星屑たちのステージ

クニノブミキ

第一章 エイリアンズ(キリンジ)


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)



              *


 5人組のアイドルグループ、『ストロベリーとれいん5(ファイブ)』のステージパフォーマンスが終わったあと、劇場ではメンバー全員との握手会がはじまっていた。


 ケイはそのようすを劇場の後方から見ていた。


「あれ? ケイくん、きてたんだ」


 ケイがふり返ると、トシさんがが立っていた。となりに大滝さんもいる。体が大きいのでよく目立つ。ふたりはグループ握手を終えて、劇場の出口へとむかっていたようだ。


「ゆいちゃん卒業しちゃったから、もうこないかと思ってたよ」トシさんが言った。


 ケイはちょっと苦笑いして、大滝さんを見る。「みーちゃんも、いなくなって寂しいですね」


 トシさんが大滝さんの顔を見上げた。大滝さんは言った。


「みんな、幸せになってくれれば、それでいい」


 大滝さんはたぶん40歳をすぎている。22歳のケイとはずいぶん年の差があるけれど、どこか仲間のような気分がある。大滝さんの推していたメンバーと、ケイの推していたメンバーが9ヶ月前に卒業していた。


「あたらしい推しメン決まった? さやちゃん推してくれない?」


 トシさんは自らの推しをすすめてくる。

 ケイはまた苦笑いをする。


「きょうはひとりか?」大滝さんが訊いた。

「ええ」

「ジェイくんは?」トシさんが尋ねる。

「急に仕事が入ったみたいで。きょうのチケットもジェイからもらったんです」

「そうか…。ジェイは先月の定期公演も、ひとりできていた」大滝さんは言った。「立派な箱推しだ」

「そうですね。ジェイは、ほんとに優しい」ケイは言った。


トシさんが言う。「これからご飯食べに行くけど、ケイくん、どう?」

「すいません、これから行くところがあって」

「そうか、じゃあ、また。ジェイくんによろしく。またきてよ。ふたりで。ね」

「ええ…」


 トシさんは笑顔で、大滝さんはまったく表情をかえずに、ふたりは手を降って、劇場の出口へと去っていった。


 ケイはけっきょく、握手会やチェキ会には参加しないまま、劇場の後方から、ストとれ5の女の子たちとファンとの交流をずっと見ていた。


 ちょっとした会話を交わしながら握手をしたり、2ショットを撮ったりする、この空間がケイはとても好きだった。だれもが笑顔で、劇場内のざわめきもここちよくて、なんだか温かい気持ちになる。


 それだけに、ふと彼女がいないことに気づくと、まだ、じぶんのこころのなかにあいた穴が、何によっても埋められていないのだと感じて、ちょっとつらい。


 彼女の不在は、半年以上がすぎても、さみしさが生まれてくる場所に変わりはなかった。


 握手会や2ショット・チェキ会が終わったあと、ケイは劇場をでて、秋葉原のはずれにある駐車場にむかった。


 夜の秋葉原ではパソコンやアニメ、アイドル関係の店がならぶ通りに、ゴスロリ風のメイドさんたちが立ち、宣伝のチラシ配りなどをしている。


 メイドさんたちの息が白い。赤いサンタの帽子をかぶっている女の子もいる。


 きょうは二十五日だけれど、月曜日だからか、クリスマス的なことはみんな、きのうで終わってしまったような気分がある。


 メイドさんたちの立つ通りをぬけて駐車場につくと、ケイはとめてあった青い車の無線キイを解除して乗りこむ。エンジンをかけようとしたとき、なにかがいつもと違うと感じた。ジーンズのまえポケットにあるはずの感触がない。


 ケータイがない!


 劇場で『ストロベリーとれいん5』の公演がはじまるまえに二つ折りのガラケーを確認し、その電源を切った。ケイはスマホとガラケーの二台持ちで、日常的にはスマホをつかう。ガラケーにはちょっとした事情もあったので、必要のないときに電源を切ることはよくあった。


 あのときジーンズのまえポケットに入れたつもりが落としてしまったんだ。


 ケイは車を発進させ、劇場にむかった。


 『Myステージ劇場』はアイドルや声優の公演を中心とした劇場で、週に一度かならず公演を打つアイドルグループもあれば、劇場の空き具合にあわせて、単発の公演が入ることもある。


 レギュラー公演は売り出し中であったり、マイナーではあるけれど人気の定着しているグループアイドルが多く、イレギュラーな単発公演は声優さんや人気のソロアイドル、何組かが集まってひらく対バン公演など、さまざまだ。


 ただ『ストロベリーとれいん』はちょっと事情がちがっていて、もともと『Myステージ劇場』がオープンした当初、あまり埋まっていなかった劇場のスケジュールの空きをなんとかするために、劇場そのものが運営主体となりつくったアイドルユニットだった。


 おそらく10年近くまえのことで、ケイもそのころのことは話でしか聞いたことがない。それからなんどかメンバーチェンジがあり、伝説になるようなステージや、哀しいできごともあった。


 3月まではメンバーが7人いたことから、『ストとれ7(セブン)』と呼ばれていた。この春、二人のメンバーが卒業し、『ストとれ5』となった。


 その卒業にもいろいろな噂が流れた。


 年長だった二人がぬけたことで、メンバーは若返ったが、やはり長く応援されていた二人がいなくなり、グループのパフォーマンスや動員が落ちるのではないかと心配された。じっさいにケイも、推しメンがいなくなったことで、この半年は劇場に足がむかなかった。


「ここがストとれ5の正念場なんだよ。なんとかここでふんばらないと、あの子たちの未来はひらけないんだ」とケイの友人は泣きそうな顔で言った。


 五年まえ、彼にはじめて東京の秋葉原まで連れてこられて、『ストロベリーとれいん』に出会った。高校の夏休みのことで、じぶんとおなじ年齢の女の子がステージで歌っているのを見て、とてもまぶしく感じた。そして彼女と握手をした。あんなに激しく歌ったり踊ったりしたあとなのに、どうしてこの子の手はこんなに冷たいんだろうと、とても不思議に思った。あの、ほそくて冷たい手の感触をいまでもよく憶えている。


 ケイはきょう、劇場に行けなくなったその友人にチケットをたくされて秋葉原にきた。いま乗っている青いフィットも彼からあずかった車だ。


 その車を劇場ビルのわきの道にとめて、ケイは地下の劇場へ降りた。受付にいた女の子に、ケータイが落ちていなかったかをたずねると、いまのところそのような届け物はないという。


「まだ、なかで作業をしてるんで、確認してみましょうか」


 彼女はケイにどのあたりの場所かをたずね、いっしょに劇場内に入った。場内のステージでは普段着にきがえたストとれ5のメンバーが、アカペラで歌いながらダンスの確認をしていた。


「そこ! 立ち位置ずれてる」


 客席からきびしい声がとんだ。公演のときにケイのいた座席のちかくに、肩までの黒髪でネイビーブルーのモッズコートを着た女性が立っている。彼女は腕をくみ、じっとステージ上の五人の動きを見ている。


 受付の女の子が彼女にちかづき、すいませんこのへんに携帯電話が落ちているかもしれなくて、と言うと、黒髪の女性はふりかえった。一瞬、彼女と目が合ったケイは、ちょっと驚いた。そして思わず頭を下げた。


 彼女は春に卒業した元メンバーのひとり、中森めぐみだった。


「青いガラケーなんですけど」


 ケイがそういうと、めぐみは彼に近づいてきて、なにも言わずにポケットから青いガラケーをとりだした。


「あ、それです」


 ケイが指さすと、めぐみはそのケイの手にガラケーを押しつけて、そのまま劇場の出口にむかった。


「あした自主トレやるんで、よかったら見にきてください」


 ストとれ5のひとりが、ステージ上からめぐみに言った。


 めぐみはふりかえらずに右手だけ上げて、劇場からでていく。


 ストとれ5のメンバーがみんな、「おつかれさまでした」とめぐみの背中に声をかけた。


 ケイは受付で遺失物のひきとり書にサインをし、女の子にお礼をいって、劇場をあとにした。階段を上って、地上にでて、道にとめた車に乗りこもうとしたとき、青いフィットのうしろに立っているモッズコートの女性に気づいた。


 めぐみだ。


 肩に流れる黒髪からのぞく横顔を、スマートフォンの光が白く照らしている。彼女はちょっとうつむき加減で、右手のひとさし指を噛むように唇にあて、左手にもったスマートフォンの画面をじっと見つめている。集中して考えをめぐらせているのか、まったく動かない。


 ケイはしばらく彼女を見ていた。そして、ちょっと迷ったすえ、声をかけた。


「さっきはありがとうございました」


 めぐみが顔をあげ、こちらを見た。ふいをつかれて表情がない。


「ケータイ、ありがとうございました」


 めぐみは思いだしたように、ちょっと会釈をした。そしてケイの顔と青い車を見くらべる。彼女はまたなにか考えている。


 ケイには、彼女に言いたいことがたくさんあった。でも、どれも言うべきではないことのような気がした。なにもかけることばが思いつかず、二人のあいだには妙な間ができてしまった。ケイはあきらめのような気持ちで、もう、挨拶をして帰ろうと思った。


 そのとき、めぐみのほうから声がかけられた。


「ケイ、さん、だっけ?」

「はい」

「ゆい推しだった」

「はい。そうです。ゆいさん、お元気ですか?」


 名前をおぼえてもらっていたことがうれしくて、つい勢いで、ゆいのことを訊いてしまった。一瞬、めぐみの表情が曇ったように感じて、ケイはちょっと後悔した。ゆいはめぐみといっしょに卒業した『ストとれ7』のメンバーだった。


 めぐみは、ゆいのことにはこたえず、青い車を見て言った。


「その車、ケイさんの?」

「はい。ほんとは友だちのなんですけど、しばらく借りてるんです」

「きょうは、これからどうするの?」

「これからは、とくに用事は……」

「浜松には帰らなくていいの?」


 ケイの車は浜松ナンバーだった。


「ええ、しばらく休みなんで、この車で東北のほうとか旅行してみようかなって思って」

「一人で?」

「ええ、むこうに友だちとかもいるんで、つごうが合えば、会ってみようかと思ってますけど。とめられる所さえあれば、車のなかで寝れますし、まあ、てきとうなんです」


 なんでそんなことを訊くんだろうと不思議に思いながらケイはこたえた。世間話にしては、めぐみの表情が真剣すぎる。その瞳がとてもまっすぐで、見つめられたケイは、胸がきゅっとしめつけられる感じがした。


 めぐみはいちどスマホの画面に目を落としてから、うなずいた。なにかを決断したように見える。そして、ケイの目の前まで歩み寄ってきた。ケイの戸惑いも気にぜず、彼女は言った。


「お願いがあるの。こん夜、わたしにつきあってほしい」


 ケイは頭のなかが真っ白になった。そして──


 ちがう、おちつけ、彼女の言っている意味をちゃんと理解しろ。ここはアイドルゲームの世界じゃない。殴られれば痛いし、切られれば血がでる。残酷なクソ現実の世界だ──と胸の内で自らに言い聞かせた。


「いろいろ行かないといけないところがあって、ちょっと、どのくらい時間がかかるかもわからない。できれば手を貸してもらいたいこともあるの。もちろん使ったガソリン代はお支払いします」


 いつのころからか、裏で彼女をディスることばに、「鉄面皮」ということばが使われるようになった。そのくらい彼女はあるときから、良くいえば動じない、悪くいえば表情に乏しい、といわれるアイドルになった。その彼女の顔に不安がちらついたように見えた。ガソリン代についてまで言わずにおれないのも、現実的であり、誠実なめぐみらしい。彼女の力になりたいとケイは思った。彼はろくに内容も確かめずに、即答した。


「わかりました。行きましょう」


 青いフィットの助手席にめぐみを乗せ、ケイは彼女に言われるまま渋谷にむかった。


「これから話すことは、わたしにもまだ状況がよくのみこめていなくて、わかりにくいことも多いかもしれないけれど、とにかく、落ち着いて聞いてください」


 大手町から皇居前を通って、青山通りへむかう。その車中で、めぐみはじぶんの頭のなかを整理するように事情を話した。


「さっき、ゆいからラインがきました」

「ゆいさんから!」

「冷静に聞いてくださいね」

「はい」

「そこには『監禁されてるの、助けて』って、書いてありました」

「監禁?!」


 ケイは思わず、めぐみの顔を見た。


「つかまってる? ゆいさんが?!」


「前を見て運転してください」めぐみは冷静に言った。

「あ、はい…」

「ラインではやりとりできてるから、すぐに身の危険があるってわけじゃないいと思います。たぶん、トラブルにまきこまれて、身動きができないでいる」

「どうして? 場所はわかってるんですか?」


 めぐみはうなずく。


「いまその場所にむかっています。住所もちゃんとむこうから送ってきました」

「トラブルって?」

「きっと、お金がらみ」


 そう言って、しばらく考えてから、めぐみは視線をケイにおくり、じっと顔を見た。おそらくこの先をケイにどう話したものか、決めかねているのだろう。


「ゆいさんを、助けにいくんですか」ケイは言った。


 めぐみはうなずく。


「ケイさんには協力してもらわないといけないから、ぜんぶ話します。そして、ことが終わったら、ぜんぶ忘れてほしい。いえ、忘れなくてもいいから、ぜったいに人に話さないでほしい。それだけは約束してください」

