第二章 ハルニレ(Keyco)


 車の窓をコンコンとたたく音がして、ケイは目を覚ました。


 あたりはすっかり明るい。まぶしさに目を細めながら、たおしたドライバーズシートから窓を見上げる。そこに、女の子の笑顔があった。


 あれ? 伊藤ゆい? なんで? ストとれを辞めたはずなのに……


 と感じたところで、ケイは飛び起きた。

 

 ゆいの笑顔がすぐ近くにある。

「おはよう。お腹減ってるでしょ。ミーがごはん作ってくれてるから、いっしょに食べよう」


 いまのケイにとっては現実のほうが夢のようだ。ただ、この夢はひとつまちがうと、いつだって悪夢に転じる。


 いや、夢じゃないんだよ、ケイ。ちゃんと困難な現実に向かい合え。


「あ、ケイくん、歯ブラシもってる?」

「え、あ、はい」

「そう、よかった。ミーにケイくん歯ブラシもってるかなって話したら、旅行の用意してきてたみたいだよって言ってたから。あ、ごはん食べるまえに、シャワー浴びたほうがいいでしょ──」


 ケイは、ゆいの部屋に上がることを躊躇したが、作ってくれた食事を車までもってこさせるなんてありえない。部屋のまえまで行って、食事をもらって降りるなんて、行動が不審すぎる。


 それにやはり推しのまえでは清潔でいるべきだ。


 ケイは戸惑いながらも、ゆいにうながされるままに、部屋に入り、シャワーを借りて、顔を洗った。


 ゆいからわたされたバスタオルで頭をふきながら、リビングに入ると、小さなちゃぶ台をまえに、ゆいとめぐみが座っていた。


「おはよう。眠れました?」めぐみが訊いた。

「ええ、だいじょうぶです」

「どうぞ、座って。これミーちゃんが作ってくれたのー」ゆいがうながす。


 ケイは床に腰をおろし、ちゃぶ台の上を見た。そこには、スパゲッティーが三皿と、まんなかに大盛りのサラダがどんと置かれていた。


「じゃ、いただきましょ」ゆいは胸のまえで手をあわせた。

 めぐみも手をあわせたので、ケイも見習って手をあわせた。

「いただきまーす」

 ゆいが言って、それにあわせて、めぐみとケイも、いただきます、と言った。


 スパゲッティーは普通のミートソースで、たぶん缶詰のソースにベーコンとタマネギを追加している。味はいたって普通。量はけっこう多かった。サラダもレタスとタマネギ、キュウリをきざんで、市販の青じそドレッシングをかけてある。いちおう小皿が人数分あって、菜箸でとりわけて食べた。


 正直に言おう。ケイはちょっとだけ落胆した。あこがれの女の子の部屋で、元歌姫が作ってくれた手料理。なのに、素っ気ないといえば、あまりに素っ気ない。おおざっぱな感じすらうける。


 だけどさ、違うんだよ、ケイ。可愛い女の子の手料理と聞いて思い浮かぶ、華やかさとか、ファンシーな感じとか、あるいは、とても丁寧につくられた和風のごはんとお味噌汁とか、そんなのはさ、ただのイメージなんだ。かってに幻想を作り上げて、かってに落胆するのは、僕らの悪いくせだよ。ほら、ゆいがあんなにおいしそうにスパゲッティーを食べてるじゃないか、あの鉄面皮って揶揄されためぐみが、こんなに温かいものを作ってくれたんじゃないか。それだけでじゅうぶんだ。この温かくて思いやりのある普通の食卓こそ。僕らは大切にしなければいけないのだ。


「ケイさん。たりる?」めぐみが言った。

「え? なんですか?」思いをめぐらせていて、不意をつかれた。

「スパゲッティーの量。すこし多めにしたんだけれど」

「はい。じゅうぶんです。すごくすごく、おいしいです。ありがとう」


 ケイの言い方に感情がこもりすぎていて、めぐみはちょっと不思議そうな顔をした。


「さっきリュウジから連絡がきて、こっちに来るって」ゆいが言った。


 ケイの表情がひきしまる。

「メールですか? 電話ですか?」


「電話だった。あの子もテキストのメール打つときは、ログが残ると思って気をつけろって言ってた」


 さすがに世慣れているとケイは思う。


「ログってなんだっけ?」ゆいが訊いた。

「インターネットの通信記録?」めぐみがケイを見た。

「そうですね。メールの本文も、こっちの手元で消しても、しばらくサーバーに残っている可能性があるので、気をつけたほうがいいです」

「うーん、やっかいねえ」

 ゆいがレタスをもぐもぐと食べながら言った。


 食事を終えると、ケイが、ごちそうになったので食器は僕が洗います、とかたづけにかかったが、ゆいは、しばらくお水につけておいたほうが洗いやすいから、と流しに食器をため、コンロでお湯を沸かして、紅茶を入れてくれた。


 そこにリュウジが到着した。


 彼は黒いダウンジャケットにブルージーンズ、大きなリュックサックを背負っていた。リュックをおろすと、ちょっと水もらっていい? とかってに冷蔵庫をあけた。


「紅茶入れるよ」

 と、ゆいが言うと

「いらない、水でいい」

 と2リットルのペットボトルをとりだし、コップについで、ごくごくと飲んだ。

「走ってきたの?」

「チャリンコ」


 ひと息つくと、リュウジはケイを見た。

「ちょっとあんた、立ってみて」


 ケイが立ちあがると、リュウジは横にならんだ。


「どう?」

「なにが?」とゆい。

「背格好」


 ケイも黒いダウンジャケットにブルージーンズで、身長もそれほど変わらない。リュウジのほうがすこし高いだろうか。体型は、リュウジはやせ形で、ケイはどちらかというとがっしりとしている。ただ、ダウンジャケットを着てしまえば外からはわからない。


 ふたりの印象がまったく違うのは、ケイは丸顔でどこか人の良さを感じさせるが、リュウジは面長で鋭く神経質な印象があるからだろう。


「顔がぜんぜん違うけど、遠くから見たら似てるかも」ゆいが言った。


 めぐみは腕ぐみをしてじっと見ている。


 うん、とリュウジがうなずいて、大きなリュックサックのなかから、服をだし、「これ着てみて」とケイにわたした。


 ケイはキッチンにいって、ドアカーテンをしめ、服をきがえる。


 そのあいだにリュウジはリュックサックからクリアファイルをとりだし、数枚の紙をちゃぶ台の上に置いた。


「まず早急にやることは、情報収集とアポとりなんだ。ミーちゃん、ざっとしたスケジュールと必要事項を紙にしたから見てみて」


 めぐみは受けとった紙を真剣に見る。


「うちのは?」ゆいが両手をさしだす。


「ねえちゃんは言う通りに動いてくれればいいよ。へたに紙とかわたして落とされでもしたら、胃に悪い」


「なによそれ」ゆいはちょっとむくれる。


 キッチンのドアカーテンがひらき、ケイが顔をだす。からだにぴったりとした素材の半袖のジャージとハーフパンツ。黒をベースに赤と白のストライプが何本も斜めに走っているデザインだ。派手でスピード感がある。たしか自転車レーサーがこんな格好をしていた。


「あ、カッコイイ」

 と、ゆいは言ってくれたが、着なれていないことと、この部屋には不似合いで、かなり滑稽に見える。


「着れたね。夏物でもうしわけないけど、まあ、冬でもそういう格好の人いるから」


 リュウジはリュックからラグビーボール型のヘルメットとサングラス、ライダーグローブをとりだして言う。


「あんたにわたしとくから、ちゃんと管理しといて、ゴミ袋でもなんでもいいから目立たないようにして、車に入れとくといい。あ、メットはじぶんで調整しといて」

「わかりました」


 ケイはうけとったヘルメットをかぶってみる。


「受け子は『自転車便』て設定でいくから」


 ケイはもういちどキッチンにひっこんで、もとの服に着がえた。


 リュウジが言う。

「れいかさんからいろいろ情報とりたいんだけど、どうしよう、いちおう紙にはしてきたからミーちゃんに聞いてきてもらうって手もあるんだけど。でも、たぶんそれじゃ、一回ですまないんだよな」

「また聞きたいことが出てくるってこと?」

「うん、ディテールが大事だからさ」

「電話してみる?」

「いちおう目立たない格好で、川沿い走ってきたし、ここ古いから監視カメラもないし、どうかな。ねえちゃんの携帯を借りればだいじょうぶな気もするけど」


 ケイがもどってきてちゃぶ台のまえにすわる。


「ケイさん、どう思う」めぐみが訊いた。


「ゆいさんの携帯ならいいんじゃないですか。いちおうリュウジさんはここに顔だして、すぐに帰ったって考え方で」


 ゆいが、れいかに電話をかけた。彼女はいま事務所にひとりでいるという。めぐみが変わって、昨夜リュウジと話したことを簡単に説明し、彼に電話をわたした。


 リュウジはじぶんのつくった紙を見ながら、家の住所にはじまり、ひろし社長とターゲットである祖母の関係、お互いの呼びかた、連絡の頻度、祖母が家にいる時間、なにかあった時の連絡先、ひろし社長の普段のスケジュール、趣味、くせ、博打をやるかどうか、仕事をしているとき、とくに面会や会議中に家族からの電話をとるかどうか……


 ──等々、原武会長のようすなども含めて、かなり細かく確認をした。れいかにはわからないこともあったけれど、ひろし社長が以前、マカオのカジノで大損をして家族内でも問題になったことや、彼が会議中や面会時にはいっさい電話に出ないことがわかったのは収穫だった。


 おれおれ詐欺のシナリオにはいくつかのパターンがある。


 息子や孫が、交通事故をおこしてしまったとして示談金をもちかけるパターン。痴漢をしてしまい、あるいは疑われてしまい、逮捕や裁判を免れるために示談金をもちかけるパターン。会社の金を使い込んだことがバレてしまい、表沙汰にならないように返済金をもとめるパターン。そして、闇金への借金や、裏カジノでの損失を強制的にもとめられ泣きつくパターン。


「この手の騙しのシナリオはかなり古いんだけど、相手の状況によってはまだ使えるかもしれない。じっさいは判断力の落ちてるターゲットや、詐欺じゃないかと思いながらも、住所や連絡先がバレていることにビビって金を出すってターゲットを見つけるのが肝なんだ。だから、その手の名簿はとても高く売れる。いちど詐欺に引っかかったターゲットは、おいしい客と思われて、二度三度と、詐欺に引っかかる」


「ひどい」ゆいが言った。


「ねえちゃん、いま、ひどいって言った?」


 ゆいは、いまからじぶんたちのやろうとしていることなんだと、あらためて気づく。


「おれも、ひどいと思うよ」リュウジのことばには感情がない。


 めぐみはじっと考えている。


「おれの知っている人はこんなふうに言ったよ。──振り込め詐欺は、金持ちの高齢者から、もたざる若者への、非正規、極私的、超強制的な再配分だって……。そんなふうに感じたこともあったけど、でも、じっさいは弱者をねらった犯罪ビジネスだよ」

 リュウジはめぐみを見る。

「それでも、やるんだね」


 めぐみはうなずく。

「わたしたちが儲かるわけじゃない。ただ、穴に落ちるのを、まぬがれたいだけ」


「よし、わかった。右のものを左にもってくだけだ。おれたちはただの運び屋だ。ばあちゃんを脅かすのは気が引けるが、お化け屋敷みたいなもんだってことで。気楽に、慎重にやろう」


 リュウジはこれまで集めた情報を見ながら、


「ただ、一千万はそうとうな高額だからね。よく使う事故や痴漢のパターンだと、まあ、とれて数百万だって気がする。だから、会社の使い込みか、博打の借金か──、やっぱ、裏カジノのパターンだな」


 この場合に大切なのは、暴力の影をちらつかせて、孫の生命の危機を感じさせ、ターゲットが緊張し、あせり、混乱したところで、たたみかけて、正常な判断ができないまま、すばやく行動を起こさせるのが成功の秘訣だという。


「れいかさんが、原武会長のほうから、むかしの六本木の裏カジノの話しとか聞いたって言ってたから、ばあさんの記憶にも残ってるだろうし、孫のマカオでの失敗もあわせれば、効果抜群だろう。あとは──」


 ターゲットを孤立させる必要がある。あるいは孤立しているときをねらう。


 家は世田谷の成城にあり、夫である原武会長と二人で暮らしている。日中は一人で、お手伝いさんなどもいない。その代わり週に一回ハウスクリーニングの業者がくる。ときどき近所の友人と駅前でお茶をするくらいで、ほとんど出かけることもなく、家で手のこんだ料理をつくったり、刺繍などの手仕事をするのが趣味のようだ。


 むかしは原武会長が家に連れてくる客をもてなし、家計をしっかりと治めることが自らの仕事だと考えていたようだが、ひとり娘はじぶんの意に反するつまらない男と結婚し、夫があまり家に帰らないようになり、まして客を連れてくることがなくなったいまでは、なにかあると、じぶんによく懐いてくれた、やさしい孫のひろしに連絡するようになっていた。


 そして、祖母はじぶんのことを孫に「ハル子さん」とよばせている。おばあさん扱いされて、老いを意識するのが嫌だったのだろう。これは家族間でしか通じない暗号のようなもので、助けをもとめる電話の信憑性を増す圧倒的な力になる。


「まずは、安全のためにひろし社長とターゲットの連絡を断ちたい。それが無理なら、ひろし社長に連絡が入ったときに、すぐにこちらにわかるようにしたい。そうすれば間違いなく中止の判断ができる」


「わたしがもういちど、ひろしさんに会おうか?」めぐみが言った。「違約金の値下げ交渉か、なにかのお願いなら」


「それも考えたんだけど、ミーちゃんには他の役割をお願いしたいんだよな」

「うちが行けばいいじゃん」ゆいが言った。

「ひとりじゃムリ!」リュウジはゆいにきびしい。


 考えていためぐみが言う。

「スーちゃんにお願いしよう」


「あすかさん、やってくれるかな?」


「やってくれるよ」ゆいのことばには、あすかへの無邪気な信頼がこもっている。


 めぐみはリュウジに確かめる。

「ひろし社長の年内のスケジュールの確認と、できれば面会しての、違約金の値下げ交渉とか?」


「うん、スケジュールで会議のタイミングをはかるより、ちょくせつ会えた方がいい」とリュウジ。


 めぐみが言う。

「会議のスケジュールがわかったとしても、それがほんとうに行われているかどうか、こちらでは確認できないから、スーちゃんがうまいタイミングでひろし社長とアポをとって、目のまえで交渉してるときに、こっちでターゲットに連絡する方がいい。仮に、ひろし社長におばあさんから電話がいっても、電話をとらないし、とったとしても、すぐに中止が判断できる」


「そういうこと」リュウジが言った。


「なるほど」ゆいは感心した顔をする。理解しているかはわからない。


「おなじタイミングで、ひろし社長の携帯に仲間のだれかから連絡して、携帯を話し中にしちゃうって手もあるけど、そっちのほうがわざとらしいし、長電話ってなかなかむずかしそうだから、アポとって交渉に出向くのがベストかな」

 そこでリュウジは気がかりを感じて、ゆいを見る。

「ねえ、おれが振り込め詐欺で捕まったって話し、ひろし社長は知らないよねえ」


「うん、そんな話しひとこともしてないし、弟がいるのも知らないんじゃないかな」


「そっか、じゃあいいや」リュウジは言う。「仲の悪い娘はまあ、ないものと考えて、原武会長に連絡するかどうか、微妙なところだけど、そっちは、対処できるとしたら、れいかさんしかいない。まず、急ぐのは、ひろし社長のスケジュール確認とアポとりだ」


 めぐみは田中あすかに電話をした。昨夜からの流れをざっと説明し、ひろし社長との面会のアポとりと、それにともなう彼の年末までのスケジュール確認への協力をお願いした。


 田中あすかは言った。

「違約金の値下げは、わたしも交渉のよちがあると思ってた。だからそれはやる。スケジュールも確認する。あとは勝手にやりなさい。面会には、ゆいも一緒にくるんでしょ。あの子にちゃんと仕込んどきなよ。わたしは知らないからね」


 いまからすぐ、ひろし社長に連絡をしてくれるという。彼のアポがとれたら、めぐみとゆいに連絡をもらうことにした。リュウジにはゆいから連絡を入れる。


 じゃ、ちょっと調べたいことがあるから、とリュウジは立ち上がり、部屋をでようとした。


 リュウ、とゆいが呼びとめて、

「あんたバイトは?」と訊いた。

「年内は休みとったよ」

「そう、ごめん」

「気にすんな。嫌なヤツがいてさ、ちょうどよかったよ」


 じゃ、なんかわかったら、すぐに連絡して、と言ってリュウジはでていった。


 時計を見ると午後の三時まえだった。


 めぐみは秋葉原に行って、『ストとれ5』の練習を見ようと思うけど、ゆいもいっしょにこない? と誘った。


 ゆいは、ちょっと考えて、やめとく、と言った。

「部屋でスーちゃんの連絡を待つよ。連絡があったら、相談して、スーちゃんに会いにいくかもしれない」


「そう、わたしもスーちゃんとは会いたいな。ねえ、できればまた夜に、レイちゃんのところに集まらない? ひろし社長のアポがとれたら、たぶんそれが実行の日になるだろうから、また打ち合わせしたほうがいい」


 ゆいはうなずいて、「スーちゃんにお願いしてみる」と言った。


 ケイはめぐみといっしょに秋葉原にむかうことにした。情報はめぐみのところに集まるので、彼女のそばにいると都合がいい。


 ふと、はたから見ると、めぐみとじぶんはどういう関係に見えるのだろうと思った。まあ、あとからだれかに訊かれることがあれば、暇だったからめぐみさんの運転手をかってでたのだと言えば、なんとなく収まるような気もした。


 ゆいのワンルームマンションをでて、青い車に乗り、秋葉原にむかう。新丸子から多摩川をわたるときに通るのが丸子橋だ。


 めぐみの姉、中森あいが喪われた橋。


 ケイは橋のアーチが見えてきたときに、そのことを思いだし、一瞬、躊躇した。変に意識するよりも知らないフリをしたほうがいいだろうか……。


 ケイは、そのまま車をすすめた。橋をわたりながら、助手席のめぐみに目をやると、彼女はまっすぐにまえだけを見ていた。ひざのうえでギュッとこぶしを握って、どこか全身が緊張しているようにも感じた。


