<Das neunte Kapitel>

「あ……茜、さん……?」


 図書館に顔を出した茜さんは、いつもどおり綺麗な着物姿だった。

 予想だにしなかった茜さんの登場に、俺は声を絞り出すまでに少しの時間を必要とした。

 色々な想像が頭を過ぎるが、努めて冷静に振り返る。

 なぜか分からないが、悪いことをしてそれがバレてしまった時のような、そんな気持ちにさせられる。

 ごまかしたり、愛想笑いではぐらかすよりも、何か別の話題に切り替えたほうが良さそうだ。


 もう一度、茜さんと話をしなければいけないというのに及び腰とは、情けない限りである。

 ただ、これ以上茜さんの前で今の話を掘り下げるのは躊躇われた。

 茜さんを交えて3人で……なんて、とても切り出せる雰囲気ではなく、俺は和樹を横目に仕切り直すのだった。



「あ、茜さんこんちわっす。本の返却ですか?」

「そう。もうお昼前だから、早く済ませて帰るつもり」


 チャンス……。悪い和樹、お前の出番だ。


「小腹が空いたと思ったら、もうお昼だったんですね。そういえば和樹、昼はどうするよ?」

「いや、特に決めてないけど?」

「それなら、茜さんを誘わない手は無いよな!」

「ぁ、茜さん!? い、いやその、オレとなんて……」


 和樹は茜さんを盗み見る。茜さんは目を逸らす。


「ダメもとでさ、当たって砕けてみろよ」

「砕けたくねぇよ! っていうか、翔平もだよな?」


 むむ……どうしたものか。

 余計なお世話かもしれないが、二人には恩もある。俺としても恩を売っておきたい……なんて打算的に考えていると、今日は祭りだったことを思い出す。


「俺はちょっと考えたいことがあるから、宿に戻るよ。せっかくだから二人で行ってこいって。ほら、今日は祭りもやってることだしさ」

「え、ええと……茜さん。よ、良かったらお昼…一緒に行きませんか?」

「か、かっちゃんと……? どうしようかな」


 なかなかどうして、初々しい二人だな。頑張れよ、和樹。きっと、うまくいくから。

 俺は和樹の肩をポンと叩くと、その場を譲る。


「あ、あぁ! 無理だったらいいんです。その、もし良かったら今日の祭りの方、一緒にどうかな~なんて」

「…ど、どうしてもというのなら。私は構わないけれど」

「え? どっちですか?」

「お昼を食べるのでしょう? このままお祭りに行けばいいじゃないの」

「そ、そうですね! はは、行きましょう! 超行きましょう!」

「ぷっ。何? その超って。ふふふ」


 はは……茜さんも少しは素直になれたかな。

 話題を振ったのは俺だとはいえ、和樹に誘われたのが余程嬉しかったと見える。

 さっき目を逸らしたときの驚きと、期待感が滲み出ていたのはバッチリ分かったからな。

 とはいえ、仲立人ってのも疲れるなぁ。でも、待てよ……。

 謎のブローカー吉田の正体は、23歳。

 職業:犯罪心理学者。ってのも、かっこいい響きかも……? 

 ふっ、なんてな。言ってみただけだ。


 それにしても……。

 和樹は言わなかったが、もう1冊文献を持ってきていた。その題名は、『全ての人は鬼神様の子孫』というものだった。

 つまり、人の先祖が鬼ということだろうか…?