「約束します」


 めぐみは気持ちを落ちつけるように息を吸ってから言った。


「これからむかうのは撮影スタジオです。そこではよく、AVが撮影がされていると聞いたことがあります」

「えーぶい、って、アダルト、な、やつですか」

「はい」

「……」

「ちゃんと前を見て、運転してください」

「あ、はい!」


 めぐみはゆっくりと話す。


「ラインには『お金のことでもめてる』ともありました。おそらく、ゆいは撮影について何らかの約束をして、現場に行ったんだと思う。そこで約束と違うことが起こったか、なにか問題があって、撮影をこばみ、監禁状態にある。撮影をしないなら、契約違反だから、お金の話しになる。そういうことだと思う」


 なんてことだ! と内心思いながらも、落ちつけと言われているので、ケイは平静を装う。そういえば、いつだったかのネットニュースで、AVメーカーが土壇場になって出演を拒否した女の子を裁判所に訴えて、逆にAVメーカーが敗訴するという記事があった。そのようなトラブルはときどき起こることなのかもしれない。契約云々のことはあるけれど、まっとうに考えれば女の子の意志がなによりも優先されるべきことだ。


 てか、なんでゆいちゃんが、そんな状況になってるんだ?


「なんでそんなことに?」

「わからない……。しばらく、会えてないの」

「どうするんですか? 現場に行って」

「ちゃんと話しができればなんとかなると思う」

「でも、怖い人たちだったら……」

「たぶん、わたしも知らない人ではないから」

「AVの人。知り合いなんですか?」

「この仕事をしていると、いろんなところから声がかかるから……」


 たとえ小さなステージでも、そこに立つ女の子にはさまざまな視線がふりそそぐ。その視線は純粋で好意にみちたものばかりではない。僕らの住むこの世界ではあらゆる存在が貨幣というモノサシによってはかられる。キラキラしたものには、どんなに高値であっても、だれかが取引をもちかける。


 ふたりはしばらく黙っていた。窓の外を夜の街がいくつもの光のつぶをまとって過ぎ去っていった。


 青いフィットは渋谷駅前のスクランブル交差点をぬけて、道玄坂をのぼり、右折してほそい迷路のような道をすすむ。


「ここです」


 めぐみはスマホの地図で場所を確認して顔をあげた。


 いっしょについてきてほしい、とめぐみに言われて、ケイは車をとめる場所をさがした。


 そのビルのまわりは道がせまかったので、近くを車でひとめぐりした、ビルの間の空き地に仮設でつくったようなコインパーキングを見つけて駐車した。


 このあたりは道がごちゃごちゃしていてよくわからないけれど、たぶん飲食店街とラブホテル街の谷間のような裏通りだ。あまり人の姿はなかった。


 ビルの入り口までくると、めぐみがスマホをとりだし、操作をはじめた。メールでも確認しているのかと思ったら、


「これ、おねがい」


 とケイにそのスマホをわたした。


「いまデータ消したから、しばらくは録画できると思う」


 よく見るとそれはスマホではなくてiPodだった。


「録画のしかた、わかる?」


 ケイはカメラアプリを起動させ、確認する。


「だいじょうぶ。だけど、どうするんですか?」

「相手に、録画してるぞ、って見せて欲しい」めぐみは言った。「いきなり乱暴なことにはならないと思うけど、どんな人がいて、相手がどんな出方をしてくるかわからないから」

「そうだね。録画してると、むこうはムチャしにくい」

「わたしだけじゃなくて、ほかにも人がいてくれると、なにかあったとき通報とかできるし」

「わかった」


 彼女はそうとうな覚悟でここにきている。ケイもいまになって急に緊張が高まる。


 ふたりはビルに入り、エレベーターに乗りこむ。めぐみは3Fのボタンを押す。エレベーターが上昇し、ドアがひらく。出るとマンションのような外廊下がのびていて、ドアがいくつかならんでいる。めぐみは歩いていき、いちばん奥のドアのまえで立ちどまる。


「録画はじめて」


 ケイはiPodの録画ボタンをタッチする。


「わたしがとめてって言うまで、ぜったいにとめないで」

「わかった」


 めぐみはインターフォンを押す。チャイムがなり、がさついた相手の声がきこえる。


「どちらさま?」

「中森めぐみです」


 すこし間があって、ドアの鍵があく音がした。


 ドアがひらいて、なかから顔をだしたのは大学生のような若い男だ。男は、どうぞ、と言いかけるが、それを無視してめぐみは中に入っていく。ケイもiPodをかまえてついていく。


 短い廊下のつきあたりに磨りガラスのドアがあり、勢い込んでそこをあけると──


 室内はとても明るい空間だった。


 壁は白く、奥にホリゾントと呼ばれる大きな白い幕がゆったりとひろがっている。スタンド式の照明がいくつか立っていて、壁にそって銀色のカメラボックスや照明器具がいくつもころがっている。


 部屋のすみで女の子の笑い声がした。そちらを見ると、ソファーセットのコーナーがあり。毛布で身をくるんだ女の子がマグカップを手にもって談笑している。まわりには数人の男性や女性もいる。その格好から考えて、いかにもカメラマンやスタイリスト、メイキャップやそのアシスタントといった感じだ。


 ひとりだけ背広を着た男性がいて、毛布にくるまった女の子のまえに座り、いっしょに笑っている。


 めぐみとケイが突っ立っていると、うしろからきた大学生のような若い男がソファーセットのコーナーにむかって、「社長、お客さんですよ」と声をかけた。


 みんながいっせいにめぐみたちを見る。女の子がはじけるように立ちあがった。毛布がずりおちると、ピンクのTシャツにデニムパンツをはいていた。そして、めぐみのもとに駆けよる。


「ミーちゃん、ひさしぶりー」


 彼女は満面の笑みで、めぐみに抱きついた。そしてキスでもしそうなくらいの近さで、めぐみの顔を見ながら、


「元気だった? ほんとひさしぶりだよね。どのくらい? 半年くらい?」

「たぶん」

「さみしかったよ」

「ごめん」

「ううん。ごめん。わたしも、連絡しなかったから」

「うん、でも……」

「あれ? ケイくん」


 めぐみの横にぼうぜんと立ちつくしているケイに気づいた。そしてすぐに名前を言ってくれた。こんなふうに突然、彼女と再会できるなんて思わなかった。しかも──


 僕のことを憶えていてくれた!


 ひさしぶりに見た彼女は、まったくいぜんと変わらずに、とても元気で、やさしくて、やっぱりカワイイ。あの永遠の別れを覚悟した『伊藤ゆい』が目のまえにいる。緊張と感動で混乱しながらも、ケイの胸のうちに熱いものがこみあげた。


「なんで泣いてるの?」ゆいは不思議そうな顔をした。


 しらずしらずのうちにケイのほほを涙がつたっていた。彼はなにも言えず、ただ首を横にふる。


 ゆいはちょっと笑って、ポケットからハンカチをとりだし、ケイのほほの涙をふいてあげた。


 その思いやりに、ケイはよけいに涙がとまらなくなりそうで、


「だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだから」


 小さな声でそれだけを口にするのが精一杯だった。


「あなたは、だいじょうぶなの?」冷静なめぐみが、ゆいの顔をじっと見る。


「うん、まあ、なんか、こんな感じ」ゆいはすこしばつが悪そうに、ひとさし指でほほをかいた。


「ひさしぶりですね、めぐみさん」ソファーコーナに立っている背広の男性から声がかかる。「おぼえていただいていますか?」


「斉藤ひろしさん エース・プランニングの社長さん」


 めぐみがこたえると、斉藤ひろしは、ん、と首をかしげ、そっか、と近づいてきて名刺をだし、めぐみにわたした。


 名刺には『原祐 HARA Hiroshi』と書かれている。年齢は三〇歳くらいだろうか、若く見えるけれどしっかりした印象で、人あたりも良く、いかがわしいところは感じない。


「一年ほどまえに名前が変わったんだ、母方の名字だし、ひろし社長で通してたから大勢に影響ないけど、以後よろしく。で、彼はだれ? あなたのところのスタッフ?」 ひろしはケイを一瞥する。


「友だちです」迷うことなく、めぐみは言った。


 ケイは意外に感じて、めぐみを見る。彼女はまっすぐにひろし社長を見ている。


 ひろし社長は、ふうん、と面白くなさそうにケイのかまえているiPodを指さした。


「もしかして、撮影してる?」

「録画しています」めぐみが言った。

「そんな必要ないよ。ねえ」

 ひろしはゆいに同意を求める。

 ゆいは困ったような笑顔を見せる。

「いちおう、念のためですから」めぐみは引き下がらない。


 ひろしはちょっと不機嫌な顔をしたが、すぐに気をとりなおして、


「好きにすればいいよ。こっちにきて座ったら」とソファにむかい、「ねえ、コーヒーお願い」と若い大学生のような男性に指を二つ立てる。


「いいです。急いでるんで」めぐみはハッキリ言う。


 動こうとしない彼女を、ひろしは困ったなという顔で見る。


「ねえ、そんなに頑なにならないでよ。これは本質的には、われわれとゆいさんとの問題で、ゆいさんがどうしてもって言うから、きみにきてもらったんだ」

「はい、なんとなくの事情はゆいからのラインで知りました。ゆいはAVに出ることを嫌がっているんですよね。たとえ、いぜんに契約書をかわしているとしても、やっぱり嫌だってことになったら、むりやり撮影はできないはずです」


 そこまで言ってから、めぐみはひろし社長のむこうに立っているカメラマンやスタイリストやメイキャップやそのアシスタントたちを見て、


「スタッフのみなさんにはもうしわけないんですけど。ほんと、すいません。ゆいを許してあげてください」と深々と頭を下げる。


 スタッフたちは顔を見合わせて、ちょっと困ったような感じで、ことのなりゆきを見守っている。


 ひろし社長が、ひとつため息をついた。


「もう、本編の撮影は終わってるよ」


 えっ!──ケイは思わず声にだした。そして心の中で思う、


 え、もうやっちゃったの? やっちゃったのか?


 めぐみはゆいを見る。


 ゆいはこくりとうなずいた。


 さすがのめぐみも混乱したのか、胸もとで腕をくみ、ひとさし指を噛むようなしぐさで唇にあてる。


「三日前に、ムービーの撮影は終わった。きょうはスチール撮影なんだ。アダルト作品はパッケージがとても大事だからね。ゆいさんははじめてだし、こちらとしても本気で力を入れてるから、きょう一日かけて、パッケージとフライヤー、ウェブ用のスチールをばっちり決めようと思ってたんだ。そうしたら……」ひろし社長がゆいを見る。


 ゆいは、えへへ、とはにかんだように笑う。


 その表情がまた、カワイイ、とケイは感じてしまい、彼はさらに混乱する。


 ひろしがゆいに言う。「もう、撮っちゃったんだから、出しちゃえばいいじゃん。なにが問題なんだよ」


 ゆいは首をよこにふり、目のまえで両手を合わせる。「いや、大変もうしわけない。この話しはなかったことに」


 ひろしはため息をつき、めぐみを見る。「なんとか言ってやってよ」


 めぐみは冷静さをたもって切り返す。「お金が必要だって、どういうことですか」


 ん、とひろしは片眉をあげて、ちょっと背後にいるスタッフたちを気にする。


 白髪まじりの人の良さそうなカメラマンが、はずしましょうか、と外を指さす。


「ええと、いや──」ひろしは腕時計を見て、「きょうはもうお疲れでいいですよ。いろいろすいませんでした。あとのことはまた、変更したスケジュールを山本に連絡させます。たぶん、動くのは来年になると思いますけど」


 わかりました、とカメラマンがこたえて、まわりのスタッフたちは持ち場の道具を早々とかたづける。メイクやスタイリストの女性たちは、大きなカバンをかかえて、にこやかに、おつかれさまー、とゆいに手をふり、部屋からでていく。ゆいもニコニコと、おつかれさまー、と手をふっている。