 橋をわたってから、ケイは、めぐみに声をかけようかどうしようか迷った。


 また、ゆいの住まいへの行き来があるなら、丸子橋をわたる可能性は高い。もし、この橋を使うのが辛いのなら、いまのうちに確認しておいたほうがいいかもしれない。


 そんなことを考えていると、めぐみが気配をさっしたのか、彼女から口をひらいた。


「わたしも、ゆいも、ずっと武蔵小杉に住んでいたの。子供のころは、高層マンションなんかぜんぜんなくて、工場と小さな商店の集まった街だった」


 武蔵小杉は新丸子からひとつ横浜よりの駅で、駅のあいだはとても近く歩いて五分もかからない。


「わたしとお姉ちゃんは、おばあちゃんに育ててもらったの。おばあちゃんは武蔵小杉で看護師さんをしていて、カトリック関係の病院だったから、よく教会にも通ってた。その教会に合唱団があってね。そこに、ゆいがいた。ちっさい時から、お姉ちゃんと、わたしと、ゆいと三人で、大人の人たちにまじって、合唱をしていた。みんな歌うことが好きだったから」


 そう言ってから、めぐみはしばらく黙った。

 ケイは軽い世間話になればいいかなと思い、訊いてみた。


「川口には、いつ引っ越したんですか」

「お姉ちゃんが亡くなったあと……」


 ケイは、しまった、と思った。


「おばあちゃんの調子がどんどん悪くなって、認知症。わたしとお姉ちゃんの区別もつかないくらいで、ほんとに困り果ててるときに、ゆいが、あっちこっち、教会のひととかにも相談してくれたみたいで、小泉さんを紹介してくれたの。あの、ソフィア園の園長さん。小泉さんがいろいろ手を尽くしてくれて、公的な扶助をうけるためにも、住民票を川口に移したほうがいいからって、おばあちゃんと一緒に、わたしもむこうに引っ越したの。それが二年くらいまえ」


 めぐみはしばらく、流れる車窓の景色を見ていた。


「わたし、じぶんが困ってることを人に相談するとか、あんまり考えたことがなかったから……。だから、ゆいには、すごく感謝してる」



 秋葉原の街はずれの雑居ビルの一室で『ストロベリーとれいん5』の女の子たちが練習をしていた。


 室内は広めの会議室を、デスクやイスをかたづけて使用している感じで、ダンス用のスタジオのような鏡もなく、防音もしっかりはしていない。だから、彼女たちはダンスを確認するために、使い古したiPadで撮影をし、音楽もパソコンからネットに配信したものを、メンバーそれぞれがじぶんのスマートフォンで受信してイヤホンで聴きながら踊っている。


 たしかにこれなら、パソコンとスマートフォンのあいだに時差はできるが、おなじWi-Fiを使えばスマートフォン同士のあいだのズレはほとんどない。音も外に漏れない。もっと簡単なやり方があるような気もするが、彼女たちがじぶんたちなりに、あるもので工夫してたどりついたやり方なのだろう。


 彼女たち五人はまだ高校生で、たしか来年の春に高校を卒業するメンバーが三人いて、その動向がストとれヲタのあいだでは注目されていた。


 彼女たちはまだどうするか決めていないという。みんな進学するようだから、続けようと思えば続けられなくはない。ただ、生活が変わる節目にはそれなりに決断も迫られる。


 それにしても四年間、よくがんばってきた。ゆいとめぐみのふたりを中心として、いまの五人が合流し、『ストロベリーとれいん7』を結成して以来、ふたりの卒業はあっても、この五人はひとりも欠けることなく、ずっとここまでやってきたのだ。インディーズのアイドルとしては立派なものだと思う。


 ここがストとれ5の正念場なんだよ。なんとかここでふんばらないと、あの子たちの未来はひらけないんだ!──そう泣きそうな顔で言ったジェイのことを思いだした。


 ジェイ、彼女たちみんなの未来がひらけるように、おれも力をつくすよ。


 シンプルなTシャツやジャージで踊るストとれ5のメンバーを、めぐみは腕ぐみをしてじっと見ていた。ときどき、動いているメンバーと視線を交わし、無言のまま手やしぐさで指示をして、振りつけやフォーメーションを修正していく。


 ケイはめぐみのうしろで、彼女のiPodで撮影をしている。めぐみの助手というふりでもしていないと、この空間では居心地が悪いだろうという、彼女の配慮だ。


 ケイは、あす以降の作戦のことも考えて、あまりじぶんの姿を人前にさらさないほうがいいのでは、と言ったが、めぐみは、ひろし社長のところに一緒に乗りこんだ以上、むしろいまはふたりでいるほうが自然に見えるのではないかと考えていた。


 部屋のドアが開いて、だれかが入ってきた。ストとれ5のメンバーが動きをとめて、おはようございます、と挨拶をした。


 ケイがふりかえると、入ってきたのは眼鏡をかけた中年の男性だった。白い開襟シャツに紺色のブレザー、カーキ色のチノパン。首から黒いマフラーをたらしている。『Myステージ』劇場の支配人、佐藤五郎だ。彼はストとれヲタのあいだでは「運営のゴロー」とよばれていた。


 五郎はケイと目が合うと、怪訝そうな顔をした。


「おつかれさまです」めぐみが言った。「友だちのケイくんです。ちょっと手伝ってもらってます」


「松田ケイです。こんにちわ」じぶんの名をどう言ったものか、一瞬考えて、ぎこちない挨拶になった。


 佐藤はちょっと意外そうな顔をしてから、

「こんにちわ。佐藤五郎です」と丁寧に言った。そして、「中森、ちょっといいかな」と部屋のすみによび、紙を一枚わたして、なにか相談をしていた。どこかへの申請書類の確認か、スケジュールの調整のような気配だった。


 そのあいだ、ストとれ5のメンバーはフォーメーションや振りつけについて、意見交換をしていた。


 ケイは部屋のすみで手持ちぶさただった。


 そこへ佐藤五郎がきて、小声で言った。

「差し入れをもってこようと思って、忘れちゃったんだ。これで、飲みものと甘いものを買ってきてもらってもいいかな。水は彼女たち、もってるから、あったかいミルクティとコンビニのシュークリームみたいなものがいい」


 彼は財布から千円札を三枚だした。

 ケイがめぐみを見ると、彼女はうなずいた。

 わかりました、と言ってケイは部屋をでようとした。


「あ、きみのぶんも、いっしょにね」

 佐藤五郎が言った。


 ケイがコンビニから飲みものと甘いものを買ってもどると、五郎が雑居ビルの玄関ロビーで待っていた。


「いま彼女たちだけで打ち合わせしてるから、ここで待っててもらってもいいかな」


 彼はロビーのすみにあるベンチにケイをうながして、ふたりでならんで座った。


 ケイはコンビニの袋とおつりを五郎にわたした。

 五郎は、ありがとう、と言って、中身を確認した。


「僕のぶんまであるんだね。さすが」

 五郎はコンビニの袋からミルクティを一本とりだしてケイにわたし、じぶんも一本とってキャップをあけ、飲んだ。


 ケイも、いただきます、と言って、ひとくち飲んだ。


 五郎はとくに探る感じでもなく、率直に訊いた。

「中森とは、ずっと知り合いなの?」

「えっと、いえ、先日、たまたま……」

 ケイはどうも説明のしようがなくて、ことばを濁した。

「ふうん」と関心があるのかないのかよくわからない顔をして五郎は訊いた。「彼女、ここんとこ元気がないように見えるんだけど、きみから見てどう思う?」


 ここのところ、ということは、おそらく、ゆいの問題をかかえるまえからの話しだろう。それ以前のことについてはケイにわかるはずもない。3月の卒業を最後に、きのうまで、めぐみの顔を見ることなんてできなかったのだから。


 ケイが考えるふりをしながら、なにも言えないでいると、五郎はつづけた。

「もうすぐ、あの日が近づいてるでしょ」

 五郎は、わかるよね? という感じでケイを見た。めぐみの姉、中森あいの命日のことだ。彼女は年末も押し迫った12月30日に亡くなっている。ケイはうなずいた。


「去年までは、年越しイベントの稽古やらリハーサルやらで、けっこう忙しくしてたんだ。わざと、そうしてたところもある。僕らもね、どうしていいか、わからないから、みんな、そこにはふれないように、とにかく忙しくして、その日をやりすごしてた。でも、今年はね──」

 五郎は、大きく息を吸い、長く時間をかけて息をはいた。

「中森には、ストとれの面倒をみてくれるように頼んでるし、事務仕事も手伝ってはもらっているんだけれど、じっさいに彼女が身体を動かすわけじゃないし、歌うわけでもない。客観的になって、時間があるぶん、もしかしたら、よけいなことを考えたりして、こころの負担がふえてないといいんだけれど」


 よけいなことってなんだろう。


 四年まえの出来事が、なぜ起こってしまったのか、不幸な出来事にいたるまえに、じぶんがなにかに気づいたり、あのとき、べつの行動をとっていれば、それは防げたのではないか、といった答えのない堂々めぐりだろうか。


 そう、そこに答えはない。世界はすでにそのように絶望のなかに沈んでしまった。


 そうだ、もうひとつ終わろうとしている世界があった。ケイは五郎に言った。


「めぐみさんのおばあさんの体調が良くなくて。お医者さんにも、きびしいって言われたそうです」


「ああ、そうか」五郎はすこし納得したようだった。「そうだな、それは辛いな。あの子がストとれでふんばったのは、ゆいとおばあちゃんがいたからだもんな」


 中森あいが亡くなったとき、すでに『ストロベリーとれいん』からは卒業していたが、そのショックは田中あすかと藤村れいかの卒業、芸能活動からの引退に大きく影響したといわれる。


 『ストとれ』じたいも存続の危機にあった。しかし、ゆいがつづけることを望み、めぐみもそれに同意した。ふたりの前向きさに押されて、「運営のゴロー」が新人オーディションを開催し、『ストロベリーとれいん7』が誕生した、というのが、ストとれヲタのあいだで語られているストーリーだ。


「おばあちゃんに元気なところを見せたいからって、めぐみは言ってた。ただ、姉の中森あいがストとれを辞めたころには、認知症は始まっていたんだ。そのころはまだ、軽くて、コミュニケーションもとれたから、そんなに大変じゃなかったみたいだけれど。高齢なこともあって、もう仕事ができなくなっていた。だから、お姉ちゃんが稼ぎ頭になるしかなかった。それもあって、事務所を移籍したんだよ。おれもそのほうがいいと思ったんだ。残念ながら、うちにはマイナーな営業力しかないし、あの子はもっと大きくなると、みんな思ってた」


 10年まえ、秋葉原で、かつて電気店だったビルが取り壊され、新しくできたのはアニメやアイドルなどのサブカルをあつかう商店やカフェの入ったビルだった。そのビルのオーナーは地下にライブ活動のできる劇場をつくった。秋葉原ではすでにAKB48が活動をはじめており、地下アイドルあつかいされながらも、客は劇場からあふれていた。


 高校一年生だった田中あすかはアルバイトを捜していて、たまたま新設される『Myステージ劇場』の運営や物販の求人を見つける。


 あすかは子供のころからダンスをしていて、ファッションショーなどにも興味があり、なんとなく「Myステージ」という響きが気に入った。なにより新設される劇場のオープニング・スタッフというのが良かった。すでにある人間関係のなかに入っていくのは気をつかうし、めんどくさい。でも、オープニングなら、友だちもいっしょに受かれば、楽しく働けるかもしれない。あすかは高校で仲良くなった、中森あいに声をかけた。


 中森あいとはカラオケに行って、その歌のうまさに驚いたことがあった。話してみると、芸能にも興味がないわけではなさそうだった。あいはあすかの誘いに喜んで、いっしょにアルバイトの面接をうけた。


 面接をしたのは佐藤五郎だった。彼はオープニングから『Myステージ劇場』の支配人を任されていた。五郎は過去に映画の制作スタッフや、芸能プロダクションの興行部門(コンサートや演劇の企画、制作)で働き、知り合いからの紹介で、ビルのオーナーに会い、仕事を依頼された。


 オーナーからは、実績も知名度もない劇場だからはじめは苦戦するだろう、長い目で見ているから、ためしに劇場発のコンテンツ制作も考えるといいよ、と言われた。まだ三〇代後半で、あたらしい仕事に燃えていた五郎は、胸のかたすみに「アイドル」という着想を得ていた。


 アルバイトの希望者は多かったが、田中あすかも中森あいも、五郎はすぐにアルバイトとしての採用を決めた。ふたりとも高校生的な素朴さと明るさをもっていたし、すこし話せば、まじめに仕事をしてくれることが伝わってくる。


 それよりも、田中あすかの意志が強く溌剌とした感じと、中森あいのもう少しで開花しそうな隠された華やかさにひかれた。


 面接はひとりずつだったが、話しているうちに、ふたりが友人であること、田中はダンスを子供のころからやっていて、中森は歌が抜群にうまいのだと、それぞれが語る相手の評判を聞いた。


 もしかしたら、アイドルの種というのは、こんなところに転がっているのかもしれない。


 ある劇場では売店のお姉さんが、観客からの人気に推されて、アイドル・スターへの階段を昇ったともいわれる。


 佐藤五郎はアルバイトとして雇った、田中あすか、中森あいのようすを数日見て、お互いにそれなりの信頼関係をきづいてから、ある日の仕事おわりに、ふたりをカラオケに誘った。


 そのとき、中森あいは松田聖子を歌った。確かにうまかった。ちょっとかすれた甘い声が、高音部になると、どこまでも伸びやかで、人をここちよくさせる。歌詞がとてもきれいに伝わってきて、聴いている者のこころに響く。


 五郎は決断した。


 歌とダンスをやるアイドルを、劇場発でつくりたい。それをきみたちにお願いしたい。


 田中あすかと中森あいは、さいしょ意味がわからず、つぎには、からかわないでくれ、という態度をとった。しかし、まじめに熱心に話す佐藤五郎のようすに、どうやら本気らしいと感じて、ふたりも真剣に耳をかたむけた。


 なかなかアイドル専業というわけにはいかないだろう、ふたりが望むなら、劇場のバイトをつづけながらでもいいし、スケジュールもはじめはムリをせず、相談しながらやりたい。すでに劇場のオーナーとは話しをしているので、場所はあり、予算もすこしはある。楽曲の制作やダンスの指導も知り合いがいる。マイナーではあるけれども、ちゃんとお客さんと向き合うだけのものはつくれると思う。きみたちさえ、やってくれるなら。


 ふたりはじっと考える。あすかは悪い話しではないと感じた。もともとダンスの発表会などでステージに立つことが好きだった。歌はともかく、ステージで踊るのは気持ちがいい。ただ、いまのじぶんが踊っても、もう子供のころのように愛らしさだけで、ちやほやされることはないだろう。でも、ちゃんと訓練をして、人から望まれてステージに立つのは、悪い気分ではない。田中あすかは中森あいのようすをうかがった。


 中森あいはしばらく考えていた。そして言った。

「ふたりだけ、ですか?」


 五郎は質問の意味を考えて、

「いまは、ふたりしか考えてないけど……」とこたえながら思う。


 たしかに、もうすこし人数がいたほうがいいかもしれない。少なくとも三人以上がステージでのバランスもいいし、いろいろな意味で一人ひとりへの負担もへる。


「だれか、ほかにもやってくれそうな人、いる?」

 五郎が訊くと、中森あいは、

「ちょっと、聞いてみます」と言った。


 それが彼女なりの了承のことばだと五郎はうけとった。


 田中あすかはだれのことを言っているのか見当もつかなかった。


 五郎と別れたあとの帰り道で、田中あすかは中森あいに、あてはあるのかと訊いた。


 あいは、藤村さん、知ってる? とあすかにたずねた。


 藤村れいかは、ふたりとはクラスが違っていた。選択授業がおなじ美術だったので、顔は知っていたが、あすかは話したことがなかった。


 もの静かで自己主張をほとんどしないタイプに見えた。きりっとした表情の上品な面立ちをしていて、その大人びたルックスから、めざとい男子たちのあいだでは人気ナンバーワンだと噂されていた。ただ、愛嬌のあるほうではないし、歌もダンスも未知数だ。


 ルックスから入るなんて、意外と本気じゃないのか、中森あい──田中あすかはかえって、あいのことを頼もしく思った。


 翌日の高校の昼休み、中森あいと田中あすかは、藤村れいかの姿をさがした。


 あいは、れいかのメールアドレスを知っていた。連絡をすると図書室にいるようだった。ふたりで図書室にむかうと、部屋のまえで藤村れいかは待っていた。あいがポケットから文庫本をだして、これ、ありがとう、とれいかにわたした。『華麗なるギャツビー』という小説だった。


 三人で、おちついて話せる場所をさがし、学食やら、屋上やらを彷徨ったけれど、どこも人がけっこういて、困ってしまった。


「人のいないところといえば、体育館の裏じゃないの?」

 藤村れいかが、そう言って茶目っ気のある笑顔を見せた。


 あ、この子とは友だちになれるかもしれない──このとき田中あすかは思った。


 体育館の裏で、あっさりと話しはついた。


「おもしろそうだけれど、わたしでいいの?」


 藤村れいかは子供のころにピアノとクラッシック・バレエを経験していた。


 どれも中途半端で辞めちゃったけれど、人前に立つのは平気よ──彼女はそのルックスから近よりがたい印象をもたれ、無駄口もしないのででクールに見られるが、じつは好奇心がゆたかで、度胸もあり物怖じしない。


 そんな、藤村れいかの資質を中森あいがどのくらい知っていたのかはわからない。ただ、れいかが『モーニング娘。』のウォッチャーで、とくに道重さゆみに肩入れしていることは知っていたようだ。


 だから、アイドルのことは、あの子のほうがわかってるかもしれない──中森あいは、そう思いついて彼女に声をかけてみることにしたのだと、あとで話した。


 三人がそろったとき、佐藤五郎はとてもいいバランスだと思った。

 元気者で溌剌としたダンスが魅力の田中あすか。上品なルックスで歌にも大人びた艶があるクールビューティーの藤村れいか。そして、だれをも魅了する歌声をもち、少女が大人になるはざまで、見る者の目をひきつけてはなさない危うさと華がある中森あい。


 これならじゅうぶんに戦える。どこまでも、どこまでも行こう。走れるだけ走ろう。


 五郎はリーダーに田中あすかを指名した。だれからも異論はなかった。


 そしてグループ名を決めることになった。


 いろいろなアイデアが出たが、中森あいの提案した『ギャラクシー・トレイン』という名前におちつきそうになる。田中あすかと藤村れいかは、あいがそこまで推すなら、という感じだった。でも、五郎には、響きがちょっと気になった。