 まるでそれは、アダムとイブが実は鬼だったと言ってるようなものだ。

 もしくはただの民謡なのか、童話なのか、定かではない。ひょっとしたら、また別の解釈が存在しているのかもしれないと、漠然と思っていた。

 あとこれは和樹たちには話せないが、俺は村ぐるみを疑ってる。意図していたとしても、逆だとしても消極的にそれに手を貸している可能性は否めない。

 だが、みんなは被害者側の人間だ。間違ってもそんなことは無いと思いたい。

 もう一度和樹の肩を叩くと、俺は図書館を後にした。



 俺は宿で考察を続けながら、玖珠羽との約束の時間を待っていた。


「……さて、ぼちぼち行くかな」


 上着を羽織り外へ出る。見上げれば雲が空を覆い、夕方の訪れがいつもより早く感じる。

 その暗さはまるで、空もコートを羽織るかのように夜の帳を待っているようだった。少し冷たいくらいの空気が肺を満たすと、心なしか懐にまで隙間風が入り込む。


 これはこの後、覚悟をしなければいけないな……。


「おっ。さっすが時間通り」

「メッス!」

「そんな挨拶は無ーい!」


 出会い頭はチョップだった。


「白羽取り! ふっふ、そう何度もやられると思うなよ?」

「綺麗に決まってるけどねん。うりうり」


 見事にスカった俺の合掌は、頭の上で虚空を掴む。その間に入った玖珠羽の手が俺のおでこで暴れる。

 擦れると少し痛い……。ハゲる、やめてくれ。


「今度から、フライングクロス玖珠羽と呼んでやろう」

「何その長い名前」

「じゃあ、フライング玖珠羽」

「いつも失敗してるみたいで嫌」

「分かった。特別だぞ? くぅちゃん」

「変な声出すなっ!」


 ペシン。乾いた音と共に出会い頭の挨拶は終わる。

 だから、おでこをだな……。


「その呼び方は茜さんだけに許したものなの! 翔平には、ちゃんと玖珠羽って呼んでほしいから……」

「え?」

「な、なんでもないっ。ほら、行くよ!」

「おぉい。何プリプリしてるんだよー」

「プリプリなんてしてない! 今日は翔平のオゴリだかんね!」


 やっぱりなんか怒ってるよ……。

 うぅ、懐はいつも寒いんだけどなぁ。隙間風ばっかり入る。

 予想通り、今夜はお財布になるな俺……。


「あったあった。最初はこれよね~。チョ・コ・メロ~ン。翔平、早く早くっ」


 玖珠羽が表情を変え、手招きして俺を急かす。……まぁ、いいか。玖珠羽が笑ってくれるなら。

 俺たちは寒空の下、ささやかながら地元の人々で賑わう湯雪祭りの屋台へ突撃していく。

 温かいものから冷たいものまで色々食べた。意外にも玖珠羽は好き嫌いが無く、食欲旺盛なやつだった。手始めにチョコメロンから入り、俺の胃袋を即粉砕。続けてジュースあみだクジで、金字塔を打ち立てる。

 絶対引きたくないと思っていたペプシキュウリを見事釣り上げたのだ。悲運ここに極まれり。

 店主の手前いらないとは言えず、俺はチョコメロンにペプシキュウリというクロスコンボにより、胃袋が死滅したのは言うまでも無い。

 口直しとばかりに、俺は無難にたこ焼きを志願した。たこ焼きなら細工も何も無いだろうと思っていたのだが――。

 タコが入っていないとはどういうことだ!?

 この土地では当たり外れがスタンダードなのか!? 

 全てが拷問だった……。実に逞しい村民たちの趣向だった。腹を満たした俺たちは、色々なゲームに興じた。

 射的ゲームでは二人とも撃沈。スーパーボールすくいでも撃沈。お互いのダメさ加減に笑いあう。

 これではまるで、不器用を通り越して俺たちにしか出来ない曲芸を披露しているかのようだ。

 しかし、景品くじで俺は大きなスヌーピーのぬいぐるみをゲット! 女神は俺を見放さなかった!?

 それを玖珠羽にあげると、あたしも! とばかりに挑戦するが、あえなく飴玉1箱と撃沈……。それを二人で口に放り込んで良しとした。

 結果など二の次で、純粋に一喜一憂するのだった。


 珍妙なお面を発見して買わされる。玖珠羽が笑い転げるので外そうとしたが、ダメだと言われたので後ろに回す。……翔平2面相が完成した。


「おや、玖珠羽ちゃん。こんばんは」


 後ろから懐かしい声が一つ。


「あ、豊坂さん! ばわっス!」

「ええと、そちらの方は……」


 その時俺は後頭部が向いていたので、お面が相手と対峙する。


「「玖珠羽さん、離れてください危険ですっ」」

「え? えぇ!?」

「妖怪ですか?」

「変人ですか?」


 かろうじて人の形は留めている……か?