 最後にカメラマンが、鍵は山本くんにあずけときますから、と言ってドアにむかう。


 ひろしは、おつかれさまでした、とカメラマンを送りにいく。


 ゆいもさすがにカメラマンには、すいませんでした、と頭を下げる。


 人の良さそうなカメラマンはちょっと苦笑して、おつかれさま、と部屋からでていった。


 カメラマンを送り出し、ふりかえったひろしの顔はきびしい。


「わかるでしょう。こうやって作品をつくるためには、たくさんの人や場所や機材が必要になる。スケジュールを組んで、段取りをして、みんなで協力してひとつのものを作りあげていく。そのときどきの気まぐれで、やったりやらなかったりするのは困るんだよ。みんなが迷惑するんだ」


 ゆいはシュンとしてうつむいてしまった。


「それはわかります」めぐみが言う。「ですから、みなさんにはもういちど、ゆいといっしょに謝ってまわろうと思っています」

「めぐみさん。こんな言い方、安っぽいなにかのセリフみたいで哀しくなるんだけど、謝ってすむことばかりじゃないんだよ」

「はい」

「人にも場所にも機材にも、お金がかかります。正直、わたしたちはもう、だいぶ、彼女に投資しました。見込んでいる利益もあります。どうしても、ここで降りるというのなら、それを保証していただく必要があります」


 めぐみはじっとひろしを見ている。


 ひろしは彼女の視線から逃れるように、ゆいを見る。


 ゆいはめぐみのうしろに隠れるようにして、うつむいている。


 ひろしは一瞬、ケイのもっているiPodを気にして、ちょっと計算するように目をそらしてから、ふたたびめぐみを見る。


「一千万円、必要だと思います」


 めぐみの表情が変わる。「ちょっと多すぎませんか」


「わたしたちはすでに三百万、ゆいさんにお支払いしている。それはすでに三本分の出演契約を正式に結んだからです。撮影前に契約金を払うなんて、最近では異例のあつかいです。そのくらい、わたしたちはゆいさんに期待していた。彼女にも話したけれど、わたしたちは、彼女さえよければ、来年一年で、10本の作品をつくりたいと思っていた。出演料は一本、百万円です。いい話しだと思うんです。じっさい一本目の撮影も終わっている。いまさらやめて、ゼロどころか、マイナスをかかえこもうなんて、常識じゃないですよ、僕には理解──」


 ひろしのことばをさえぎるように、めぐみが言う。


「彼女が三百万もらったことはわかりました。それはお返ししないといけないでしょう。でも、あとの七百万てなんですか」

「言ったでしょう、人も場所も機材も──」

「ビデオ一本撮るのに、そこまで実費がかかりますか。利益の見込みとか、違約金とか、ペナルティ的なお金は認められないはずです」

「認められない?」

「裁判の判例があるはずです」

「裁判とかをもちだすんだね、あなたは。ぼくが判例とかを、なにも知らずに仕事をしていると思っているのかい」


 ひろしの雰囲気が変わった。まだ若いとはいえ、社員をかかえて会社を経営している男だ。若い娘に軽く見られていると感じて、怒りをおぼえたのだろう。それでも、ここで感情的になっては、やはりビジネスマンとしては未熟だ。彼は、ひとつ大きく息を吸って、めぐみを見すえた。


「裁判所で勝負したいなら、してもいい。ただ、忘れないでほしい。彼女はすでにビデオを撮影している。ぼくらはなにも強制していないし、脅してもいない。彼女にきけばわかることだ。まわりのスタッフに確認してもいい。ノリノリだったとは言わないが、彼女は見事に仕事をやりとげた。ぼくは立派だと思ったよ。それなのに、これだ。どうしてこんな裏切りをするんだ。あなたも、ひどいと思わないか。そりゃ、いろいろなことがあるだろう。でも仕事は仕事だ。約束は守るべきだ。そうじゃないと社会が壊れてしまう。途中で投げだすなんて、ぜったいに認められない。なんのリスクもなく、やるべきことを放棄するなんて、ほかの者にしめしがつかない。多くの人の生活をあずかっている立場の人間として、こんなこと、ぜったいに認められない」


 めぐみはじっと話を聞き、すこし考えてから言った。


「あなたのお気持ちはわかります。わたしもゆいはすごく反省するべきだと思います。わたしも、なんどでも謝ります。ただ、わたしたちが仕事をするのは、生きるためです。より良き人生をつくるためです。目のまえにある仕事が、もしかしたら大きく人生を変えるかもしれない。それでも人は選択しないといけない。そして、すごく、よく、間違えます。選ばなければいけないけれど、間違えちゃうことが、いっぱいあるんです。だから、人にも迷惑をかけます。だけど、間違ったと思ったら、そのときに、すぐに、べつの選択をしても、いいと思うんです。許してほしいんです。ひろしさんはとても責任感があって、誠実に仕事をする方だと思います。だから、許せないのもわかります。ただ、ちょっとだけ考えてみてほしいんです。ひろしさんはこの仕事に責任を感じて、まっとうしたいと思ってる。でも、ゆいは、この仕事だけじゃなくて、じぶんの全人生に責任を負っています。あたりまえですけど、ゆいだけが、これからもずっと、ゆいの人生のめんどうを見ていかなければいけないんです。その彼女が、ここで間違えちゃったと思ったなら、わたしは彼女の判断をなんとか尊重してあげたい」


 苦々しい顔で聞いていたひろしの顔が、ちょっと拗ねたような表情にかわる。それを本人が気づいているかどうかわからないが、なんとか厳しい大人の態度をしめさなければいけないという調子で口をひらく。


「言いたいことはわかった。やめたいならやめればいい。ただ、一千万円はゆずれない」

「三百万と実費だけじゃダメですか」

「仕事ってのはね、評判がだいじでね。あんまりナメられるのも困るんだ」

「裁判でも悪い評判が立ちますよ」

「そう。おっしゃる通り。顔も名前もおおやけにして、根ほり葉ほり、言いたくないことまで晒されるんだ。お互いにね」


 ひろしはゆいを見た。ゆいはほほを赤くして、ちょっと泣きそうな顔になっている。


「つまらないことが光速で、世界中に広がる時代だからね。大切な人生なんだろう、ムダに傷つけないほうがいいんじゃないか」

「脅しですか」

「お互いに、気をつけましょうって話しだよ」


 めぐみはゆいの顔を見る。ゆいは泣きそうなのをがまんするあまり妙な笑顔になっている。その目はめぐみしか頼るものがないと訴えている。


「わかりました。考えさせてください」

「考える? 時間はそんなにないよ。幸い年末進行で、いろんな動きがとまっているけれど、年明けにはすべてが動きだす。編集からミックス、ダビング、プレス、リリースイベント。三ヶ月先までスケジュールは決まってるんだ。とめるんなら年明けすぐに連絡しなきゃいけない。じゃないと、どんどん傷口がひろがる。待てるのは、年内いっぱいだ」

「強引じゃないですか」

「やさしく提案してるつもりだけどね」

「あと一週間もない」

「そこはきみたちの人間力だろ」

「間に合わなかったら」

「撮影したデータは手元にあるからね。スケジュール通りに動く」

「そんなことして、いいんですか」


 ひろしはチラっとiPodを気にして、


「あなたたちとチキンレースをするつもりはない。年内に出演料プラス、無駄になった制作費として一千万円、支払ってもらう。それができないなら、制作費を回収するために、撮影したビデオを出版する。以上だ。一筆書いたほうがいいかい? まあ、いいか、録画してるんだから、それで十分だね」


 ひろしは腕時計を見る。銀色の重そうな立派な時計だ。


「10時半か、おなか減っちゃったな、どう、いっしょになにか食べにいく?」

「いえ」めぐみは腕ぐみをしたままだ。

「遠慮しなくていいよ。仕事は仕事、食事は食事。おいしいもの食べようよ。怒ってなんかいないからさ。ぼくはきみたちとの関係を悪くしたいわけじゃないんだ」

「これから、行かないといけないとこがあるんで」

「そう、こんな時間に?」

「失礼します」


 めぐみは頭を下げ、ドアにむかう。

 あわててケイとゆいも、めぐみのあとにつづく。


「あ、めぐみさん」


 ひろしが声をかける。めぐみたちがふりかえると、彼は言った。


「ぼくだって、この仕事で人生をつくっているんだ」


 めぐみはもう一度、深く頭を下げ、部屋をでる。ケイも頭を下げ、ゆいも、おつかれさまでした、といって頭を下げ、ドアから出ていく。


 おつかれさまー、と言うひろしの明るい声がひびく。


 めぐみは黙ったまま、エレベーターを降り、ビルをでて、さっさと歩いていく。ゆいはライトグレーのチェスターコートをからだにまきつけ、ケイはiPodを握りしめたまま、めぐみに遅れないようについていく。


 三人は道玄坂の裏通りにとめた青い車にたどりつき、ケイが無線キイで解錠すると、めぐみは助手席に乗りこむ。ケイは後部ドアをあけて、ゆいを促し、じぶんも運転席に座りこむ。それぞれがドアを閉めたあと、三人はしめしあわせたように、大きな息をつく。そして、脱力と沈黙。


「ごめんね」


 ゆいが小さな声で言う。聞こえていないのか、めぐみはじっとなにかを考えている。


「ミーちゃん。怒ってる?」

「え、なに?」

「ごめんね。怒ってるでしょ」

「ううん、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。ちょっと、いま、なにから考えればいいか、考えてて。えーっと、なんだっけ、とりあえず。いま何時?」

「10時半だね」ケイが言う。「えっと、もうiPod、とめてもいいかな」


「あ、ごめんなさい。とめてください。ありがとう」


「ありがとう、ケイくん」ゆいがリアシートから、運転席の横に顔をだす。「でも、なんでここにいるの?」


「わたしがお願いしたの。ひとりじゃ不安だったから」

「たまたま、通りかかって、ほら、きょう『ストとれ』のライブがあったから」

「そっかー、ストとれ5のライブにきてくれてたんだ、どうもありがとう」


 ゆいの素直な感謝のことばに、後輩たちへの思いやりも感じて、ケイはまた胸がいっぱいになる。泣きたくなる気持ちを抑えて平静を装うため、彼はめぐみに声をかける。


「さっき、行かなきゃいけないところがあるって」

「ええ、そう。川口なんだけど。一時間くらいでつきますか?」

「川口?」ケイは車載ナビを操作する。

「川口市。埼玉。荒川をわたってすぐなんだけど」

「赤羽のむこうだね。高速をつかえば三〇分ちょっとか、下をつかっても一時間はかからなそうだ。どっちがいいかな。とりあえず、車だすね」


 ケイはシートベルトをつけて、エンジンをかける。

 めぐみもシートベルトをする。

 車が動きだす。


 めぐみがリアシートのゆいに確かめる。

「家から離れちゃうけど、いい? また帰ってくるから」

「ぜんぜんいいよ。ミーちゃんちに泊まったっていいし」

「うちじゃないの」

「おばあちゃんとこ?」

「うん」

「こんな時間でもだいじょうぶなの?」

「うん、12時までなら、なんとか、特別」

「そう、うれしい。おばあちゃんに会える。すごい、ひさしぶり」

「うん」

「おばあちゃん、元気?」

「うーん、ちょっと、ね。どうかな」

「そう」

「うん」

「そっか……」


 ゆいは車窓に目をやる。

 車は裏道をぬけて、多くの車が流れる明るく広い通りを北上する。

 めぐみはスマートフォンをとりだして、どこかにラインをしている。


「ゆい、最近、スーちゃんに会った?」

「ううん。たぶん、ていうか、卒業のときの打ち上げが最後」

「そっか」

「ミーちゃんは?」

「なんどか青山のお店に行った。でも、そんなに話しとかはしてない」


 スーちゃんとは、『ストロベリーとれいん』初代のメンバー、田中あすかのことだろうとケイは推測する。めぐみはスマートフォンから目を離さない。


「レイちゃんとは、連絡とったりした?」

「おんなじ、打ち上げのときが最後」

「そっか。あのふたり、最近、連絡とりあったりしてるかな?」

「どうかな、打ち上げのときも、それぞれとは話したけど、ふたりが話してるのは見なかった」

「やっぱり、そうだよね……」


 レイちゃんも、『ストロベリーとれいん』初代のメンバー、藤村れいかのことだ。


 最初の『ストロベリーとれいん』は、田中あすか、藤村れいか、それに中森あいの三人組だった。中森あいは、名前からわかるように、めぐみのお姉さんだ。あすかもれいかも四年前に卒業した。あいもその数年前に卒業していた。


 ケイが『ストとれ』にはじめてふれたのは、あすか、れいか、ゆい、めぐみの四人組の時代で、あいのパフォーマンスは見たことがなかった。そして中森あいは、もうこの世にいない。


