<Das vierte Kapitel>

「ああ、連続失踪殺人事件。通称、オニガミの神隠し」


 そうだ、湯雪祭りを中心に一週間続いた連続失踪殺人事件。それを調べるために俺は来た。今回来訪の最大の目的だ。


「それが、今日で3日目なんだよ……」

「3日目って、え……」

「今年も起きてるんだ。昨日、一昨日と、2つ死体があがってる。今夜も起きるんじゃないかって、思ってる」


 和樹は小声で話す。


「村の人は誰も話さない。街のやつもだ。表沙汰にしたくないんだよ。知ってても、関わったらいけない。だから、湯雪祭りの前後はそれを意識しないようにみんなで賑わせている。裏で何が起こっても、だ」


 有無を言わせない和樹の口調。

 あぁ、そうだった。7年前もこんなに連日続いた事件だってのに、誰も騒ぎ立てなかった。

 でもなぜか、マスコミには情報が漏れていた。さらに記事にまでなった。

 事件を隠蔽したいのか、見せびらかしたいのかどっちなんだ。


 だからかもしれない―――。

 俺が遠くの地で情報収集が出来たのは。この場所に居て聞き込みをしても、きっと小さかった俺には誰も話してくれなかっただろう。

 逆に遠くの地でマスコミの記事を集め、大学のコネクションを使い方々へ探りを入れた。時には警察への接触も試みた。危険な橋をいくつも渡った。

 そうして得た情報は、少なからず俺は吸収出来た。推測を重ね、あらゆる可能性を吟味した。犯罪心理を説き、毎夜の事件を追った。

 でも、そこまでだった……。その情報収集にも限界があった。

 そう、核心には迫れないのだ。あくまで遠い異郷での出来事。だから俺は来た。核心を貫くために。

 この、全てが始まった……いや、全てを狂わせたこの村で。

 しかし俺は、真実に至ったとして、どうしたいのだろう……?

 そんなのは決まってる。俺が7年を費やしてきたのはその為だ。


 俺は――。



「翔平?」

「……んぁ。悪ぃ、考え事してた」


 間の抜けた声を出してしまった。


「そっか。着いたばっかりなのに変な話してごめんな。何か気になることがあったら何でも聞けよ?」

「じゃあ、1個だけ」

「おう、どんとこい」

「茜さん、身長の変わりに胸が成長したよな」

「んなっ!? どこ見てんだお前! ってそれ質問じゃねぇし!」

「いや大事なことだ。玖珠羽なんて―――」


 ここで誤解が無いように記述しておこう。

 俺の胸談義は、決して俺のライフワークだったり、趣味嗜好があるからではない。

 前述したとおり、女性は男の不用意な一言で誤解、もしくは傷ついたり、思い詰めたりしている傾向がある。

 だから俺は、そんな不安や男性像の瓦解を払拭するために、話題を振ることがある。

 ……まぁそれも、セクハラではないかと思われないように、細心の注意を払わなければならないが。

 いかにして……。


 はっ、殺気――。


「またその話かっ!」


 パコン。すでに遅し。振り向きざまに玖珠羽のチョップが入る。

 ……パコン? いや、チョップではなくペットボトルだった。


「男二人で何の話をしてるやら……。はい、差し入れ」

「お、サンキュー」


 俺と和樹は玖珠羽からジュースを受け取る。

 ―――開封。


「うおぅ!?」

「あっはは! 君子、危うきに近寄らず。さらばだっ」

「お、おい! 玖珠羽!」


 闇雲に玖珠羽を捕まえようとするが、玖珠羽はひらりとかわし、去っていく。

 本当に、台風みたいなやつだ。


「だ、大丈夫か? 翔平……」


 俺の顔はダイレクト噴射された炭酸が覆い、前髪から雫が滴っている。

 あいつ、炭酸を予め振ってもってきやがった。しかも俺の顔に振り下ろすというオマケ付きで……。

 資源を大切にしなさい資源を。食べ物飲み物を大事にしない子は、お父さん許しません!

 ―――口の周りを舐めてみる。


「……不味ぃ」

「ペプシ、キュウリ味」


 和樹がラベルを読んだ。

 こんな得体の知れない色の飲み物の正体は、ペプシの…キュウリ味だって?