「なんだか八〇年代のディスコっぽいんだよなあ」


 ギラギラしてとんがった印象があり、あまり可愛げを感じない。


 五郎は「いちご畑を走る汽車」というフレーズを思いついた。たしか、むかし聴いていた松田聖子のラジオ番組がそんなタイトルだったような気がする。


「ねえ、ストロベリー・トレインてのはどう?」


 女の子たち三人は顔を見合わせた。ピンときているわけではないが、拒否するほどでもない。ちょっと恥ずかしい甘さを感じるけれど、アイドルの名前としては、そんなものかもしれない。なによりも、ファンから愛される名前でなければならない。このなかでファンの目線にいちばん近いのは佐藤五郎だろう。


 五郎は紙にサインペンでなんどか名前を書いてみて、「ストロベリーとれいん」という文字をしげしげと眺め、女の子たち三人に見せた。


「どうかな、これ、可愛いと思うんだけど」


 田中あすかはちょっと顔をしかめ、中森あいは藤村れいかを見た。


 藤村れいかは、とくに感情もなく、

「そうですね」とこたえた。


 彼女たちの『ストロベリーとれいん』が走りだした。



 雑居ビルのロビーのベンチで、ケイは佐藤五郎の話を聞いていた。ケイは言った。

「ストロベリーとれいん、っていう名前は中森あいさんがつけたって聞いてました」

「半分は、彼女がつけたようなもんだ」佐藤五郎は言った。「それに、こんなおっさんが、ストロベリーとひらがなを組み合わせたなんて、興ざめだろう。中森のネーミングでいいんだよ」


 ケイはすこし迷ったが、おもいきって訊いてみた。

「あいさんだけが先に卒業したのは、やっぱり引き抜きとかあったんですか?」


 五郎は考えながら、じぶんでも確かめるように話す。

「ストとれが人前にでるようになって、わりと早くから、中森あいには芸能プロからの声が掛かった。でも、グラビアや俳優なんかのタレント活動の話しばかりで、彼女に歌をやらせたいってところはなかったし、ストとれの三人をまとめて面倒を見るよってところもなかった。もうCDが売れる時代はとっくに終わってたからね。彼女たちは『ストとれ』っていうチームで歌とダンスをやることが気に入っていたから、他のタレント活動には興味をしめさなかった。そのかわり、ストとれの活動を支えるための握手会や物販会には積極的に動いてくれた。ただ、中森あいは家の事情もあったから、ストとれの活動に影響しないていどに、CMのオーディションを受けたり、ガールズ・ファッション誌のモデルなどもするようになった。そのうちに、柔軟に対応してくれるタレント・プロダクションと提携できたから、メンバーそれぞれで個別の仕事をするようにもなったけどね。高校を卒業したあと、田中と藤村は大学に進学したけれど、中森は進学しなかった。そのぶんタレント活動を増やしたんだ。業界の玄人からすると、中森あいには俳優としての魅力を感じる人が多かった。僕も映画をやっていたことがあるから、それはなんとなく感じてた。ただ、俳優の仕事はいい役になればなるほど、スケジュールの拘束時間が長くなるから、僕から見ても、もったいないなあと思うような仕事を、ストとれを優先して断わるような場面もふえてきていた。本人はいつも、歌うことが好きだったから、『ストとれ』が第一だって言ってたけど、あの子の経済のことや、将来のことを考えると、どっちがいいのか、僕にもすこし迷いがあった」


 五郎は、ちょっと天を仰ぎ、それからケイに言った。

「ねえ、山口百恵が引退した年齢を知ってる?」

 いいえ、とケイは首をふった。

「山口百恵は十四歳でデビューして、二十一歳で引退してる」

「そんなに若かったんですか?」

 五郎はうなずいた。

「前田敦子がAKBでデビューしたのはいくつだと思う?」

「もしかして、十四歳ですか?」

「そう、そしてAKBを卒業したのが二十一のときだ」五郎は言った。「僕は、十四歳から二十一歳っていうのが、女の子のマジックアワーなんじゃないかって思うんだ」


 たしか、中森あいが亡くなったのは二十二歳、だから田中あすかや藤村れいかも二十二歳で『ストとれ』を卒業し、ことし卒業したゆいやめぐみも二十二歳のはずだ。もちろん、いろいろなめぐり合わせはあるにしても、「運営のゴロー」の考え方の反映でもあるような気がする。


「ほとんどの場合、女の子がアイドルとして存在できる時間には限りがある。そこをこえてステージや映像のなかで生きつづけるには、プロとして必要とされる実力を身につけるか、あるいは圧倒的な知名度をなんらかのかたちで手に入れるしかない。もちろん、制限時間を最大限に利用してアイドルとしてのブレイクをめざすっていう正攻法もある。ただ、あのころの僕は経験も未熟だったし、じぶんたちなりのやりかたを、手探りでやっている状態だったんだ。正直、いまもそんなに変わらないけれども」

 五郎は苦笑した。

「中森あいが十九歳のころに、映画のオーディションを受けてくれないかって話しがあってね。若手のけっこう評判のいい監督で、青春群像劇の主役を何人かさがしている、ただ、キャスティングが決まれば夏のあいだひと月ぐらいスケジュールをおさえられてしまう。地方で合宿するから、縫うこともむずかしい。そのときに、僕は中森あいと話しあったんだ。きみが歌と仲間を第一に考えているのはわかるし、うれしい、ただ、そこはいつまでも居られる場所じゃないかもしれない。きみの未来を考えたときに、なにがいま必要なのか、よく考えてみたらどうだろう」


 五郎はすこし黙った。たぶん、それがほんとうに良かったのか、彼にも、いまはわからないのだ。あのとき、もしかしたら、という堂々めぐりが彼のなかでもつづいている。


「でもね、そんなことは彼女にもわかっていたんだ。だから、そのころにはもう妹の中森めぐみと伊藤ゆいを加入させようとしていた。ふたりは中学生のころから、ストとれのライブや稽古なんかによくきていた。伊藤は当時から人目をひくような可愛さがあったし、めぐみは姉に負けないくらい歌がうまいって聞いていた。むしろ僕は中学生のころから、彼女たちを加入させたらどうかって、姉の中森あいに言ってたんだけど、そのころの伊藤ゆいは、すごく引っ込み思案で、めぐみは芸能とか人前にでることに興味がなかった。ただ、ふたりとも歌うことは好きで、中森あいに憧れているみたいだった。伊藤ゆいはね、人見知りなくせに、仲間内では無邪気にはしゃいで、だれからも愛されるタイプ。めぐみもね、あのころはいつもニコニコしていて、屈託のない素直な女の子だった。でも目立つのはもともと好きじゃなかったんだろうね。伊藤ゆいは、めぐみと一緒ならやってみたいって感じだったけど、めぐみのほうがね、歌うのはともかく、知らない人と握手したり、写真撮ったりっていうのが、どうも嫌だったみたいだね。それでも、中森あいが、ストとれを卒業する一年ぐらいまえから、妹のめぐみを説得して、ふたりを稽古にも参加させて、ゆいとめぐみの中学卒業と同時に『ストロベリーとれいん』に加入させた。そして、その年の夏に、中森あいが『ストとれ』を卒業した」


 田中あすか、中森あい、藤村れいか、伊藤ゆい、中森めぐみ、この五人がそろった時間は、4月から8月までと、とても短い。だけど、ゆいとめぐみのデビューから、あいの卒業までを伴走し、その姿を目撃したストとれヲタたちは口をそろえて言う。


 あの時は神だった。


 伝説のシーズンを目にしたものたちはほんとうに幸いだ。だが、それだけに失われたものの大きさをひときわ感じることになり、深い悲しみをいまだに埋め合わせることができていない。


 ケイは伝説のシーズンを知らない。彼の出会った四人組の『ストロベリーとれいん』はある意味、中森あいの置き土産だった。


「ゆいとめぐみの加入がなければ、あいが抜けたときに『ストとれ』がなくなってもおかしくなかったし、田中と藤村が抜けたときも、めぐみと伊藤ゆいがふんばらなきゃ、消滅してた。とくに、めぐみはキツかったろうと思う。おばあちゃんのこともあったし、表情がガラッと変わっちゃったもんな。一時は声まで出なくなった。あたりまえだよ、あんなことがあって、平気でいられるわけがない。それなのに、量産型とか言われて──」


 「鉄面皮」と同時に、彼女を揶揄することばとして使われたのが「量産型」だった。単純なルックスだけでいえば姉のあいにくらべてとくに劣るわけではない。ただ、たしかに、めぐみのほうが地味な印象で、姉にくらべて華がない。いっしょにいる伊藤ゆいには、中森あいとはまた違った華があるので、よけいにそう感じる。


 中森あいにあるのが思慮深く危うい華だとすると、伊藤ゆいには天真爛漫な明るい華がある。それが伝説のシーズンを神とした要素のひとつでもある。中森あいとめぐみは背格好も近く、歌声も似ていた。ただ、とても人あたりがよく親しみやすかった姉のあいにくらべて、とくに姉を亡くしてからの妹めぐみは、以前にまして心の壁を感じさせるような頑なさがあった。そして多分にノスタルジーからくる印象で、歌も姉のあいのほうがうまかったとされた。


 そんなこともあってアンチは、めぐみのことを裏で「しょせん量産型」と嘲った。もちろんストとれヲタにかぎらず、彼女のまわりにいる人びとは温かく注意深く接した。しかし、強い攻撃のことばは鋭く、とても小さな隙間からでも飛び込んできて、ふれたものを容赦なく傷つけた。


「それでも、あの子は辞めなかったね。なんでだろうと、ときどき僕も思ったけど……、そうだな、おばあちゃんのこともあったんだな」

 五郎は眼鏡をはずして、レンズの曇りを気にした。

「ああ、はじめて、ゆいとめぐみに会ったとき、おばあさんに連れられて、ライブを見にきていたよ。あのふたりはまだ小学生だったかもしれないなあ」


 姉のあいと妹のめぐみは四歳はなれている。あいのデビューは高校一年生だから、そのころなら、めぐみはまだ小学六年生だ。ふたりの女の子はそのときはじめて、ステージでライトを浴びて歌い踊るお姉さんの姿に、いつもと違う輝きを見たのだ。そしてその輝きはもう──


「ケイくん、行こう」

 めぐみの声がして、ふりむくと、ネイビーブルーのモッズコートを着こんだ彼女がずんずん歩いてくる。

「ゴローさん、メンバーには話しといたから、あとはよろしく。行こう、ケイくん」

 と立ちどまることもなく玄関にむかう。


 はい、と弾かれるように立って、ケイはめぐみのあとにつづく。

 佐藤五郎があぜんと見送っていると、

 あ、と気づいて、めぐみが立ちどまってふりかえり、

「あした、事務所に出れないかもしれません、なにか問題があったら連絡ください」

 そして、おつかれさまでした、と言って玄関をでた。

 ケイも、おつかれさまでした、と五郎に頭を下げてから、めぐみのあとを追った。


 佐藤五郎はベンチでひとり、風のように去っていったふたりを見送った。



「どうしたんですか?」

 早足で駐車場にむかいながらケイは訊いた。

「スーちゃんから連絡があったの。ひろし社長のアポが明日になったって」

「あした?」

「28、29と大阪出張で、30日は仕事納めだから、明日しかないって」

「え、じゃ、あしたやるんですか?」

「30日じゃどっちにしろ遅すぎる。やるんなら、明日しかない」


 できれば、今日中に計画を立て、明日はリハーサルにあてたいとリュウジは言っていた。しかし、ひろし社長のスケジュールが明日しかないのなら、それに合わせるしかない。


 冬の太陽は沈み、あたりはすっかり暗くなっていた。時計を見ると午後六時まえだった。


 ふたりは青い車に乗りこんで、三〇分ほどで西新宿のれいかのマンションについた。


 部屋の上がると、室内にデミグラスソースのとてもいい匂いがひろがっている。リビングのソファーにはすでに、田中あすがか腕ぐみをして座っていて、テーブルに五人ぶんのナプキンとワイングラスが置かれていた。


「ごはん食べていってね。ビーフシチューつくったから」藤村れいかがキッチンで笑顔を見せた。


「この女ののんきさ、なんとかしてくれよ」あすかがめぐみに言った。


「あら、お腹がへっては戦はできないのよ」

 れいかが銀色のバケツのようなワーンクーラーに氷と赤ワインを入れてテーブルにもってくる。


「酒飲んでる場合じゃないだろ」

「せっかくいいお肉でビーフシチューつくったんだから。ちょっとくらい、いいじゃない、ねえ」


 れいかはケイに同意をもとめた。


「あの、僕、車なんで」

「あ、そうね。ごめんなさいね。でも、ちょっとくらい、だいじょうぶでしょ」

「ダメに決まってんだろ」田中あすかが言う。「そもそも、いい肉なんかでシチューつくんなよ。煮込んじゃえば、ぜんぶソースの味になるんだぞ、安い肉でいいんだよ」

 けっきょく、あすかもよくわからない理由で怒っている。

 れいかは肩をすくめてキッチンにもどる。

「ゆいは? スーちゃんに会いにいくとか言ってなかった?」めぐみが訊いた。

「弟に連絡するから、先に行ってて、てさ」

「そう」


 めぐみは腕をくみ、ひとさし指を唇にあてる。ゆいに連絡をとったほうがいいか考えているのだろう。


「だいじょうぶじゃない。先に行っててって言ったんでしょ。そのうちくるわよ」

 れいかが厚めにスライスしたフランスパンを籐かごに入れてもってくる。

「あんまり、バタバタ連絡しあわないほうがいいんだろ」あすかが言う。

「そうね」


「どうする」あすかがシリアスな顔でめぐみを見る。「明日しかないぞ」


 めぐみはうなずく。


 あすかが言う

「アポは15時にとった。夕方からべつの案件があるって言ってたから、それ以上、うしろにずらすのはムリ。むこうは決めたことだから条件闘争には応じないって態度だったけど、まあ、あの商売、いろいろグレーなところはあるからさ、こっちが公にしたくないから立場が弱くなってるだけで、名前さらして公明正大にケンカする気なら、むこうも弱るんだよ。けっきょくはチキンレースさ。ビジネスとしてやってる以上、あとはお金の問題。そして物事の値段は状況によって変わる」

 あすかは少し息を吸ってから、ゆっくりと吐いた。

「たぶん、引っぱって1時間じゃないかな。結果はどうあれ、それ以上ごねても、かえって不審に思われる。あとは、あんたたちで考えて勝手に決めて。やろうがやめようが、わたしは値段交渉だけはしにいくから」


「ありがとう」めぐみは言った。


 れいかが五つに小分けしたサラダをもってくる。

「ミーちゃん、座って。ケイさんも、お腹へってない? 先に食べてましょうか」


 そのときチャイムが鳴った。マンションのオートロックの玄関からだ。

 ゆいが到着した。

 部屋に入ってきたゆいは見るからにぐったりしている。


「どうしたの、だいじょうぶ?」藤村れいかが伊藤ゆいによりそう。

「あー、つかれたー」

 と言いながら、ゆいはソファーのめぐみの横にどっかりと座りこむ。

「どうしたの?」めぐみが訊いた。

「なんかリュウジに、いっぱいいろんなこと言われて、なんか頭がパンパン、知恵熱がでそう」

「リュウくんに会ってたの?」

 うなずくゆい。バッグからクリアファイルをとりだし、

「お手紙もらってきた。なんか、いろいろ明日のことが書いてある」とめぐみにわたす。「ぜったい落とすなよ。わかってんだろうな。むこうに着くまでバッグからだすな、寄り道すんな、買い食いすんな、って、もう、子どものお使いじゃないっつうの。ほんっとうるさいんだから」


 めぐみが手にしたのは手紙というよりも、これからの細かなスケジュールで、メンバーそれぞれの役割分担や確認事項も書かれていた。ターゲットに電話をかけるのは、ちゃんと明日の15時に設定してある。めぐみはケイにもスケジュールの紙をわたす。


「ゆい、お腹へってるでしょ。たくさん食べて」

 藤村れいかがビーフシチューの入ったお皿をもってきて、ゆいとケイのまえに置いた。

「うわー、すごーい、おいしそー、うれしー」と言って、ゆいはまわりを見る。

「いいよ、食べな」あすかが言う。

「いただきまーす」ゆいは手をあわせてから、スプーンで肉のかたまりをほぐして食べる。「すごーい、スプーンで切れちゃうよ。やわらかい、おいしー、レイちゃん、これすごいよ。お店ひらけちゃうよ」

「ありがとう」

 れいかは微笑み、もう二枚の皿をもってきて、田中あすかとめぐみのまえに置く。

 めぐみはじっとリュウジの書いた紙を見ている。


「いただきます」あすかが食べる。

「ケイさんも食べてね」れいかが言う。

「はい、いただきます」ケイも手をあわせてから、ビーフシチューを食べる。

「ミーちゃんも温かいうちにね」れいかが言う。


 うん、とうなずき、めぐみは紙をクリアファイルにもどして、手をあわせ、いただきます、と言って、ビーフシチューにスプーンを入れる。

 れいかはじぶんの皿をもってきて、めぐみのまえに座る。


「どう? うまく行きそう?」

 うーん、と考えるめぐみ。


 あすかが言う。

「文化祭や運動会とは違うんだぞ、そんなスケジュールどおり行くかよ」


「ねえ、これ飲んでいいの?」ゆいが銀のクーラーに入った赤ワインを見つけた。


「いいわよ」とれいか。

「ちょっと待て、明日のことだいじょうぶなのか?」あすかが言う。

「このあとリュウジくんに会いにいかなくちゃ」めぐみが言う。

「えー、だめ?」とゆい。

「そりゃそうだろう」とあすか。

「ちょっとだけならどう? グラスに半分とか」れいかはめぐみを見る。

「そうね……、せっかくだから」とめぐみ。

「やったー」とワインボトルの栓をあけにかかるゆい。

「マジか。しらんぞ」とあすか。

「まあ、まあ」

 と、あすかのグラスにもワインを注ぐゆい。ケイのグラスにも注ごうとして、彼が手をだし、「車だから」と言うと、

「そっか、もうしわけない」と頭を下げて、れいかとめぐみのグラスにもワインを注ぐ。


 れいかはキッチンにもどり、冷蔵庫から缶のウーロン茶とノンアルコールビールをもってきて、ケイのまえに置く。

「お好きなほうをどうぞ、お水がよかったら言ってね」

「ありがとうございます」

 ケイはウーロン茶の缶をあけた。

「ゆい、なんか言っとくことはないのか。弟にいっぱい注意されたんだろ」

 あすかはフランスパンをシチューにひたしてぱくぱくと食べている。

「あ、えーとね。そう、レイちゃん」ゆいがれいかを見る。

「わたし?」

 ゆいはうなずき、「あした、15時ぐらいに、原武会長と一緒にいられる?」

「そのつもりよ。会合の予定が入ってたから、鞄持ちでついていけるようにお願いしたわよ」

「さすが、バッチリ」ゆいが言った。

「さすが、アクセサリー女」あすかはれいかを見もせずに言った。

「お褒めにあずかり、光栄です」れいかは丁寧に、あすかにお辞儀をした。

 ゆいは意味がわからず不思議そうな顔であすかを見た。あすかは言う。

「女は箔をつけるために、アクセサリーをつける。まともな男はじぶんがアクセサリーをつけたりはしない。男が箔をつけるためにするのは、高価なアクセサリーをつけた女をつれてまわること。年寄りが、気の利いた若い女とつきあっていることを匂わせれば、それでさらに一目置かれる」