 めぐみがスマホから顔を上げて言う。

「いま、スーちゃんと連絡とれたから、あとでスーちゃんに会いにいこう。そこでもうちょっと、くわしいこと教えて」

「うん、わかった」ゆいが明るくこたえる。


 めぐみがケイを見る。

「ケイさん。夜、遅くなるけど、だいじょうぶ?」

「ぜんせん、だいじょうぶです」

「ありがとう」


 青い車は荒川にかかる橋をわたって、川口市に入った。


 めぐみの道案内にしたがい、川沿いの道をしばらく走ると、二階建てのシンプルな白い建物があった。一見、診療所のようにも、小さなマンションのようにも見える。敷地には余裕があり、数台分の駐車スペースが空いていた。一台だけ軽ワンボックスがとまっていて、サイドドアに『グループホーム ソフィア園』と書かれていた。


 空きスペースに車をとめて、すぐにエンジンを切った。とても静かな場所だ。


 ケイはめぐみに尋ねる。


「スーちゃんて、田中あすかさんのことでしょ。どこに会いにいくんですか?」

「青山のお店」

「青山って、渋谷の近くの?」

「ええ」


 ケイは車載ナビに青山を打ち込みながら言った。


「ぼく、ここで待ってますから」

「寒いですよ。いっしょになかに入りましよう」

「いえ、だいじょうぶです」

「待たせてると気になるから、きてください」


 そう言ってめぐみは車を降りた。


「なかには食堂もあるし、アットホームな感じだから、だいじょうぶだよ」

 と、ゆいに背中を押され、ケイも車から降りた。


 ソフィア園の玄関で、めぐみがふりかえり、口に指を一本立てた、静かにね、というしぐさだ。時間は夜の11時をすぎていた。


 めぐみがインターフォンを押し、小声で中森です、と言うと、なかからエプロンをしたふくよかな中年女性があらわれて、ドアを開けてくれた。


「すいません夜おそく」

「いいえ、ちょうどよかった。あの子もいまきたのよ」


 エプロンの女性はにこやかに言った。


「こんばんわ」

「あら、ゆいちゃん、ひさしぶりね。また可愛くなったんじゃない」


 えへへ、とゆいは笑った。

 エプロンの女性は、ケイにも笑顔をむける。


「寒いでしょ。どうぞ入って」


 エントランスはちいさな病院のロビーのようにも見える。内装に木材が多くつかわれていて、温かく感じられる。廊下の両サイドにいくつも扉があり、いちばん奥が食堂ホールのようだ。エプロンの女性は、いちばん手前の扉をひらき、めぐみたちをなかに導きいれた。


 その部屋にはベッドがひとつだけあり、こんもりとした布団のむこうに高齢の女性の小さな顔だけが見える。ベッドサイドには着古したダンガリーシャツにジーンズという大柄な男性が座っている。耳に金属の長いイヤホンのようなものをさし、そこからのびたコードを高齢の女性の胸もとにあてている。


「あれ、ユキくん?」


 ゆいの声をきいてふりかえった男性の顔は、この季節には似合わない日焼けとぶしょう髭で、熊のように見える。でもよく見るとその目はとてもやさしく、大きな体のわりには繊細で落ち着いた印象だ。ただ、肉体的な力強さを感じる反面、どこか戦いに疲れきって達観してしまった格闘技選手のような感じもある。


 ケイはなんとなく、哲学をする熊ってこんな顔かな、と思った。


「ひさしぶりだね」哲学をする熊が笑顔を見せた。


「おひさしぶりです」めぐみが静かに頭を下げる。


「すごーい、ひさしぶり、うれしー」

 ゆいはユキくんと呼んだ熊に駆けより手をとって握手をする。


「元気そうだね、ゆい」


 えへへ、とゆいは笑った。


 めぐみはユキくんとは反対のベッドサイドに行き、眠っているように見える高齢の女性の顔をのぞきこむ。息づかいがすこし荒く感じる。


 ゆいも顔をのぞきこみ、言う。

「おばあちゃん、ミーちゃんがきたよ。ゆいもいっしょだよ。ひさしぶりだね」


 おばあちゃんは反応しない。


 枕元のヘッドボードには、小さな白いマリア像と古びた『銀河鉄道の夜』の絵本、そして写真の入った額が置かれている。写真には、元気なころのおばあちゃんとめぐみと中森あいの三人が写っている。


 めぐみがゆいに言う。

「ここのところ微熱がつづいてるの。ごはんも、食べられなくなってきてる」


 エプロンの女性がめぐみのわきにきて言った。

「きょうはすこし、アイスクリームを食べられたのよ」


「そうですか、ありがとうございます」


「どんな感じ?」エプロンの女性がユキくんに訊いた。


「やっぱり、肺炎の気配がある」


「そう……」

 にこやかだった女性の顔がすこし曇った。


 おばあちゃんの顔を見つめていたゆいが、ユキくんをふりかえって訊いた。


「ねえ、手をにぎってもいい?」


 ユキくんはうなずいた。


 ゆいが布団のなかに手を入れて、おばあちゃんの手を握る。

「おばあちゃん。だいじょうぶだからね。ミーちゃんも、ユキくんも、おばさんもいるから。なんにも心配いらないからね」


 めぐみも布団のなかに手を入れて、おばあちゃんの手を握る。そして、彼女の小さな顔を見ると、すこし唇が動いた。


「え、なに?」

 ゆいがおばあちゃんの口もとに耳をよせる。唇は動くけれど、声はかすかだ。


「歌って? アイちゃん……」ゆいが確かめるように、おばあちゃんのことばを伝える。「アイちゃん、歌って」


 めぐみがじっとおばあちゃんの顔を見ている。


 ゆいが言う。

「おばあちゃん、ちがうよ。ここにいるのはアイちゃんじゃないよ。ミーちゃんだよ」


 また、おばあちゃんの唇が動いた。


 ──アイちゃん、歌って


 ゆいが困ったようにめぐみの顔を見る。


 めぐみは表情を顔にださず、ちょっとエプロンの女性を見てから、おばあちゃんの耳もとに顔をよせた。


「ごめんね。きょうはもう夜が遅いから、またこんど、ね」


 おばあちゃんはなんの反応もせず、すこし荒い寝息をたてている。


 ユキくんが立ちあがって、エプロンの女性のほうにまわり、なにか耳打ちする。エプロンの女性は、そうね、とつぶやいて、

「ゆいちゃん、もうしわけないんだけれど、めぐみちゃんと家族だけのお話があるの」と言った。


 ゆいとケイは部屋をでて食堂に移った。


 食堂には六人が座れるテーブルが三つあり、いちばん手前のテーブルにふたりで座ると、ゆいがなにかに気づいた。


「あのひと、だいじょうぶかな」


 ケイがふりかえると、いちばん奥のテーブルで、おじいさんがひとり、居眠りをして船をこいでいる。


 ゆいが立ちあがり、そのおじいさんところに行って、背中に手をあてて話しかける。


「おじいちゃん、だいじょうぶ? こんなとこで寝たら風邪ひいちゃうよ。ねえ、お部屋はどちら?」


 ああ、すいません、とエプロンをつけた若い男性が現れて、高橋さん、おトイレはすみましたか、と言いながら、おじいさんを抱えるようによりそって、食堂から出ていった。


 ふたりを見送ってゆいが言う。


「たいへんだ」

「そうですね」


 そのテーブルにゆいとケイは腰を下ろした。


「おばあちゃん心配だね」

「そうですね」

「でも、ユキくんがいるから」

「ユキさんて、この施設の人ですか?」

「ううん、ちがう。ええと、なんだっけ、あれ、ほら、戦争とか、災害とか、外国でケガや病気の人がいっぱいいる所に行って、いろいろ助けてくれるお医者さん」

「国境なき医師団?」

「そう、それ!」

「え、なんでそんな人がここにいるんですか?」

「エプロンのおばさんいたでしょ。あの人がここの園長さんなんだけど、ユキくんはその甥っ子になるのかな。うちとミーちゃんは子供のころからユキくんやユキくんのお父さんをよく知ってたから、この園も、ユキくんのお父さんに相談して、紹介してもらったの。すっごいお世話になってる。うちが知ってるなかで、ユキくんがいちばんカッコイイ人。頼れる、頭いい、やさしい。ただ、顔は熊みたいだけど。そこだけ残念」


 ゆいはくすくすと笑った。


「でもね、ユキくんはアイちゃんの元カレなんだよ」


 ケイがきょとんとしていると、ゆいは、あれ、ちょっとよけいなこと言ったかな、という顔をした。そしてケイに顔をよせて、


「だれにも言わないでね」とささやいた。


 ケイは激しくうなずいた。


 エプロンをつけた若い男性がふたたび現われて、

「さきほどは、ありがとうございました」と温かいコーヒーと、クッキーやチョコレートのいっぱい入ったかごをさしだしてくれる。


 すいません、ありがとうございます、と恐縮するゆいとケイに、男性は、クリスマスの残り物ですから、と笑顔を見せて去っていった。


 そういえば食堂のすみにある観葉植物にささやかなクリスマス飾りが施されている。


「クリスマスパーティーとかしたんですかね」

「そうね、あ、このクッキーおいしい」


 ゆいはぱくぱくとクッキーやチョコレートを食べている。きっとお腹がすいていたのだろう。


 ケイはずっと気になっていたことを、訊こうかどうしようか迷った。きょうの出来事ではない。中森あいのことだ。


「あのとき、ユキくんがいてくれたらな」と、ゆいがつぶやいた。


 ケイとおなじことを感じているのかもしれない。おもいきってケイは訊いてみた。


「アイさんは、どうして死んじゃったんですか?」


「わかんない」ゆいはあっさりと言った。


「じぶんで飛び降りたって、ほんとうなんですか?」


「わかんない。すごくお酒は飲んでたみたいなんだけど、橋でしょ、手すりが胸まであるから、まちがって落ちるような感じじゃないし、そのまえのこともあるし、だからいろいろ言われちゃって、だけど、ほんとうのことは、わからない」


 中森あいは自ら死を選んだと言われている。多摩川にかかる丸子橋から、下の川に身を投じた。彼女はその数週間前に人気俳優と車でデートしている写真が雑誌に掲載された。そのころは事務所を移籍して、歌を封印し、俳優やグラビアなどのタレント活動をがんばっていた。


 テレビドラマの主演女優の友だちのひとりや同僚の何番手かといったくらいの役をこなして、「なにかきっかけがあれば、いつブレイクしてもおかしくなかった」とストとれの古参のファンたちは言っている。そんなときにスキャンダルに見舞われた。


 相手の俳優のほうが中森あいよりはるかに有名で、しかも妻がいた。デートの別れぎわとされる口づけの写真もあった。まだまだ無名の女優だ。男の遊びだと多くの人が感じながらも、ネットなどでは彼女の売名行為ではないかと誹謗中傷された。


 不倫という燃料が投下されると、火は大きく燃えあがる。キャンプファイヤーはできるだけ大きな火を、安全地帯から、たくさんの人でかこむのが楽しい。かれらは喜んで踊りはじめる。それでもやがて、火はおさまり、人びとはつぎの祭り会場にむかう、はずだった。


 火が小さくなり、人びとが背をむけて離れはじめたころ、ひとりの女の子が死んだ。じぶんの力で欄干の手すりを乗りこえなければ、ありえない死に方だった。十二月のとても寒い日で、川の水は冷たかった。人びとは戸惑った、だれもがじぶんのせいではないと思った。でも、とても後味が悪かった。そして彼女の死は忘れ去られた。彼女といっしょに大切な時間をすごした人たち以外には──


「ユキくんて、四年前にはもう、いまの仕事してたから、一年の半分ぐらい外国にいたんだよ。あのときも日本にいなかった。うちもミーちゃんも頼りなかったし、アイちゃんも忙しそうだったから……。でも、ぜったいウソなんだよ。アイちゃんがあんな男のこと好きなわけないし、ユキくんだっていたんだから、ぜったいあの男にむりやりされたんだよ。ひどいよ」


 ゆいはほほを赤くして、目にいっぱい涙をためていた。


 ケイはなんとかしてゆいを元気づけたかったけれど、なにを言っていいのか、ぜんぜんわからなかった。


「ごめん、待たせて」

 めぐみが入ってきた。

「行こう」

 めぐみはコートのポケットに手をつっこんだまま、背をむけて玄関にむかう。


 ゆいとケイがあわてて立ちあがり、ついて行きかけるが、テーブルのコーヒーカップに気づいたケイが、ふたつのカップを手にして、食堂をでていく。


 玄関にはエプロンの園長さんと哲学する熊が立っていて、気をつけてね、またね、と見送ってくれた。めぐみは頭を下げ、ゆいは手をふり、ケイは持ってきたふたつのカップを園長さんにわたして、ありがとうございました、と言って外にでた。園長さんと哲学する熊は笑っていた。


