<Das zweite Kapitel>



「オッス! 迎えに来てやったぞっ」


 突然声を掛けられて、声の方へ顔を向けた。懐かしい響きに感慨を覚えながら、俺は記憶を辿る。

 忘れるはずが無かった。この明るさも、この笑顔も、この声も……。

 短い髪がふわふわと踊る彼女の名前は―――。


「……あれ? うーん? テイク2行きます」


 彼女は仕切り直しと言わんばかりに、左手の指先をおでこに付けて、さながら警察官のように敬礼をした。



「オッス! 迎えに来てやったぞっ」

「メス」

「へ?」

「女を見てオスというやつはいないだろう」

「ち、ちっがーう! 挨拶だってばっ! それとも何さ? このあたしが迎えに来たぁげたのに不服なの?」


 やけに元気な女の子がいたもんだ。短い髪がふわふわと踊る。

 もちろん、名前は覚えているが……。


「……ええと、どちら様?」

「お、覚えてないの!? ひどい! ひどすぎる! 7年振りなのにー!」


 いちいちオーバーリアクションなこの子は、苦悶の表情からパッと何かを閃いたかのように、動きを止める。


「あ、そっか」

「どうした?」

「そうよねぇ。7年だもんねぇ……。昔のあたしがそのままって訳ないもんね! どう? 美し過ぎて顔も思い出せない?」


 そのポーズはなんだ。彼女なりの自慢のポーズなのだろうか。片目を瞑り、流し目で俺を見ている。

 立てた人差し指を口元に当てて、軽く腰を捻りながら。

 それじゃ、しゃべっていいのか黙ってくれなのか分からないぞ。どっちなんだ?


 それはさておき。俺は彼女をつま先から頭の天辺までを、吟味した。

 華奢な体つき。すらっと伸びた背。色白だがスポーツ少女を思わせる。快活さから弾ける笑顔。端整な綺麗さというよりは、まだあどけなさの残るかわいい表情。

 ショートボブの短い髪は毛先が軽くカールしていて、動くと余計にふわふわしている。

 それにこの香りは、オレンジ……じゃないな。これはオレンジカトレア、香水だ。

 柑橘系のさっぱりした匂いで、快活な子のイメージとぴったりでさわやかな感じになる。

 この匂いは薄めで、近づかないと分からないが、さり気なく香るので万人にお勧め出来る。


 ……とまぁ、なぜ俺が匂いに敏感になったのかというとあいつの影響なのだが、これは後述することにする。

 そして……。


「少し、胸が大きくなったな」

「どこ見てるのよ!」

「胸」

「はっきり言うなっ! って、少しって何よ少しって!」

「……」

「な、何よ……」

「ごめん、変わってなかったか」

「~~っ!!」


 ポコン。結構痛かった。


「はぁ……相変わらずなんだから。だからあたしは――」

「クスハ」

「え?」

「榎本 玖珠羽。覚えてるよ」

「翔平……」


 少し驚いたかのように、大きな目をパチクリさせる玖珠羽。


「お前みたいな珍しい名前、そうそう居ないからな」

「覚えてて、くれたんだ……」

「ホント、久しぶりだな。メス!」

「メスって言うなっ!」


 ポコン。今度は軽く叩かれた。本当に表情がコロコロと変わる、忙しいやつだ。


「それより、どうして俺が来てるって分かったんだ? 誰にも連絡はしてなかったはずなんだけど……」

「う~ん、女のカンってやつ?」

「リアルじゃねぇな」


 7年越しだ。それはそれで、すごいカンではある。


「……憶えて、ない?」

「え? 憶えてって……?」

「……」


 やけに真剣に問いかけてくる。じっと俺の目を見て離さない。俺は玖珠羽と、何か約束でもしたのだろうか? 

