白衣を着ている。ふたりはめぐみを見た。

「めぐみちゃん、だいじょうぶなの?」園長さんが訊いた。おそらくはさっきの電話で、すぐには行けそうにないとこたえていたのだろう。

「おばあちゃんは?」

 めぐみは園長さんたちとは反対のベッドサイドにいき、祖母の顔を見下ろした。


 祖母はとても息苦しそうに胸を上下させていた。意識はないように見えるが、どこか表情が辛そうだ。


 めぐみは白衣の熊に、「手をにぎってもいい?」と訊いた。

 白衣の熊はうなずいた。

「そうしてあげて」やさしく園長さんは言った。


 めぐみは布団のなかに手を入れて、祖母の小さな手を両手で握った。そして祖母の顔を見つめた。幼いころ戦争で、たったひとりで樺太から引き揚げてきて、勉強をして、働いて、子どもや孫を育てあげた、そんな八〇年のしみこんだ顔だ。もうずいぶん、ちゃんと話せていないけれど、めぐみは、おばあちゃんの声が大好きだった。ちいさなころ、姉やゆいも一緒に、たくさんの絵本を読み聞かせてくれた。とくに『銀河鉄道の夜』がお気に入りだった。お礼に、めぐみたちは歌をうたった。マリアさまを讃える歌でも、テレビで見た歌謡曲でも、アニメソングでも、なんだっておばあちゃんは喜んでくれた。厳格な人で、じぶんに都合のいい嘘をついたり、人の悪口を言ったり、約束を守らなかったりしたら、ひどく怒られた。でも、一度だって、おばあちゃんのことを嫌いになったことはなかった。それなのに、姉が亡くなってからは苦しかった。姉のことだけでも辛いのに、祖母がどんどんめぐみのことを忘れていった。彼女が最後まで覚えていたのは、あいのことだった。彼女はめぐみの顔を見るたびに言った。


 ──アイちゃん、歌って


 そのたびに、めぐみの胸はしめつけられた。それでも、そんな声ですらもう、聞くことができなくなってしまう。


 めぐみが祖母に語りかける。

「わたし、ひとりぼっちになっちゃう。おばあちゃんまでいなくなったら、ほんとにひとりぼっちになっちゃうよ」


 それでもめぐみは泣けない。我慢することがしみついてしまっている。


 園長さんも、白衣の熊も、ケイもなにも言えずに見守っている。


「父親にも母親にも置き去りにされた。お姉ちゃんもわたしを置いて行っちゃった。おばあちゃんはわたしのことを忘れちゃった。ねえ、もう、わたし、どうしたらいいの?」


 しばらく見守っていた白衣の熊が、落ち着いた声で話しかけた。

「ミーちゃん、ひとりじゃないよ。みんなきみのことを心配してる」


「嘘!」めぐみが責めるような目で彼に言い放つ。「いまさらそんなこと言っても遅いよ。いちばん肝心なときに、あなたはいなかったじゃない。どうしてそばにいてくれなかったの? どうしてお姉ちゃんのそばにいなかったの! 世界や人類なんてどうだっていい。お姉ちゃんを助けてほしかった。お姉ちゃんを守ってほしかった。お姉ちゃんだけを救ってくれれば、それでよかったのに……」


 しばらく黙ったまま、いちど天を仰いで、彼は言った。

「ごめん、後悔してる」


 めぐみの目から涙があふれだす。

「ちがう、ちがう。だめだ、後悔なんかしちゃだめだ。後悔なんかしないで。それでも自分は正しかったんだって言って、世界中の人を助ける必要があったんだって言ってよ。じゃないと、お姉ちゃんが浮ばれないよ。あなたはそれでいい。ユキくんはなにも間違ってないんだよ。ごめん、ほんと、ごめん、なんかぐちゃぐちゃで、ごめんなさい、許して……」


 白髪まじりの髪をうしろで束ねエプロンをした園長さんが、めぐみのそばにいって、やさしく肩を抱く。

「いいのよ。あなたが謝ることなんてなにもない。言いたいことを言って、泣きたいときは泣けばいいの。それでいいのよ」


 めぐみは園長さんの胸に顔を埋める。そして言う。

「わたし、行かなきゃ。友だちが待ってるの。わたしのこと待ってくれてる友だちがいるの。だけど、どうしたらいいかわからない。おばあちゃんと、ちゃんとお別れしてこいって、言ってくれたけど、どうしていいかわからないの」