 あすかのことばを聞いて、ゆいはれいかを見る。

「需要と供給が一致すれば、そんなに悪い状況でもないわよ」

 れいかはワインを飲む。

 あすかとれいかは目を合わせない。


「とりあえず確認します」めぐみが言う。「あしたの十五時の時点では。レイちゃんは原武会長と会合。スーちゃんとゆいは、ひろし社長の事務所。それはいい?」

 うなずくあすか。「アポの時間に変更があったり、交渉中に、ばあちゃんから連絡がきたら、ミーに連絡すればいいんでしょ」

「あ、それ違う」ゆいが言った。

「なんで?」とあすか。


 めぐみがスケジュールの紙を見ながら、「わたしも現場の近くにいるから携帯の電源を切っとかないといけないみたい。ターゲットの家に警察が来ないかどうか見張るんだって」


「スーちゃんとは、うちが一緒にいるから、うちがリュウジに連絡する」とゆい。


「わたしも会長のところに連絡がきたら、あなたに連絡すればいいの?」れいかはゆいを見た。


「うん」ゆいはうなずく。


「ゆいから弟に連絡だと、伝言ゲームで、タイミングがちょっと遅れるぞ」あすかはケイを見た。「直接、そっちに連絡したほうがいいんじゃないか」


 ケイもスケジュールの紙を見て、「なんか、携帯を交換するようですね。僕とリュウジくんの」

「ん? あんたが弟の携帯をもってるってこと?」

「ええ、僕らは個人の携帯を生かしとかなきゃいけないんで、あとから見たときに、自転車便がリュウジくんで、車に乗ってるのが僕ってことにしておくみたいです。ゆいさんから僕に連絡をするより、リュウジくんにするほうが自然だし、早いってこともあるのかな」


「設定では、その時間、わたしはゆいの家にいたってことにしておくみたい」

 ふうん、とあすかは言った。めんどくさいので考えるのをやめたようだ。


 れいかはケイを見た。「連絡のために必要とはいえ、携帯を生かしておくのは心配ね。いる場所とかぜんぶバレちゃうんでしょ」


「ええ、ただ、お金を受けとるまでは、事件にはならないので、中止の連絡は気にせずしてください」ケイは言った。


 めぐみがみんなにむけて言う。「ひろし社長は来客中は電話をとらないはずだけど、もし、つながったら、すぐに中止する。会長は反応しだいだけど、お金は出すなって言ったら、こっちも中止。いちおう、おれおれの電話では、武会長には内緒にしてくれって泣きつく予定だけど、どうなるかわからない」


「捕まったら、身もふたもないから、安全第一がいいわよ」れいかは言った。

「うん、そのつもり」

「身内に電話せずに、ちょくせつ警察に通報されたらどうすんの?」とあすか。

「だから、わたしが見張ってる」とめぐみ。

「携帯ないじゃん」

「緊急事態にはスイッチを入れる。お金の受け渡しまえだから。事件は発生しない」

 ふうん、と言ってあすかはワインを飲む「そんなに都合よくいくかね」


 めぐみは紙を見ながら考える。

「あ、あと、スーちゃんにはもうひとつお願いがあるみたい」

「やだよ。基本的にあたしは詐欺には賛成してない」

「うーん、もし、お金を受けとることに成功したらなんだけど──」


 お金を受けとることに成功しても、そのお金を、どう運び、どこに置いておくのかも考えておかなくてはならない。人目や街頭のカメラを意識しながら、複数の手を介しての運搬になる。


 食事のあと、めぐみは、あすかとれいかにも明日のスケジュールの紙をわたし、それぞれの役割と動きを確認した。自転車便を装ってターゲットの家に現金をとりにいく役割のケイがいちばん危険なことは、だれの目にも明らかだった。


「だいじょうぶなのか、あんた?」あすかはケイに言った。

「最善をつくします」

「最善ていうか、最悪っていうか」あすかはめぐみを見た。

「かれに頼るしかない」めぐみは言った。

「ごめんね、ケイくん」ゆいが言った。

「だいじょうぶです」ケイはゆいに見つめられて、ちょっとだけ胸が熱くなった。

「まあ、勝手にやってくれ」あすかは呆れている。「どうせ、そんなにうまくは行かないさ」


 めぐみとゆいとケイは、このあとリュウジと打ち合わせが必要だからと席を立った。

「ごめんなさい、あとかたづけもできなくて」めぐみはれいかに謝った。

「いいのよ、気にしないで」

「すごいおいしかった。ありがとう」ゆいが言った。

「また、いつでも食べにきてね」

「ごちそうさまでした」ケイが言った。

「ほんとに気をつけてね。安全第一だから」れいかはケイの肩にやさしく手をそえる。

「はい、気をつけます」

「そんじゃ、あたしも帰るから」あすかが玄関にむかう。。

「スーも気をつけてね」


 あすかはふりかえりもせずに、右手をあげ、玄関から、さっさとでていく。


「あ、スーちゃん、あしたの待ち合わせ、どうする?」

 と、ゆいがあわててあすかを追って出ていく。


 ケイがスニーカーをはいて、出ようとすると、うしろで、

「めぐみ、ちょっといい?」と、れいかが呼びとめた。

「ごめん、ケイくん、すぐ終わるから、さき行ってて」

 そう言って、めぐみとれいかはキッチンのほうに引っ込んで見えなくなった。


 ケイが廊下に出ると、ゆいとあすかが明日の待ち合わせの段取りを決めていた。ひろし社長の事務所は渋谷の宮益坂なので、青山のあすかの店から歩いていけなくもない。店で待ち合わせるのか、駅で待ち合わせるのか、決めとこうと言うゆいに、どっちでもいいから早めに来いと言うあすか。じゃあ、お店のほうがいいかな、などと話している。


 あすかがケイを見て、「めぐみは?」と訊いた。

「なんか、話してます」とケイはうしろのドアを指さした。

 あすかは、ふうん、と言って、「あのふたり、きのうからコソコソしてないか?」

「そーお?」ゆいはべつに気にしていない。

 ケイも、さあ、という感じで首をかしげた。

「ごめん、おまたせ」ドアが開いてめぐみがでてくる。

 マンションのまえであすかと別れ、めぐみとゆいはケイの車に乗り、登戸にむかった。



 リュウジのアパートでは、スケジュールの紙にしたがって、それぞれの役割を確認する。


「リハーサルと下見は、おれとケイさんで今夜やっとく。ねえちゃんとミーちゃんは打ち合わせが終わったら、ふたりで新丸子のマンションに電車で帰って」

「車はこっちに置いとくの?」めぐみが訊いた。

「うん、ミーちゃんは新丸子からちょくせつ現場に行ってもらう。そのときは少女Aって設定だから」

「なにそれ?」ゆいが言う。

「だれでもない人」

「少女って年でもないけど」とめぐみ。

「ねえちゃん、リクルートスーツみたいのもってたよね。あれ、ミーちゃんに貸して、あとダテ眼鏡も。住宅街だから、外回りしてる新人の営業さんみたいな感じで」

「OLのBじゃん」ゆいが言う。


 ケイはちょっと笑った。リュウジも苦笑いする。


「さすがにターゲットの家に下見は行けないから、ネットで確認すると──」


 リュウジはパソコンでグーグルマップをひらき、成城の街を俯瞰する。


「この灰色の屋根の家が原武会長の家。成城の駅から北西に10分くらい。見るとわかるけど、ちょうどT字路の角地に建ってて、道のつきあたりが緑地公園になってる。成城って仙川と野川にかこまれた丘の上につくられた街だから、この緑地の背後が野川にむかって斜面になってるんだ」


「へえ、くわしいのね」とめぐみ。


「ブラタモリとか、好きなんだ」リュウジは言う。「昔っからさ、金持ちは高いところにすんで、貧乏人は谷底に暮らしてるのさ」


 めぐみはリュウジの顔から目をうつし、パソコンの画面を指さした。

「この公園から、見張ってればいいのね」


 リュウジはマップをズームアップして、

「ほら、ここにベンチもあるから、座って、お弁当でも食べてればいいよ。遅い休憩って感じで。警察署も駅の派出所も東にあるから、くるならこの道の奥から、こっちにむかってくる。だからよく見えると思う」


「十五時に、ここに座って、お弁当をひらくぐらいでいい?」


「うん、あんまり早いのもおかしいからね。1時間はいられないだろうし、なんとか30分ぐらいでかたづけたいところだね。もし、中止がかかったら、ケイさんは現れないはずだから、一時間待って何事も起こらなかったら、駅に行って、公衆電話からケイさんに確認してみて」


「ん? ケイくんのもってるリュウくんの携帯?」


「あ、そうそう。おれの携帯の番号に電話して、中止情報はそこに集まるから」とリュウジ。


「了解」


「で、警察もこず。ケイくんの自転車便が受けとりに成功したら、ミーちゃんは、あわてないでいいから、ゆっくり丘を降りて──」

 リュウジはマップをずらし、

「ここ、世田谷通りが野川にかかってる小さな橋があるから、ここのとこで待ってて。たぶん、ケイくんが自転車で登戸方向にもどって、多摩川の水道橋の近くで、おれと受けわたしをしたあと、おれが世田谷通りで都内にむかう途中でミーちゃんを拾うから、30分はかからないと思う」


「了解。わたしはケイくんのふりをしたリュウジくんの運転する車で、下北沢まで送ってもらって、そこからは、わたしがお金をもって、電車で原宿まで行くのね」


「そう、OLBが原宿の東急プラザの女子トイレで、あすかさんにお金を受けわたす。車と電車での移動で一時間以上かかるはずだから、順調にいって17時くらいかなあ。あすかさんの交渉が16時までとしても、彼女のほうが先に東急プラザについて待ってられると思う。あすかさん、なんか言ってた?」


「ムッとしてたけど、手伝ってはもらえる」


「だよねえ。でも、ミーちゃんは一度、新丸子にもどって、着かえてから出直すしかないし、ねえちゃんの手を使うのは危険だから、あすかさんにお願いするしかなかったんだよ」


「だいじょうぶ。スーちゃんはいい人だよ」ゆいが言った。


「まあ、しょうがない。あすかさんにお金がわたれば、あとはどうやってレイさんのとこまで運ぶかはお任せする」


「いったん、お金を持ってお店にもどってから、レイちゃんのマンションに持ってくるって言ってた」めぐみが言う。


「うん、それでいいと思う。レイさんのところがいちばんセキュリティがしっかりしてるし、なにかの間違いで一千万ぐらい彼女の部屋からでてきても、べつに不思議じゃない感じだし」リュウジは皮肉な笑顔を見せる。「まあ、そこまでいったら、あとはミーちゃんにお任せします」


 めぐみはうなずく。「わたしは新丸子にもどるまで、携帯のスイッチを入れちゃダメなのね」


「そう、OLBのあいだはダメ。緊急事態以外」


「了解」めぐみはちょっと考えて。「飛ばしの携帯は、ターゲットに電話したあと、どっちがもってるの?」


「おれがもってる。先方からまたなんか電話してくるかもしれないから、その辺の対応は臨機応変にやる。おれとケイさんはいつでも連絡とれるようにしとくから」


「確認なんだけど」ケイが訊いた。「僕が携帯の電源を切るのは、お金をリュウジくんにわたした、すぐあとでいいの?」


「うーん、受けわたし現場からはちょっと離れてからのほうがいいかな。お金をわたしたら、基本お役御免だから、あとはどうやって身をくらませるかを考える。おれも、ミーちゃんを下北に届けたら、いったん電源を切るよ。まあ、あの青い車がやっかいなんだけど、ちょっと急すぎて、他の手が考えきれない」


 めぐみがスケジュールの紙を見ながら言う。

「わたしを下北でおろしたあと、リュウジくんはあの車を西新宿までもっていくのね」


「うん、おれとケイさんの動きを確認しとくと。多摩川の水道橋の近くに自転車と歩行者だけが通れるアンダーパスがあって、そこでおれとケイさんはお金の受けわたしをする。このすぐ近くだから、あとで、下見に行こう」


 ケイがうなずく。


「お金を入れるのとおなじリュックを用意したから、それを交換するだけでいい。新しいリュックには、着がえも入れとく。ケイさんはそのまま多摩川沿いの道を北上して、京王線の、よみうりランド駅の方にむかってもらう、駅の左手は、稲城っていう山になってて、そのてっぺんが遊園地なんだ。遊園地に向かう上り道の途中に、八雲神社っていう、もう鳥居しか残ってない神社があって、その奥はずっと雑木林になってる。いちおう人がひとり通れるくらいの獣道みたいなのが雑木林のなかにつづいてるから、自転車をかかえて、しばらくその道を歩いてもらって、適当なとこで、自転車を分解して、処分してもらう」


「え、自転車、棄てていいの?」ケイが言う。


「しかたないよ。携帯をのぞけば、いちばんの物証だからね。まとめて捨てないでね。少なくとも車輪と車体ぐらいはバラして捨てて」


 うなずくケイ。


「雑木林で、服も着かえてもらって、ずっと山のほうに登っていけば、そのうちゴルフ場か、よみうりランドにむかう道路にでるから、そしたらランドのほうに歩いていけばいい。ちょっと登りがきついかもしれないけど、ランドまでいけば、バス停もある。バスに乗ったら、小田急の読売ランド駅までいって、あとは電車で新宿へ」

 リュウジはスケジュール表を確認しながら。

「順調にいけば16時くらいに受けわたしできるはずだから、稲城まで30分、自転車をバラして、山登りして、1時間。そこからバスに乗れば30分もかからないはずだから、18時くらいには小田急に乗れるかな。よゆう見て19時には新宿に着くと思う」


「新宿のどこかで会って、携帯を交換してもどすんですよね」ケイが言う。


「うん、おれは下北でミーちゃん降ろしたあと、西新宿に行って、レイちゃんちの近くのパーキングに車をおいたら、歩いて新宿にもどるよ。たぶん、順調にいけば18時くらいかな。携帯で連絡はとりあわないほうがいいから、どこかで待ち合わせる」

 ちょっと考えるリュウジ、ケイを見て。

「歌舞伎町の映画館しってる? あのゴジラが屋上に顔をだしてるやつ」


「わかります。なかに入ったことはないけど」


「エスカレーター登ってくとロビーがあるから、そこで待ってるよ」


「わかりました」


「携帯の交換はトイレかな。トイレなら監視カメラはないはずだから」


「なるほど」


「えーっと、あとは?」


「ねえ」ゆいが言った。「うちはひろし社長の事務所をでたあと、どうすればいい?」


「うーん、てきとうに時間つぶしてよ。あすかさんとはぜったい一緒にいないでね。渋谷で買い物するか、お茶でもしてればいい。レイさんちに集合するのは20時くらい?」


「そのくらいだと思う」めぐみが言った。「レイちゃん、仕事が終わるのが18時くらいじゃないかって言ってたから、連絡とって家にいるようなら、早めに行っててもいいかな」


「そうだね、うちはレイちゃんやスーちゃんに連絡してもいいんだもんね。りょーかい」ゆいが言った。


「そんなもんかな?」リュウジが確認事項の紙を見ながら言う。「あ、スーちゃんに大きめのキャリーバッグ用意しといてって、お願いした?」


「うん、だいじょうぶ」めぐみが言った。


「ねえ、一千万て、どのくらいの大きさなの?」ゆいが言った。


「たしか、百万円の厚さが1センチぐらいだって聞いたことがあるけど」とめぐみ。


「うん、ネットで確認した。百万の厚さが一センチで、重さが百グラム。だから一千万をたてにつむと、十センチで、一キロ。まあ、1リットルのペットボトル運ぶようなもんだ」

 リュウジはそう言って、紙をたばねて、クリアファイルにもどした。

「あ、ミーちゃん、あしたは新丸子から、原宿まわりで成城に行ったほうがいいよ。時間はかかるけど」


「そうね」めぐみはスマートフォンで乗り換え案内を検索しながら。「それでも一時間はかからないのね。14時には成城につきたいから、13時にゆいの部屋をでればいいかな。もし、わたしと連絡をとりあうとしたら、それまでにってことね」


「そうだね」リュウジは言った。「もし気が変わったら、いつでも遠慮せずに連絡して」


「わかった」めぐみは、あまり表情を変えずに言った。「ありがとう」


「てか、感謝しなくちゃいけないのは、ねえちゃんなんだけど」


「まだ、終わってないのよ。気をゆるめるわけにはいかない!」

 ゆいはわざとらしくシリアスな顔で言ってから、「うまくいったら、ごはんぐらい奢ったげる」と笑顔を見せた。


 リュウジはあきれ顔でため息をつく。


 時計を見ると22時に近かった。


 じゃ、おれたちは下見とリハーサルやるから、とリュウジは、めぐみとゆいを帰るようにうながす。ふたりが立ちあがると、リュウジとケイも立ちあがった。


 ゆいがケイのまえに手をだした。ケイは意味がわからず、その手を見つめていると、ゆいがケイの手をとって両手で握った。その細く華奢な手はやっぱり冷たかったけれど、いままでに感じたことがないくらい、ぎゅっと力強く握りしめられた。