「妖怪でも変人でもない」

「変態さんでしたか、失礼しました」

「変態でもない!」


 どちらかというと、妹の望の方が毒舌だった。


「会うのは久しぶりかな。翔平君」

「あ、どうもです。豊坂さん」


 彼は豊坂のぼるさん。彼女らの父親だ。相変わらずの優男だが、眼鏡を掛けているせいか表情はキリっとしている。


「娘たちから聞いていたよ。7年振りだそうだね」

「ええ。二人にはさっきもお世話してます」

「それは逆です。お世話しているのは私たちです」

「いつまでも子ども扱いしないでください、翔平さん」


 うぅ…ダブルパンチはジャブでもじわじわ来るなぁ。


「ん? あ、あっはは。娘たちも喜んでるみたいだね。ありがとう、翔平くん」

「喜んでいいのかこれは……」

「素直に喜んどきなって。希ちゃんに望ちゃん、はい景品の飴あげる」

「ありがとうです、玖珠羽さん」

「変態さんとは大違いです、玖珠羽さん」


 現金な子供だった。


「お父さん、そろそろ行きましょう。お二人の邪魔しちゃ悪いですから」

「そうだね。それじゃあまたね。翔平君、玖珠羽ちゃん」

「……あげます! ではではっ」


 去り際に望が俺の胸に何かを押し付けていく。


「キャラメルの箱……? なるほど、あいつらも撃沈したんだな」

「ふふ~ん。気に入られてるんじゃないの~?」

「ば、馬鹿言え。玖珠羽にやる」

「あは。素直じゃないんだから。ありがとっ」


 そんなやりとりをしていると、前方に見知った二人を発見。即お別れ、なんてことは無かったみたいだ。


「よう、うまくやったみたいだな。和樹」

「くっそおおぉぅ。またダメだ~……」


 なにやら悶えている和樹。


「茜さん、こんばんは~」

「……くぅちゃん。翔ちゃんも。こんばんは」

「和樹は何を悶えてるんだ? って、茜さんキャラメル好きだったんですね」

「甘いものは、そんなに好きではないんだけれど……。かっちゃんが、ほら、あのぬいぐるみをプレゼントしてくれるっていうから。でも、これでもう5回目なの」

「5回目……撃沈して難破したか和樹」

「わぁ!おっきいティディベア! あたしのスヌーピーとどっちが大きいかな!」


 俺があげたスヌーピーを腕に抱きながら、はしゃぐ玖珠羽。

 なるほど、あのデカイぬいぐるみをなぁ……。

 あれだけ大きければ重さで分かりそうな気もするが、それは反則か。何十本も束ねてある紐の中から、直感で引き当てなければいけない。

 もちろん、少し摘んでから重さを確かめて…なんてことをやったらスポーツマンシップに反するよな。


「私はそんなに欲しいとは思わないけれど。部屋に飾るには大きすぎるから」


 やっぱりまだ素直になりきれないか、茜さんも。

 顔には和樹が挑戦と失敗する度に、期待と失望が見えるのに。

 突然、玖珠羽が俺の裾を引っ張り小声で告げる。


「茜さんあんなこと言ってるけど、女の子はいくつになっても、みんなぬいぐるみが好きだよ。プレゼントされたら嬉しくないわけないもん」

「そういうもんか?」

「そういうもんなの」

「ぃよっしゃあ! ゲットだぜ!」


 そして、難破した船から生還した和樹が歓声を上げる。手には大きなティディベアを掲げ、ニカッと笑顔。

 茜さんはというと……ほら、待ってましたという表情だ。目を輝かせている。

 でも、和樹が駆けて戻ってくると、その表情を悟られまいといつもの涼しい顔に戻すのだから、こっちがもどかしいぞ!