 園長さんとユキくんが顔を見合わせる。そしてユキくんが言う。

「ねえ、歌ってよ、ミーちゃん」


 え、という顔でめぐみはユキくんを見る、そして園長さんを見る。

「うん、だいじょうぶよ。歌って。だれも文句なんか言わないから。あなたの歌をおばあちゃんに聞かせてあげて」


 めぐみはうなずく。彼女はベッドサイドからはなれて、部屋の奥の壁ぎわに立ち、目を閉じる。お腹のところで手を結び、すこし考える。そして、ひとつ大きく息を吸い──


 声が響きだす。さいしょは恐る恐る、音をさぐるように、メロディをさがすように、やがて、歌が彼女をみつける。彼女は自信を得て声が伸びる。甘さと儚さをあわせもった声だ。伴奏がなくても、メロディの美しさを感じさせる。どこかで聞いたことのある曲だ。なつかしいポップソング。


   約束を守れたなら

   願いを叶えてあげる

   春の国 飛びたてる羽

   つけてあげるよ


 ゆっくりとしたリズムで、慎重に、歌詞をたしかめるように歌う。ちょっとかすれた甘い声が、高音部になると、どこまでも伸びやかで、人をここちよくさせる。すこしずつテンポが上がり、儚さのなかにも、明るさが見えてくる。それでも切ない声が、聴いている者のこころに響く。


   音符のように すれ違ってくのよ

   迷子になった 彼の心の中

   助けてエンジェル

   りんごをかじったら

   こんな苦しい気持ちになるの?


   I love you I love you

   だけどすねてみたり

   I don't know I don't know

   気のないふりをするのはするのは何故?


   天使がウィンク

   勇気を出して

   笑ってごらん

   それが君との約束だから



 めぐみが歌い終えると、おばあちゃんの呼吸がすこしだけ、穏やかになったような気がした。園長さんと白衣のユキくんは音をたてないように拍手をした。めぐみは園長さんに歩みよって抱きつき、園長さんも彼女を抱きしめた。めぐみは園長さんからはなれ、横にいる白衣のユキくんと握手をする。そしてベッドのおばあちゃんを見た。熱い呼吸がつづいている。めぐみはおばあちゃんの耳もとに顔をよせ、なにかをささやく。彼女は顔をあげて、じっとおばあちゃんの顔を見つめてから、そうっとベッドサイドを離れる。ドアのわきにいたケイのとなりに、めぐみは立ち、園長さんとユキくんにむかって深く頭を下げる。つられてケイも頭を下げる。園長さんとユキくんは笑顔でちいさく手をふる。めぐみも手をふって、ケイにうなずき、ふたりで部屋をでていく。


       ☆


 青い車は、めぐみの友だちが待っている丸子橋にむかう。


       ☆


 丸子橋の河川敷は人であふれている。薄闇にうごめく黒々とした人の群れのなかに、仮設ステージだけが明るく、ぽっかりと光る島のように浮かんでいる。黒い人波には、ところどころ、ちいさなサイリュウムの光がゆれている。


 土手の上の道にはパトカーが二台とまっていて、赤い回転灯を音もなくまわしている。パトカーのまえには数人の警官がいる。パトカーの無線で本部と連絡をとりあっている警官や、拡声器をもって睨みつけている警官。彼らと対峙するように大滝さんとその仲間が立ちはだかっている。


 警官のなかでリーダー格らしい年配の警官に、大滝建設のトシさんがファイルを見せながら説明している。ファイルには、中森あいが亡くなった当時の新聞や雑誌の記事がスクラップされている。トシさんはほんとうに申し訳なさそうに話している。


 きょうはわれわれのアイドルだった中森あいが不慮の出来事で亡くなった日であり、その追悼のために急きょファンが自主的に集まったもので、お騒がせすることになってしまった。わたくしたちとしても、静かにみんなで追悼できればと思っていたのだけれど、思いがけず、たくさんの人が集まってしまい、困惑している。ただ、騒がしくならないよう、ご迷惑をおかけしないように、注意深くやっているので、いましばらくご容赦いただけないだろうか──トシさんは慈悲を乞うように平身低頭お願いしつづける。


 年配の警官はしかめっ面をしながらも、若くして亡くなった女の子の追悼という趣旨には同情的な雰囲気がある。しかし、河川敷で交通の妨げになっていないとはいえ、無届けでこの規模というのはちょっと目に余る。しかもステージが用意されていて、女の子が歌ったり踊ったりしているのは、いかがなものか。


 土手下のステージからは、女の子の生の歌声だけが聞こえる。音楽や声援はない。ただ、ときどき拍手や、人びとのざわめきなどが抑えようもなく流れてくる。


 拡声器をもっている警官がしびれを切らしたように言う。

「おい、騒がしくしないって言いながら、女性が歌ってるじゃないか、どういうことだ」


 大滝さんが太い声で胸を張って言う。

「あれは、わたしたちのお祈りです。お経みたいなものです」


       ☆


 ケイの運転する青い車は、首都高速を南下する。助手席のめぐみは黙ったままだ。なにか考え事をしているという感じではない。頬が赤い。おそらく熱でだるいのだろう。しばらく目をとじて、シートに頭をもたれかけている。