 あるとしたら7年前、あの事件の前か……。いや、それとも後? 約束―――。

 ……? ……思い出せない。すると、玖珠羽はパッと表情を変えた。


「な~んちゃって! ドッキリ大成功!」

「……へ?」


 目が点になる俺。玖珠羽はしてやったりといった感じでウィンクを返す。


「この玖珠羽さん、やられたらやり返すのだ! あっはっはー!」

「はぁ、やれやれ……」


 自然と笑みがこぼれてしまう。久しく忘れていた。そうだ、俺は7年前もこうして玖珠羽と笑い合っていたんだ。

 榎本 玖珠羽。俺と同い年の女の子。7年前、この村で縁があった数少ない友人の一人だった。

 あの頃の快活さそのままに、純粋無垢に育ってくれたみたいだ。お父さんは嬉しいぞー。

 ……まぁ、初見では、分からないか。


 俺たちにとってこの7年間は青春真っ盛りだ。女の子なら尚のこと、胸をときめかせたことだってあるだろう。

 思春期の色々な経験は、人生を謳歌しているという意味で必要なものだ。

 でも、それはプライバシーだ。

 俺が首を突っ込むことじゃない。ただ今、7年経った後でもこうして、俺に話しかけてくれている。

 それは、俺にとって玖珠羽はあの頃のままで、変わらない良き友人であったということだ。

 変わらないものがここにはあって、変えたくないものがここには残っている。

 今までの沈鬱な思考はいつしか、玖珠羽の小気味良い笑い声に吹き飛ばされていた。


 沈んでいた俺を気にして、あえてハイテンションで話掛けてくれたのか。それとも、普段からこんなに超特急だったか。

 ……いや、そんな詮索はよそう。玖珠羽は小さい頃から常に周りの人間に能動的だった。

 それはひとえに、玖珠羽が優しいからだけでなく感情の機微を感覚的に感じ取っているからだ。

 前者であれ後者であれ、玖珠羽は今も自分の心に素直で居続けているということだった。



「変わらないのな。ここも」

「変わらないよ。いつまでも」


 バスに乗り、湯ノ足村を目指す。街を眺め、変わらない街並みに嬉しさを覚えつつも、同時に発展し切れなかった街に少しの哀愁を感じた。

 隣には玖珠羽がいる。同じように通り過ぎる景色を眺めていた。抱く気持ちは、俺とは少し違うかもしれないが。


「良いのか悪いのか、栄える場所もあれば廃れる場所もある。そんな世の中で”変わらない街”ってのは希少なのかもな」

「”変化とは常に人の心の中に”。自分の周りがいくら変わろうと、心の在り方次第で世界は表情を変える。そう思わない?」

「ああ、言いたいことは分かるよ。たとえ一輪の花でも、解釈の違いで幸せになる人もいれば、踏みにじる人もいるってことだろ?」

「そうね。花が咲いていようといなかろうと、あたしには花畑が見える。太陽が雲で陰ろうと、あたしの中で太陽を仰ぐことは出来る」

「空が青く見えるか、海が青く見えるかってやつな」

「ふふ、翔平の言いたいこと、分かるよ。この街並みは変わらない。でも、精彩がなく灰色に見える。でしょ?」

「ああ、上出来だ」

「あはは。あたしね、大学では心理学を専攻してるの。主に臨床心理学かな」


 意外……でもないか。玖珠羽は頭が良い。

 勉強が出来るという意味ではなく、なんていうのか、人の感情の機微を読むのが上手い。

 7年前初めてあったときの第一印象だった。そんな彼女が興味を持つ分野。合点がいく。


「そいえば翔平は、大学行ってるの?」

「ん? あぁ、まぁな」

「専攻は?」


 少し考えてから答える。


「……俺も、心理学だよ」

「へぇ……意外。なら、あたしたち、もっと知的な会話をしましょ?」


 眼鏡を掛けていないのに、眉間に中指を当て、くいっと眼鏡を直すような仕草をする。


「玖珠羽の胸は一体何センチ――」

「こらっ!」


 早かった。想像以上に鋭く決まる。玖珠羽の人差し指が俺の口元に。

 しかし、車内で大声を出すものだから、ひそひそと、ざわざわと広がる。


「馬鹿なことばっかり言わないでよ、もう……」


 少し小声でむくれる玖珠羽。いや、別に固執してる訳じゃない。

 いやらしい目で玖珠羽を見てるわけじゃない。男の性だ。


「……」


 ポコン。無言で叩かれる。どうやら胸の内までバレバレらしい。

 いや、俺が表情に出し過ぎなのか。ポーカーフェイスを身につけなければ。


「読心術って知ってる?」

「……申し訳ありませんでした、玖珠羽さん」

「よろしい」


 澄まし顔で頷く玖珠羽。だが、玖珠羽が小声で呟いたのを俺は聞き逃さなかった。


「……私だって、もう少し大きくなれればって……」

「そんなに気にすることないんじゃないか? BかCくらいが丁度いいんだよ」

「バッ……だから、胸から離れなさ……ぁ」


 俺は、叩こうとする玖珠羽の手首を掴む。


「分かってる、気に障ったなら謝る。でも後学のために聞いておけ」

「……な、なに?」

「玖珠羽が気にしてるほど、男がみんなそう思ってるわけじゃない。誰かに何を言われたって気にするな。もしも気になるなら、それは恋人に聞くんだ。……それで、彼氏がどう思うかだろ? ちなみに俺は、玖珠羽くらいが丁度いい……とか言ってみる」