 緑色がこんなにおぞましく見えたのは初めてだぞ。


「こんな味はリアルじゃねぇ……」

「いや、これは現実だ。公式だ」


 しばらく俺は、キュウリの香りでむせ返るようになってしまった。古くから食卓で愛されているおしんこの中で、俺はきゅうり様に頭を下げて献上することになる。

 はっきり言おう。混ぜるな危険。パプシとキュウリ。

 宿について、即効シャワーを浴びるのだった……。



「くあぁ……。さて、どうするかな」


 村の宿で夕飯を食べ、部屋に戻ってきた俺は天井を仰ぐ。まずいな、これでは牛になってしまう。


「モー食えねぇ! 腹がギュウギュウだ。ウッシ、散歩でも行くか!」


 ……。自分で言ってて悲しくなってきた。

 異郷の地、宿の一室、男が一人。俺の中心で牛を叫んだ瞬間だった。


 虚しさが心を覆うと、耳を澄ますでもなく宿のささやかな喧騒が耳に心地よく入ってくる。

 廊下ですれ違う時の挨拶、女将と仲居の和やかな接客、厨房の食器の音などが、この旅館の心地よさを教えてくれた。

 このままボーっとしていれば、俺はただの旅行客として溶け込み温泉に浸かり、日々の疲れを癒し……そんな差し障りのない時間が過ぎてゆくのだろう。


 7年前の家族旅行でも、何の不安もなく、ただ家族と……そして広海との時間が流れていた。

 楽しくて、温かくて……明日はどこへ行こう、そうそうお祭りがあるらしい。一緒に行こう、みんなで……。


 そんな、在りし日の記憶が天井のぼんやりとした電気の光の中におぼろげに浮かび上がっていた。


「何をやってるんだ俺は……」


 だが……俺は旅行客ではない。観光しに来たわけでもない。

 昼間は予想外の再会を果たしてしまい、感慨深くなってしまったが動き出そう。

 