「ごめんね。ありがとう」ゆいがケイの目をじっと見つめて言った。


 ケイもしっかりとゆいの手を握り、だいじょうぶ、とだけこたえた。


 ふたりが帰ったあと、リュウジとケイは青い車に乗って、向ケ丘遊園のダイエーにむかった。運転はリュウジがした。もどってくるまでは携帯の電源は切っておくことにした。


 向ケ丘遊園は小田急線で登戸のひとつ先の駅で、駅間はとても短く、歩いても五分ほどしかかからない。ちなみに向ケ丘遊園という遊園地がむかしあったのだけれど、10年以上前に閉園になり、いまは駅名だけが残っている。


 リュウジのアパートは多摩川にそって走るJR南武線の登戸駅と、ひとつ北に上がった中之島駅の中間ほどにあり、そこからだと向ケ丘遊園のダイエーまでは車で5分、直線距離で1キロぐらいだろう。


「ここのダイエー古いからさ、屋上の駐車場に監視カメラとかないんだよ。下のゲートで車の出入りは見てるから、おれたちがダイエーに入っていった記録は残るけど、そこで何やってるかはわからない。冬休みだけど、平日の昼間なら屋上は閑散としてるからさ、車のなかを覗きこまれる心配もない」


 リュウジはダイエーの屋上にとめた車のなかで、「おれおれ詐欺」の芝居を打とうと考えていた。携帯の電波による位置の特定はGPSを使わなければ、数百メートル四方の範囲だと聞いたことがある。


 ダイエーであればリュウジのアパートからはそれ以上離れているし、むしろ、電話のかかっている時間帯はダイエーで買い物をしていたことにすればいい。そのように記録も残す。


「夜中にチャリンコをもってきて、この店のまえの駐輪場に置いとく。あしたはふたりでこの車で屋上にあがって、電話をかけたあと、あんたは店のなかを通って下に降りて、ここにとめたチャリンコで成城にむかう」


 リュウジはダイエー前から登戸駅のほうへ車をすすめる。


 小田急線のガードをくぐり、南武線の線路をこえて、多摩水道橋へむかう高架道路のてまえを右折。道路と多摩川の土手にはさまれた住宅地のなかに広めの駐車場があった。


 駐車場は八割ほどが月極で、かどの数台分が時間貸しのタイムパーキングになっている。


 リュウジは月極部分の空いているところに車をとめる。

「ここも見た感じ、監視カメラはない。もともと月極のところに、一部だけタイムパーキングが仮設されてる感じだから。逆にプライバシーとかに配慮したのかもな」


 リュウジは車から降りて、駐車場の奥に歩いていく。


「このアパートの敷地から、高架下の道に抜けられるんだ」


 駐車場の奥の低い壁のすきまを、からだを横にして通り、アパートの側面を抜けて、高架下の道にでる。ケイもつづく。


 高架の上の道路は多摩水道橋につながる世田谷通りだ。このあたりの多摩川の土手は三メートルほどの高さがあるので、橋につながる道路は高架になって登っていく。高架下は金網が張られていて、なかには自転車がずらりとならんでいる。


「高架下が撤去した自転車の保管場所になってるんだ。ずっとむこうまでつづいてて、管理事務所は遠いから、このへんはほとんど人けがない」


 高架道路の真下あたりに多摩川のほうへ抜ける小さなトンネルがある。自転車に乗った人がひとり、ようやく通れるほどのトンネルだ。リュウジとケイがトンネルをでると、そこは多摩川の土手の道から別れて、自転車と歩行者だけが通れるようになっている高架下のアンダーパスだった。


「この上の水道橋をわたる道と土手の道って、信号のある交差点になってるから、ランナーとか自転車で止まりたくない人はこっち通ってくださいって作りなんだよ。ついでに、高架下に自転車の保管場所があるから、こっちに抜けられると便利だねってことで、こんな作りになってるんだと思う」


 ちょうどTを右に横倒しにしたような感じで、ランナー用のアンダーパスから高架下にぬける横穴があいている。


「ここでお金の受けわたしをするの?」ケイが訊いた。


「ほとんど人通りもないし、すぐに稲城にむかう多摩川沿いの道にもどれる。おれがこの横穴で待ってて、交換用のリュックをわたす」


 そう言ってから、リュウジはトンネルをもどり、高架道路の真下にでる。そして右手を指さした。


 トンネルのすぐわきに高架の上の道路へのぼる階段がある。


 ふたりで階段をのぼると、そこは多摩川土手の道路と、水道橋にかかる道路との交差点だった。


「ここで待ってれば、自転車便でもどってくるあんたがすぐにわかる。あんたが橋をわたってくるのが見えたら、下のアンダーパスの横穴にいくよ。時間的にもちょうどいいんじゃないかな」


「そうですね」


「ひとつ気をつけたいのは──」


 リュウジは水道橋の交差点の上を指さす。道路わきの鉄柱から道路上にほそい横棒がはりだし、片道二車線のそれぞれの車線のまんなかあたりに四角く透明なボックスが置かれている。一見すると街灯のようだけれど、おそらく違う。


「カメラだよ。たぶんNシステムだと思う」


 Nシステムは警察が主要道路上に設置している自動車ナンバー自動読取装置で、その下を通れば自動的に車のナンバーと運転者の顔が記録される。


「Nシステムだとすれば、二輪車や歩行者は記録されないはずだけど、いちおう気をつけておいたほうがいい」


 ケイはリュウジからわたされた派手なサイクルジャージのうえに、あらかじめウインドブレーカーの上下を着て、ダイエーから自転車にのることにしていた。


「ウインドブレーカーはどこで脱げばいい?」


「成城の駅のわきに駐輪場がある。そこらでいいんじゃないかと思う。いまからそこも下見しとこう」


 ふたりは車にもどり、水道橋をわたって、成城にむかった。


「いちおう自転車便は東京方面からきたって感じにしようと思うんだ。こっちにもどってくるから、あんまり意味がないかもしれないけど」


 世田谷通りを進み、小さな野川の流れをこえて、ひとつ目の信号を左折すると、成城学園前駅まで登っていく。正面に駅が見えたら、駅まで行かずに右折して、つぎの道を左折すると、地下化されている線路の上が駐輪場になっている。


「駐輪場には入らずに、この仙川のほうにむかう脇道で、いったん自転車からおりて、ウインドブレーカーを脱げばいいよ。ここでサイクルジャージになってヘルメットをかぶるぶんには、人に見られても、不審には思われない。脇道なら監視カメラにもうつらない。コソコソしなければ、人の記憶にも残らないよ」


 リュウジはそれ以上、原武会長の邸宅には近よらない。


 きた道をもどって、水道橋をわたり、右折して、多摩川沿いの道を稲城にむかう。


 右手に水門、左手に駐車場のだだっ広いセブンイレブンが見えたら左折して、水路に沿って走る。京王線の線路にぶつかったら、線路に沿って進み、京王よみうりランド駅をこえたところで左折する。


 すると右手に黒々とした緑につつまれた山が見える。道はゆるやかな登りこう配で、民家もぽつぽつとしかない田舎道だ。


「ここが八雲神社だよ」


 造成とちゅうで放棄された感じの空き地があり、その奥に白い、おそらくコンクリート製の鳥居が立っている。あの奥に山道がつづいているのだろう。


「場所がわかれば降りなくてもだいじょうぶだよね」


「ええ」


 リュウジが車を進めると、登りこう配がだんだんきつくなり、道もくねりはじめて、やがてヘアピンカーブにさしかかる。そのカーブちょうど折り返しのところに、山道へむかう入り口がある。


「さっきの神社から雑木林の山道を上がっていくと、あの入り口につながる道にでるはずなんだ」


 そのカーブをまがりきるとすぐに、よみうりランドの敷地で、「ジャイアンツ球場」とか温泉施設の看板がある。たぶんこのあたりが山のピークだ。


「振り返ってみなよ。ここ、けっこう眺めがいいんだ」


 見ると、眼下に街の灯りがひろがっていた。


「ときどき、カップルとかが車とめて、夜景を見てるよ」


「リュウジさんも彼女連れてきたんですか」


「いや、おれ、車に彼女なんて乗せたことないよ。てか、じぶんの車なんてもったことないし。免許だって、かなりムリしてとったんだ。高い金だしてさ。母ちゃんが、免許くらいはとっとけって言うから」


 ケイも教習所の料金の高さには驚いた。ふつうに通えば三〇万円、ケイは安い合宿免許をさがしたが、それでも二〇万円近かった。若者がじぶんのお金で車の免許をとるにはハードルが高すぎる。必要がなければそんな高価なもの欲しいとさえ思わないだろう。


「こんかい役に立ってよかったよ」リュウジは苦笑した。


 目のまえに、よみうりランドの大観覧車が現れて、すぐに背後へと飛び去った。


「さて、どうするかな」リュウジは下り道のハンドルを切りながら。「どこかいい場所があれば車をとめようと思ったんだけれど……」


「リハーサルですか?」


「そう」


 京王よみうりランド駅から、稲城の山を越えて、小田急の読売ランド駅までぬける道路は、片側一車線でほそく、わりと車も行き交う。道路が小田急の線路につきあたるT字路にくると、左折して登戸の方向にむかう。


「これ世田谷通りなんだ」


 いちど成城までいったあと、多摩川を北上して、稲城の山をひとまわりして、もとの道にもどってきたことになる。


 リュウジは生田の駅をすぎたところで、右折して、なだらかな坂道を上がっていく。だんだん道はほそくなり、また山を登る角度になる。いくつかの大きな建物があって、グラウンドがあって、それが大学なのだとわかる。


 なんどか急なカーブをまがって、山頂の大学用のバスのロータリーをすぎると、大学の裏とゴルフ場の森にはさまれたような暗い道に入る。その道のつきあたりには車止めがあって、わきに小さな駐車場がある。


「ここ、生田緑地の駐車場なんだ」


 リュウジは駐車場には入らず、手まえで車をとめた。


「車はここで通行止めだし、こんな時間だから人もこないよ」


 リアシートにおいたリュックから、クリアファイルをとりだし、ホッチキスでとじた数枚の紙をケイにわたす。


「シナリオですか?」ケイが訊いた。


「読める? 暗くない?」


「ちょっと、暗いですね」


「車内灯つけるか」リュウジは車の外をうかがう。


 ケイはスマホの画面をめいっぱい明るくして、シナリオを照らす。

「ああ、これで見えます。車内灯はいいです」


「よし、じゃ、想定問答ふうになってるから。いちどあわせて読んでみよう。ひろし役はケイさん。さいしょから泣いてる感じでいいから」


「はい」


「おれに電話を変わったら、あとは泣いてるだけでいい。練習だから、そのあとのばあさんのぶんも、ケイさん相手してくんない」


「はい」


 まず、飛ばしの携帯から原ハル子の携帯に電話をかける。彼女は知らない番号からの電話はとるなと言われているので、電話にはでない。


 留守電にケイが涙声で言う。


 ──ハル子さん。ごめん。また、失敗して、ごめんなさい。


 (リュウジが、ちゃんと話せ!と脅す気配を入れる)


 ──ハル子さん。お金が必要で、ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい。


 (怯えと涙で、話すことができない、ひろしから電話を奪う)


 ──お電話かわりました。債権回収人のフジタともうします。お孫さん、いえ、養子縁組されたそうですね。息子さんの原ひろしさんが、六本木のカジノ店でおつくりになった負債、一千万円について、本日までに返済していただくお約束でしたが、お守りいただけなかったので、緊急で、ご連絡しております。わたくしとしても、ひろしさんの安全が脅かされないよう、最大限に配慮いたしますが、保証ができない状態です。至急、こちらの電話までご連絡いただきますよう、お願いいたします。なお、債権をお持ちのカジノ店は、非正規のお店ですので、ひろしさんのためにも、なにとぞご内密にお願いもうしあげます。


 (低く落ち着いた声で、丁寧すぎるほど丁寧に話し、緊急であること、暴力が迫っていること、非合法であることを匂わせ、ひろしとハル子の関係にも通じていることを感じさせて、相手を信用させ、恐れさせ、慌てさせる)


 ──ハル子さん、会長には黙ってて、ぜったい黙ってて、ごめん、もう時間がないんだ。お願い、助けて、お願い……


 (留守電は切れる)


 ハル子は電話が切れたら、すぐに留守電を再生する。


 この内容を信じ、慌てて、すぐにリダイアルをすれば第一関門は突破。可能性としては、リダイアルせずに直接ひろしの携帯に電話するほうが大きい。


 予定では、あすかとゆいがひろし社長と会談している。ひろし社長は電話をとらない。


 ハル子のつぎの選択肢は、リダイアルのはずだ。


 原武会長への連絡はしないでくれと言っている。ひろしが会長に頭が上がらず、いつか認められたいと考えていることをハル子は知っている。以前、海外のカジノでつくった借金が問題になった。六本木に裏カジノがあることも知っている。そして時間がない。ここは状況を確認するために、リダイアルだろう。


 ──原ハル子さま。はじめまして債権回収人のフジタです。お電話ありがとうございます。

 ──ひろしは、元気なんですか。

 ──はい、お元気でいらっしゃいます。ただ、精神的に動揺されているようで、とてもお疲れのようすです。わたくしどもといたしましても、早く、ひろしさまに自由になっていただきたいのですが。なにぶん、大きな金額のお取引ですから、お約束を守っていただかないと大変こまるのです。

 ──ひろしと、話せませんか。

 ──どうでしょう、(ひろしに)どう、話せる?

 ──(泣きながら)ごめん。ハル子さん。また、バカやって。年内に返せると思ったんだ。でも、会社の損失とか、不景気とかで、もう、ダメだ。ダメだ……(絶句)ごめん、ほんとごめん。

 ──だいじょうぶ? ひろし、だいじょうぶ?

 ──ハル子さま。やはり、ひろしさんはずいぶん動揺されているようで。さきほど、彼からいろいろ伺いまして、ハル子さまのお宅になら、現金で一千万円ぐらいは保管されていると。でしたら、ぜひ、ハル子さまにご相談してみてはいかがでしょうと提案いたしまして、お電話さしあげたしだいでございます。どうでしょう。なにとぞ、大切なご子息をお助けいただくことはできないでしょうか。

 ──期日の延長や、とりあえず負債の一部だけではダメなんですか?

 ──それはわたくしの裁量をこえるお話でして、わたくしは、いち債権回収人にすぎないのです。お約束どおり、一千万円、いますぐにご返済いただかないと、わたくしにもストップすることのできない大きな力が動いて、取り返しのつかないことになりかねなせん。緊急事態なのです。なにとぞ、大切なご子息のために、ご配慮をお願いいたします。

 ──そんな大金、わたしの一存では……

 ──(電話のむこうのだれかと)え、マジで、やばいじゃん。(焦り、ハル子に)すいません、ほんとうに時間がなくなってきました。いまから、自転車便をそちらのお宅に送りますので、その者に一千万円をわたしていただけますか。緊急事態です。お願いです。

 ──(泣きながら)ハル子さん。年が明けたら返すから。年末を乗り切ったら、会社のほうでやりくりできるから。いまだけ、お願い、ごめん、ほんとに、ごめん……

 ──だいじょうぶ、ひろし、だいじょうぶ?

 ──いまから三〇分以内に自転車便が到着すると思いますので、すぐに現金を一千万円わたしてください。緊急事態です。わたしはもう人が傷つくところを見たくないんです。大切なひろしさんの身の安全のために、なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願いいたします。


 暴力の影をちらつかせて、ひろし社長の生命の危機を感じさせ、原ハル子が緊張し、あせり、混乱したところで、たたみかけて 正常な判断ができないまま、すばやく行動を起こさせること。


 原ハル子が明確にお金を出すと言わなくても、このあたりで電話を切る。相手が少しでも乗ってきたら、疑いをもたれるまえに、早々にケリをつけたい。


 電話が切れたあと、彼女はどうするだろう。おそらくひろしには電話しない。可能性があるのは原武会長だ。


 事前の情報では、自宅にある現金は基本的に原ハル子の裁量で使っていいことになっている。高齢の原武会長が突然、倒れたり、事故にあったりして、意志判断ができないときの用立てでもあるが、この十年、ほとんど手をつけたことがなく、原武が確認したこともない。


 ハル子は事実上の手切れ金ではないかと思っている。


 それでもハル子は、あとで文句を言われないために、原武会長に電話するだろうか。


 ひろしは、会長には黙っていろと言っている。年が明けたら返せるとも言っている。もし、ほんとうにそんなに早く返せるのなら、黙っていたほうが、ひろしは感謝するだろう。


 でもそれは、ほんとうに彼のためになるだろうか。


 カジノで大負けするのはこれで二度目だ。あのときは原武会長に大目玉を食らった。それいらい、とてもまじめに働いていると思っていのに。やはり、原武にはひとこと言っておくべきだろうか。


 お金のことではない。一千万円ぐらい、正直、どうってことはない。それよりも、ひろしの将来のために、この件を、ハル子の腹だけに収めるか、それとも、原武会長に情報をつたえ、もういちど、ひろしの生活態度を改めさせるべきか……


 そこで、ハル子が原武に電話をし、彼が電話にでたら、まず、アウト。そのときは、藤村れいかの連絡で中止。


 もし、自転車便の到着までに、ハル子が疑いをもって、警察に通報し、家に警官がくれば、中森めぐみの連絡で、中止。


 さらに、自転車便が到着し、お金を受けとるまえに、あとから遅れて警察が現れた場合、どうだろう、このタイミングがいちばん危険だ。これは、ケイが注意するしかない。


 ハル子がすぐにお金をわたさなかったり、引き延ばしにかかっていると感じたら、ケイの判断で逃げるしかない。


 リュウジとケイのふたりは、リハーサルのあと起こりそうな事態を考え、対処を確認した。そして、ひと息つくと、リュウジが言った。


「もしさあ、捕まったら、おれの名前は出していいから」


「僕、口は堅いですよ」ケイが言った。


「でもさあ、黙ってても、ここ二日、ねえちゃんやミーちゃんとぐるぐるまわってるだろ。ぜったい、そっちまで疑われるよ。だからさあ、捕まったときは、おれとあんたふたりで考えて、勝手にやったことにしようよ。ノウハウはおれがもってるし、情報はあんたが集めたってことで、おれがそそのかしてやったんだよ。それがいちばん自然だよ」


