第193話邪念

 絶えず吹く優しく穏やかなはずの風が、今盛りの庭の無数の藤棚から花びらを奪い空に巻き上げる。

 まさに今、そんな満開の藤棚達の下にいる春陽は、少ししか離れてはいない縁側廊下にいる藍と視線が合い、見詰め合い続ける。

 しかし、ほんの少し目が合っているだけなのに、春陽にはすでに長時間に感じていた。

 

(まるで銀の神の様に、怖いくらいにキレイな男…)


 春陽は、初めて会う藍の印象をそう密かに思った。

 そこに、藍が春陽から視線をそらさず縁側廊下を降り、庭を春陽の方に一直線にゆっくり向かって来た。

 藍の足元は、南蛮渡来の白のそっくすなるものだけが履かれていた。


 (うっ……動かない……体が…)


 春陽は、藍から視線をそらそうとするが、何故かそれが出来ない。

 そして、春陽に向けられた藍の視線のあまりの強さに顔に出さないよう内心で焦った。同時に、春陽の動悸が激しくなり、額から薄っすら油汗のようなものが滲む。まるで今の春陽は、目の前にいる初めて会うモノを直感的に天敵と判断した獣のようだ。


 「兄上っ!」


 そこに、春陽の前に立とうと、打刀を握ったままの春頼が動こうとした。

 そして、周りにいた守護武者達も、再び腰に携帯する刀の柄に手を掛け臨戦態勢に入る。

 しかし、春陽は、春頼を見て今は動くなと言う意味で首を横に一回振った。

 春頼と守護武者達は動けなくなる。

 そして、こちらに来る者が春陽の家系の仕える殿の直近の使者であれば、殿の分身と言っても過言では無い。春陽はもうフラフラの体で、藍に向かいその場の庭土の上に正座し頭を下げようとした。

 しかし、それを、藍の右手が春陽の右手を取り握って止めた。

 藍の春陽の手を握る力が強くて、春陽の肌に触れる藍の肌の温度が冷たくて、春陽を戸惑わせた。


 「こんなに顔色も悪くやつれて具合がお悪そうなのに、何故……外におられるのですか?」


 藍が、初めて春陽に声を掛けた。

 藍は、春陽より背が断然高い。      

 藍の視線は春陽を見おろし鋭い。

 そして、藍の声色は春の夜闇のように落着き払い深々と静かで美しい。


 「気分転換に外に……病とは言え座敷にずっといては息が詰まるので。そうしたら騒ぐ声がしてここに来ました…」


 春陽は、嘘を藍に悟られないよう、藍の目を見て慎重に答えた。

 藍の視線は、春陽の真偽を探るようでもあったが、春陽がじーっと藍を見詰め続けると次の瞬間、藍は口調が幾分柔らかくなって言った。


 「気分転換は良いとしても、御一人ではダメではありませんか。これからはこのような事はこの藍がさせはいたしませぬ」


 「?……」


 「これからはこのような事はこの藍がさせはいたしませぬ」の意味がよく分からなくて、春陽は子供の様にキョトンとして藍を見詰めた。

 すると藍は、更に春陽の手を強く握り締め微笑み告げた。


 「春陽様……この藍、殿の命により城より春陽様をお迎えに上がりましたがそれだけでは無く、これより春陽様のお身の周りのお世話はこの藍が全ていたすよう殿から命を受けております。春陽様は今日のただ今よりこの藍の我が君にあらせられる」


 「はっ?!」


 春陽は、そう間の抜けた声を出すと無意識に一歩後ろに下がり、次に藍の目を見て懇願した。


 「その話しは……その話しだけは、私の父がこの屋敷に戻ってからにして頂きたい。どうか、どうかお願い申し上げます」


 藍の背後の藍の従者は、やはりいつもの強引な藍を知ってるだけに、今すぐ藍が春陽をこの屋敷から有無を言わさずかっ攫うと予想した。

 しかし、今日の藍はやはりどこか違った。藍は、さっき一歩下がっ春陽の手をぐっと引き寄せ藍に寄せた。そして、春陽の顔に藍の顔を、口づけするかのように近づけ優しく囁いた。