 予期せぬ再会は、あるいは好機なのかもしれない。

 玖珠羽たち村の人々は当時、頑なに口を開かなかっただろうが、7年経った今、その綻びがどこかに出ているかもしれない。

 彼らを利用してでも、もう遠いあの日の真実を暴く。俺が生きる理由は、それしかないのだから……。


 上着を着こみ、もうすっかり暗くなった外へ出た。

 時刻は7時過ぎ。雪は降っていないが、まだまだ冷える。ぶるっと身震いをして、上着を羽織り直す。

 息が白い。顔に当たる空気が冷たい。空が高い。月が遠い……。


「ふぅ……」


 ぼ~っとすることが多くなった。

 必要以上に人と接点を作らなかったこともある。ここに来て、旧友と再会して忘れかけていたが……。

 俺はこの7年間、親しく付き合った友人はいない。地元の友人とは、あの日以来、交流を絶った。

 理由は……すべてがどうでもよくなったのだ。両親を失い、あいつを失い、感情を失い、自分を見失い……。

 全てを失った俺は、ただ生きる屍の如く心ここに在らずの抜け殻だった。……少なくとも当時は。

 感傷……なのかもしれない。この村の思い出や、匂い、雰囲気。全てが俺の感覚を狂わせて頭を空っぽにしてしまう。

 それを俺は必死で何かで穴埋めしようとしてる。ぼ~っとしてしまうのは、心がもう壊れてしまったから―――。

 目の前に現れた、二つの闇。一つは復讐、もう一つは……。


 満たされることはもう、無い―――。

 器自体にヒビが入り、壊すか朽ちるかを待つしかないから。なら、せめて―――。

 俺を復讐に駆り立てたのは……やっぱり、あいつが忘れられなかったからだろうか。

 今更、復讐を掲げたところで、両親も、あいつも帰ってくるわけじゃない。

 だが、訳も分からず人生に幕を下ろすのは嫌だったのだ。だから、知ろうとしたのだ。……全てを。


 ふと、頭が空っぽになり空を見上げてしまう時がある。

 いや、目的はある。考えることもある。なのに、ぽっかりと穴が空いたように、その虚空を掴もうとしている。

 もともと空いていたのか、何かが抜け落ちたのか、それとも……。


 俺は一体、何を忘れているんだろう―――。

 ……考えても始まらない。俺はまた首を振って歩き出した。


「郷土資料館、か……」


 もう営業時間は過ぎている。夜6時までと書いてあった。

 村の資料館ではあるけれど、そんなに大きい建物ではない。お世辞にも立派とは言えないが、土地特有の趣ある古き良き外観だった。

 すこし奥の間の明かりが点いているのは、きっと職員が残っているのだろう。遅くまで立派なことだ。

 そういえば、ここの館長さんって玖珠羽の親父さんなんだよな。

 ひょっとして、親父さんかな……なんて思っていると、タイミングよく明かりが消えて人影が出てきた。


「あ……」

「おや、君は……」


 鉢合わせる。白髪交じりの、大きい眼鏡を掛けたいかにも館長な人だ。


「お久しぶりです。榎本さん」

「久しいね、吉田くん」


 この人は榎本 誠二さん。誠実を顔に書いたような人だ。玖珠羽の親父さんは厳格な人だ。しかし、情の深い人でもある。

 それは、娘に対する接し方を見ていれば分かる。……分かるようになったのは、7年前ここを離れてからだけどな。


「7年くらいになるか。見違えたよ」


 親父さんと少し歩く。残業終わりだというのに、それを表に出さずしっかりとした足取りだ。


「いつ頃戻ってきたんだね?」

「今日の3時過ぎです」

「そうか。戻ってきて、しまったのだね……。なぜ君は―――」

「え?」

「いや、愚問だった。申し訳ない」

「いえ……」


 何か言いよどむ。この人にしては珍しい。


「娘とはもう会ったのかね?」

「はい、連絡もなしに着たのに色々とやってくれてたみたいです。ありがとうございます」


 一応、親父さんにも頭を下げた。

 ふと視界に入るのは公民館だった。郷土資料館に比べると外観がコンクリートな分、立派と言える。ここには玖珠羽のお袋さんと、和樹のお袋さんが働いていたはずだ。

 俺の記憶が正しければ、親同士も仲が良かった気がする。

 電気が消えているところを見ると、すでに就業時間を過ぎているようだ。


「もう家内も家に帰ってるだろう。お役所の仕事と、私の仕事は別だからね」

「大人は大変そうっすね」

「いずれは君も社会人だ。しっかりな」

「はぁ……」


 社会人、嫌な響きだなぁ。


「時に、吉田くん」


 立ち止まり、俺の目を見る。


「玖珠羽は、何か言ってたかね?」

「……いえ、特には?」

「そうか。はは……」


 自嘲気味に笑う。どうしたというのだろうか。


「あの子は……玖珠羽は今日も、笑っていたかね?」

「……ええ。いつもどおり、笑ってました」

「そうか……。もうあの子には、あんな悲しい想いをさせたくはないのだよ。どうか、一緒に笑ってやって欲しい」

「……分かってます」


 親父さんは満足そうに頷くと、角を曲がり家路へと着いた。こういうところは家族には見せないんだよなぁ、あの人。

 父親か―――。


 さて、どうするかな……。

 一人になると余計に静かに感じる。すると、明かりが点いている建物を発見。集会所だった。

 丁度、話し合いが終わったのか村人の何人かが建物から出てくる。その中に、見知った女性の姿を見つけた。


「茜さん」

「……翔ちゃん? こんばんは」


 昼間、あんな別れ方をしたというのに俺は声を掛けた。確かめたかったのだ。本当に茜さんは変わってしまったのかどうかを。


「少し、話せませんか」

「……いいよ」


 昼間の別れが尾を引いて、互いに言葉少なげに視線を交わす。何を緊張してるんだ俺は……。茜さんにこそ色々話を聞かなきゃいけないだろう。

 とりあえず、人目の多いところは避けようとどこか適当な場所を探す為に集会所を後にした。

 俺たちは少し歩き、小さな足湯場へ腰を下ろした。この村には何箇所も足湯場がある。それぞれに効能が違うため、一度では飽きさせないのである。

 明日は賑わいを見せるであろう村と街を結ぶ道が、目の前に見える。

 すでに準備は終えたのか、綺麗に燈篭とうろうが並びライトアップされた道は、とても幻想的で煌びやかな空間を装飾している。

 電気などの人工的な明かりとは違い、風に揺らぐ炎は時間を忘れさせてくれるほどに、心地良いものだった。

 7年前もこうして、この燈篭に目と心を奪われていたっけな。


「……昼間は、ごめんなさい」


 意外にも先に切り出したのは茜さんの方からだった。俺の誘いの意図を汲み取っているようだった。

 もしくは、自分でも負い目を感じていたのだろうか。


「いや、俺こそ気に触ることを言ったなら謝るけど……」

「いえ、そうじゃなくて……その……」

「……?」


 目を伏せる。前髪がたれて目元が隠れる。心なしか、頬を染めている……?