「でも、保護観察中でしょ。こんどは一発で刑務所ですよ」


「しょうがないよ。そういうめぐり合わせだったってことだろ。あんたにはもうしわけないけど」


「ゆいさんは?」


「そっちは自業自得だよ。じぶんでなんとかして、強く生きていってもらうしかない」


「強くなるの、むずかしいですよ」


「そうだねえ」


 リュウジは窓の外を見た。こんもりとした暗い森がずっと下のほうへつづいている。


「ここさあ、この森の下が谷になってて、夏の初めになると、蛍が見れるんだよ」


「蛍ですか? こんなに東京に近いのに」


「ちっさいときに家族で見にきたことあるんだ。ああ、ミーちゃんやアイちゃんも一緒だったと思う。おれが小学校に上がったばっかりくらいで、アイちゃんはちょっとお姉さんだったな。中学生になってたのかな。暗いからさ、父さんがいちばんまえにいて、ねえさんとミーちゃんがまえで手をつないでて、母さんがうしろにいて、おれの手をアイちゃんが握っててくれたんだ……。暗闇のなかに、水の流れる音だけが聞こえててさ、なんか、ちっさい青白い光が、ふわふわ、いくつも、点いたり消えたり。すごい、きれいだったな。アイちゃんの顔を見上げると、すごい、ニコニコしてて、なんか不思議だな、まっ暗だったはずなのに、アイちゃんの笑顔は、すごい鮮明におぼえてる」


 いまは失われてしまった笑顔を、とても大切にしている人がここにもいる。どんなに素敵だったのだろう。ネットの海にその情報の複製の複製の複製がずっと漂ってはいるけれど、僕らはもうぜったいに触れることができない。


 ケイにとっては出会えなかったアイドル。リュウジにとっては記憶のなかのやさしいお姉さん。僕らとすれ違ってしまったまま、彼女は永遠の時のむこうで、ずっと変わらずに微笑みかけている。


「もしさあ、いろんなことがうまくいって、来年の夏、六月ぐらいだったかなあ、暇があったらさ、こっちに遊びにおいでよ。みんなで蛍を見ようよ。ねえちゃんやミーちゃんも一緒にさ。レイさんや、あすかさんにも声をかけてさ」


「そうですね。いいですね」


「うん、いいよ。やる気になってきた。ぜったいイケるよ。がんばろう」


「ええ、がんばりましょう」


 そうだ、もし、いろんなことがうまくいったら、ジェイも誘ってみよう。この青い車も、飛ばしの携帯も、彼の分身みたいなものだから、リュウジさんや、めぐみさんも許してくれるだろう。ジェイはいいやつだから、きっとみんなとも仲良くなれる。


 なあ、ジェイ、いろんなことがうまくいくように、おまえの分身に力をあたえてくれ。



 朝、携帯電話が鳴って、リュウジとケイは目を覚ました。ベッドに寝ていたリュウジは枕もとのスマートフォンを確認し、床で寝袋に包まっていたケイは壁のコンセントにつないで充電しているスマートフォンに手をのばした。


「もしもし、なに?」


 鳴ったのはリュウジのスマートフォンだった。表示された相手は姉のゆいだったが、電話をかけてきたのはめぐみだった。


「あれ、ミーちゃん、どうしたの?」


 ケイは時計を見た。午前10時だった。昨夜は深い時間まで生田緑地でリハーサルをしていたのでまだ眠い。リュウジとは12時くらいに起きればいいかと相談して目覚ましをかけていた。


「なにそれ、どういうこと?」


 リュウジは目をこすりながら、眉をひそめる。しばらく、うん、うん、と話しを聞いてから、


「わかった。じゃ、そうする。あとは予定どおり。──うん。わかった。くわしい話しはあとで、それじゃ」


 リュウジは立ちあがって、トイレに入り、キッチンで顔を洗って、タオルで顔をふきながらもどってきた。


「なんですか、なんか変更?」ケイが訊いた。


「いや、ちょっと新しい情報が入ったみたい。悪い情報じゃない」そう言ってから、リュウジはしばらく考えて、「だけど、だいじょうぶかな」と首をひねった。


 ふたりは外にでて、近くのコンビニで弁当を買ってきて食べた。まだ12時まえだった。なんだか時間をもてあまして、リュウジはスマホのゲームをはじめ、ケイは散歩にでた。リュウジのアパートから多摩川までは歩いて数分だった。


 多摩川の土手にあがると、青空がひろく、草木の緑が目にやさしかった。河川敷のグラウンドでは子どもたちがサッカーをして遊んでいた。子どもたちの無秩序なサッカーは見ていて飽きなかった。


 風が冷たく感じて、そろそろ帰ろうかと立ちあがり、川の流れを見たとき、ああ、この流れを下っていくと、あの丸子橋につづいてるんだな、と思った。


 リュウジの部屋にもどり、からだにぴったりとした半袖、ハーフパンツの派手なサイクルジャージを着て、その上から黒いウインドブレーカーの上下を着た。


 じぶんのダウンジャケットとジーンズは交換用のリュックサックに入れた。自転車を分解する工具もそのなかに入れた。お金を運ぶためのリュックサックにはなにも入れなかった。服をぬぎ捨てるときに忘れてはいけないので、財布やサングラス、手袋やリュウジと交換したスマートフォンを、彼に借りたウエストバッグに入れた。あと、受け取りのために用意した伝票とペンもそのなかに入れた。


 ウインドブレーカーを脱ぐまでは、黒いキャップをかぶることにした。リュウジもきょう一日、青い車に乗っているあいだは、キャップをかぶることにしている。車のなかに置いてあった、おそらくはジェイのキャップだ。黒地に小さな翼のエンブレムが刺繍されていた。


 14時にアパートをでて、車に乗り、ダイエーにむかった。ゆっくりと走っても、15分でダイエー屋上の駐車場についてしまった。


 リュウジはいちばん奥の目立たないところに車をとめ、しばらくふたりで車内に座っていたが、なにもしないほうが緊張してしまうので、ふたりでダイエー内をぶらぶらと歩いた。リュウジは駐車券とともに見せる購入レシートが必要だからと、地下階まで降りて、電池とガムとミネラルウォーターを二本買った。


 リュウジとケイが屋上にもどって車に乗りこんだのは、14時50分だった。


 リュウジは飛ばしの携帯電話を手にしたまま、ダッシュボードの時計を見つめた。予定では15時の10分前には、あすかとゆいがひろし社長の事務所を訪れるはずだ。なにごともなく、予定どおり会談がはじまるなら、こちらには連絡はない。


 15時05分になったら電話をする、そうリュウジは決めていた。


 時計が15時ちょうどになった。


 ふたりとも黙っていた。


 そこから、なかなか時間が進まない。


 ゆいからも連絡はない。


 あたりには人影も車もなく、とても静かだ。


「ここさあ……」リュウジが時計を見つめたまま言った。「夏になると多摩川の花火大会があるんだけどさあ、ここからでもけっこう見えるんだ」


「へえ、そうなんですね」


 ケイは窓の外を見た。とてもきれいな青空だった。ただ、どちらの方角に多摩川があるのか、彼にはよくわからなかった。


 リュウジが大きく深呼吸した。


 時計を見ると、15時05分だった。


「さて、はじめようか」リュウジがケイを見て言った。


 ケイはうなずいた。


 リュウジが飛ばしの携帯電話の電源を入れた。


       ☆


 めぐみがゆいのワンルームマンションをあとにしたのは13時だった。彼女はゆいから借りたスーツを着ていた。ほとんど黒に見えるダークグレーで、ひらき襟の白いブラウスと膝丈のスカート、濃紺のパンプス。どれもサイズはぴったりだった。肩までの黒髪をひっつめてうしろで結び、黒ぶちのメガネをかけ、レディースのビジネスバッグをもって歩く姿は、営業ウーマンというよりは、リクルート活動中の学生のようだった。


 ゆいは彼女よりも先に部屋をでていた。めぐみはひとりで東急東横線に乗った。副都心線を使って、原宿駅で千代田線に乗りかえ、小田急線の成城学園駅についたのは14時すぎだった。


 めぐみは駅のちかくのコンビニでサンドイッチと温かい無糖の紅茶を買い、いちど原武会長の家を確認しにいった。


 会長の家は白く高い壁に、カーポート用の広い金属シャッターが特徴的だった。このあたりの家並のなかでは、大きさもデザインもとくに目立つものではないけれど、実用的で品質の良い高級感を感じさせる。シャッターの横にある通用口のような玄関に、「原」とだけ書かれたネームプレートとカメラ付きインターフォンが据えられていた。


 めぐみは時間を確認しようとスマートフォンを手にしてから、その電源を切っていることに気づいた。まずい、腕時計も持っていない。めぐみはちょっと考えてから、バッグのなかにiPodを入れたことを思いだした。彼女はiPodをとりだして時間を確認した。14時30分だった。


 公園のベンチに座るにはちょっと早い。ここに立ちどまっているのも不審なので、めぐみはとりあえず歩きだし、公園につきあたるT字路を右にまがって、会長の家をひとまわりし、成城大学の方向へ歩きはじめた。


 駅からここまでが10分だとすると、ここから成城大学までも、だいたい10分。そのへんを5分くらい散策して、またもどってくれば、15時には公園にいられる。めぐみは成城大学まで歩いた。


 「キャンパスライフ」ということばに、めぐみはいつのころからか甘酸っぱいあこがれを感じていた。たくさんの同年代の男の子や女の子と、緑豊かな校舎で、おしゃべりをしたり、スポーツをしたり、そして勉強をしたり。めぐみは本を読むことが好きだったし、経済にも興味があった。ひとりの作家がどのような人生や思想をへてひとつの作品を生みだすのか。それとはまったく別に、市場という顔の見えない膨大な数の人びとが、モノや情報をやりとりすることで、価値が生まれ、あるいは失われる。作品を生みだす作家のエネルギーも、市場をつくりだし、破壊するエネルギーも、欲望とよばれ、それはお金という不思議な存在で計られる。お金は、人がお金だと信じるから、お金でいられる。それって、なんだか、神さまに似ている。神さまはこの世界からいなくなってしまった。いつか、お金もこの世界からなくなってしまうだろうか。ああ、そのときまた、神さまが現れるのかもしれない。


 そんなことをいつか自由に考えてみたかった。じぶんが感じる不思議をだれかが解き明かしてくれているのではないか、それを教えてほしかった。なにがわかることで、なにがわからないことなのか、それだけでも知りたかった。


 めぐみは高校三年の冬まで大学受験の準備をしていた。家庭の事情から迷いもあったが、姉のあいは大学進学をすすめ応援してくれた。そのために、あいはマイナーな舞台をはなれ、メジャーなタレント活動にむかったとも感じていた。あすかもれいかも大学に通いながら『ストとれ』の活動をしている。めぐみもそのつもりでいた。あいは経済的な心配はするなと言ったが、できれば国公立に入りたかった。私立の推薦などは使わず、年明けのセンター試験をめざした。


 そして、その年の十二月、姉のあいが、突然この世界からいなくなってしまった。


 めぐみは大学をあきらめた。もちろん歌うことが大好きだったし、『ストとれ』のメンバーが大好きだった。だから後悔はない。ただ、「キャンパスライフ」ということばを思い浮かべたとき、もしかしたらじぶんが歩くはずだった緑の並木道や、世界の秘密を教えてくれる恋人が、そこにいたのかもしれないと、じぶんでもバカな妄想だと思いながら、ちょっとした胸の痛みを感じてしまう。それは、あこがれなんてきれいな気持ちじゃないのかもしれない。嫉妬とか、憎しみとかいわれる、嫌な感情。でも、その感情がどこにむけられているのか、じぶんでもよくわからなくて、めぐみを苦しませた。


 真冬だけれど大学の樹々には緑が多かった。丘に建っているから、正門から奥がひらけていて、きれいな青空に緑がよく映えた。そこは、めぐみの居る場所ではなかった。


 めぐみは大学に背をむけて歩きだした。ゆっくりと、ぬかりなく歩みをすすめる。白く高い壁にかこまれた原武邸の正面を横切り、つきあたりの公園に入って、ベンチに腰をおろした。


 iPodで時間を確認すると、ちょうど15時だった。


 ここまでは警察にも出会っていないし、この付近には歩いている人もいない。


 めぐみは原武邸を見ながら、バッグをあけ、コンビニの袋をとりだした。ペットボトルの紅茶はぬるくなっていた。歩いているあいだは気にならなかったけれど、座ってじっとしていると、空気がとても冷たい。30分でも座っているのは辛いかもしれない。


 コンビニで使い捨てカイロも買えばよかったと、めぐみは後悔した。でも、これからしばらくはここを動くことはできない。お天気がよくて、陽あたりがいいのだけが救いだ。


 めぐみの座っている位置から見えるのは原武邸の側面の白い壁だけで、玄関は見えない。ただ、駅のほうにむかう道は奥までずっと見えているので、だれかが原武邸にやってきて、玄関を出入りするのはよくわかる。


 道にも公園にも人の姿はない。まあ、天気がよくても、これだけ寒いと、徒歩で出歩いたりはしないのだろう。広い道路もこの近くにはなく、丘というより、ちょっとした小山のような土地の端っこなので、車が行き交うこともない。


 めぐみは注意深く、道の奥からだれかこないか、玄関を出入りするものはいないかと観察した。目を離さないようにしながら、慎重にサンドイッチの包装をあけ、ゆっくりと口に運んだ。よく味わって食べ、ペットボトルのキャップをあけて、ぬるくなった紅茶を飲んだ。


 ハム卵サンドを食べ終わったあと、時計を見ると、15時10分だった。もう、電話はしているだろう。原武邸のまわりに動きはない。電話が終わっても、自転車便がここにくるまで、20分から30分かかる。あとひとつツナ野菜サンドがあるけれど、だれか人が公園にきたときに食べることにしよう。


 めぐみはiPodをとりだし、ネットを見ているようなふりで、時間を確認しつつ、原武邸へとつづく道を監視する。


 しばらくすると、右の道から小さな犬をつれたおばさんが歩いてきて、犬の歩みに合わせて公園に入ってくる。犬は茶色いプードルでピンク色の服を着せられていた。寒いのか、それとも怯えているのか、ずっと震えながら歩いている。


 めぐみはコンビニの袋からツナ野菜サンドをとりだして、包装をあけ、口に運んだ。犬を連れたおばさんは、ベンチに座るめぐみのまえを通るときに、会釈をした。めぐみも頭を下げた。寒いのに大変ね、と上品でやさしい笑顔を見せ、おばさんは犬に引っぱられるように去っていった。


 めぐみは小さな犬が苦手だった。可愛いというより、なんだか可哀想な気がしてしまう。あの小さな震える犬の姿は人間の欲望がつくりだしたかたちなのだ。そう思うと、いつも複雑な気持ちになる。なんだか申し訳なくなり、人間を怖いとも感じる。


 そんなことを考えながら、サンドイッチを食べてしまい、ペットボトルの紅茶を飲んで、時計を見た。


 15時30分。とても静かだ。寒いけれど、空は明るく、風もない。


 やがて、道の奥にちいさな人影が現れる。いや、違う。自転車だ。黒地に赤白のストライプのサイクルジャージ、ラグビーボール型のヘルメットをかぶり、とんがったサングラスをかけている。


 自転車便のケイが原武邸にむかってきた。


      ☆


 田中あすかが伊藤ゆいをともなって、宮益坂のひろし社長のオフィスを訪れたのは14時50分だった。


 オフォスは窓からの光がよく入って、とても明るかった。ドアを入っても受付はなく、モデル事務所というよりは、雑誌の編集部のような印象だった。ただ違うのは、壁や柱に張られているポスターが可愛くて扇情的な女の子の姿ばかりで、服を着ていないものも多い。


 田中あすかは近くのデスクにいた女性に、ひろし社長はいらっしゃいますか、とたずねた。彼女が立ちあがって、奥のほうを見ると、いちばん奥のデスクでひろし社長がこちらに気づき、手をあげた。


 彼はあすかたちのところまでやってきて、デスクの女性に、打ち合わせ室にいるから、どうしても必要なときだけ声かけて、と言った。


 打ち合わせ室はおなじフロアにあり、ドアをあけて入ると、横長の室内に長テーブルとイスが八脚。奥にホワイトボードやテレビ、ブルーレイやDVDなどの再生機が複数つまれ、パッケージ製品の入った段ボールなども置かれている。オフィシャルな会議室というよりは、スタッフが気軽に使える部屋のようだ。


「手狭でもうしわけないんだけれど、ファミレスで話すってわけにもいかないだろうから、かんべんしてね」とひろし社長はふたりを導き入れた。


 あすかとゆいは長テーブルのまんなかあたりにならんで座り、ひろし社長はドアの外についている空室のプレートを使用中にしてから、テーブルをはさんでふたりの正面にまわった。


「あすかさん、ひさしぶりだね、お店のほうはうまくいってるの?」


 そう言いながら、ひろしは座り、手にもっていたスマートフォンをテーブルの上においた。あすかもゆいも、テーブルに置かれたスマートフォンを見て、じぶんたちのもうひとつの目的を意識した。


「まあ、なんとか、やれてますよ」


 あすかは素っ気なくこたえながら考える。さて、ゆるく雑談から入るのがいいのか、それとも単刀直入に正面から切り込んで緊張感を高めるのがいいのか、ひろしは雑談からでかまわないという態度だ。ゆるく入ったほうが時間かせぎはできる。ただ、15時すぎに、リュウジたちのシナリオが動きだすとすれば、やはり、早めに緊張感をだしておくべきか。


「ASUASUだっけ、あすかさんのお店、メンズはあつかってないんだよね?」

「ええ、いまのところ」

「ん? てことは将来的にはメンズも考えてるの」

「まあ、先のことはわかりませんから」

「そっかあ、まあ、じぶんで可能性にふたをしちゃう必要はないもんね」


 あすかはバッグからシンプルな大学ノートをとりだし、ひらいて、ボールペンで日付と時間を書き込む。12月27日15時。


 ひろしはそれを見て、ちょっと黙る。すこし緊張したかもしれない。


 あすかはあらたまって言う。

「本日は、貴重なお時間をさいていただき、ありがとうございます。電話でも申し上げましたけれど、ひろしさんとめぐみのやりとり、拝見しました。電話のあともいろいろ考えましたけれども、やっぱり一千万円は高すぎると思います。この件を円満に解決するためにも、金額と期日を、もういちどお考え直しいただきたい。現実的な落としどころを見つけないと、おたがいに傷つくことになりはしないかと、心配なので、本日、わたくしが、うかがったしだいです」


