第2話銀色の蝶

あの日、子供を助けた日のほんの数日前、あの懐かしい街は桜が満開だった。


そして、場所は違えど、今この優のいる山の人里も薄い儚い色の花びらで埋め尽くされていた。


こっちは、山桜だが。


翁が用で町へ降り、今日は朝からそれほど仕事もなく、優は桜の咲き乱れる山中を、髪を後ろの上部で束ねて下ろし、覚えたての山菜採りに精をだしていた。


面白いほど良く採れるので、肩に担いだ籠は一杯になり、きっとお婆さんも喜んでくれるかもと思う。


お婆さんが心配して、余り遠くへ行かないように再三言っていたが、咲き乱れる花に誘われるように、優はどんどん山奥へ向かう。


そしてやがて、一本の巨大な桜の木に辿り着く。


余りの立派さに惹かれて、ここへ来たのは何回目か。


「凄い、キレイだ…」


無数の花びらが暖かい風に乗って、優の回りを舞い散る。


その中を髪をたおやかになびかせ佇む彼は、まるで他の人間には天女が舞い降りたかの様に見える。


その様子を遠くから、先程の4人が見ていた。


少し、休憩するか。


優はその根本に腰掛け、腰に付けていた竹筒をとって、中の水を飲んだ。


「はぁ、炭酸、飲みたい…後、ハンバーガー食べたい…」


つい思わず弱々しく呟いたのは本音だった。


聞こえるのは、風の音と鳥の声だけ。


急に眠気が襲ってきて、いけないと思いつつも逆らえない。


山には、山賊や流れの盗賊も出る。


「優は美しいから攫われるよ」


お婆さんの忠告が遠くに思いだされたが、優はそのまま目を閉じた。


「こんな所で、何かあったら…」


屈強な男定吉が、優を起こしに木陰から飛び出そうとするのを、横にいた朝霧が腕をとって止めた。


「何故です、何故止めるのですか、貴継(たかつぐ)様?」


朝霧は腕を離さず、一度遠くの優の寝顔を見た。


「しばらく休ませて差し上げろ」


「いや、しかし…」


「私もお前もいるし、近くに西宮と観月(かんげつ)も居る。何かあれば、ここ数日主を襲おうとした何人もの賊を主に内密に密かに殲滅したように、我らが決して容赦しない」


観月は、黒灰色の瞳の男で、西宮は甘い美貌の男の方だ。


朝霧の強い眼差しに、定吉は心配そうにしながらも思いとどまった。


優はそんな事は夢にも思わず、穏やかな寝息をたてている。


「のどかですねぇ…」


西宮が木陰から微笑んだ。


観月は、静かに近くの桜の木の上に登り、幹に寄りかかり座ったまま散っていく花びらに右手をのばした。


朝霧と定吉はそれぞれ離れて、監視を怠らない。


どれ位眠ったのか?


優は、そっと目覚めた。


何処からか声がする。


優は桜を見上げた。


「あなたは…」


「お前、私の声が聞こえるのか?」


普通なら、桜が喋るなんて恐怖以外何物でもないが、今は不思議とそう思わない。


その、声変わりはしているがまだ大人になりきる前の若い声に、ざらざらとした木皮を撫でた。


「あなたが、喋っているのですか?」


少し間が開いたが、桜はゆっくりと、ああ、と答え、不思議そうに尋ねてきた。


「私の声が聞こえるなど、お前、人の子ではないな?」


「え?俺は、人間ですよ。普通の」


「隠しても無駄だ。お前から、匂いがする。禍々しい匂い…。だが、それだけでない、一体お前はなんなんだ?」


「なんなんだって、本当に普通の人間で…」


優は幹に手を当てたまま、戸惑った。


「お前、気を付けろよ。魔が近づいてきている匂いがする」


魔が近づいてる?


優は、小首を傾げた。


だが、ふとそのまま何気に正面を見ると、一匹の蝶が、ヒラヒラと優美に舞ってこちらへ向かって来ていた。


見た事もない大きな、銀色に、青い紋様の麗しき姿に、優は思わず立ち上がり、くるりと向きを変え来た方向に又飛んで行ことするその姿を追おうとした。


「馬鹿か!駄目だ!行っては駄目だ!」


桜の木か叫ぶが、優は何故か立ち止まれなかった。


「駄目だ、行っては駄目だ!」


桜が尚もそう必死で呼び掛け、心の中では優自身も分かっていにもかかわらず、身体が言う事を聞かない。


だが、更に深い深い森へ吸い込まれるように数歩ふわふわと歩くと、突然ぐいっと背後から抱きしめられた。


その両腕は、声にならない驚きと共に、優を力強く引き止めた。


優の華奢な手と違い、大きく筋張った逞しい男の両手が胸の辺りに見える。


ふと、不思議な感情が、優の心に溢れだした。


知ってるようで、知らない手。


この手は、この手は…


優は、思わずその右手に自分のそれを重ねて、後ろを振り返った。


自分より背が高いせいで見上げないといけなかったが、男の瞳と視線が合った。


その色は、深い深い濡れた漆黒。野生の狼みたいな、スッゴイ…男前っ…。


それが優の正直な感想であり、固まったまま、顔を外らす事が出来なかった。


突如、優の脳裏に、明らかに何処か別の場所の桜の木の下、花吹雪の中、今と同じような二人が浮かんだ。


今と同じ様に、背後から、強く強く抱かれている。


違うのは、優が武士の格好をしている事だ。


あれは、俺なのか?


かすかな疑問と、訳の分からない状況に優が言葉を失っていると、黒い瞳の男朝霧は、優の身体を抱き寄せ優の耳元で強く呟いた。


「行ってはいけません」


「どうして?」


優は、朝霧の上衣越しの分厚い胸に顔の半分を押しつけられたまま、されるがまま問うた。


「どうして?それは…教えてやろうか?」


あの蝶が飛んでいった方向から、美しい男の声がした。


優は、思わず声の方を見た。


いつの間にか目の前に、長い長い銀髪を揺らめかせた、青い瞳の美青年が佇んでいた。


まるで、さっきの蝶のよう…

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