 

「承知いたしました。父上様がお帰りになれば、きっちり……話しをつけさせて頂く事にいたしましょう。我が君よ…」


 春陽は、油断は出来ないもののここはひとまず胸を撫で下ろした。

 しかし、春陽を見続け、今にも藍に再び斬りかかりそうな勢いの春頼が気になり、春陽は、春頼の方を見て視線だけで春頼を静止した。

 その春陽の横顔に、藍が言った。

 

 「ならまずは、この藍が我が君を座敷に抱いてお連れいたします」


 春陽はその申し出に驚き、咄嗟に藍に握らていない方の手のひらを藍の前に出し拒否した。


 「いえ……その……お気持ちはありがたいですが、今は結構です。私には……」


 そう春陽が言い、先程から必死の形相で一瞬も春陽から目を離さない春頼を見た。


 「兄上……兄上……兄上…」


 春頼は春陽を見詰め、春陽を求めるように呼ぶ。

 そう、春頼は、春陽にはここに春頼がいると言っているようだった。

 春陽には、自分が淫魔である事に絶望したと言う理由があるにせよ、春頼に黙って春頼を置き去りにして屋敷をさっきまで出ていた大罪があった。

 それなのに今、何も無かったかのように春頼を頼り甘えるのが図々しくて兄として恥であると分かっていた。しかし、もうふらふらで歩けなくて、座敷に戻るならどうしても藍では無く春頼に抱かれて戻りたかった。

 春陽は、こちらに春頼が来てくれるか、不安そうに春頼を見詰め返した。

 しかし、春陽の心配は無用だった。


 「兄上っ!」


 春頼は、刀を腰の鞘に戻すと、一目散に春陽の元に走った。 


 「春頼!」


 春陽は、藍の手から春陽の手をスッと抜き、その場で春頼に向かい腕を広げた。

 すぐに春頼も、腕を広げ春陽を春頼の逞しい体の内にすっぽり収め抱き締めた。


 「済まない……春頼……勝手に出歩いて」


 春陽は、呟くと安心感から自然と体の力が抜け春頼の胸に顔を埋めた。


 「良いのですよ……兄上……兄上さえ無事なら、それで良いのです…さあ…座敷に戻りゆっくり休みましょう」


 春頼はそう言い、サッと兄の春陽を軽々抱き上げた。

 そして春頼は一瞬、都倉の使者、藍を横目で見た。

 すると、藍の、春陽を抱き上げる春頼を見る視線が凍るように冷たく、春頼への怒りを通り越して殺意さえ感じる事に春頼は気付く。

 そして春頼は、藍が春陽に邪念を抱いている事も悟った。

 でも、春陽は小さな頃から他人から想いを寄せられる事は多かった。

 だからその分春頼は、春陽に想いを寄せる他人から小さい頃から嫉妬の視線を受けるのは多々あったし、それをいちいち気にしていては春陽の弟は絶対に務まらないのだ。


 「母上!」


 そして春頼は、縁側廊下で藍の従者に右腕を掴まれていた春姫を見て呼んだ。

 従者は、困惑した表情で藍を見た。

 すると藍は、不服そうな顔をしながらも顎をくいっと上げ、無言で春姫を解放するように指示した。

 春姫は解放された。

 そして春頼は、平然と何食わぬ顔で兄を抱き上げたまま座敷に向かい歩き出した。

 だが、春頼の背中には、藍の厳しい思念と視線が向けられていた。


 (まずは、貴様から始末してやる。春陽の弟…)


 そして、この庭での出来事一部始終と、春陽と藍を屋敷の物陰から見ていた定吉は、やはり春陽を強引にでも定吉が安全な所に連れ去るべきだったと後悔していた。



 

 

 


 

 

 

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