「シート倒してもいいよ」ケイが言う。

 え? とめぐみが問いかえす。

 起こして悪かったかも、と思いながらケイは言う。

「シート、倒したほうが楽じゃない?」

「ううん、だいじょうぶ」

「寒くない?」

「うん、だいじょうぶ」

「ムリしないで、寝てていいよ」

「ありがとう」


 青い車が首都高速を降りたところで、ケイのスマートフォンが鳴った。

 相手はリュウジだった。ケイはハンズフリーで通話する。


「いまどこ?」リュウジが言った。切迫した感じがある。

「首都高を降りたところ」

「あと、どのくらい?」

「20分あれば」

「うわー、微妙、なるべく急いで」

「どうしたの? やばそう?」

「もう警察はきてて、大滝さんたちが食い止めてくれてるんだけど、いつ拡声器で怒鳴られてもおかしくない状況なんだ。お客さんからも、めぐみコールが起きたりして、なんとか静めてるんだけど、とにかく急いで」

「わかった」

「ああ、安全にね。20分なら、なんとかふんばるから」

「うん、安全に急ぐよ」

「よろしく」

 通話が切れると、めぐみが言った。

「めぐみコール?」

「お客さんも、きみのこと待ってるんだ」

「そう……」

「もうすこしだから」

 ケイは気持ちアクセルを踏みこんだ。


       ☆


 丸子橋の土手の上では警察官と大滝さんたちが対峙している。河川敷のステージにはだれも立っていない。休憩しているようだ。


 リーダー格の年配の警官が言う。

「そろそろ自主的に解散してくれないかな。強制されたら、あなたたちも不愉快だろう。お互い気持ちよく終わらせるなら、そろそろ潮時だよ」

 大滝さんは言う。

「あともう少しだけ、30分でいいんです。待っていただけませんか」

「われわれはもう、ずいぶん配慮したと思うんだけどね」

「もうひとり、ここで亡くなった女性の妹さんが、こちらにむかってるんです。なんとか彼女の顔だけでも見て、一曲、いえ、ひと言でも声が聞ければ、それでみんな満足します」

 拡声器をもった警官が言う。

「それは、あんたたちの都合だろう。勝手に集会ひらいといて、厚かましいんだよ」

「たしかに、身勝手なお願いかもしれません、しかし──」


 下の河川敷から、観客の声が聞こえてくる。めぐみ、めぐみ、というコールとともに手拍子がはじまる。

 年配の警官が眉をひそめる。


 土手の上のトシさんが、下のリュウジに電話している。

「やばいよ、いま、声ださせちゃ、はやく静めてよ」


 ステージわきのリュウジがスマートフォンにこたえる。

「わかってます。ちょっと待ってください。やります、やりますから──」


 電話で話しているリュウジのわきでは、音響スタッフと一緒に、あすか、れいか、ゆいが水を飲みながら打ち合わせをしている。れいかが言う。

「どうする? ステージにでて、静かにしてくれるようにお願いしましょうか」

「いや、もう曲やっちゃったほうがいいんじゃない? まだ曲あるでしょ」

 あすかが音響さんに尋ねる。彼はOKサインを出す。

「でも、めぐみとやる曲を残しておかないといけないでしょ」

「そうも言ってられないよ。このさい、リピートでもいいじゃん」

 ゆいはふたりの話しを聞きながらなにか考えている。


 めぐみの登場を要求する手拍子と「めぐみ」コールがどんどん大きくなる。

「まずいなあ、これ」あすかが土手の上を見上げる。


 パトカーの赤い回転灯だけが見える。


 しばらく考えていたゆいが、なにも言わず、ステージのほうに歩いていく。

 あすかが、あれ? という顔で見送る。

「ゆい?」れいかも見送る。


 河川敷の暗闇のなかで、ぽっかりと浮びあがるステージの光の中央に、ゆいがひとりで歩みでる。ゆいはマイクを足もとにおいて、まっすぐに立ち、目をとじる。お腹のまえで手を結び、しばらく身動きもしないで立ちつづける。そんなゆいの姿を見て、なにごとがはじまるのかと、観客たちの「めぐみ」コールがだんだん収まっていく。


 やがてゆいは、息を大きく吸って、歌いはじめる。おだやかに、ゆったりと、いままでにない清らかで透明な声だ。異国のことば、心を静めるメロディ、だれもがどこかで聴いたことのある、郷愁と祈りの歌。アメイジング・グレイス。


 人びとが沈黙し、ゆいの歌に耳をかたむける。


 土手の上にも、ゆいの美しい歌声がとどき、警官たちまでがステージの光に注目して、黙って聴いている。


 あすかはじぶんのスマートフォンをとりだし、中森あいの写真をひらく。彼女はステージの横の暗がりに進みでて、そのスマートフォンを頭上に高くかかげる。それを見たれいかもスマートフォンの中森あいの写真をひらき、あすかの隣にならんで高くかかげてゆらす。