 当の和樹は気づいていないからいいが、傍から見ている俺たちは一喜一憂する茜さんの表情をバッチリ堪能させてもらった。


「今度はもう少し勝率の高い勝負をするべきね。お金が勿体無いから。はい、キャラメル上げる」


 そそくさと背を向け、ぬいぐるみを抱きしめる茜さん。……初々しいな。そんな表情を見せないところがまた。今夜は絶対添い寝するだろう。おやすみのキスもする。賭けてもいいぞ。

 俺たちはそんな二人を邪魔しないように、そのまま別れることにした。

 二人はこの後、展望台に行くらしい。恋人たちの間で囁かれる小さな噂。二人を見てると応援したくなる。

 うまくいくといいよな、あの二人……。


 それから俺たちは、彦星の間へと立ち寄ることにした。気がつけば陽もすっかり落ちていて、屋台の光、燈篭の灯りがライトアップされた道はそれだけで温かみを帯びている。

 特に用は無かったのだが、一つだけ確認したいことがあったのだ。


「……お。まだ残ってたのか」

「基本的には、これを外すのは本人だからね。願いが成就されたその時に」


 短冊のように色々な紙が結ばれている。

 それは男女変わらない。恋文であったり夢であったり、ささやかな願いであったり。

 俺の不恰好な結び方は7年経っても変わらず、残っていた。


「広海ちゃん可愛いかったもんね~。ニクいね、このこの!」


 玖珠羽は肘で小突く。広海はもう居ないが、玖珠羽に茶化されても悪い気はしない。努めて明るく振舞ってくれる玖珠羽には、俺は感謝すべきなのだ。


「広海ちゃんのも、あっちにあるんだよね。あの歳で両想いなんて、羨ましかったなー」

「玖珠羽にはそういう相手はいないのか? 玖珠羽なら十分モテそうだけど」

「マジ!? それ本気で言ってくれてるの!? あはは、嬉しいー」


 玖珠羽は、まんざらでも無さそうに笑う。

 でも居たら、俺と二人でなんて誘わないよな。


「でも残念ながら、特定の人は居ないんだよね。今まで一度も。それに、彼氏が居たら二人っきりでなんて翔平を誘えないよ」

「まぁ、そりゃそうだよな……」

「でもちゃ~んと、あたしも向こうに結んであるんだよ」

「へぇ、じゃあ想い人はいるわけか?」

「それはナイショ。結ぶのが全て色恋とは限らないよ?」


 まぁ、玖珠羽のことだ。その気になれば恋人も出来るだろう。


「変化とは常にあたしの心の中に。あたしの心は普遍。どれだけ歳を重ねようともね」

「それ口癖なのな。良い言葉だと思う」

「あはは、あたし発祥だぞっ! 著作権を守ってくれるなら引用可!」

「ああ。ぜひ今度使わせてもらうよ。引用元は玖珠羽で」

「翔平だって、いつも”リアルじゃねぇ”って言ってるじゃん」

「あぁ……そういやそうだな。玖珠羽と違って意識はしてないんだが」

「本来は口癖ってそういうものだよね。だからあたしの口癖は”リアルじゃねぇ”?」

「おいおい、強引にねじ込めばいいってもんじゃないぞ」

「あっはは! うふふ、ははははっ!」


 さわかやかに笑う玖珠羽の声は、祭りの賑やかさに負けないくらいに心地よいものだった。

 そんな声を聞きながら、俺は気づかれないように紙を解いてポケットにしまう。


 ……悪いな、彦星。今までありがとう――。


 俺は、7年前の願い事を自らの手で、無かったことにした。

 変化とは常に人の心の中に、か。裏を返せば、それだけずっと玖珠羽は誰かのことを想っているのだろうか?