「あの人がいると、素直になれなくて……」

「え……?」


 ひょっとして、茜さんって……。


「かっちゃんてほら、そういうの鈍感な人だから」


 やっぱりそうか。茜さんは和樹のことが好きなのだ。7年前はどうだったか覚えていないが、あの時から意識していたのだろうか。

 もしくは、この7年の間に何か進展があったのか。

 前者であるなら何か発展もありそうだけれど、付き合っているとかそういう風ではなかった。

 後者なら、まだまだ青い恋ってやつで、和樹が鈍感なせいで茜さんが少しヤキモキしてる感じか。

 なるほど、知的で大人しかった茜さんは、クーデレお姉さまになっていたというわけだ。

 しかし和樹のやつ、こんな美人に好かれるなんて幸せ者だな。

 ……と、そんな妄想をしていると。いつもの口調で茜さんは振り返る。


「でも、警告は本当。翔ちゃんに、こんなことは言いたくないんだけれど……」

「けど茜さん。俺も目的があってここに着たんだ。そして今じゃないとダメなんだ。出来れば、誰にも会わないつもりだった。だから、連絡はしなかったんだ」


 そう、出来ることなら、誰も巻き込まずに一人でケリをつけるはずだった。


「……分かってた。でも、時の廻り合わせは最悪のタイミングなの。特に、くぅちゃんはそういうの敏感だから。見過ごせなかったんだと思う」

「分かってたって……玖珠羽も茜さんも、どうして色々と知ってるんだ? まさか茜さんまで、女のカンなんて言うんですか」

「あの子は特別。私は霧咲家。全ては鬼神様の御許」

「オニ、ガミ……?」


 まただ。オニガミ、鬼神。この村に関わることは全てこの言葉で脚色されてしまう。


「詳しくは話せないけれど、もう、決まっていることなの」

「決まってるって……何が……っ」

「あなたの両親が7年前殺された時に、全て。私は知っている、あなたがここへ来た理由。あなたがしようとしていること。あなたの願い。だから、警告したの。お願い、分かって?」

「わ、わからねぇよ……。何で俺が来ることが筒抜けで、何で俺のしようとしてることも知られてて……リアルじゃねぇことばっかりだ!」


 思わず激昂しそうになり、ぐっと堪える。

 茜さんと喧嘩したって何にもならないというのに。そもそも俺は、茜さん個人に何の恨みも無いじゃないか。むしろ、幼かった俺を色々と面倒を見てくれて、感謝するべきなのに……。


「……すいません。でも、俺はやらなきゃいけないんです」

「ふぅ……」


 茜さんは、呆れとも安堵とも取れるため息を吐く。


「分かった。あなたは強情な人だから、こうなることも分かってた。それに、この7年の間であなたが抱えてきた想いも、それで至った今だということも、私は知っているから」

「茜さん……」

「あなたの願いを、叶えてあげる」


 俺の、願い……。

 真っ直ぐに俺を見つめる、俺は安堵しても良いのだろうか。

 俺の願いをかなえるという申し出は、俺にとって、喜んでいいものなのだろうか。

 ああ、俺自身もまだ揺れている。決心が揺らいでる。みんなと会って、束の間のひと時を楽しいと思ってしまった。


 だから、会いたくなかった―――。


 ……会いたくなかった? 

 そういえば、茜さんも俺に会いたくなかったと言っていた。

 俺はあの時、嫌われたのかと思ってと意味を受け取った。でも、そうじゃなく、俺と同じ意味で茜さんが言ったなら、それは……。

 考えすぎか。ただ、茜さんはこんな謎めいた話し方をする人では無かった気がする。……少なくとも、7年前は。

 でも俺は、玖珠羽も和樹も茜さんも、良い友人だと思ってる。こんなことで茜さんを嫌いになんてなりたくない。


「あなたの強さは、あなたの弱さから生まれる」

「……フロイトですか?」


 ふいに茜さんは引用した。


「私はユング派なのだけど、今の翔ちゃんには、こちらの引用の方が分かりやすいと思って」

「……確かに人は学ぶ生き物です。それは決して恵まれた経験だけじゃなく、傷ついたり、後悔したり、自分の無力さを思い知って成長することもある。俺はあの日を克服して、今ここにいます」