 あすかやれいかの姿に気づいた人びとが、つぎつぎにじぶんのスマートフォンで中森あいの写真をひらき、頭上にかかげてゆらしはじめる。河川敷の暗闇のなかに、ちいさな青白い光が、いくつもいくつも灯りはじめ、やがて全体にひろがっていく。


        ☆


 丸子橋のてまえで、ケイの運転する青い車は渋滞に捕まっていた。なんでこんなところで渋滞するのだろう、丸子橋はすぐそこなのに、もしかしたら、河川敷での集会に気づいて、橋の上で速度をおとす車があるのかもしれない。完全にとまっているわけでないが、のろのろ運転がつづいている。


 この調子なら、車から降りて走ったほうが早いかもしれない。でも、めぐみは助手席で目をとじて、ときどき熱に浮かされたように吐息をつく。ムリはさせたくない。


 それでも車の連なりの先に、丸子橋のアーチが見えてきた。てまえの交差点の信号は赤だ。


「あれ、丸子橋?」めぐみが目を覚ます。

「はい」ケイがこたえる。

「車、混んでる?」

「ええ、あとちょっとなんですけど」

「わたし、先に行ってる」


 めぐみはシートベルトをはずし、ドアをあけて車から降りる。

「気をつけて!」ケイが声をかける。


 めぐみは丸子橋にむかって走る。息が熱い。頭がぼんやりする。地に足がつかず、身体が浮いているようだ。それでも、まとわりつく冷たい空気のなかを、泳ぐように橋へむかう。天に架かるアーチのむこうに、黒くそびえる塔がなんぼんも立っている。いちばん高い塔は細く青白い冠をつけている。まるで天使の輪のようだ。どこからか不思議な歌声が聞こえてくる。異国のことば、なつかしいメロディ。意識が遠くなり、視界がぼやけ、光がにじむ。美しい歌声に誘われるように、欄干から世界を見下ろすと、暗闇のなかに、ちいさなちいさな幾千もの光がゆれている。どこかで見た景色、まるで千の蛍が飛び交っているようだ。どこからか風の鳴る音が聞こえる。風を生みながら、鉄の車輪がレールを踏みしめる音が、遠くから、だんだん近づいてくる。顔を上げると、銀河の星々のなかを、一列になった光の連なりが走っていく。その夜空にむかう列車の窓の光のなかに人影が映っている。それはきっとあの人だ。めぐみは思わず手をのばす。あの列車に乗りたい。あの人にもう一度会いたい。


 その光にふれようと、めぐみはおもいきり手をのばし、欄干から大きく身をのりだした、そのとき──


 あぶない! と声がひびいて、めぐみの身体をうしろから抱きとめる人がいた。


 ケイだ。


 ふたりはバランスを崩して、橋の歩道に転がりこむ。


 めぐみはじぶんの下にいるケイに気づいて、ごめんなさい、と立ちあがり、ケイの手をとって、彼を立ちあがらせる。


「どうしたんですか?」ケイが訊く。


 わたし……、めぐみにもなにが起こったのかよくわからなくて、ふりかえって見る。


 丸子橋から下流の数百メートル離れたところにJR横須賀線の鉄橋がある。また、そこを列車が窓の光を一列に並べて走っていく。


「ああ、そうか……」めぐみはそうつぶやいて、涙を浮かべる。でも、けして悲しそうではない。めぐみはケイを見て言う。


「わたし、わかった、わかったの……。お姉ちゃんは、絶望してたわけじゃない。この世界が嫌になって、身を投げたわけじゃない。ただね、ちょっと、おっちょこちょいだったのよ。すこし、気分が良くなって、あこがれている幻を見て、手がとどくと思ったのよ。ほんとに、おっちょこちょい。おっちょこちょいなんだから……」


 めぐみは泣いていた、でも笑っていた。なにかつきものが落ちたような、さっぱりとした笑顔だった。


 ミーちゃーん、おーい、ミーちゃーん、と橋の下から声が聞こえた。幾千ものちいさな光にかこまれたステージの明かりのなかで、ゆいが大きく手をふっている。飛び跳ねながら手をふり、めぐみのことを呼んでいる。その両脇で、あすかとれいかも手をふっている。みんなが待っている。


「もう、だいじょうぶ?」ケイが訊いた。

「だいじょうぶ」めぐみは言った。

「みんな待ってくれてる」ケイは言った。「歌ってよ、ミーちゃん」


 うん、とうなずき、めぐみは涙を拭って、振り返った。そして欄干から光にあふれたステージを指さして、大きな声で言った。


「待ってろよ! いま行くからなーっ!」



    ─── ☆ おわり ☆

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星屑たちのステージ クニノブミキ @kuninobumiki

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