 一途っていうのかもな。案外、ずっと慕っていた姉のことを想った文なのかもしれない。まぁ、全ては人の心の中に。

 織姫の間に限らず、それを結んだ本人にしか中身は分からないのだから。


 少し歩き疲れたので、村へ戻り近くの足湯場に腰を下ろした。


「はぁ~っと。楽しかった~」


 椅子に腰掛けて、両手両足を伸ばす玖珠羽。俺も隣に座る。

 一緒にスヌーピーもちょこんと座らせた。


「あっ……。見て……」


 空を見上げると、ちらほらと、静々と小雪が舞い降りる。


 このくらいでは積もるほどではないかもしれない。でも、小雪の落ちる様は俺にとって幻想だった。

 雨でもなく、ヒョウでもなく、重力に逆らいながら静々と舞う小雪はまるで、その空間だけ時間が止まったかのように、目を釘付けにする。

 それが一つ、二つ、と数が増えるごとに幻想世界へと足を踏み入れていく。

 触れてみたい衝動に駆られるが、触れれば手の平の温度で溶けてしまうような儚いもの。

 だから触れられない。目に焼き付けるしかない。この漆黒の世界に彩る白銀の結晶を。

 空から降ってきたものは目の前を過ぎては落ち、地に還る。

 まるで、誰かの願い、誰かの希望、誰かの想いが、一つずつ消えていくかように……。


「ねぇ、翔平」


 突然ふわりと立ち上がる玖珠羽。両手を広げ、くるりと1回転。短い髪がふわりと踊る。

 そして、さわやかに鼻をくすぐるオレンジカトレアの香り。改めて玖珠羽にピッタリだと思った。


「知ってる? 雪の落ちる速さ……」

「え……」


 雪の落ちる速さ……。考えたことも無かった。


「秒速10センチメートル」

「……結構、ゆっくりなんだな」


 なんて、ゆっくりなのだろう……。

 この世界には重力があり、物質の重さがある。その法則を感じさせない緩やかさ。

 その小雪舞う中に、踊るように舞う玖珠羽が一人。これを幻想と呼ばずになんと言おう。

 オレンジカトレアの香りは玖珠羽の世界を広げ、今やこの空間と一体となり、俺を釘付けにする。

 俺は玖珠羽のそんな儚さに、しばし見惚れてしまっていた。


「翔平、一つだけ約束して」

「……なんだ?」


 その余韻も束の間、玖珠羽はピタリと立ち止まり告げる。


「この村の過去に、もう……深く関わらないで」

「え……」


 村の過去。俺が来た理由―――。

 これは警告なのか。それとも、忠告なのだろうか。


「でないと、きっと翔平は後悔することになるから」


 茜さんと再会したときも言われたことだった。

 この村の過去、あの事件に関わると、後悔することになる?

 俺はすでに後悔した。涙は枯れ果てた。もう何も、臆することなんか無いはずだ。


「お願い……」


 なぜ玖珠羽が懇願する? 

 玖珠羽自身、被害者の一人だというのに。無念を晴らしたい一人じゃないのか? 

 村の人間だからか? 俺はこの村に全てを奪われた。

 だから、全てを知りたかった。そして、同時に――。


「翔ちゃんとは、お別れしたくないよぉ……。もう誰とも、離れたくないよ……。どうしてみんな、あたしの前から居なくなっちゃうの……? 私はそんなこと、望んでないのに……」


 なぜ、どうして……。玖珠羽が泣いている……。

 笑ってくれ、玖珠羽。でないと、俺は……。玖珠羽は手で顔を覆い、指の隙間から悲しみを零す。

 それは雪であり、涙であり、想いであり、願いであり、悲しみであり……。

 しばらく玖珠羽は嗚咽をもらし続けた。俺は声をかけることすら出来ずにいる。


「……あ」


 玖珠羽はごしごしと目元をぬぐうと、取り繕うように笑った。


「あ、あはは。ごめんね、取り乱しちゃって。どうしたんだろ、あたし……」

「い、いや……」

「の、喉渇いたね。ちょとジュース買ってくる!」

「うそ、だろ……」


 駆け出す玖珠羽。俺は追いかけることも出来ず…。


「たのむ……から……」


 嘘のわけが無い。茜さんだって言ってたじゃないか。改めて玖珠羽に言われただけだ。この村に関わると後悔するって。


「玖珠羽……」


 俺はしばらく呆然と立ち尽くしていた。


 …ふと我に返り目の前に足湯があることを思い出す。俺は頭が整理できないまま、何気なく足湯に浸かった。

 足湯の神様、か。もしもそんな神様がいるなら、人を襲うような神様でないなら、信じてもいいか……。


……。



…………。



………………。



 背後に気配を感じたのは、5分後だったか10分後だったか。

 もしくは30分という時間が過ぎていたのか……。時間の感覚はあやふやで、とても短いようなとても長いような、そう……まるで頭がぼ~っとしたときのような、『一瞬』だったかもしれない。


 戻ってきたのが玖珠羽だと直感で思った。

 先ほど駆け出してしまったのが気まずくて声を掛けられないでいるのか?

 俺から振り返って安心させてやらないと。


 しょうがないな、玖珠―――。


「…え………」

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