 ひろしがどう言いかえすかはだいたいわかる。作品にかかわった人間の手間、努力、経費、見込んだ利益。そして約束を守らなかったことへのペナルティ。


 情とお金と制裁だ。


 そして最終的に彼が必要としているのはメンツ。ひろしが経営者として、軽んじられることなく、うしろ指をさされることもなく、それなりの畏怖と尊敬をうけることだ。


 この件はスタッフや出入り業者の口を通して、ひろしの周辺へとひろがるだろう。そのときに、彼はさすがだ、と言われたい。軽くゆるしては、こんごの仕事でナメられる。ただ、あまりにきびしく追いつめても、加減を知らない、器が小さい、と人望をなくす。


 下手に女の子を追いつめて、裁判所にでも駆け込まれるのは、ほんとうは避けたいはずだ。経済的に勝利しても、彼を非難する人間はかならず現れる。


 ひろしも迷っている。つけいるスキはある。ただ、あくまでも下からお願いしなければならない。強気で正面衝突すれば、彼もメンツのために切れかねない。こういうお坊ちゃんタイプが切れると手がつけられなくなる。


 どこかのカジノで大負けしたというのも、若さのせいだけではなく、富を約束されたものの、能力に欠け、期待にこたえられないと劣等感をいだく人物が、思うままにならず、じぶんを見失ったときに見せる暴走だ。


 悪いのは、あくまで伊藤ゆいだ。被害者であるひろしに慈悲を乞わなければならない。しかし、媚びる必要はない。これはビジネスだ。おたがいに納得する取引をする。ひろしがナメられもせず、非難もされず、ゆいが苦しみながらも感謝する地点があるのなら、そこが落としどころだ。


 案の定、ひろしがスタッフの努力やら、裏切られたじぶんの傷ついた気持ちやら、破ってはいけない社会人のルールやらを、くどくどと説教じみて熱心に語っているときに──


 彼のスマートフォンがテーブルの上で振動した。


 あすかとゆいが緊張する。


 ひろしはスマートフォンに手をのばし、テーブルの上でちょっと傾けて、相手を確認する。


 あすかはからだを硬くして、奥歯をかみしめる。


 ゆいはひざの上で手をくみあわせ、祈るようにスマートフォンを見つめる。


 ひろしは、そのままスマートフォンを置いて、熱心に説教をつづける。


 スマートフォンの通知の明かりが消えた。


 あすかとゆいの肩から力が抜ける。


 たぶん、これで第一関門は突破した。あとは値下げ交渉に集中すればいい。あすかは、ひろしの説教を聞きながら、バッグからクリアファイルをだし、一枚の紙をとりだしてテーブルに置き、ひろしに見せた。


「わたしなりに、スタジオ代やら人件費やらをリサーチして見積もりを作ってみました。いまかかっている実費はこんなものですよね」


 あるていど説教をさせて、すこしはひろしの気が晴れたところで、具体的な数字をだし、着地可能な金額を引きだすのが、あすかの作戦だった。


       ☆


 都内の道を黒いレクサスが走っている。車は目白にあるホテル椿山荘にむかっていた。


 藤村れいかはタイトだが上品なビジネススーツに身をつつみ、その助手席に座っている。運転は白髪の男性秘書がしている。彼もダークスーツに身をつつんでいる。ふたりの装いにすきはない。


 リアシートでは原武が目をとじて、じっと座っている。姿勢も正しく、呼吸も規則的で、眠っているというよりは瞑想をしているようだ。頬がこけるほど精悍な顔つき。体型にもたるんだところがないことは、仕立ての良いスーツのうえからでもわかる。じっさいの年齢よりは20歳くらい若く見られても不思議ではない。


 車内はとても静かで、エンジン音よりもタイヤが道路を刻む走行音のほうが、心地よいていどに響いている。


 ふと原武が目をひらいた。彼はスーツの内ポケットからスマートフォンをとりだす。無音のまま振動している。彼は手のなかでスクリーンを確認すると、ちらりと助手席の藤村れいかに目をやった。


 れいかは少しだけからだを傾けて、肩ごしにうしろの原武を見る。


 原武はれいかと目が合うと、とくに表情を変えることもなく、そのままスマートフォンを内ポケットにしまった。


 れかいは彼を見たまま、わずかに頭を下げた。


 原武は何事もなかったように、ふたたび目をとじ、姿勢正しく、瞑想の世界に帰っていく。


 れいかはダッシュボードのまんなかに埋め込まれた時計を見た。その針は15時25分をさすところだった。


       ☆


 多摩水道橋の合流地点でリュウジは待っていた。


 ケイが成城の原武邸にむかってから30分以上たっている。単純にこの場所から成城までを往復するだけなら、40分くらいだろう。ダイエーからの距離と登り坂の苦労を考えると、もう少し時間がかかるだろうか。ただ、道の状況さえよければ、ロードバイクは意外にスピードがでる。


 リュウジは橋のたもとの交差点から高架下にむかう階段の手すりにもたれて、怪しまれないようにスマートフォンをときどきいじったりしながら、橋のむこうからくるはずのケイの自転車便を見逃さないように注意している。背中にはケイの着替えと工具の入った交換用のリュックサックを背負っている。


 スマートフォンで時間を確認すると15時55分。ここまではだれからも、なにも連絡はなかった。連絡がないということは、ものごとがうまく進んでいると考えられる。ならば、そろそろ現れてもいい。


 リュウジは橋の上にかかるアーチの奥を見つめる。対岸である東京側の橋のたもとにも交差点があるのだが、橋の道路が中央にかけて微妙に盛りあがっているようで、その先の信号すら見ることができない。きのう下見をしたときには気づかなかった。


 これだと橋の中央をこえたあたりでないと見えないだろうな。それからおれが下に降りたんだと、信号が青なら、おれのほうが遅れるかもしれない。


 そんなことを考えていると、車の流れのなかに、おなじくらいの速度で車道を走ってくる自転車が目に入る。黒地に赤白のストライプのサイクルジャージ、ラグビーボール型のヘルメットに、とんがったサングラス。


 リュウジはあわてて階段を駆け下り、高架下からアンダーパスにぬけるトンネルにむかった。


       ☆


 成城の丘から、めぐみはゆっくりと歩いて、野川にかかる橋にむかった。丘の上から野川のほうに下る坂道は、とても急でまがりくねっていて、自転車でここを降りるのはけっこう怖いだろうなと思った。


 小田急線のガード下をくぐり、野川にそった脇道を歩いて、世田谷通りにでる。


 野川は川幅数メートルの小さな川で、世田谷通りを車で走っていても、そこが橋だとは気がつかないかもしれない。護岸はコンクリートブロックで固められ、深く掘りこまれている。ただ、水の流れがきれいで、護岸や川べりが緑で覆われているので、見ていて気持ちはいい。


 iPodで時間を見ると、まだ一六時になっていない。めぐみはなるべくは橋からはなれないようにしながら、川を眺めたり、iPodで写真をとってみたり、散歩を装ってみたり、といっても気楽な散歩を演じるには、格好がビジネス仕様すぎるのだけれども、まあ、そのようにして、時間をつぶしているうちに、世田谷通りを川崎方面からやってくる青い車に気づいた。


 リュウジは野川の橋の歩道に立っているめぐみを見つけ、橋をこえたところで車をよせた。


 助手席に乗ろうとする彼女を制止して、リアシートに乗せ、青い車を発進させる。


「リュックサックに入ってるお金を確認して、キャリーバッグに移して」リュウジが言った。


 めぐみがリアシートでリュックサックをあけると、なかに白い紙袋が入っている。紙袋には薔薇のリースのイラストが描かれていて、ガムテープでパッケージされている。


「紙袋のなか確認した?」めぐみが訊いた。

「いや、急いでたから」リュウジは言った。「コピー用紙の束だったとしても、いまさらどうしようもないし」

 リュウジは苦笑した。


 めぐみは薔薇のリースの紙袋からガムテープをはがし、なかを見る。


 帯封をされた紙幣の束がきちんとならんでいた。


 めぐみは数をかぞえることもなく、あわてて紙袋をとじ、はがしたガムテープでパックしようとしたが、それはうまくいかなかった。じぶんの手が小きざみに震えているのがわかった。


 バックミラーでようすをうかがっていたリュウジが言う。

「キャリーバッグのなかにビニール袋とビニールテープがあるから、それ使ってよ」


 めぐみは黒いキャリーバッグから半透明のゴミ捨て用のビニール袋をとりだし、そこに薔薇のリースの紙袋を入れて、ビニールテープでパッケージした。それをキャリーバッグに入れ、ジッパーをとじる。


 めぐみはリアシートの背もたれに身を沈めて、ふう、と息をついた。


「だいじょうぶ?」リュウジが声をかける。

「ええ」

 めぐみはそれだけを返事して、しばらく沈黙がつづいた。


「ねえ」リュウジが振り返らずに言う。「お金は手に入ったけど、おれ、思うんだけどさあ」


 めぐみはシートにもたれかかったまま、リュウジのうしろ姿に目をやる。


「おれたち知りすぎてないか?」

「どういうこと?」

「ばあちゃんの呼び方とか、携帯の番号とか、家に現金がいくらあるとか、家族か、よっぽど親しい人しか知らないことを、おれたちは知ってる。おかげで、金は手に入ったけど。これ、だいじょうぶか?」

「ひろし社長が、疑うかもしれないってこと?」

「ポンと一千万、だしちゃえるとね」


 めぐみは胸もとで腕をくみ、ひとさし指を噛むように唇にあてる。


「そのために、あすかさんには交渉をがんばってもらってるし、おれたちも証拠は残してないはず。でも、疑われると、タイミングといい、金額といい、こんなに怪しい話しはない」


「疑われないように、できることはしたつもり」


「うん、まあ、そうなんだけどさ。ミーちゃんが、だいじょうぶなら、それでいいんだけど、いちおう、その金をどうやって集めたのかって、つじつまだけは合わせといたほうがいいと思うよ」


「そうだね」


「まあ、もしなんかあったら、おれとケイくんでやりましたってことにするから。それは頭に置いといて」


「いや」めぐみは強く言った。「それはよくないよ。言いだしたのはわたしだから、わたしが責任をとる」


「責任なんて、だれにもとれないよ」リュウジは言った。「ミーちゃんが捕まったら、ほかの人まで共犯でまきこんじゃうよ。だから、お願いだから、へんな正義感だして名乗りでたりしないでね。あんなにがんばってくれてるケイくんの思いまで無駄にしちゃうから」


「でも、それ、おかしいよ」


「いいんだよ。おれもあいつも、もともと手が汚れてるんだ」


「ちがう」めぐみは言った。「あなたたちの手が汚れてるんじゃない。汚れてるのは、この世界のほうなんだ」


 リュウジはちょっとリアシートに目をやったが、それいじょうなにも言わなかった。


 めぐみはシートにもたれ、車窓の景色を眺めた。空が明るさを失い、冬の早い夕闇が訪れようとしていた。


       ☆


 田中あすかが原宿の東急プラザ表参道に到着したのは16時30分だった。ひろし社長の事務所で、こんをつめて一時間なんとかやりあって、それなりの仕事はできたと思っている。くたくたに疲れた彼女は、宮益坂を下り、渋谷の駅まえで伊藤ゆいと別れて山手線に乗った。原宿駅でおりて、表参道のゆるやかな坂を、中身が空っぽのキャリアケースを引きずって歩いた。東急プラザのエスカレーターを上がって、屋上庭園のスターバックスでカフェラテを買い、木陰の席に腰をおろす。温かいカフェラテを両手でつつんでひとくち飲んだとき、ようやくあすかは、ほっとすることができた。


 この屋上庭園があすかは好きだった。


 最近は仕事が忙しくてあまりきていなかったけれど、ストとれ時代はメンバーと原宿で買い物をしたあと、このオープンカフェでお茶をした。たしか、この東急プラザがオープンして、はじめてみんなで訪れたとき、中森あいもいたた。


 あいはもう、ストとれから卒業していたけれど、オフに待ち合わせてみんなで顔を合わせたんだ。だからあれは五年くらいまえだろうか。


 その五年が、長いのか短いのかよくわからなかった。だけどいろんなことが変わってしまった。いや世界すべてがひっくりかえってしまった。そのくらい、あいを失ってしまったことが悔しい。


 伊藤ゆいにどうして東急プラザで待ち合わせにしたのかきいたら、渋谷か青山からちょっと離れたところで、あすかさんがお茶でもしそうなところはない? とリュウジにきかれて、思いついたのがこの屋上庭園だった。


 ゆいもみんなでいっしょにお茶をした時のことを思いだしたのかな。


 記憶のなかの屋上庭園は、とてもいいお天気で、木々の緑が豊かで輝いている。でも、いまは葉が落ちて人の姿も少なく寒々しい。あたりまえだ、冬なんだから。わざわざこんな冷たい空気のなか、外でお茶するなんて、よっぽどのナルシストか、さもなければマゾヒストだ。じぶんはどっちに見えるだろう、と考えてあすかは苦笑する。


 空はお日さまを失ったあとのぼんやりとしたさみしい藍色だ。もうすぐ夜が降りてくる。


 ここってイルミネーションをやってた気もするけれど、どっちにしろ時間が中途半端だし、まあ、いまはそれどころじゃない。


 あすかは屋上庭園の出入り口がよく見える席にすわっている。そのまえを、ひっつめ髪で黒メガネをかけリクルートスーツを着た女の子がキャリーバッグをひいて歩いていく。


 彼女は立ちどまり屋上庭園をひとめ見わたすと、きびすを返してもどってくる。ふたたび、あすかの席のまえを横切るときに、一瞬、彼女と目を合わせ、建物のなかへ入っていく。


 あの子がスーツを着てるところなんてはじめて見たかもしれない。


 あすかは彼女を追うように、建物なかに入り、女子トイレにむかう。ここのトイレは清潔でいつもきれいだ。リクルートスーツの彼女がいちばん奥の個室に入るのを見送り、あすかは鏡のまえでちょっと唇を気にするようなしぐさをする。いちばん奥の個室で水のながれる音がすると、あすかはキャリーケースを手にして待つ。個室のドアがひらき、リクルートスーツの彼女がでてくると、彼女とすれ違うようにあすかはおなじ個室に入る。


 個室のすみ、便器の奥に半透明のビニール袋の包みがある。


 田中あすかはそれを引きだして、じぶんのキャリーケースのなかに仕舞う。思ったよりも大きくて重かった。ぶ厚い女性ファッション誌数冊ぶんの幅と重さがあるような気がする。


 一千万てこんなにかさばるんだっけ? と考えながらトイレの水をながし、あすかは個室をでた。


 東急プラザをあとにした田中あすかは、いったん青山のじぶんの店にもどり、すこし仕事をかたづけてから、藤村れいかのマンションにむかうことにしていた。


       ☆


 ケイは稲城の山のなかで自転車を分解して、雑木林を歩きながら少しずつ投棄した。サイクルジャージをぬいで、じぶんの服に着がえ、リュウジから借りた服やサングラスなどはすべてリュックサックのなかに入れた。それを半透明のビニール袋につつんで、てきとうなくぼみに放置して、土や枯れ葉をかけて隠した。


 手ぶらになったケイは雑木林の斜面を登った。


 やがて日が沈み、明かりを失った森のなかをさまよった。斜面の角度と時おり聞こえる車の音をたよりに、よみうりランドにでる道を探した。やがて急に森が終わって、ゴルフ場にそった砂利道にでた。ゴルフ場の金網にそって車の音がする方向に歩くと、昨夜、リュウジの車で通ったヘアピンカーブの道路が現れた。


 この道路を上がればすぐによみうりランドだ。


 ケイはずいぶん森のなかで迷ったような気がしていたが、よみうりランド前からバスに乗ったとき、時間を見るとまだ18時にはなっていなかった。


 彼は小田急線に乗って新宿にむかった。歌舞伎町の映画館でリュウジと再会したのは19時すぎだった。


 ケイとリュウジはトイレの個室にふたりで入った。スマートフォンとキャップを交換し、飛ばしの携帯と車の鍵をケイが受けとった。電源が入るとやばいからと、携帯のバッテリーはぬいてあった。青い車がとめてある場所をリュウジがケイに教えた。


「とりあえず、おれはここまで、なんかあったらねえちゃん経由で連絡して」

「うん、いろいろありがとう」

「こちらこそ」

 と言ってリュウジは出ていこうとして、ちょっとふりかえる。

「蛍、見にいけるといいな」

「うん、きっといこう」


 リュウジは去っていった。


 ケイは小さく翼の刺繍されたキャップをかぶり、しばらく個室にとどまってから、外にでた。


 歌舞伎町から西新宿まで歩いて、車のとめてある駐車場を確認し、藤村れいかのマンションについたのは20時まえだった。


       ☆


 田中あすかの店がある北青山から西新宿まではあまりいい電車の経路がない。深夜はしかたがないのでタクシーを使ったけれど、正直、もうあまり経費はつかいたくない。でも、キャリーケースをころころと引っぱって青山一丁目の駅まで歩くのはしんどい。


 あすかは近くの表参道の駅から地下鉄にのり、赤坂見附を経由して、西新宿にでた。そこから、れいかのマンションまでキャリーケースをころころと引っぱって、部屋についたのは20時をだいぶすぎていた。


「おつかれさま、大変だったでしょう」

 ドアをあけて、れいかが出迎えてくれた。


「いやー、もうくたくただよ。ひろし社長の説教はくどいし、優柔不断だし、ケチだし。おまけに荷物はやけに重いし、もうかんべんしてほしいよ」


 あすかがリビングに入ると、めぐみ、ゆい、ケイの三人もそろっていた。立ちあがって、おつかれさま、とあすかを出迎える。めぐみはいちど新丸子にもどってグレーのセーターに黒いデニムパンツという私服に着がえていた。


「あんたのリクルートスーツ似合ってたよ」あすかが言った。

「ありがとう」

 めぐみは愛想もなく応えながら、あすかからキャリーケースを受けとる。

「あけてもいい?」

「もちろん」あすかは言った。「あんたその中身見たの?」

「ちょっとだけ……」


 めぐみはキャリーケースからビニール袋の包みをとりだし、テープをはがして、丁寧にひらいていく。ゆいとケイがめぐみの手もとをのぞきこむように見まもる。


「スーちゃん、ずいぶんがんばって値下げしてくれたんでしょ」

 藤村れいかは、田中あすかのために入れた紅茶をもってくる。


「いやー、あの男、ほんとケチでさあ、なっかなか決断しないんだよね。それでもまあ、なんとか八百万までは下げたよ。さいしょは六百万でどうだって切りだしたんだけどさ、まあ、あんのじょう、中間の八百でおちついたね。こっちも徹夜で数字用意してさあ、ぎりぎりぎりぎり折衝して、なんとか八百まで落としたからさあ、まあ、かんべんしてよ」


