第六章「楽園」
218 無私の王(1)
◆???視点
日の丸の掲げられた総理執務室は、想像していたより狭かった。
一国の代表にふさわしいだけの調度品が整えられてはいるが、公費で賄われたものである以上限度はある。
大企業の経営者だった私にはさして特別なものとは思われない。
ほとんどの過去の総理大臣は、この席に初めて身をうずめた時には大きな感慨を抱いたことだろう。
実際、客観的に見てたいしたことだ――一億二千万人もの人口を誇る大国の元首になるというのは。
だが、やはりというべきか、私には特別な感慨は湧いてこなかった。
「やはり私には感情というものがないらしい」
世間一般で私がサイコパスではないかと言われていることは知っている。
今しているのはそういう話ではない。
「私に感情がない」というのは、私が単に冷血だという話ではない。
私には、他の感情と同じように、冷血さもまた欠如している。
その意味ではむしろ、私は冷血ではないとすら言えるだろう。
親に虐待されて育ったことで愛情を知らずに大人になった――ということでもない。
そうした万人に理解しやすい
奇妙な生育環境で育ったことは、客観的に見て事実だろう。
私は
両親がいなかったわけではない。
捨てられたわけでもない。
ただ、祖母が幼い私の「何か」に目をつけて、自らの理想とする「王の器」とするべく育てることを決めた。
霊能者として各界の重鎮にも知られる祖母の決定に、私の両親はただ諾々と従ったらしい。
戦前から戦中にかけて権力の中枢に食い込んでいた祖母は、この国を滅ぼしかけた政治家や軍人たち――さらに不敬なことには天皇陛下その人にすら「失望」したと公言していた。
その放言癖で戦中には特高警察に目をつけられたものの、権力者の中に潜む祖母の崇拝者によって祖母が獄に繋がれることはなかった。
中世西洋の宮廷では王の側近に真実を言う道化を置くことがあったというが、祖母の役割はそれに近い。
祖母はただの
神がかりした祖母の予言は尽く当たり、祖母が見込んだ政治家や軍人、官僚はみるみるうちに頭角を現した。
祖母はイタコのように死者の魂を呼び出すことができた。
戦地で死んだ兵士たちの霊を呼ぶと言った祖母の口から旧軍批判が飛び出したときには、軍人が軍刀を抜いて斬りかかる一幕もあったという。
私にとっては意外なことに、戦中までの祖母は邪悪な人間ではなかったらしい。
むしろ善良で穏やかな――ただし自分を曲げることだけは決してしない女性だったということだ。
戦中、祖母が戦死した皇軍兵士たちを「口寄せ」したことは先に触れた。
これは何も祖母が勝手にやったことではない。
宮中のさる御方から依頼を受け、死者の口から現地の戦況を聞き出すためにやったことだ。
当時のこの国は、悪化していく戦況をどうにかしようと拝み屋にまで頼りだしたということだ。
だが、祖母の口から戦地の状況が語られることはなかった。
祖母の口をついて出たのは、死の間際の苦しみや上官や軍への恨みばかり。
銃弾に倒れた兵士はまだましだ。
炎に巻かれ焼死した兵士。
爆弾で手足を吹き飛ばされ、自分の臓物に塗れて死んだ兵士。
補給が途絶え、靴の革をしゃぶりながら餓死した兵士。
特攻用の小型潜水艇の中で溺死した兵士。
上官に自決を強いられ、意に反して自軍に殺害された兵士……。
彼らは軍部が理想とするような英霊では間違ってもなかった。
むろん、そのような理想に殉じた英霊がまるでいなかったと言うつもりはない。
だが、怨念によってこの世に念を留めたものたちは、往々にしてこのようにして死なねばならなかった己の運命を呪っていた。
そしてその呪いを生き残ったものたちへと向けていた。
祖母ははじめ、求めに応じて戦死者の口寄せを行っていただけだった。
その口寄せの内容が当時の指導層にとって「期待外れ」だったことがわかってからは、祖母に声がかかることはなくなった。
だがどういうわけか祖母は、戦死者の口寄せをその後も執拗に続けていく。
そのさまはまるで何かに取り憑かれたようだったという。
取り憑かれたもなにも、実際に祖母は霊を取り憑かせていたわけだが……。
祖母の降霊は、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終結した後になっても続けられた。
その頃にはもう、祖母には自分をコントロールすることができなくなっていた。
祖母が亡霊たちに取り憑かれれば取り憑かれるほど、その予言能力は冴え渡るようになっていた。
もはや祖母の頭の中では、生者と死者、この世とあの世、戦地と銃後、過去と現在が区別できなくなっていた。
無念の死を遂げたものたちの怨念を背負った祖母は、この国の戦争指導者たちを心から憎んだ。
祖母の呪詛は幾人もの指導者たちの健康を害し、時にはその生命をも奪ったという。
しかし祖母はやがて気づく。
いくら当時の指導者たちを呪殺しても、いずれ同じような心底のものがその地位を襲うだけであると。
過去と現在とを区別できなくなった祖母にとって、戦後の民主的な政治家たちですら、その心根において戦中の指導者たちと同罪ということになるらしかった。
祖母はこの国を憂えるようになった。
怨念に囚われた戦死者たちではあったが、中には国への忠義に殉じたものもいる。
そこまで熱烈な愛国者でなかったとしても、いくらかはそうした気持ちを抱いているものだ。
国のために戦うという大義に多少なりとも酔いはしながらも、無謀な作戦で捨て石にされれば国を恨む。
それが平均的な当時の兵士たちの心境だったのではなかろうか。
怨念の中で矛盾と葛藤に身悶えしながら通奏低音のように漂っていた戦死者たちの愛国心が、祖母を愛国者に変えたのだ。
祖母は考えた。
この国の政治家が変わらぬのであれば、この国はいつしか同じ過ちを犯すであろうと。
その状況を打開するためには、自然の趨勢には任せておけぬ。
――私が、この国の「王」を生み出さねば。
祖母はさらに考えた。
――「王」とは何か?
――理想の「王」とはいかなるものか?
祖母の答えはシンプルだった。
――無私のものこそが理想の「王」である。
祖母の下したその結論が、私の人生の方向性を――いや、私の魂の在り方すらをも決定づけることになったのだ。
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