「うん、それは疑わない。それが成長するということ。学ぶということ。人は自分の弱さを知って初めて、強さを得る。でも……それは”意識の中だけ”の話。無意識下では、そうであったとは限らない」

「……」

「フロイトは無意識を説いた。でも、すべては説明出来なかった。……さしずめ、心の闇かしら」

「普遍的無意識……ですか?」

「いいえ、それとは違うわ。もっと単純。……翔ちゃんは、無意識下では逆を思った」

「っ……」

「それはペルソナ。翔ちゃんはあの日、二つの心を生んだ。それは7年をかけて前意識の中で同じように膨らんでいた。これはもう無意識ではないの。……翔ちゃんの、欺瞞」


 ……茜さんは、全てを見透かしている。

 俺の目的、俺の心、俺の願い……。肯定すべきか、否定すべきか、それすらも選択の余地は無かった。


「人は誰しも心に闇を持つものよ。誰でも……ね」


 そして茜さんは、”寂しそうに”笑った。それは俺を問い詰める風ではなく、否定も肯定もなく。

 ただ、まるで……。


「……もう今日は宿に戻りなさい。この辺は物騒だから」

「もう、3日目……だそうですね」

「え?」


 茜さんは目をしばたたく。当然だ。俺が知らないと思っていたのだろう。


「和樹に聞きました。7年前と同じ事件が起きているって」

「そう……。もう、かっちゃんったら……」


 視線を落とし怒っている風だったが、少し頬を赤らめる茜さんは和樹の顔を思い浮かべているようだ。

 やれやれ、クールを装っててもポーカーフェイスまでは身につけていないらしい。


「時に茜さんは、和樹のことお気に入りみたいですね」

「ぇ!? な、何を言っているの。友人として……そう! ゆ、友人として気に掛けてあげているだけ」


 足を拭いているハンカチを落としそうになりながら、慌てている姿はまるで今にも踊りだしそうな舞妓さんのようにも見えた。

 思わず、ぷっと噴出してしまう。

 平静を装うとしている様が、普段の冷静な茜さんからは想像ができなくて、頬が緩んでしまう。


「すいません、冗談です」

「翔ちゃん、からかわないで」


 人差し指でおでこを、ちょんと小突かれる。小さい頃、短い期間だったが、よく叱られたもんだ。


「茜さん、警告ありがとうございます。いつもそうして俺を叱ってくれる茜さんに、俺も感謝してます。7年前のこともよく覚えてます。でも、今回だけはあいつの為にも、俺だけでやらなきゃいけないですから」

「うん、いいよ。それでこそ翔ちゃんだもの。私の方こそ、ごめんなさい」


 ここに来て初めて茜さんは、笑顔を俺に向けてくれた。足袋のような白い靴下に足を通して、下駄を履いた茜さんは帰る準備万端のようだった。

 あの赤いのは確か、ぽっくり下駄だか。


「それじゃ、俺帰ります。おやすみなさい」


 俺が去ろうとすると、ふいに茜さんが呼び止める。


「あ、時に、翔ちゃん」

「ん?」

「あの子のアレは、まだ持ってる?」


 茜さんはある物のジェスチャーをしてみせる。


「……ええ。もちろんです」


 そして俺も、首元からそれを持ち上げてみせる。


「そう、良かった。それじゃ、おやすみなさい」


 茜さんは小さく手を振ると、その綺麗な仕草で背を向け去っていった。

 俺も茜さんの後姿を見送る。その背中を俺はぼ~っと眺めていた。精悍な顔立ち、躾けられた仕草、佇まい、言葉遣い。

 理知的で年下の俺たちを気遣ってくれる優しいお姉さん。それが、霧咲 茜という人だった。忘れるはずが無い7年前の茜さんそのものだった。変わらない、変わっていないはず―――。


 でもそれは、どこか洗練され過ぎていて、完璧なほど”茜さん”だった。

 その完璧さや雰囲気は、茜さんの隣に居た”あの人”を彷彿とさせた。


 しかしそれは在り得ない。あの人も、7年前の犠牲者ですでにこの世にはいないからだ。

 今の茜さんは、霧咲 茜であって、それが怖いほどに彼女のパーソナリティを強調しているかのようだった。


 そう、まるで7年前とは別人のようでもあった……。

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