 青い車に乗りこんで、ソフィア園をでるときには、玄関の外まできてくれた園長さんと熊がならんで手をふり見送ってくれた。


 走りだした車のなかで、ケイが確かめる。

「青山にむかえばいいんだね」


「おねがいします」

 めぐみはまたスマートフォンでなにかを調べている。


 ケイが時計を見ると、12時ちょっと前だった。


「スーちゃん、お店にいるの?」

 ゆいがリアシートから助手席のめぐみをのぞきこむ。

「うん」

「こんな時間まで?」

「店の模様がえみたい。クリスマス飾りをかたづけてるんじゃないかな」

「ああ、そっか」


 田中あすかがアパレルショップをやっているのはケイも聞いたことがあった。行ったことはないし、場所がどこにあるのかも知らなかった。


 三人を乗せた車が荒川にかかった橋をわたる。


 ケイはちらっとめぐみのようすをうかがう。

 めぐみはうつむいてスマートフォンを見ている。


「ねえ、ミーちゃん」

「うん?」

「お話って、なんだったの?」

「救急車」

「え?」

「いよいよのとき、救急車を呼ぶか呼ばないか、決めておこうって」

「いよいよって、そんなに悪いの?」

「おばあちゃん、ごはんも食べられなくなってるし、抵抗力も落ちてるから、肺炎とか、ひどくなると、病院に行っても回復の見込みがないって」

「ユキくんがそう言ったの?」

「あのひと、そういうとこだけハッキリしているから」

「でも、治らないわけじゃないんでしょ」

「そうね」

「ぜんぶユキくんに任せちゃえば」

「ユキくんはたまたま年末で帰国してるだけだし、園長さんとしてはちゃんと家族に確認しとかないといけないのよ」

「それってミーちゃんが決めるの?」

「家族、わたしだけだし……」


 そうつぶやいて、めぐみは窓の外を眺めた。


 都市の灯りがだんだんと密度をまし、高くそびえ、後方へとながれていく。


 ケイは、めぐみの家族のことも、ゆいの家族のことも、まったく知らないのだと痛感する。あたりまえだ、ステージに立つものと、それを見上げるものとの関係は、そもそもそういうもので、どんなに熱心に彼女たちを見つめ、情報を集めたところで、それは彼女たちのほんとうに限られた一瞬の断片だし、その複製にすぎない。


 ケイはそれでいいと思っていた。むしろ一瞬だから輝くのだし、断片だから貴重なのだ。だけど……。


 いまはステージを降りてしまっためぐみのひとことが、生々しく、ケイのこころの深いところまで染みこんでいく。


 しばらくはだれも口をきかなかった。やがてリアシートから、ゆいの鼻歌が聞こえてきた。どこかで聞いたことのあるメロディ。懐かしい感じ。


 ああ、教会でよく歌われていた、『アメイジング・グレイス』だ、とケイは思った。


 青い車は東京の夜を走る。


 首都高速で池袋から皇居のほうにむかい、六本木をまわって、青山通りにでる。


 めぐみが、ちょっとコンビニによりたい、と言った。表参道のコンビニのまえに車をとめ、彼女たちが買い物をしてくるのを待った。


 ふたりがもどってくると、めぐみの道案内で裏道に入り、田中あすかのアパレルショップを見つけた。


 『ASUASU』と書かれた看板は消えていた。でも、店内は明るくて、店員の女の子たちがショーウィンドーの飾りかえや、荷物の片づけをしている。


 店のまえに車をとめた。めぐみに、いっしょにきて、と言われて、ケイもふたりのあとにつづいて店に入った。


 めぐみが店員の女の子に声をかけ、店の奥へと案内される。バックオフィスのドアを店員さんがノックする。なかから、どうぞ、と声が聞こえた。


 ドアを開けると、段ボール箱にかこまれて書類をチェックしている女性がいた。


 田中あすかだ。


「スーちゃん。ひさしぶり」ゆいが駆けよる。


 あすかが面白くなさそうな顔で言う。

「あんた、またなんか問題起こしたんだって」


 ゆいは、うっ、となって再会のよろこびが苦笑いに変わる。


「スーちゃん、これ、みんなでわけて」

 めぐみがコンビの袋を近くのテーブルに置く。なかには温かい飲み物や甘いものが入っている。


「あ、サンキュー。さすが気が利くね。アベちゃん、みんなに配ってあげて、ちょっと休憩していいよ」


 わかりました、と案内してくれた女の子が、ふたつあるコンビニのふくろから、人数分をよりわけ、めぐみたちのぶんを残して、バックオフィスから出ていく。


「そちらは?」

 あすかがケイを見る。


「ケイさん。いろいろ助けてもらってるの」めぐみが言った。


 ケイはあすかと目が合って、頭を下げる。


「ずっと、うちを推してくれてた人だよ」ゆいがケイのわきに立つ。


 ちょっと苦い顔をして、あすかがめぐみを見る。

「いいの?」

「事情は彼も知ってる」

「そう」

「ケイさん。iPod、ある?」


 そう言われて、あわててケイはダウンジャケットのポケットに入れたままだったiPodをとりだし、めぐみにわたす。


 めぐみはiPodを操作して、録画を確認し、あすかに手わたす。

「とりあえず、これを見てもらったほうがいいかな」


 あすかが録画を見はじめる。


 めぐみはケイに、ミルクティでいい? と温かいペットボトルをわたした。

 ゆいとめぐみも飲み物を手に、エクレアを食べはじめる。


 iPodからもれてくる、原ひろし社長の声に、すこし緊張した。


「なるほどね」

 見終わったあすかが、iPodをめぐみにかえす。

「どうすんの、これ?」

 あすかが、ゆいとめぐみを交互に見ている。

「お金を、わたすしかないと思う」めぐみが言う。

 あすかがゆいを見ると、

 ゆいは、すまなそうな顔をして、うなずいた。

「ほんっと、バカなんだから」あすかの声が一段大きくなる。

「ごめん」ゆいはうつむく。

「なんでこんなことしたの?」

 ゆいは下をむいたまま答えられない。


 あすかがため息をつく。


「あんたねえ、軽はずみにやっといて、おまけに、軽はずみに投げだしたら、そりゃ、相手も怒るよ。ほんっと、バカなんだから」


 めぐみが言う。

「いまは怒ってもしかたないから、とりあえず、こんごの策を相談したいの」

「お金のこと?」あすかが言う。

 めぐみはうなずく。


「一千万なんて、どうすりゃいいのか、わたしが教えてもらいたいよ」

「三百万は、ゆいが返すから、あと七百万」


「えっ?」ゆいがめぐみを見る。


「ん?」めぐみがゆいの顔を見る。


「使っちゃった」ゆいがぽつりと言う。


 ゆいに視線が集まる。


「お母さんにあげちゃった」


 沈黙が流れたあと、あすかが吐きすてる。

「けっきょく、そういうことか」


「ぜんぶ?」めぐみが訊く。

「二百万円。そのくらい借金があったの」

「お母さんの借金だろ。あんたが払う必要なんかないじゃん」あすかが言う。

「うちのお母さん、日本人じゃないから。いろいろ大変なんだよ」

 うー、と頭をかかえる田中あすか。

「残りの百万は?」めぐみがおだやかに訊く。

「わたしも、しばらく働いてなかったから、お金、借りたりして、それを返したから、残ってるのは五十万くらい」

「それでぜんぶ?」

 うなずくゆい。

「なんで、バイトしなかったの? コンビニでもマックでも、どこでだって日銭ぐらい稼げるでしょ」

「したよ。バイト、コンビニで。そしたら、わたしが『ストとれ』だって気づいた女の子がいて……、落ちぶれたね、って……」


「なんだよそれ、ふざけんな!」

 あすかが空の段ボール箱を蹴った。もちろん非礼な相手への憤りだ。

「あんたもあんただよ。なんでコンビニなんかでバイトしたの。人前に出なくてもいいバイトだってあるでしょ。なんでもっと考えなかったの」


「考えたよ。いっしょうけんめい、ひとりで考えたよ。スーちゃんにも、レイちゃんにも、あんたは自立しなきゃいけない。そろそろじぶんのことはじぶんで考えて、ちゃんと行動できるようにならなきゃいけないって言われて、それで、わたしも、いつもみんなに迷惑かけてて、ほんと、そうだなって、自立しなきゃいけない、って思って、それで、がんばって、ひとりで、考えたんだよ。考えてたら、そしたら、こんなことになっちゃって……」


 ゆいの目に涙があふれる。なんとか我慢しようとするのだが、そうすると、ことばにつまってしまい、なにも言えなくなる。手で涙をぬぐいながら、廊下に立たされた子どものように肩を震わせている。


 めぐみがゆいをそっと抱きしめる。

「ごめん、もっと早く、わたしが気づいたらよかった。家も遠くなっちゃったし、生活も変わったりして、わたしもいろいろあって、ごめんね」


 ゆいはめぐみの肩に顔をうずめてくびをふる。


「でも、だいじょうぶだから、なんとかするから」

 

 そうめぐみが言うと、ゆいはうなずく。


 あすかも、さすがに涙ぐんでいる。近くにあったティッシュで目と鼻をふき、

「だけどさあ、撮影はしちゃったんだよね。なんでまた、この期におよんで気が変わったの?」


 ゆいが顔をあげて、

「出会っちゃったの」

 と言う。その顔がぱっと明るくなる。


 めぐみもあすかも不思議そうな顔をする。


「すっごいカッコイイ人。IT会社の社長さんで、ぜんぜんまだ若くて、ストとれのファンで、うちの卒業ライブにもきてくれたって」


「えっと、なにそれ? なんの話し?」あすかが訝しむ。


「こんど食事に行こうって、デートの約束したの」とゆい。

「だれと?」

「木本さん」

「だからそれ、だれ?」

「IT会社の社長さん。ゲームとかアプリとかつくってるって言ってた」


 あすかは頭を抱える。


「それ、いつの話し?」めぐみが訊く。


「土曜日。マリちゃんに誘われてパーティに行ったの。そしたら──」


「ああ、もういい! 記号ばっかりで、なかみ空っぽじゃないか」

 あすかはゆいの鼻先に指を立て、「あんた、卒業のときに、もめてるって言ってた彼氏はどうした?」

「えー、もう一年もまえの話しじゃん」

「ようするに、男と別れたからAVに出て、男ができそうだからAVやめるって話しじゃん」

「ひどい! ちがうよ」

「なにがちがうんだよっ!」


 うーっ、とゆいがあすかをにらむ。あすかに言い返したいが、ことばがない。


 ケイは軽いめまいがした。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。


 元カレの話に、新しい恋の話。卒業しているとはいえ、推していた女の子の現実だ。いや、悪夢と言っていい。お腹が痛くなってくる。そのうえ、いま現実に起こっている問題はそれどころではない。にもかかわらず、ゆいはカワイイ。それだけは真実だ──


 ケイは混乱しながらも、必死で立って、この状況に早く慣れなければいけないと思った。


 あすかが投げやりに言う。

「めぐみ、こんなのほっときなよ。こりないとわからないよ」


 めぐみは、しばらく考えてから、ひとことひとこと確かめるように言う。

「出会いが、どうかはともかく。ゆい、あなたは、いまはAVをやめたほうが、幸せになれると思うのね?」


 ゆいがうなずく。


 めぐみはあすかを見る。

「わたしは、ゆいがそう思うなら、そのためにできることをする」


 あすかはまじめな顔で言う。

「AVに出たからって、不幸になるわけじゃないよ」

「もちろん、それは可能性の問題。ただ、この世には、人をけなすことに喜びを感じる人がたくさんいる。ゆいがそういうことに対して、タフだとは思えない」


 あすかはめぐみを見据えて言う。

「タフな人間なんていない。生きてくためには、タフにならなきゃいけないんだ」


 めぐみが唇をかみしめる。


 沈黙があたりをつつみこんだ。たぶんみんな、中森あいのことを思いだしたのだ。


「ごめん、言いすぎた」

 あすかがめぐみに近づいて、その肩をやさしく手をそえる。

「わたしもさ、あんたたちだから正直に言うけど、お金には困ってるのよ。このお店だって、親と銀行からお金を借りて、人を雇って、毎日まわしていくのが精一杯。ファッションには、あこがれが大事だから、ぜったい表に弱みは見せられないけどね。ひろし社長も、そういうとこあるんじゃない。お金のあるなしはわからないけれど、ナメられるわけにはいかないってのは、そういうことよ」