 俺が言いたいのは、心無い男の発言が玖珠羽のような女の子に誤解を与えているってことだ。そして時にそれは、傷つけることになる。

 確かに、大きいほうが好きなやつだっている。

 それは、それぞれの好き好きだ。俺がとやかく言うことじゃない。

 でもそれがいつしか誰かが公言したことで、”男はみんなそうなんだ”という認識が蔓延していっちまう。

 俺は高校時代、灰色の風景のような教室でそれを聞いていた。

 思春期の男女にありがちな話題が飛び交う。


 俺は冷めた目でそれを聞き流していた。

 あの男が言っていたから、他の男もそうなんだろう。……そうじゃない。それは個々人の好みの問題だ。

 なら、全員がどうかなんて問題じゃない。自分が大切に思う人がどう思うか、それだけでいいんじゃないかと、俺は思う。


「……う、うん。そうだよね。ごめん」

「あ、いや。俺こそごめん」


 俺は掴んでいた手を離す。読心術を披露した玖珠羽だ、俺が口に出さなかったことも分かってくれただろう、ということにしておく。


「あ、あたしね本当は、大きいと肩凝るって聞いてたから、このままでもいいかなって思ってたんだ」

「……そうなのか。でも、玖珠羽はちょっと痩せ気味じゃないか? もっと肉付けろ肉」

「嫌だよー。ちゃんとジム行って運動してるんだから! 翔ちゃん好みのぽっちゃりさんにはなりませんー」

「いや俺はだな、バランスとか形をだな……」

「あはは、なにそれー。手つきが怪しいー」


 つい強く言ってしまったが、俺はちゃんとフォロー出来ただろうか……?

 屈託無く笑っている玖珠羽を見ていると、杞憂のような気もする。別に変な意味じゃなく、運動しているので玖珠羽のプロポーションは良いと思う。

 ……なんて、馬鹿なことを考えていると玖珠羽が窓の外を指差した。


「ほら、翔平。見て見てっ」


 外に目をやると、提灯やら屋台やら賑わいを見せる風景に変わっていた。


「あ、もしかして今年もやるのか?」

「そそ。湯雪祭り。冬のお祭りなんて、この辺のでしかやらないからね。あっ、今年も出てる! チョコメロン!」

「げ……あのデンジャラスな組み合わせか。ありえない味だぞ……」

「そんなことないよ! あれこそ至高のデザートだぞっ。 はぁ……チョ・コ・メロ~ン♪」


 恍惚の表情だ。


「あの味は、リアルじゃねぇ……」


 美味いのかどうかはさておき、この街の風物詩である湯雪ゆゆき祭り。

 街の出口から湯ノ足村までを繋ぐ通りが賑わいを見せる、この地方ならではの冬のお祭りである。

 祭りの準備中で人が賑わいを見せていた。提灯を飾る人、屋台の組み立てをする人、看板を立てたり整地をする人、様々だ。

 お祭りは参加こそすれ、裏方の準備まで気に留めたことは無かった。だから、たくさんの人がお祭りを盛り上げようと、頑張っているのが分かる。

 よく知られているのが歩きながら屋台を楽しみ、帰る前に湯ノ足村で足湯を楽しむ。そんなコースが定番だそうだ。

 そして、隠れたスポットが展望台である。屋台などは通りにしかないので、あまり展望台までは上がる人いないが、湯雪祭りの最中、展望台から見下ろすと、それはそれは見事なイルミネーションを飾るそうだ。

 まるでそれは、空を架ける天の川が地上に降りてきたかの様。

 通りから外れた道の先には、小さな広間があって、そこがライトアップされることにより彦星と織姫のようだと言われていた。


 恋人同士の噂では、彦星の広間には男性の、織姫の広間には女性の想いを綴った手紙が、短冊のように飾られていて、その日展望台からメインストリートを二人で眺めることで、想いが成就すると云われている。

 ちなみに俺も7年前、したためたものがある。それが叶うことは、ついに無くなってしまったが……。


「今夜なのか?」

「今日は準備の最終調整。本番は明日の夜よ」


 明日、か……。まだ時間はあるな。


「一緒にいこーね! 翔平!」


 満面の笑顔で誘う玖珠羽に、俺は頬を緩め頷くのだった。街の出口、そして村の入り口へと続く道の前で下車する。


「そろそろ選手交代なんだけど……」

「ん? まだ誰かくるのか?」


 玖珠羽がきょろきょろと目線を泳がせる。


「お待たせ、お待たせ!」

「ぬおっ!?」


 いきなり後ろから太い腕が後ろ首を襲う。


「久しぶりじゃんよー! 元気にしてたか?」


 こいつは―――。同じく7年前、縁があった友人の一人だった。

 ラリアットをかまして来たこの大男は、人懐っこい笑みを浮かべながら再会を喜んでいる。

 もちろん、俺も嬉しいが……。どうしてこいつも、俺が帰ってくるの知ってるんだ?

 いや、そうじゃない。7年間もの間、誰とも連絡は取らなかったんだ。

 そしてもちろん、今日誰にも来ることは言っていない。

 ましてや、俺のことなんか忘れてたっておかしくはないはずなのに……。


 なのに、突然の来訪のはずが、こんなにも昔と同じだなんて……。

 これじゃあ、まるで―――。

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