 と、まんざらでもない感じで、じぶんの功績を話していたあすか。しかし、めぐみの手もとを見ていて顔色が変わっていく。


 めぐみが紙袋からとりだす現金の束が予想以上に多い。あきらかに一千万円以上ある。


「ミーちゃん、ちゃんとある?」れいかが訊いた。

「うん、だいじょうぶ」めぐみが言った。

「ちょっとまて、なんだそれ」あすかが言う。「いくらあるんだ、それ?」


 めぐみとれいかは顔を見合わせる。


 めぐみが言った。「三千万円」


 あすかの表情がけわしくなる。

「どういうことだ?」


 雲ゆきがあやしくなったのを感じて、れいかはとりなそうとする。


「じつは今朝、原武会長からわたしに提案があったの。成城の家で奥さんか管理している現金をぜんぶ回収したいって。もちろん奥さんやひろし社長には内緒よ。あくまで詐欺にまきこまれて、奥さんが現金をわたしてしまう。警察にも通報することになる。でも、わたしたちの邪魔はしないし、必要な情報ももらえる。家にある現金は三千万円。この情報は、会長と奥さんとひろし社長しかしらない。三千万のうち、一千万は予定どおり、違約金としてひろし社長にわたしていい。残りのお金は、わたしが明日、事務所にもって行く」


 あすかは、いまにも爆発しそうになる気持ちをおさえこんで訊く。

「なんで会長が、この件を知ってる?」


「わたしがお願いしたの」めぐみが言う。「レイちゃんに、もし原武会長のようすを見て、可能性があるようなら話しをしてみてって。わざわざコンサルタントにたのんで、相続のためにいろいろ手を打つような人なら、このくらいのお金、税金なしで移動させるだけですよって言えば、聞いてくれる可能性もあるんじゃないかって」


「もちろん倫理的なもんだいはあるけど」れいかは言った。「ひろし社長がつまらないトラブルの処理に失敗して評判を落とすより、古女房から現金を回収するほうがいいって、会長が──」


「ようするに、おめかけさんのささやきに、じじいがヨッシャヨッシャってお金ばらまいてくれたって話か」


「スーちゃん!」めぐみが強くとがめる。


「ふざけんな!」あすかはさらに大きな声をだす。「ひとが必死こいて、ようやく二百万値下げしたと思ったら、おまえら裏口でこそこそやってボーナス二千万か」


「わたしたちがもらうわけじゃない」


「しるか! あたしはなんだ? 猿まわしの猿か? ピエロか? アホか!」


「今朝になるまで三千万なんて話し、なかったのよ」れいかが言う。


 あすかはゆいを見る。

「知ってたのか?」


 ゆいがうなずく。


「なんで黙ってた」


「わたしが黙ってるように言ったの」とめぐみ。


「あたしが知ったら、アホらしくなって投げだすとでも思ったか」あすかがめぐみを睨みつける。


「ちがう、スーちゃんには交渉に集中してほしかったから」


「しょせん猿まわしじゃないか」


「ちがう!」


「ごめんなさい!」ゆいが涙目で呼びかける。「わたしがバカだから。うまく説明できないから、スーちゃんを混乱させちゃうといけなから──」


「ふざけんな! バカを言い訳にすんじゃねえ」


 びっくりして、ゆいの背筋が伸びる。


「ごめんなさい」めぐみが頭を下げる。「わたしが悪いの。わたしの考えが足りなかったの」


「ちがうね」あすかがじっとめぐみを見る。「あんたは考えすぎてる。人間なんてあてにならないと思ってる。だから世の中を斜めに見て、裏の裏まで手をまわす。そんなやり口おぼえたら、痛い目にあうぞ」


 めぐみはあすかから目をそらさず、「もう、あってるよ」と言いかえす。


 あすかも目をそらさずに言う。「あんたさあ、もう、じぶんに同情すんのやめたら」


 めぐみはぐっと奥歯をかんで言いかえせない。


「あすか、もうやめて」れいかが言う。


 あすかはフッと薄笑いをうかべ、

「あー、そうね、わかった、わかった、もういいよ。どうもおつかれさま。あとはみなさんで好きにやってください。じゃあ、どうもねー、さようなら」


 と背をむけて玄関にいきかけるが、一瞬立ちどまり、またもどってきて、キャリアケースの蓋をしめて取っ手をつかみ、出ていこうとする。


「あすかさん!」

 声をかけたのはケイだ。


 あすかが立ちどまる。

「おつかれさまでした。ありがとうございました」ケイが頭を下げる。


 あすかはちらっとケイを見て、手を払うように振った。がらがらとキャリアケースを引いて部屋から出ていく。彼女が見えなくなってすぐ、がちゃん、と玄関のドアのしまる音がひびく。


 室内の緊張がすこしだけゆるむ。


 めぐみがれいかを見て、「ごめんなさい」と言う。


 れいかはめぐみのそばにより、肩を抱いて。

「あとでまた、あすかに謝りにいきましょう。そうしてくれる?」


 めぐみはうなずく。


「ごめんね、うちも謝りにいく」ゆいもめぐみによりそう。


 めぐみは首をふり。

「悪いのはわたし、ごめん」


 れいかはめぐみの肩をぽんぽんとやさしくたたいて、

「さあ、ごはん食べようか。まだ考えなきゃいけないこともあるし、ね」


 そう言って微笑み、キッチンのほうへ歩みかけたとき、スマートフォンの呼び出し音がなる。


 それぞれがじぶんのスマートフォンを気にするが、鳴っているのはゆいのものだった。


 ゆいは発信相手を見てぎょっとする。


 めぐみたちの視線がゆいに集まる。


「ひろし社長……」ゆいが言う。「出なきゃいけないよね」


 めぐみがうなずく。


 ゆいが回線をつなぎ、スマホを耳にあてる。

「はい、おつかれさまです。先ほどはお世話になりました。──はい。いま、あすかさんとか、レイちゃんと集まって、相談してるところです。──いえ、まだ、ぜんぜん、集まってなくて、どうしようって、──ええ、レイちゃんには、少しお願いできそうで、でも、ぜんぜん足りなくて、──はい、なんとか、年内には、約束を守れるように、がんばります。──はい。──えっ、弟ですか?」


 ゆいの顔色が曇る。


 「弟」と聞いて、めぐみやれいかも表情がけわしくなり、ゆいの電話に集中する。


「ええ、元気ですけど。──え、なんですか、どうしてそのこと知ってるんですか?」

 ゆいの手が小きざみに震えはじめる。スマホを持った手を、もういっぽうの手で押さえ、動揺が声にならないように注意深く話す。

「──そんな! ひどいですよ。弟はいまちゃんと働いてます。アルバイトですけど。保護司さんとも会っているし、あの子なりに更生しようと、がんばってるんです。ひどいですよ。どうしてそんなこというんですか?」


 めぐみは腕をくんでひとさし指のつめを噛んでいる。


 れいかは不安そうにゆいを見つめている。


「──いえ、あの子には、こんかいの件は話してません。──それは、わからないですけど……」


 ゆいがちらっとケイを見る。たぶん、ひろし社長は、ゆいが話さなくても、いっしょにいたケイが話した可能性もあると疑っているのだろう。


「どうしてそんなこと言うんですか。弟は関係ないし、お金はわたしたちで、いま、なんとかできるように、やってますから。──はい。わかりました。期日は守ります。──はい。わかってます。いろいろすいません。──はい。また、ご連絡します。おつかれさまでした」


 電話が切れる。ゆいは、ふうー、と大きな息をはいて、空気がぬけるようにソファーにへたりこむ。


「だいじょうぶ?」れいかが声をかける。


「まずいよ。ひろし社長、疑ってる」とゆい。


「内容はなんとなくわかった」めぐみが言う。「だけど、リュウくんが捕まったことは知らないはずだって言ってなかった?」


「うん、そんな話、したことなかったし」ゆいは弱りきっている。


「じつは…」ケイが言う。「噂くらいは僕も聞いたことありましたから。だれも確証はもってなかったですけど」


「そう…」れいかは言う。「出演の契約をするときに、いちおう調べておいたのかも知れないわね。どのていどの露出になるかわからないけれど、ゆいがまたメディアに載るとすれば、背景は知っておいたほうがいいもの。でも、いまの感じだと、実家が詐欺の被害にあったって話しは出なかったみたいね」


 ゆいは弱々しくこたえる。

「うん、弟はいま何してる。まだ、おれおれ詐欺の集団とつきあってるのか、ってそんな感じ……」


 れいかが言う。

「いちおう、詐欺被害は警察には届けるけど、なるべく表沙汰にはならないように取りはからってもらう。家族の恥だからってことで。ただ、ひろしさんが本気でわたしたちを疑って、こういう事情があるから、こっちを調べてくれって、警察に注文をつけたら……」


「ごめんなさい。わたしが……、わたしが……」


 と、ゆいが泣きはじめる。たぶん、わたしがバカだから、と言いそうになって、さっきの、あすかの叱責を思いだし、ことばにつまって、どうしていいかわからないのだ。涙がとまらず、もう、ひっくひっくと息をするのも苦しいくらいに、胸がつまりながら泣きじゃくっている。


 そこに、めぐみの声が聞こえる。


 ──カワイイ、カワイイ、超カワイイ。やっぱりユイだ、超カワイイ。ぜったいカワイイ、超カワイイ。やっぱりユイだ、超カワイイ。


 めぐみがやさしくリズミカルに声にしたのは、ストとれ時代、ゆいを応援するために歌の間奏でファンが掛けていた定番のコールだ。


 ゆいは涙をぬぐい、鼻をすすりながら、めぐみを見る。


 めぐみは言う。

「泣かないで、あなたは笑顔がいちばん。あなたが笑顔になれるなら、わたしはなんでもする。あなたを暗い穴に落としたりなんかしない。どんなことがあっても、あなたは汚れない、傷ついたりなんかしない。わたしが守るから。わたしが全力で応援するから。あなたはわたしのたったひとりのアイドルだから」


 ゆいがソファーから浮き上がるように立って、めぐみの胸に身をゆだねる。めぐみはゆいをしっかりと抱きしめる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」


 めぐみがそう言うと、ゆいはめぐみの肩にのせた頭で、うん、うん、とうなずく。


 ケイは、めぐみがゆいを思う気持ちに、じぶんはかなわないと感じる。でも、だからこそ、このふたりを守りたい。


 警察が本気になったら、たぶん、じぶんとリュウジはアウトだろう。なんとかそこでくいとめる覚悟はあるし、自信もある。だけど、きっとふたりは傷つく、あのふたりが妙な贖罪感情から名乗りでてしまうような不測の事態だけは避けたい。


 ここはもうひとつ、大きな仕掛けが必要だ。さっきも、あすかが来るまでは、八百万円をどうやって集めたのかを、つじつまが合うようにしておかなければならないだろうと話しあっていた。そのときケイは、あることを考えていた。


 すこし落ち着いたゆいを、めぐみがソファーにすわらせる。


 れいかが温かい紅茶をもってきて、ゆいのまえに置く。れいかがケイを見て、

「ケイさんもすわって」とやわらかい声で言う。


「僕、ちょっと考えてたんですけど」ケイは言う。「さっきの、お金の出所のつじつまを合わせるって話し。あれ、ちゃんとしっかりやれば、ひろし社長の疑いもかわせるんじゃないかって」


「そうね、でも、なかなか難しいのよね。あすかが二百万円下げてくれたから、八百万円。わたしが、貯金をぜんぶカラにすれば三百万円くらいは、かたちがつくれるけど、あと五百万円……」


「そう、『かたち』がつくれればいいんですよね」ケイは言う。「ひろし社長が見て、ああ、これならお金が集まるだろうなって『かたち』──」


 めぐみとゆいがケイに注目し、そのことばをじっと聞いている。


「ライブとかやれば、どうかなって思うんです」

 ケイはそう言ってから、すこし、みんなの反応を見る。


 ゆいはめぐみの顔を見る。


 めぐみは腕をくみじっと考える。


「場所はどうするの?」れいかが落ち着いた声で言う。「大晦日を入れても、今年はあと四日よ。とても押さえられない。それにチケット代を三千円いただくとしても、経費を考えたら、最低でも二千人は集めないといけない」


「もちろん、まともにやったら無理です。でも『かたち』だけでいい。現金は手もとにあるんだから、それを集めた『かたち』だけ。しかも、ひろし社長一人が納得すればそれでいい。そういうやり方は、あります」


 めぐみが言う。「ゲリラ・ライブ?」


 ケイがうなずく。「そうです」


「場所は?」


「どこだっていいんです。二千人か、三千人、集められるなら」

 ケイにはひとつ思いあたる場所がある。ただ、それを言うことに戸惑いがあり、彼女たちのようすをみている。


「そんな場所あるかしら、公園とか空き地とか、そういうこと?」れいかが考える。


「二千人て、中野サンプラザくらい?」ゆいが訊く。


「そうですね」ケイがこたえる。


「けっこう大変。そんなに集まるかな」


「でも、『ストロベリーとれいん』で中野サンプラザをいっぱいにしてますよね」


「それは、あいの卒業の時と、わたしとあすかの卒業の時」れいかが言う。「特別なイベントにして、事前にアナウンスしないと、わたしたちのレベルじゃ、なかなか二千人は埋められなかった」


「特別なイベントにすればいいのね」めぐみが言う。そしてケイを見る。「お金はどうやって集めるの? クラウドファンディングとか?」


「クラウドは僕も考えたんですけど、でも、ネットを使うとどうしても足がつきます。だれがどれだけ出して、いくら集まったか、おそらく使い道も報告しないといけないし、検証もされます。ちょっとボロがでるとまずいので、ここは原始的にカンパにしたほうがいいんじゃないかと」


「現場で現金を集めるの?」とめぐみ。


「そうです。もういちど確認すると、僕らに必要なのは『かたち』だけです。じっさいに五百万円が集まらなくてもかまわない。カンパにするといくら払ってもらえるか、わかりません。払わないひともいるでしょう。でも、事前告知のところで、なんとなく三千円くらいが常識だろうって相場をつくっておけば、だいたい、千円札一枚くらいはカンパしてくれそうな気がします。やさしい人は五千円札を入れてくれるかもしれない。そんな感じでいいんです。たぶん、ここで大事なのは、金額じゃなくて、人数です。三千人集まってくれれば、ひとり千円でも三百万円。それ以上集まったって言い張ることは可能です。現金には名前は書いていない。集まった人数もだれもかぞえることなんかできない。三千人以上集まったように、ひろし社長に見えればいいんです」


「アイデアはわかったけれど、場所がなければ絵に描いた餅よ」れいかが言った。


「三日の準備で、三千人集めるなんて、ムリだよ」ゆいが言った。


 ケイはめぐみを見る。

 めぐみはじっと考えている。


「二日で準備しましょう」ケイが言う。


「なんで? 銀行がしまっちゃうから?」ゆいが言う。


 ケイはゆいと目があって、ああ、やっぱり可愛い、と思う。


 れいかは、あることに気づいて、めぐみを見る。


 めぐみはまだ腕をくんでひとさし指を唇にあてている。たぶん彼女もすでに気づいている。


 れいかが言う。

「ケイくん、12月30日にやるってこと?」


「そうです」ケイは言う。「そうすると、場所も、おのずと決まってきます」


「丸子橋!」ゆいが言った。


 れいかは立ちあがり、リビングから出ていく。


 ゆいがめぐみを見る。


 めぐみはだれとも目をあわせず考えている。


「こういう言い方が気に触ったら、もうしわけないんだけれど、このゲリラ・ライブは特別なイベントになります。ストとれのファンだけでなく、グループのことを知っている人たちなら、その意味がわかる。たぶん、告知さえうまくやれば三千人集めることはじゅうぶんに可能だと思う」


 れいかがマックブックをもってくる。彼女はソファーテーブルにそれを置いて、グーグルマップをひらいて丸子橋を俯瞰する。ゆいもれいかの横にすわり直して画面を見る。ケイも立ったまま横からマックの画面を見る。


「河川敷のグラウンドって広そうね」れいかが言う。「丸子橋から下流のJRの鉄橋まで四〇〇メーターくらい。サッカーグラウンドが二つとれるわね。広さはじゅうぶん。でも、このグラウンド、役所の管轄よね。許可なしでやるの?」


「二日で許可なんておりないでしょう。年末だし」ケイは言う。


「でもここ、夜はだれも使ってないよ。ナイター設備ないから」ゆいが言う。


「30日なら、役所ももうやってないか。そのほうが、人が集まるのも見逃してもらえるかもね」れいかは言う。「音はどうしよう? 騒音で通報されたら、警察が飛んでくるわよ」


「そっか、丸子橋って東京側も川崎側もちかくに派出所があるからなあ」ゆいが言う。


「音はネット経由で流せばいいかなって思ってます。マイクは使うけど、スピーカーは使わない。マイクの音声はネットに流して、観客はじぶんのスマホを使ってネットから拾った音声をイヤホンで聴くんです。そうすれば外でしてる音は歌い手の生声だけです。ステージと観客のあいだでタイムラグは出ちゃうけど、緊急野外ライブを成功させるための騒音対策だってあらかじめ告知すれば、ファンは納得してくれると思います」


「すごい、頭いい」ゆいが言う。


「でも、完全オープンな野外だと、ファンだけじゃなくて野次馬も集まるわよ。三千人なんて人数になったら誘導するスタッフが必要だし、騒音がしなくったって警察はくると思う。その対処も必要よ」


 ケイはうなずく。

「ストとれヲタに僕が協力をお願いします。告知も現場の整理も彼らと相談しながらやります。もし、『ストロベリーとれいん』の、かつての四人が、12月30日に丸子橋のふもとでライブをやってくれるなら、みんな喜んで応援してくれます。全力でその場所を守ってくれます」

 ケイはめぐみを見る。

「みんな、どこかで、やり残したことがあると、思ってるんです。みんな、なにかやりたいと思って、でも、どうすることもできなくて、心のどこかで苦しんでいたのは、みんなおなじなんです」


 めぐみはケイを見る。


 ケイもゆいもれいかも、めぐみのことばを待っている。


「死んだひとは、ずっと変わらないままそこにいるけれど、わたしたちは泥んこになっても、なんとか生きていかなくちゃいけない。そのために必要なら、ひとの死だって利用する」めぐみは言った。「お姉ちゃんにも協力してもらいましょう」



   第三章 につづく

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