 そう言ってから、あすかは考えをめぐらし、

「にしても、一千万はきびしいね。ちょっとどうすればいいか想像つかない」


「さいしょに、ひろし社長に会ったのはスーちゃん? レイちゃん?」めぐみが訊く。


「いっしょかもね。あの人、はじめて会った時は、PVやウェブの製作やってたから。タレント事業やるんだとは言ってたけど、気がつくとAVモデルの事務所やってた」

「レイちゃんにも会いにいこうと思ってるんだけど」

「あ、いいんじゃない。あの子に裏から手をまわしてもらえば」


 あすかのことばには明らかな皮肉がふくまれている。


「え、そんなことできるの? どうやって?」ゆいが訊く。

「愛を使って」あすかが無表情で言う。

「え、アイちゃん?」

「ばか。愛だよ。ラブ、ラマン、おめかけさん」

 と勢いで言ってから、ケイの存在に気づき、めぐみに言う。

「だいじょうぶなんでしょうね?」


 めぐみがケイの顔を見る。


 ケイはあすかに言った。

「口は堅いです」


 ふん、とあすかは納得とも不審ともいえない表情でケイを見る。


「レイちゃん、ひろし社長とつきあってないよね?」


 ゆいがめぐみに訊くと、あすかが言った。


「そっちじゃないよ。ひろし社長のじいさんの方。彼のおじいさんの原武会長ってのがいるのよ。ひろし社長の会社はほとんどそのじいさんが出資してつくってるはずだから、事実上の会社のオーナーよ。たぶん、ひろし社長はじいさんに頭が上がらない」


「いまレイちゃんが勤めてるのが、そのおじいさんの会社なの」

めぐみがゆいに言う。


「あれ、勤めてるなんて言うのかね。マンションにかこわれて、ぶらぶらしてるだけじゃない」あすかが言った。


「事務所には通ってるみたい」

「なんの事務所?」

「不動産関係かな?」

 ふうん、とあすかが気のない返事をする。


「じゃあ、なんとかなるかな」ゆいが顔を明るくする。


 めぐみは胸もとで腕をくみ、ひとさし指を噛むように唇にあてる。考えているしぐさだ。


「うまくいくわけないじゃん」あすかが言う。「ナメられたくないってのは、身内にだっていいカッコしたいのよ。小娘にふりまわされたあげく、じいさんから圧力かけられて、大損を計上するなんて、あの人、逆上するよ。かえってなにするかわからない」

「怖いよ」

「あんたでしょ、原因は」

「どうしよう」

「ちょっとはじぶんで考えなさいよ!」

「わかんないよ!」

「わたしだってわかんないよ! 一千万なんて。もう、おれおれ詐欺でもすれば」

「あー、ひどいよ、スーちゃん」


 ケイもそれは言ってはいけないと思った。ゆいがストとれを卒業し、すべての表舞台での活動から身を引いたのは、身内の不祥事も関係しているといわれた。彼女の弟が、おれおれ詐欺グループの一員として検挙されたという噂が、ストとれファンのあいだに流れていた。


 めぐみは考えている。と、スマホの振動に気づいて、コートのポケットからとりだし、相手を確認して通話をタップ。

「あ、ごめんね、レイちゃん。いまからそっちに行ってもだいじょうぶ? ──そう、ゆいのこと、いまスーちゃんのとこにいるから、30分はかからないと思う。──うん、夜おそくに、ごめんね。──ありがとう」


 通話を終えて、めぐみが言う。

「スーちゃんもいっしょにきてくれない?」


「いやだ」

 田中あすかはあからさまに不愉快な顔をした。



 藤村れいかは西新宿の高層マンションに住んでいた。


 近くのパーキングに青い車をとめると、めぐみ、ゆい、ケイ、そしてカーキ色のトレンチコートを着た、田中あすかも降り立った。


 あいつの住んでるマンションの内装だけ気になるのよ、と、あすかはよくわからない言い訳をした。


 マンション入り口のインターフォンを押して、エントランスのオートロックをあけてもらい、エレベーターに乗った。


 田中あすかは、30階なんて地震が起きたらどうすんの? 電気がとまったら水もでないし、階段で昇り降りなんて、ぜったいできないんだから、と、ぶつぶつ言いつづけている。


 エレベーターのドアが開くと、廊下に白いナイトガウンを羽織った藤村れいかが立っていて、めぐみたちを出迎えてくれた。


「わー、レイちゃん、ひさしぶりー」

 と、ゆいが駆けよって、れいかに抱きついた。


「ひさしぶりね、ゆい。元気そうで良かった」

 藤村れいかは長い黒髪に、きりっとした表情の女性で、『ストとれ』の時代からメンバー内でいちばん大人っぽく見えた。


 藤村れいかと田中あすか、中森あいの三人は、高校の同級生だった。いまの年齢は二十六歳のはずだ。ゆいとめぐみはその四つ下になる。


 れいかがあすかを見た。

「ひさしぶりね。あすか」

「ああ、」

 あすかはぶっきらぼうに応えた。


 藤村れいかの部屋からの眺めはすばらしかった。


 光のつぶを身にまとった大小の建物が地平の果てまでつづき、眼下の新宿中央公園だけが暗い穴のように見える。深夜二時をすぎているのに、高層ビルの光の点滅も、車の流れも、とどまることはない。都市のうなりが遠くから響きつづけている。


「すごいねー」ゆいが夜景に見とれている。


「──ダイヤモンド会社で、値段が安くならないために、わざと採れないふりをして、かくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえしてばらまいた……」

 めぐみが朗読のようにつぶやく。


「なに、それ?」

「たぶん、銀河鉄道の夜」

「ダイヤモンド会社の話しなんて出てきたかな?」

「どっかにあったと思う」

「ふうん」


 藤村れいかがリビングのソファーテーブルにティーカップをならべている。


 白い革張りのソファーにひとり座っている田中あすかは、腕ぐみをしたまま黙って室内を見まわしている。


 広いリビングは床のフローリングも白い壁もぴかぴかで、物も少なく、清潔でとてもきれいだ。ただ、どこかモデルルームのようなよそよそしさがあり、落ち着かなさも感じる。


 ゆいとめぐみとケイがベランダからもどってくる。


「やっぱりすごいねー、いいなー、レイちゃん。毎日あんな夜景見れて」


 あすかが言う。

「夜景なんて、毎日見てたら飽きるよ」


 れいかは笑う。「ほんとそうよ」


 めぐみがサイドボードに置かれた本に気づく。『グレート・ギャツビー』の村上春樹訳だ。


「ごめん、レイちゃん。『1Q84』ずっと借りたまんまだね」

「ぜんぜん、いいのよ。読んだ?」

「うん」

「どうだった?」

「おもしろかった。でも……」めぐみはちょっと考えをめぐらせて言った。「牛河さんは殺すべきじゃなかったと思う」

「あ、それ、わたしも思った。もし、続編があるとしたら、こんどは牛河さんこそが救われるべきだよね」

「うん、そうだったら、すごくいい」

「なんの話し?」ゆいが小声であすかに訊いた。

「村上春樹の小説でしょ。すごく長いやつ」

「ふうん、ケイくん知ってる?」

「ええ、読みました」

「へえ。うち、小説って苦手なんだよなあ」

「銀河鉄道は?」

「あれはミーのおばあちゃんのお気に入り、ちっさい時からなんども読み聞かせしてもらったの」

「そうですか」

「あ、レイちゃん、これ紅茶じゃないね」

「カモミール・ティ。夜中だから、カフェインじゃない方がいいかなって」

「すごーい。おいしー」


 ケイは一瞬、『ストとれ4』時代の四人がそろって目のまえでお茶を飲んでいる光景を見て、ああ、古参ヲタの大滝さんだったら涙するだろうな、と思った。


「えーっと、みなさん」あすかが声を大きくした。「なんか、お茶飲みながら、ほんわかしてるけど、状況がわかってるのかな」


「iPodは観たわよ」れいかが言った。「iPodの動画、いまバックアップしてるから」

「ありがとう」めぐみが言った。

「で、どう思う」田中あすかが言う。

「スーはいくら出せるの?」と藤村れいか。

「へ?」

「わたしはいま、ちょっとがんばって二百万くらいかな。見せるだけでいいなら、もうちょっとがんばれるけど」

「ちょっと待った。なんでお金をだす前提で話してんの?」

「だって一千万でしょ。いくらか負けてもらえるとしても、年内に半分くらいは渡さないと、値下げも、延長交渉もむつかしい」


 田中あすかが立ちあがる。

「ちょっと、よく考えなよ。あの子はいま一銭も持ってないのよ。わたしたちがお金を貸したとして、必死で足りないぶんをかき集めたとして、それ、ぜんぶ、あの子の借金よ。一千万もの借金、あの子がどうやって返すのよ。何年、あの子の首を絞めつづけると思うの。また苦しくなって、おんなじ罠にハマって、負のスパイラルよ」


 静かに聞いていた藤村れいかが、ゆっくりと話す。

「スー、あなたの言っていることはとても正しい。けれど、目のまえにある課題を、まずはクリアしなくてはいけないのよ。時間も少ない。できることをするしかないんじゃないかしら?」


「わたしは、あんたみたいに、ぽんと何百万も出せる状況にないの。わたしだって、負債を抱えてしゃかりきに働いてんのよ。世の中の人はほとんどそう。みんながあんたみたいにお気楽に生きてるわけじゃないの」


 あすかはきびしい目でれいかを見据える。

 れいかも目をそらさない。


「あなたは、ゆいががまんをして、契約どおり仕事をするべきだと思っているの?」


「ここでへたを打って大きな借金かかえるより、覚悟を決めて大金を手にしたほうが、未来が開けるっていう考え方もある」


「でも、ほんとうは、そうは思えないから、ここにいるんでしょ?」


 あすかは冷徹になりきれないじぶんを見透かされ、ムッとした顔をしてそっぽをむく。


 れいかはめぐみに言う。

「どっちにしても、お金を用意できなければ、自動的にビデオは世のなかに出るんだから、それをいま積極的に選択する必要はないでしょう」


 めぐみはうなずく。

「わたしも、いまやれるだけのことをする。たとえ、悪あがきでも」


 れいかもうなずく。

「いい友だちを持ったわね。ゆい」


「うん」ゆいが笑顔になる。


「とはいえ、あすかの言っていることも真実なわけで、これは困ったわね」


「レイちゃん、ひとつ聞いてもいい?」めぐみが言う。「ひろし社長って、信用はできる人?」


「約束は守る人よ。たとえアンダーグラウンドの案件でも、仕事にもっとも必要なのは信用だって、原武会長からきつく言われている」

「原武会長って、どんな人?」

「それは、なかなかひとことでは言えないわね」

「こんかいのことで、レイちゃんから武会長にお願いして、ひろし社長に口をきいてもらうことはできる?」

「この件で? 話せないことはないけれど、でも、彼の仕事にこまごまと口をだすってことはしない人よ。そこは一線をひいている。彼のビジネスは彼のビジネス。この件はひろし社長と交渉するしかないわね」


 めぐみはちょっと考えて、

「ひろし社長は、どうして名字を変えたの?」


「ああ、それは税金対策」


 みんな、不思議そうな顔で、れいかの顔を見た。

「武会長が、ひろしさんを養子にしたのよ。もともと武会長には娘さんしかいなくて、その息子、武会長の孫がひろし社長なの。娘さんはふつうに旦那さんと結婚したから、その旦那さんの名字を家族で名のってた。だから、原武会長の名字に変えることで、ひろしさんが後継者だってまわりに意識づける意味もあるのかもしれない。けれど、実質的には税金対策よ」


「なんで孫が息子になるだけで税金対策になるんだ?」あすかが訊いた。


「相続の回数が減るでしょ」れいかが言う。「武会長が亡くなったら、奥さんが半分、娘さんはひとりっ子だから残りの半分。この時点では、孫のひろしさんまでとどかない。それでも二人ぶんの相続税。奥さんが亡くなったら、遺産は娘さんに集中するけれど、また相続税。なにかの間違いで、娘さんが旦那さんより先に亡くなると、旦那さんが半分、残りを、ひろしさんの兄妹で分け合うから。三分の一ずつ。それぞれが相続税を払うと、四人ぶん。えっと、何回相続税を払ったかしら」


「なるほど、息子にしたらショートカットできるんだ」あすかが言う。「おまけに娘婿を外してる。金持ちの考えることは周到ね。だけど、もめそう」


「話し合いがついたから正式な養子にしたんでしょ。孫を養子にすると相続税が上がるみたいだけれど、回数やら、だれかが財産放棄するやら、シナリオをいろいろ検討したみたいよ。そんなことばっかり考えてくれるコンサルタントがいるのよ」

