223 理由なき献身(3)

「もう来ないでください」


 病棟の廊下に私を引っ張り出すなり、少年の母親は唇を引き結んでそう言った。


 消灯時間をとっくに過ぎた廊下は薄暗い。

 先の見通しが利かない方形の空間という意味では、ダンジョンの内部ともよく似ている。

 人の死や、人の苦しみが当たり前にある空間という意味でも、よく似ている。


「来ないで、とは? 彼の治療はどうするの?」


「できるわけ、ないじゃないですか! 今のあなたにこれ以上関わられるのは迷惑なんです。私にとっても、あの子の将来にとっても」


 そう言われることは、予期していた。

 彼女は息子に私の現状についての情報を伏せていた。

 それはつまり、私のことを隠すべきだと思っているということだ。


「こんな風に来られて、主人や主治医にどう説明すればいいんです?」


 彼女は冷たい声で私に言った。

 私はその言葉に瞬時に反発する。


「『主人』ですって⁉ あなたの配偶者はあなたの『主人』ではないわ」


「だからなんだと言うんです? そんなこと、みんなわかってるんですよ! 他になんと呼べばあなたは納得するんです?」


「それは……夫とか、配偶者とか……」


「どちらも普段使うような言葉じゃないですよね? そんな意識の高い言い回しをしたらママ友の間では浮くんです。人の言葉尻を捕まえてあげつらうだけでお金がもらえるなんていい商売ですよね」


「お金のためにやってるわけじゃないわ」


「そうでしょうね。でも、それで活動資金を得ていることも事実でしょう。だけど、普通の人には生活があるんです。いろんな不条理があっても耐えて、呑み込んで、折り合いをつけてやるしかないことがいっぱいあるんです」


「わ、私はそういう現状を変えるために――」


 反論しかける私を無視し、彼女が続ける。


「私の勤め先は、そんなに大きな会社ではないけれど、女性への差別は本当に減りました。女性向けの福利厚生も充実してきました。まだ十分ではないのかもしれません。でも、着実に良くなってます。もちろん、私の場合は息子のことで特別に配慮していただいてもいるのですが……」


「それはもちろん、よいことよ。でも、所詮は本質的な問題を覆い隠して女性を懐柔するための――」


「じゃあどうしろって言うのです? 女性だけでストライキをして、経営者が『恐れ入りました、今日から考えを改めます』と改心するのを待つんですか? 既に十分、会社の利益を守りながら女性の働き方をよくしようと動いてくれている、比較的開明的な経営者なのに?」


「たとえ開明的であろうと――「男性であることに変わりはない、と言うのですよね? でも、そんなことはどうでもいいんですよ、先輩」


 はあ、と疲れたため息を漏らす彼女。

 彼女は私の大学の後輩だった。

 私が研究室を追われたときも慰めてくれた。

 彼女の子どもが難病を患ったと聞いて、なんとしても治療したいと思った。

 彼女の子どもが男子でなければよかったのだが、それでも節を曲げて治療に取り組んだのは彼女に深い恩義があるからだ。


「わかりませんか? この国では、みんながやってるのと同じことをやってないと、爪弾きされるんです。ママ友から入ってくるはずの情報が入ってこないとか、そういうことで、恥ずかしい目に遭わされたり、うちだけ損をしたり、子どもがいじめられたりするんです。子どものいないあなたにそういうことがわかるんですか、先輩?」


「子どもがいるいないは関係ないわ。子どもの有無で女性同士のあいだに分裂を作るべきではない」


「先輩の言ってることにも、共感できることはありますよ。私だって、女だからというだけで嫌な思いをさせられたことがたくさんあります。でも、差別をなくすために世の中と戦おうとは思いません。守らなくちゃいけないものがたくさんあるからです。私は自分の手の届く範囲のことをなんとかするだけで精一杯なんです。そこに政治とか思想とか余計なものを持ち込まないでください。本当に無理なんです。そういうのはもっと余裕のある人に言ってください」


