第五章「分断」
167 ドウセイ、する?
時は、少しだけ遡る。
ジョブ世界の俺’から紗雪の作品が掲載された文藝界の最新号を受け取る数日前のことだ。
俺は実家の自室のベッドに横たわり、
「けほっ……、長引きそうだな」
枯れた声でそうつぶやくと、ティッシュに手を伸ばして鼻をかむ。
見ておわかりの通り、俺は風邪を引いていた。
久留里城ダンジョン踏破から始まる一連の濃密な大冒険から解放された俺は、休暇に突入するなり風邪で倒れた。
発熱と悪寒、頭痛、鼻水や咳と、風邪症状のフルコースだ。
ここまで見事に風邪を引いたのは何年ぶりのことだろうな。
小学校の低学年みたいな威勢のいい風邪っぷりだ。
「……自覚してた以上にプレッシャーがあったみたいだな」
Aランクダンジョンソロ踏破、異世界のエルフ王クローヴィスとの戦い、世界の穴から侵入したシュプレフニルを押し返してのダンジョン崩壊阻止。
さらにはジョブ世界に紛れ込んでこっちの世界に戻ってくるのに四ヶ月近くもかかってしまった。
緊張の糸が切れた途端に体調を崩したのも納得だよな。
「ジョブ世界との季節差もあるしな……」
スキル世界でダンジョン崩壊を阻止したのが五月のこと。
その後ジョブ世界で五月から八月までを過ごし、五月のスキル世界に帰還した。
ジョブ世界にいるあいだは俺’の身体を使ってたわけだが、両世界の季節のちがいに心身が変調をきたしたとしてもおかしくはない。
夏に慣れきってた向こうの身体から、夏をまだ迎えてなかったこっちの身体にいきなり戻ってきたわけだからな。
ストックしてあるエリクサーを飲めば風邪を一瞬で治すことは可能だが、原因が心と身体の季節感のズレにあるのなら、しばらく様子を見たほうがいいだろう。
高値で取引されるエリクサーを風邪薬代わりにするのもどうかと思うしな。
近くの内科を受診して感染症でないことだけは確認し、大人しく自宅で休むことにした。
どっちにせよしばらくはのんびりする予定だったからな。
俺が平日の昼間に寝転がってる罪悪感や手持ち無沙汰と戦ってると、枕元のスマホが鳴り出した。
相手を確認してから通話に出る。
『大丈夫、悠人?』
聞こえてきたのは芹香の声だ。
「ああ……そんなに酷い風邪じゃないよ」
『嘘。声ガラガラじゃない』
「熱はそんなに高くない。二、三日休めば大丈夫だろ」
『……電話、しないほうがよかったかな?』
「そんなことないって。暇だからかけてくれって俺が頼んだんだしな」
クローヴィスの引き起こした奥多摩湖ダンジョン崩壊の一件で、ギルドマスターである芹香はかなり忙しくしてるらしい。
芹香の時間の都合がわからなかったので、時間ができたときにかけてくれと言ったんだ。
一時間もせずにかかってきたのは予想外だったけどな。
『お見舞い……は、迷惑だよね』
と、残念そうに言う芹香。
声音からして本当は見舞いに来たいみたいだな。
まあ一応、彼女ということになるわけだし……。
芹香が見舞いを遠慮したのは、俺が実家にいるからだ。
一人暮らしなら大変だったんだろうが、実家にいる俺はそのあたりを母に頼ってしまってる。
ひきこもりじゃなくなったんだから自分の面倒は自分で見る――なんてかっこつけたところで、母からすれば家にいる病人を放っておくわけにもいかないだろう。
「そうか……一人暮らしだったら芹香に見舞いに来てもらえたのか」
まさか、付き合いたての彼女のお見舞いなんていう超重要イベントを取りこぼすことになるとはな。
これでは風邪の引き損だ。
『も、もう。そんなこと言って……』
「そうだよな……実際、家から出ておくべきだった……」
経済的に自活できるだけの基盤ができたんだから、あえて実家にいることを選ぶ理由はない。
ずるずる実家に残ってしまったのは、単にきっかけがなかっただけだ。
これじゃ、ひきこもり根性が染み付いてると思われてもしかたがない。
「ダメな彼氏でごめんな……」
『ち、ちょっと、何弱気になってるの? 風邪なんだからしょうがないよ』