「コンサルさんまで儲けさせてくれるのか、どんだけお金があまってるんだ」

「お金持ちはお金持ちで大変なのよ。どうやって資産を守るのか。この部屋だって法人登記になってるのよ。社宅あつかい」

「社宅? これが?」


 おそらく億に手がとどくくらいの高級マンションだ。


「けっこう売り買いするのよね。この三年くらいで、二回引っ越したわ」

「だからこんなにきれいに使ってるんだ」ゆいが言った。

「おかげで荷物が減ってすっきりしたけれど」


 田中あすかが藤村れいかから目をそらして言う。

「むかしのお金持ちは、おめかけさんに家一軒くらいは買ってくれたんでしょ。世知辛くなったわね」


「おめかけさんなんて、ずいぶん古風なことばをつかうのね。ひさしぶりに耳にしたわ」


 ちくりと嫌みを言ったあすかに、れいかはやさしく微笑みかける。


 じっと考えていためぐみが言う。

「ねえ、レイちゃん。武会長の奥さんて、どんな人?」


 れいかはちょっと考えて、

「ふつうの人。あまり会ったことはないけれど、仕事にはまったくタッチしていない。専業主婦として家庭を守ってきたタイプ」

「孫のひろし社長とは仲がいい?」

「とても。そうね、すごく心配性で、ひろし社長を頼りにしていると思う」

「武会長とは?」

「武会長とはもう疎遠ね」

「娘さんとは? ひろし社長のお母さん」

「ひとり娘ともうまくいっていない。ひろし社長もおばあちゃん子だったみたいだし、それもあって、ひろしさんの養子縁組には大賛成だった。なにかあったら、彼にしか頼れないって思ってるんじゃないかしら。家族会議の席で、むずかしいことを考えるのはもう嫌だって、言ってたそうよ」


 むずかしいことって、人間関係だろうか、それともお金のことだろうか、ケイはそんなことをぼんやり考えた。


「武会長の奥さんはいつも家にいる?」めぐみが訊く。

「ええ」れいかはめぐみの質問の意味をはかりかねながら、こたえた。


「家にどのくらいのお金が置いてあると思う?」


「現金てこと?」


 めぐみがうなずく。


「ちょっと!」あすかが飛び起きる。「あんた、まさかわたしが言ったこと、マジで──」


 めぐみがうなずく。


「え、なに? ドロボーするの?」ゆいが不思議そうな顔をしている。


「ばか!」あすかが言う。「あんたの弟がやったやつだよ」


 はっとするゆい。


 めぐみはゆいを見ている。

「ゆいにはもうしわけないし、ほんとうは良くないことなんだけど、いまのわたしには、ほかに手が思いつかない」


「できるかしら、そんなこと」れいかはおっとりと考えている。


「ばか、犯罪だぞ、それ」と、あすか。


「こう考えてみて」めぐみは言う。「武会長の家にあるお金は、彼が事業に失敗しないかぎり、いずれは資産として、ひろし社長にわたるもの。そのお金を、わたしたちは早めに、武会長のもとから、ひろし社長のところに移動させるだけ。しかも、相続税ぬきで」


 ゆいは不思議そうな顔をしたままだ。


「なんだか、悪いことをしている感じがしないわね」れいかが笑う。


「そうでもないぞ、ばあちゃんを脅すことになる、それが詐欺ってもんだ」

 あすかが言う。


「そこは、覚悟を決めるしかない」めぐみが言う。「わたしたちにはお金がない。だから、あるところから持ってくるしかない」


「ほんとにあるのか?」あすかがれいかを見る。


 れいかはうなずく。

「不動産をやっていると、足のつかない現金も必要になるのよ。所得隠しもしたいだろうし、数百じゃなくて、数千の単位であってもおかしくはない」


「にしたって、ぜったい、うまくいかないだろ」

 と、あすかはめぐみを見る。


「わたしも、勝算があるわけじゃない。でも、チャレンジする価値はあると思う。危なくなったら、いつでも中止にする。うまくいかなくても、いまより状況が悪化するわけじゃない」

「ゆいの弟まで巻きこむのか?」

「とりあえず、やりかたを教えてもらう」


 れいかが言う。

「そうね、それから判断してもおそくはないわね」

「なにのんきなこと言ってんだよ」

 田中あすかは頭を抱える。


「わかった。リュウジに連絡してみる」

 ゆいがスマホをとりだして、連絡しようとすると、


「待って!」

 ケイがゆいをとめた。

「ここでケータイを使わないほうがいい」 


 意外なところから声があがって、みんなの視線がケイに集まる。


「ラインを使うと情報が残ります。通話なら内容は残らないけれど、いつ、だれが、だれに電話をしたって記録が残ります。おそらく位置情報も残ると思った方がいい。僕らがこの部屋にいることも、エントランスのカメラが記録しているし、あすかさんの店からの移動も、道路上のどこかのカメラが記録している。もし、これから非合法なところにふみこむなら、連絡と移動には注意した方がいい」


「マジか──」あすかが言った。「あんた、だれだ?」


「ケイくんだって、紹介したじゃん」ゆいが言う。

「わかってるよ!」


 ケイはちょっと考えて言った。

「スパイ小説とか、映画とか、好きなんで」


 あすかはふにおちない顔をしている。


「ありがとう」めぐみがケイに言う。「そうね、これから気をつけた方がいいと思う」


「じゃあ、うちら、もう会えないの?」


 ケイが言う。

「このメンバーは、みんなゆいさんことを心配してるから集まってるんだってことで大丈夫だと思う。ただ、ここに弟さんが加わると、ちょっと話しが違ってくる気がします。捜査されるのは、事件が発覚したあとなので、そのとき、いろいろ記録を調べられても、言い逃れできるようにしておくことがだいじなんです。どう見えるかって話しです。疑われないのが、いちばんいいんですけどね」


「わかりました。じゃあ、わたしやあすかはリュウジくんに会わない方がよさそうね。ゆいは会っても不自然じゃないでしょ。めぐみはどうかしら」


 ケイもめぐみを見る。


「幼なじみだから、だいじょうぶ」めぐみは言った。

「そうだったわね」れいかが微笑む。


「ちょっと、なんでわたしがメンバーに入ってんのよ。協力するなんてひとことも言ってない」


 あすかがれいかにつめよる。


「そう、でも心配でしょう?」

「心配だからって、犯罪ができるか!」

「犯罪じゃなければ助けてもらえる?」めぐみが言った。

「時と場合による」

「そんなの、いつだってそうじゃない」とれいか。


 このやろう、という顔でれいかを見るあすか。


 めぐみはスマホで時間を確認する。午前三時だ。

「いまからリュウジくんに会いにいってくる。あとのことはまた明日、相談させて」


「わかった、いつでも連絡して」れいかが穏やかに言った。


 めぐみたちは部屋をでて、エレベーターにむかう。


「あ、ごめん、ちょっと忘れ物。さきに行ってて」


 めぐみは藤村れいかの部屋にもどっていく。

 ゆいとあすかとケイはエレベーターに乗りこんで、地上に降りた。


 車をとってきますね、とケイは近くのパーキングにむかう。

 ケイが見えなくなると、あすかは言った。


「あの男、ぜったい素人じゃないから、気をつけなよ」

「大丈夫だよ。いい人だと思う」

「あんたねえ。ほんと、もっと人を疑った方がいいよ。お願いだよ」

「ごめんね、心配させて」


 あすかはため息をつき、ゆいの肩に腕をまわし、つよく抱いた。


「心配だけならいいんだよ、心配だけなら。世のなかにはさあ、取り返しのつかないこともあるんだよ」

「うん」


 ふたりのところにケイの乗った青い車がもどってくる。


「お待たせしました。乗ってください」


 あすかが車のなかのケイをのぞき込み、

「ユイとミーをたのむわよ」と凄む。


「はい……」ケイはちょっと緊張し真顔でこたえる。


 あすかは、じゃあね、とゆいに言って、離れていく。


「あすかさん、送りますよ」ケイが車の窓から顔をだし、呼びかける。


「リュウジのところに急ぎな、簡単な話じゃないんだから」

 そう言って、あすかは夜のなかに去っていった。


 めぐみがマンションから出てきて、車に乗りこみ、三人はリュウジのもとへむかう。


 リュウジの住むアパートは登戸にあった。小田急線で多摩川をこえて、ひとつ目の駅だ。深夜なので30分ほどで着いた。途中で、ゆいがなんども電話をして、ようやくつながった。


「とにかく大事な話しがあるから、顔を洗って待ってて」

 とゆいは言った。


 リュウジの部屋をたずねると、寝起きの彼はとにかく不機嫌で、ドアを開けるとなにも言わずに部屋にひっこんだ。


 おじゃまするよ、とゆいが部屋に入り、めぐみとケイも、おじゃまします、と小さな声で言って上がりこむ。


 リュウジは寝間着かわりの白いジャージに、部屋が寒いものだから銀色のライトダウンを羽織っている。彼はベッドの上に座り、胸まで布団をかけている。


「あんた顔洗った?」

 と言いながら、ゆいは近くの自動販売機で買ったホットコーヒーを、投げてわたす。


 受けとったリュウジは、すぐに缶をあけ、口にする。

「なんの用だよ」


「ごめんね。リュウくん、こんな夜中に」


 そう言っためぐみの顔を見て、リュウジはちょこんと頭を下げる。そしてめぐみのうしろに立っているケイに気づく。


「ん? だれ? 新しい男?」とゆいを見る。

「ちがうよ!」

「ミーちゃんの?」

「お友だちよ」とめぐみは言う。

「ふうん」


 小さなワンルームは半分がベッドに占領されている。きゅうくつな印象だけれど、壁ぎわのカラーボックスには裏技や都市伝説系のペイパーバックがならび、使い込まれたノートパソコンや周辺機器が、きちんと整理しておかれている。べつのカラーポックスには、ジーンズやセーターが折りたたんで積まれている。この部屋の主はけっこう几帳面な性格かもしれない。


「ちょっと、クッションくらいないの?」ゆいが部屋を見まわしている。

「客がくる仕様にはなってないんでね」

「ちゃんと掃除してる?」ゆいは床をはらいながら腰を下ろす。

「あなたよりはね」

「失礼な」


 ケイはそのやりとりから姉弟関係をなんとなく感じる。


 めぐみはちょっと考えて、

「ゆい、あの動画、リュウくんに見せてもいいかな?」


 ゆいはすこし困った顔をするが、すぐにうなずく。


「リュウくん、ゆいに会ったのはひさしぶりでしょ」


「この部屋に引っ越したとき以来? 夏まえだっけ?」

 リュウジがゆいを見る。


 ゆいがうなずく。


「それから、ゆいもいろいろあったみたいで、ちょっと困っているの。これを見てもらうと、だいたい状況がつかめると思うんだけど」

 めぐみはiPodをリュウジにわたす。


 リュウジはベッドサイドの壁にもたれて、動画を再生する。


 小さな部屋にひろし社長の声がひびく。あまり気持ちのいいものではない。


 ゆいはうつむいている。めぐみは腕をくみ、ひとさし指を唇にあて、なにかを考えている。


 リュウジはさいしょ無表情だったが、やがて眉をよせ、真剣な顔になる。再生し終わると、なにも言わずに立ち上がり、キッチンに行って、冷たい水で顔を洗い、タオルで顔を拭きながらもどってくる。ベッドの上に座り、あぐらを組む。


「で、どうするの?」


 リュウジはめぐみに訊いた。こういう深刻な場面では、はなからゆいの意見は期待していないらしい。ゆいとめぐみ、ふたりいるなら、話しはめぐみとする方が早い。


「お金を用意するしかないと思ってる」

「悪いけど、貯金はないし、たぶん、カードローンすら、いまのおれにはつくれない」


 めぐみはうなずく。


「リュウくんのところにきたのは、お金そのものの相談じゃなくて、それを手に入れる方法について。ほんとうにもうしわけないんだけれど、緊急事態なの、気分を悪くしないで、最後まで聞いてほしい」