「余裕の問題じゃないわ。解決すべき問題は、余裕があろうとなかろうと解決するしかない。もちろん、余裕のある人が主導して動くべきだとは思うけど」


 私の言葉に、彼女は再びため息をついてから、


「正直言うと、先輩以外にもいるんですよ。『かわいそうな』障害を持って生まれた子どもやその親を、自分たちの活動のアピールに使おうと近づいてくる人たちが」


「わ、私は違うわ! 私は現に彼のことを治そうと……」


「感謝しています、もちろん」


 激高しかけた私を、彼女が制する。


「できれば先輩には、暁人にとってのヒーローであってほしかった。先輩がかつて女性研究者たちの羨望の的だったように」


「……それは」


「でも、指名手配犯に治療されてたなんてことが明るみに出たら、私たちはどうなるんです? 先輩はダンジョン内で人体実験をやっていたそうですね? そんな非人道的な実験から生まれた成果で生き延びたと知った時、暁人がどれほど傷つくか……」


「だ、だけど、彼の病気を放っておけば……」


「……先輩がこうなってしまった以上、ずっと治療を続けてもらうことはできないと思います。警察だって馬鹿じゃない。あなたの立ち回り先としてここもすぐに特定されるんじゃないですか?」


「今の私なら男性警察官がいくらいたところで……」


「暁人を治療しにくるたびに、警察官を殺傷するんですか? そんな光景を暁人に見せると?」


「そ、それは……」


「自分の正義に刃向かう者は力づくで排除する……それは、先輩の言う『男性』の権力者たちがやってることと何が違うんです?」


「……正しい目的は、あらゆる手段を正当化するのよ。非常手段を取るしかないのなら、迷わずそれを取るまでだわ」


「自首してください、先輩」


「はっ?」


「警察に出頭して、罪を認めてください。裁判になったら、私は先輩のために証言します。先輩がどんなに暁人のことを気にかけてくれていたか……裁判官の心証も変わるはずです」


「そんなの無理に決まってる! 相手は男性権力の走狗である司法府なのよ。夫婦別姓すら未だに認めようとしない裁判所から、情状酌量なんてされたくない!」


「生きてこそじゃないですか。先輩の思想に共鳴はできません。でも、先輩が本気でそれを信じてることはわかります。生きてさえいれば、いずれ社会にも出られるかもしれません。刑務所の中からでも、『思想』だけなら外に発信できます。先輩にはそういう活動をしてくれる味方だっているんでしょう?」


 彼女の言葉に、私はしばし黙り込む。


 彼女の言葉には、たしかに、私への思いやりもあった。

 だが同時に、これ以上面倒ごとを起こされたくないという気持ちも透けて見える。

 私がおとなしく刑務所に入れば、私に暁人君への治療を続けさせる、なんらかの手段もあるかもしれない。

 放置すれば死に至る難病を唯一治療できるのが私なのだから、なんらかの特例措置が取られる可能性もあるだろう。

 それ以上に、私が犯罪者だと知られることで暁人君の心の負担を増やしたくない、という彼女の気持ちも疑いえない。


「そうね……」


 疲れた、というのは本音だ。


 思えば、あの教授に研究成果を奪われて以来、私の人生は闘争の連続だった。

 その闘争に勝ち続けてきたと思っていたが、海ほたるダンジョンでの敗北で、一夜にして警察に追われる立場になってしまった。

 いくら私の探索者としてのステータスが高くとも、この国そのものを敵に回すのは分が悪い。

 あの方が手を回してくれるにしても、警察を完全にコントロールできるわけではないだろう。

 個々の戦闘では負けないだろうが、それを毎月、毎週と繰り返していけば、精神はどうしても疲弊する。

 ……いや、もしあの蔵式悠人とかいう社会落伍者の元ひきこもり探索者が出てくれば、今度こそ勝てるという確証はない。

 これから先、逃亡犯として警察の追跡や蔵式悠人の奇襲に怯えながら生きて行くのかと思うと、気持ちが重くなるのは事実である。


 あの方に与えられた「使命」の結果いかんによっては、そうした悩みからも永遠に「解放」されるかもしれないが……。


 私がため息をつき、弱音を吐きかけたところで、


「おいおい先生。まさかそっちに行っちまうんじゃねーだろうな?」


 病棟の闇の奥から姿を現したのは、野卑ながらどこか品のようなものを漂わせる、二十代ほどの美青年だった。

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