後編
戸惑うタルムの体に、ジェスタは遠慮なく、唇と指で触れた。
「あっ……!?」
タルムは自分の一部が、今まで経験したことのなかった変化を遂げていることに気づいた。
硬く張り詰め、上を向いたそれを、ジェスタは人差し指でつうっとなぞる。
「や、やめろ……」
「うふっ、楽しいですう」
「くっ……」
情けない。どうしてこんな辱めを受けなければならないのか……。殺されたほうがマシだと、タルムは唇を噛んだ。
「んー。このまま、パクっといただいてしまっても良いのですけどお、選ばせて差し上げるのが礼儀ですかねえ。ねえ、可愛い可愛い、魔王様?」
タルムを弄ぶ手を止めず、ジェスタは話しかけた。
「私はあなたのために、なんにでもなれます」
「……?」
タルムが顔を上げると、ジェスタは優しく彼の額に口づけた。
「友達にも、妹……は、ちょっと図々しいかしら。でも姉にだって、恋人にだって、母親にだって」
「友達? 姉? 恋人? 母親……?」
ジェスタがなにを言っているのか分からず、タルムはただ彼女の言葉を反芻する。
「ええ。あなたが望む誰にだって、なってあげられる。だから、選んでくださいな?」
「……………」
にっこりと極上の笑顔を作ったジェスタに促され、タルムは沈思した。
友達。姉。恋人。母親。
――なにを選ぶのかなんて、そんなの決まっている。
だって、言ったじゃないか。血を繋ぐことができる、と。
快感と屈辱のせいで潤んだタルムの黒い瞳が、爛々と輝き出す。
――俺を支えて、寄り添って欲しい。その存在の名は。
「よめ! よめに! 俺の嫁に……なってくれる……か?」
「はぁい、喜んで」
勢いは最初だけで、徐々に自信なさそうに萎んでいったタルムの返答を、ジェスタは快く受け入れた。
「不束者ですが、可愛がってくださいね」
ジェスタはポッと頬を染め、微笑んでいる。
――可愛い。
この得体の知れない女に、タルムは初めてそう思った。
同時に、全身に稲妻が走ったかのような衝撃が走り、絶叫する。
「ああああああ!」
突然、タルムは頭を抱えるようにしてうずくまった。
「タルム様!? どうなさったの!? しっかりなさって……! ああ、今、治癒の呪文を……!」
不測の事態に、ジェスタはオロオロと取り乱している。そんな彼女の前で、苦悶するように震えるタルムは、変化し始めた。
「えっ……!?」
子供にしか見えなかったタルムの体が、めきめきと大きくなっていく。筋肉の鎧を纏い、身長は倍に伸び――時を置かずして、彼は逞しい青年へと成長を果たした。
「タルム様……」
「う……?」
正気を取り戻したタルムは、しげしげと自分の体を眺め回した。
「現金なものだな……」
タルムの口から苦笑が溢れた。
いったい、いつまで一人でいればいいのか。まともに考えれば発狂しそうになるから、思考を閉じ、成長を封じて、子供のままでいたのに。
伴侶が――交る相手が現れた途端、大人に――男になるとは。
ジェスタは成長したタルムを、うっとりと見詰めている。
「素敵です……」
タルムは不敵に笑うと、ジェスタを掻き抱き、噛みつくように彼女の唇を乱暴に奪った。
大きいとすら思っていたジェスタが、今は細く、小さい。タルムの支配欲はむくむくと増していった。
「今度は俺が、お前をいじめる番だな?」
「ああ……。私にとって、唯一の人。私はあなたにめちゃくちゃにされることを、夢見ていたの……」
「あっ、うん……」
そう従順になられると、逆に引いてしまう。
なにしろタルムは、バリバリのルーキーであるからして――。
「えっと、頑張ってみるから……。あったかい目で見守ってほしい……」
「はい……」
ジェスタは沈むように、その身をタルムの厚い胸に添わせた。
「ん。ふあ~……」
眠りから覚めたジェスタは、のろのろと立ち上がり、服を着始めた。
「ん……」
同じ頃、目覚めたタルムは、美しい妻の姿を、寝たまま目で追った。
三日三晩睦み合った疲れが、まだ取れていないようだ。だるい……。
夫の視線を感じたジェスタが振り向き、目が合う。二人で微笑み合った。
「大人になったばかりだというのに、本当に立派な振る舞いでしたわ。私、お腹いっぱい、大満足です」
「え、あ、そう? それは良かった、うん……」
タルムはどう答えていいか分からず、頭をかいた。
それはともかく、心が温かい。
――ジェスタも、そうだといいが。
そんな風に思いながら、タルムはジェスタを見守った。
ジェスタは好奇心の強い子猫のように、タルムの住処をあちこち歩き回っている。
――二人で暮らすのに、この巣はふさわしくないな……。
別の場所を探さなければ。
しかしタルムは、人間たちに追われている身だ。どうするか……。