 リュウジにも、めぐみがなにを言いだそうとしているのか、ピンときたようだ。けれども、わかった、とだけ言って、めぐみの話しに耳をかたむける。


 めぐみは、藤村れいかの部屋で話したことを、じぶんでも確認するようにリュウジに話す。


 ひろし社長と原武会長の関係、名字変更と養子と相続税、武会長の妻であり、ひろし社長の祖母である、高齢女性のようす。そして彼女の手元にあるであろう家に置かれた現金。


「それを手に入れるための方法を教えてほしいの」

 めぐみはリュウジに言った。


 リュウジはしばらく考えて、

「おれに、もういちど、あの詐欺をやれって話しだね」

「あなたにやってほしいわけじゃない。やり方を教えてくれればいい」

「だれがやんの?」

「わたしがやる」

 めぐみは覚悟を決めている。


「無理だよ。男の声がなきゃ成立しない」


 めぐみとゆいが、ケイを見た。

 ケイは無言で座っている。


「素人じゃ無理だよ。ぜったい成功しない」

「やってみないとわからない」めぐみがくいさがる。


「いや。無理なんだ。道具がない」


 めぐみにはちょっと意味がはかりかねる。


 リュウジは言った。

「飛ばしのケータイ。ようするに、他人の名義で、いつでも捨てることができるケータイがぜったいに必要なんだ」


「公衆電話じゃダメ?」ゆいが訊く。


 リュウジは笑って、

「いまどき、公衆電話や知らない番号からの電話をすなおにとるか? いくら年寄りったって金持ちなんだろ、まわりが注意してるよ。いちど電話をかけたら、留守電に番号をふきこんで、打ち返しを待つ。その方がむこうも信用する。じぶんから目的をもってかけてるんだからね」


 めぐみとゆいが顔を見合わせる。


「裏の仕事はなんだって連絡手段にいちばん苦労するんだ。飛ばしのケータイを手に入れるのが、どれだけ大変か。ぜったいムリ。ほかの手を考えるしかないよ」


 ゆいはしゅんとしてうつむいてしまう。

 めぐみは腕をくみ、ひとさし指のつめを噛む。


 リュウジがふたりの様子を見て、困ったなという顔をする。


「おれも、いろいろ、もうしわけないと、思うところもあるから、なにかおれにできるなら、そうしたいと思うんだけど……、でも、まいったな。いまのおれには、なんにもないよ。どうすることもできない……。ごめん」


 ゆいが首をふる。

「ううん、いいの。こっちこそ夜中にごめん」


 三人とも、うつむいてしまった。


 夜のアパートの小さな部屋が沈黙にしずむ。


「あるよ。飛ばしのケータイ」


 三人が顔を上げ、声の主をさがす。それが、ケイだと気づくのにすこしかかった。


 ゆい、めぐみ、リュウジがケイを見る。


 部屋のすみに座っているケイが、ジーンズのまえポケットから青い折りたたみ式のガラケーをとりだす。めぐみが劇場の座席の下で拾ったものだ。


「飛ばしのケータイ。まだ渡されたばかりだから、ひと月くらいは使えると思う」


 リュウジの顔が険しくなる。

「あんた、何してる人?」


「浜松の自動車関連の工場でふつうに働いてる。派遣社員だけど」


「派遣かバイトかしらないけど、ふつうの人が飛ばしのケータイもってるわけないだろ」


 ケイはすこし考えながら言う。

「えっと、どこから話せばいいのかな。たぶん、ゆいさんも僕の本名は知らないと思うので、フルネームからいうと、僕の名前は、松田、クリスティアーノ、健太郎」


「え、ケイくん、ロナウドなの?」


 ゆいがすっとんきょうな声をだす。

 さすがに飛躍しすぎていて、めぐみの緊張はゆるみ、リュウジは頭を抱えた。


「ばか、健太郎つってんだろ」


「ご両親がブラジルとかの日系の方?」めぐみが訊いた。


「父も母もブラジルの日系三世で、九〇年代に日本に来て働いた。僕は日本で生まれて、日本で育った。だから、まわりにもそういった環境の友だちが多い」

「ジェイくんも、おんなじ?」

「うん。あいつも日系四世なんだ」


 ジェイはあの青い車の持ち主で、ケイを『ストロベリーとれいん』に出会わせてくれた友だちだ。


 いまごろ、どこでなにをしているだろう。あいつがこの状況を見たら、感激するだろうか、それとも怒るだろうか、ケイ、ひとりだけずるいよって。いや、そんな感傷に浸っている場合じゃないんだよ、ジェイ、もし叶うなら、遠くでおれたちの、いや彼女たちの幸運を祈っていてくれ──



「これから僕がする話は、この場かぎりで、ぜんぶ忘れてほしい。僕があなたたちとの出来事を忘れなくちゃいけないように」


 ゆいとめぐみがうなずく。


「僕は日本の学校に通っていたから、そのころの友だちは、僕のことを健太郎ってよぶ。僕がケイってよばれるようになったのは、そんなにむかしの話しじゃない。高校を卒業して働きはじめたころ、ジェイから頼み事をされたんだ。ジェイはサッカーボールが一個入るくらいの黒いスポーツバッグを僕にわたして、これをどこかのコインロッカーに入れてほしい、できれば暗証番号式がいい。もし鍵を使うなら、その鍵をどこか忘れないところに隠してほしい。そう言って、ガラケーもひとつ、いっしょにわたされた。このガラケーに電話がかかってきて、相手が黒いスポーツバッグの場所を聞いたら、暗証番号といっしょに教えてやってほしい。おそらくそれ以外の電話はかかってこない。ぜったいに守ってほしいのは、黒いスポーツバッグのなかを見てはいけない。隠し場所を電話の相手以外に話してはいけない。それはジェイに対しても。そして、この電話は受信専用につかって、ぜったいにこちらからかけてはいけない」


 リュウジが息をのむのがわかった。

 ゆいとめぐみはじっと話しを聞いている。


「そのケータイ電話はひと月ほどで使えなくなり、そのたびにジェイが新しいケータイをもってきた。スポーツバッグの数もだんだん増えていった。それぞれのバッグは色やメーカー、受けとった日付で判別した。僕はぜったいに中身を見なかったし、電話の相手とも、場所と暗証番号以外の会話はしていない。だから僕は、コインロッカーに入れたバッグが何で、そのあとどこへ行くのか、まったく知らない。たぶん僕は、彼らにとってのキイ(key)、ただの鍵なんだ。それ以上でも、それ以下でもない」


「ジェイくんがあなたをキイってよぶようになったの?」めぐみが訊いた。


「隠語だったんだ。ときどき人前で確認をするときに、キイよろしくな、キイだいじょうぶだよなって、ジェイが言った。それを聞いて、僕がケイってよばれていると思った人たちがいた。名前が健太郎だしね。こっちの『ストとれ』まわりの人たちが多いんだ。そのうちにジェイも東京では僕のことをケイってよぶようになった。僕もそれで通した。地元ではさすがに警戒してたから、だれも僕をケイとはよばない」


 しばらく黙っていたリュウジが訊く。

「その仕事、報酬はいくらもらってんの?」


「もらっていない。ときどきジェイに食事をごちそうになったけれど、ファミレスや回転寿していどだよ。たぶん、バッグの中身を見るなって言ったのも、お金のやりとりがなかったのも、僕を守るために必要なことなんだと思う」


「金もくれないのに、なんでそんなヤバいこと手伝ってんの」


 ちょっと考えてケイは言った。

「友だちだから」


 リュウジはフッと苦笑して皮肉まじりに、泣けるね、と言った。

「だけど、こっちからは電話すんなって言われてんでしょ。勝手に使っていいのか?」


「ジェイはいま遠くに行ってる。どこに行っているのかは知らない。こちらからも連絡はできない。あいつは、あの青い車と、このケータイを僕にあずけて行った。しばらくは連絡がとれないから、もし、なにかちょっとでもヤバいことを感じたら、いつでもこのケータイを捨てていい、って言われてる。それに、もし、ここにいるのが、僕じゃなくて、ジェイだったら、彼もおなじ判断をする。かならず」


 リュウジは、マジかー、と絞りだすように言って、腕をくみ、天井を見上げた。そして、ゆいとめぐみに視線をもどし、

「おれさあ、まだ保護観察中だから、またなにかあったら、こんどは確実に檻のなかなんだけど……」


 ゆいもめぐみもなにも言えない。


「道具も、ターゲットも、そろってんだよねえ。これって、たぶん、やれってことじゃん」リュウジは言った。「神さまは残酷だな」


 めぐみが、ごめんなさい、と頭を下げる。


 リュウジはゆいを見て、

「いいんだな。やるよ。ねえちゃんが、いいってんなら、おれはやる──。いや、いい、ねえちゃんは関係ない。ミーちゃんも関係ない。おれがやる。おれがやるべきだと思ったからやる。やるからには、万全を期す。おれは檻になんか入りたくない。ねえちゃんにこれ以上、傷がつくようなことにも、ぜったいにしない。金が手に入るかどうかは時の運だ。それは保証できない。ただ、失敗しても、協力者に被害が及ばないプランはつくれると思う。ひとり以外は──」

 そう言ってケイを見た。

「受け子ってわかる?」


「聞いたことはあります」

 ケイがこたえる。


「たぶん、あんたが、直接、現金を受けとることになると思う。そのときが、いちばん危ない。すごく捕まる危険性が高い。ただ、ここで捕まっても、その受け子さえ黙っていてくれれば、ほかのメンバーには被害が及ばない。そのいちばん危険なところを、お願いすることになる。それでもいい?」


「口は堅い方です」ケイは言った。


「だろうね」

 リュウジは皮肉まじりの笑みを浮かべた。


「わかった、じゃあ、おれ、ちょっと考えるから、みんないったん帰って寝たら。明日の、いや、今日か、お昼ぐらいに連絡入れるよ。急いだ方がいいんでしょ」


「うん、おねがい」めぐみが言った。「ほんとにありがとう」


 ゆいも、ありがとう、と言ったがずいぶん眠そうで、目が半分とじている。


「いや……」リュウジはちらっとゆいを見てから、めぐみに小声で、「ごめん」と言った。


 たぶんリュウジはじぶんのやったことを悔いている。ゆいが表舞台から身を引いたのも、じぶんに責任があると思っている。ただ、その悔いている行いが、こんどは、ゆいを助けるために必要だと求められた。もうなにが正しいかなんて、わからない。……神さまは残酷だ。ケイもそう思った。



 ゆいが住んでいるのは新丸子だった。登戸から多摩川にそって車で三〇分ほど下ったところだ。東急線の新丸子駅からすこし離れたワンルームマンションが彼女の部屋だった。マンションのまえに到着したとき、青い車のリアシートでゆいはすっかり眠りこんでいた。いろいろあって疲れきってしまったのだろう。時計を見ると午前五時だった。


 めぐみがゆいの寝顔を見て、ケイに言った。

「いろいろまきこんじゃって、ごめんなさい。こんなことになるなんて、思っていなくて」


「気にしないでください」ケイは言った。「僕は、あなたたちに会えて、それだけで、いいんです」


「わたしも、あなたに会えてよかった」


 ケイの胸に熱いものがこみ上げる。が、いや、まて、かんちがいするな、彼女は事実を言っているにすぎない。足になる車や、必要な道具を持っていた男、その出会いに神の采配を感じているだけだ。それに、問題のハードルはより高くなって、クリアできるとはかぎらない。


「まだ、よかったのかどうか、わからないですよ」


「そうね。みんながよくなるように、気をひきしめていかなきゃ」

 めぐみはケイの目をまっすぐに見る。

「危ないことをお願いして、ほんとうに自分勝手で、もうしわけないんだけれど、しばらくお付き合いを、よろしくお願いします」

 そう言って深々と頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」

 ケイは思いだして言った。

「あ、ガソリン代とか、そんなこともう気にしなくていいですから」


 めぐみは丁寧に、ありがとう、と言って、リアシートのゆいに声をかける。

「ゆい、起きて、着いたよ」


 ゆいは眠い目をこすり、

「みんな泊まってくでしょ。車どこにおけばいいかな……」

「いや、僕はいいです。車がありますから、車のなかで寝ます」

「えー、寒いよー」

「だいじょうぶ。なれてるから。寝袋もあるし、車のことも気になるから、ここにいます。だいじょうぶです」


 遠慮しなくていいよ、と誘うゆいのやさしさを、ケイはかたくなに辞退した。おそらく、ゆいの部屋に上がると緊張してかえって寝られない。ひとりの車中泊のほうがよほど心が安らぐ。


 めぐみは祖母の施設に近い川口に住んでいた。もう電車は動いているけれど、お昼にはまたこちらに来なければならない。仕事は劇場の事務の手伝いをしているが、明日は顔をださなくてもいいという。ただ、ストとれ5の女の子たちが自主トレを見てくれと言っていた。


 とりあえず、お昼にリュウジと相談することを最優先にして、めぐみはゆいの部屋に泊まることにした。ふたりは、ありがとう、またあした、おやすみなさい、とケイに言って、すこし古びたワンルームマンションに入っていった。


 ふたりは何年かぶりにひとつのベッドで眠ったという。


 ケイは青い車のなかで、寝袋に包まりながらふと、そういえば、あの橋がすぐ近くにあるんだな、と思った。


 めぐみの姉、中森あいが見えなくなってしまった、あの橋が……



   第二章 につづく。

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