「いや、そうじゃなくて……探索のことを考えても引っ越しはすべきだと思ってな」
『そう、だね……。いろんなダンジョンに潜るつもりなら、地元だとちょっと不便かな?』
「だよな」
探索を再開したら、俺は各地のAランクダンジョンを回るつもりでいる。
Bランク以下のダンジョンを今さら踏破しても旨味が薄い。
かといって、Sランクダンジョンにソロで潜り続けるのは長期的にはしんどいだろう。
まあ、ジョブ世界の崩壊後奥多摩湖ダンジョンを低レベル縛りで踏破できたんだから、やってできないわけじゃないんだが。
数の少ないSランクダンジョンへの出入りは、協会や警察によって監視されてるという問題もある。
ジョブ世界で手に入れた特殊なステータスの慣らしも兼ねて、当面はAランクダンジョンを巡ろうと思ったわけだ。
Aランクダンジョンでもまだできることはたくさん残ってるからな。
でも、俺の実家周辺にはAランクダンジョンがないんだよな。
Sランクダンジョンほどではないが、Aランクダンジョンもそれなりに数が限られてる。
遠方のダンジョンにも足を伸ばす必要が出てくるはずだ。
その際に、実家を起点としたのでは、移動距離がどうしても長くなる。
首都圏の地方都市の常で、隣県への移動であっても、いったん都内に出たほうが早いことが多いんだよな。
それだったら、都内のアクセスのいい場所に住居を移したほうが効率的だ。
都心から日帰りで行けるようなダンジョンであれば、宿泊代の節約にもなるし。
「芹香はどうしてるんだ?」
『拠点のこと?』
「ああ」
『マンションを持ってるよ。実家にもたまに帰省するけど』
「都心に部屋を借りてるのか?」
『あー、じゃなくて、マンションを持ってるの。一棟』
「……まるごと?」
『うん。自分の拠点用の部屋以外は「パラディンナイツ」や協会の探索者にも貸してる。信用できる人にだけ、だけど』
芹香は「聖騎士」として有名で人望もあるらしいからな。
寄ってくるのがいいやつばかりならいいが、残念ながらそうもいかないんだろう。
安全を確保するために、そんな形を取らざるをえないのかもしれないな。
……なんとなくだが、灰谷さんが芹香のために手を回したんじゃないかって気がするな。
『その……よかったら、うち、来る?』
おずおずと芹香が訊いてきた。
「ああ、芹香のマンションの部屋を借りるってことか」
たしかに、知り合いから借りたほうが間違いがないような気はするな。
芹香のために灰谷さんが用意した物件だというならなおさらだ。
しかし、これは俺の早合点だったらしい。
『じゃなくて。……その、私の暮らしてる部屋に一緒に住めばいいんじゃないかな、って……』
「…………」
『…………』
……えっ?
『だ、だから、その……。わ、私の部屋、マンションの最上階なんだよね。間取りも広くて一人だと落ち着かないくらいでさ……。悠人一人なら全然余裕で住めるっていうか……』
「それって、その……」
『う、うん。ど、同棲ってやつ……』
「ど、どうせい……」
スマホ越しに、痛いほどの沈黙が降りた。
先にいたたまれなくなったのはどちらだろうか。
『ま、まあ、おいおいだよね……』
「だ、だな。実際に拠点を持ってみないとわからないこともあるだろうし……」
『そ、そうだね! あ、あんまり長く話してるのも悪いから、き、切るね?』
「あ、ああ……忙しいところありがとな」
『全然だよ! そ、そうだ。探索者が部屋を借りるのはけっこう条件が厳しかったりもするから、翡翠ちゃんにも相談したほうがいいよ。ギルドの紹介とか、いろいろできるはずだから。じ、じゃあ、お大事にね!』
まくしたてるように早口で言って、芹香がスマホの通話を切る。
通話終了のスマホ画面を、しばし呆然と眺める俺。
……熱が出てきたように感じるのは、風邪のせいばかりじゃなさそうだ。
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