ジェスタは呪いの大鍋を覗き込んでいる。
「それも処分しないとな……」
タルムがぽつりとつぶやくと、ジェスタは不思議そうな顔で尋ねた。
「処分する? なぜ? 使ったら、よろしいじゃないですか?」
「使うって……」
ジェスタは分かっているのだろうか。大鍋の中の呪いをひとたび解放すれば、それは空気に溶け、風に乗り、あまねく世界を巡る。その後、死をもたらす奇病として、人の世に蔓延するだろう。
おおよそ数年で、人類は滅亡する。タルムがコツコツと暗い情熱を注いで作り上げた呪い、「災火」とは、そういうものだ。
だがタルムが詳しく説明しても、そんなことは知っているとばかりに、ジェスタは優雅に首を傾げるだけだった。
「だからこそ、使ったらいいじゃないですか。私は新人類。体の作りはあなたとほぼ同じですから、体調を崩すことも、死ぬこともありませんし」
「いやいやいや! お前の同胞が、全て死に絶えるんだぞ!?」
「同胞?」
ふと、ジェスタが唇を曲げる。彼女が初めて見せる意地の悪い笑みに、タルムはゾクッと体を震わせた。
「奴らは同胞なんかじゃありませんよお。――敵です」
「敵?」
人懐こい顔つきを一変させ、ジェスタは冷たく、淡々と語り始めた。
「新人類を誕生させる……。その計画の、私が唯一の成功例だと言いましたよね? 私が生まれるまで、私を作った研究者たちは、たくさんの失敗作を――山のような屍を築いた。私の親、兄弟姉妹。私にとっての同胞とは、次々と殺された、他の実験体たちです」
――そうだ、人間はひどく残酷な生きものだった……。
タルムは口を挟むことができず、ジェスタの話を聞くしかなかった。
「生きたまま切り刻まれるなんて、まだ優しいほう。尊厳もなにもなく、家畜以下の扱いで、拷問に等しいおぞましい実験も受けさせられた。――そもそもそれらは、本当に研究の一環だったのか? 研究者たちの興味と被虐心を満足させるための、遊びではなかったのか? 私はそう思うことがあります。――そして、私を作り上げた人たちは、知らなかった」
「なにを、だ……?」
「生殖を経て、私たちが受け継ぐ細胞のひとつひとつに、代々の同胞たちの記憶が刻み込まれていることを。なにをされたのか。痛みと苦しみ、恥辱と恨み――全てを」
タルムは絶句した。
過酷な記憶を抱えて、生まれ落ちる。それは、どれほどの苦痛だろうか。
精神が崩壊せず済んでいるのは、ジェスタが強靭に改良された、新しい人間だからだろうか。
「産声を上げると同時に、この世の全ての苦しみと痛みを知った私は、同胞たちのために復讐を誓いました。――ね、だからタルム様、この映えてる呪い、ぱーっと使っちゃいましょうよお?」
ジェスタの表情と声色は、朗らかに戻っている。が、先ほどの告白を聞いたあとでは、それが余計薄ら寒かった。
「ね? ねえ?」
「し、しかし……」
執拗に誘われても、タルムは首を縦に振ることができなかった。不幸から脱した彼は、生きものを無為に殺すことに抵抗が生じている。
それすらも想定内とばかりに、ジェスタは苛立ちも見せず、囁いた。
「お優しいあなた。安心なさって。世界にだーれもいなくなっても、私が新しく産んで差し上げますから。あなたの家族も、仲間も。地上はあなたの血族で溢れかえり、繁栄するでしょう」
そう宣言すると同時に、ジェスタは大鍋を蹴り倒した。
「なっ、なにをする!?」
焦るタルムを横目に、ジェスタは呪文を唱えた。直後、風が巻き起こり、地面にくすぶっていた呪いをまとめて吹き飛ばす。
滅びの呪いを乗せた風は地下を一直線に駆け抜け、外に飛び出していった。
――これで、人類はおしまいである。
「知識の結晶たる魔王様を――タルム様を懐柔して連れ帰り、人類に繁栄をもたらすはずだった女が、死病を解き放った~。皮肉が効いてて、いいですよねえ」
「ジェスタ……」
タルムは呆気に取られて立ち尽くし、ジェスタはそんな夫に擦り寄った。
「――ほんのひととき。全ての人間が滅びて、私たちの子供が生まれるまでの、二人っきりの新婚生活ですよお。貴重なこの時間、楽しみましょう?」
「……………」
こうなってはもう、仕方がない。
タルムはジェスタを抱き締めた。――そうするしかなかった。
どこかで聞いたことがある話でしょう?
このあと、タルムとジェスタの子孫がどうなったのか――。
力ある覇者と、凶暴で愚かな血が流れた生きものたちは、地上に満ちて、また欠ける。
その繰り返しなのだ。
~ 終 ~
その名は、リリス いぬがみクロ @inugamikuro
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