第四章「異聞」
109 プロローグ’
俺の名前は蔵式悠人。
高校二年の男子生徒だ。
でも、どこにでもいるような……とは言えないだろう。
俺が高校に入学するのとほとんど同時に出現したダンジョンによって、この世界は激変した。
そんなことは、今さら一から説明する必要もないよな。
とはいえ、本来であれば、俺はダンジョンとは無縁の普通の高校生活を送ることになってたはずだ。
家は、裕福とは言えないまでも、まあ中流。
高校生の息子がダンジョン探索なんていう危険な「アルバイト」をする必要はない。
そりゃ、ゲーマーとして血が騒がなかったと言ったら嘘になる。
でも、ああいうのはゲームでやるからおもしろいのであって、生身でモンスターと殺し合いをしたいとはとてもじゃないが思えない。
将来就職に困りでもしたら探索者になるかもしれないが、危険さを考えれば最後の手段だろう。
ダンジョン出現にともない経済が活性化してることもあって、就職戦線は空前の売り手市場になっている。
ちゃんと勉強してそこそこの学校を出ておけば、就職に困ることはないはずだ。
だから、俺が高校生にして探索者になる道を選んだのには、お金や生活以外の理由がある。
きっかけは、おそらく世界のどこにでもある話だろう。
よくある話だ。
でも、巻き込まれた本人たちにとっては、ときにその後の人生や命にすら関わりかねない大問題だ。
それなのに、当事者以外の大人には今ひとつその深刻さを理解してもらえないんだよな。
高校二年になった俺は、クラス会議のじゃんけんに負けて図書委員をやるはめになった。
同じ図書委員に、一年生の女子の後輩がいた。
ずり落ちそうな大きな黒縁の眼鏡をかけた無口な女子。
べったりした黒髪ロングの、ちょっと近づきがたい感じの女子生徒だ。
表情が乏しいせいで一緒にいると圧迫感を覚える感じだな。
といって、気が弱かったりするわけじゃなく、必要なことはわりとはっきり口にする。
一見おとなしそうに見えるが、なにか本人にしかわからない確固とした芯があるというか。
それが、人を寄せ付けない雰囲気につながってるんだろう。
彼女の無口は極端で、同学年の女子から話しかけられても会話がろくに続かない。
彼女のほうは沈黙を気にしてないみたいなんだが、相手のほうはそうもいかない。
気まずげに、「邪魔してごめんね」なんて言いながらすごすご退散することになる。
彼女は「何も謝られるようなことはされてないけど」と不審そうに首をかしげる。
相手が男子でも対応は寸分違わず同じだった。
まず言っておくと、彼女に魅力がないわけじゃない。
外見は、たしかに野暮ったいともいえる。
ぬばたまの、と枕詞がつきそうなほどに真っ黒な髪は、整えられてはいるがおしゃれではなく、今の流行りからすると重苦しい。
おしゃれという概念に喧嘩を売るような飾り気のない実用一点張りの大きな黒縁眼鏡も見た目の野暮ったさに拍車をかけていた。
だが、それでもなお、彼女には独特の魅力がある。
外見にこだわらないからこそ、その内面世界の深さが際立つというか……。
まあ、彼女に声をかける男子がそこまで理解してたかはわからない。
思春期の男というものは、人並み以上に見た目がいい女子がいればとりあえずお近づきになりたいと思いがちなものだ。
もっと直截的に言ってしまえば、早く彼女を作って友人に差をつけたい、一刻も早くセックスに及んで自慢したい、そんな強迫観念に駆られるお年頃なのだ。
高校生ともなると、その焦りは初体験のRTA(リアルタイムアタック)の様相すら呈してくる。
身も蓋もなく要約してしまえば、「どんな女でもいいからとにかくやりたい」ってことだよな。
それにしても……相手は選べよ、と思わなくもない。
彼女の趣味を聞き出そうとトライしても、「ショーペンハウエルがニーチェに与えた思想的な影響について考えてるの」などという答えがノータイムで返ってくるだけだ。
ほとんどすべての男子は、その時点で言葉の接穂を失い、「邪魔してごめんね」と退散する羽目になる。
そしてやはり、彼女は「何も謝られるようなことはされてないけど」と不審そうに首をかしげるのだ。
夏目紗雪というその風変わりな女子と俺の関係は……なんだろうな。
図書委員で一緒になることが多い先輩と後輩ってだけなんだが、周囲から見るとそうでもなかったらしい。
彼女と組まされた他の図書委員は軒並み重い沈黙に耐えきれず、彼女と同じ時間に入るのを避けるようになる。
そのせいで、俺が図書委員の当番に入るときには彼女と同じ時間になることが多かった。
俺はべつに読書家でもないし、望んで図書委員になったわけでもない。
当番のときは退屈をまぎらわせるために適当な本を開きながら、カウンターの中で彼女から少し離れたところに座っている。
返却に来る生徒たちは、夏目の「圧」に負けるのか、なぜか俺のほうにばかり持ってくる。
まあ、それはべつにかまわない。暇を持て余すくらいなら単調な返却手続きでもやることがあったほうが気が紛れるからな。
「……先輩は変わってますね」
ある日突然彼女に言われて、俺はおもわず後ろを振り返った。
「先輩の後ろには誰もいませんよ」
「そ、そうか」
俺は気まずく手元の本に目を戻す。
「あの。気にならないんですか?」
と言われて、俺は彼女の最初の発言をスルーしてしまったことに気がついた。
「あ、ごめん。無視するつもりはなかったんだ」
単に、沈黙に慣れきってしまったせいで、何も言わないほうが自然に思えてしまっただけだ。
この子とは無理に話さなくていいんだ、というのは、考えようによっては失礼な認識だったかもしれないよな。
「俺が変わってるって?」
「……みんな、私に仕事を押し付けられたと言って怒ります」
「利用者がこっちに来るんだからしょうがないだろ」
彼女が意図的に圧をかけて仕事を俺に押し付けてるわけじゃない。
彼女にとってこれが自然体なんだってことはしばらく見てればわかるからな。
接客のバイトならともかく、タダ働きの図書委員にまでスマイルゼロ円を求めるのはまちがってる。
「それでも、です。不公平だと思わないのですか?」
「俺としては暇が潰れて助かるくらいだ。図書館の本って、ずっと続けては読めないんだよな」
「ものによると思いますが。まあ、まさかここで漫画を広げるわけにもいきませんしね」
「司書の先生がうるさいからな」
本に隠してスマホで漫画を読んでた図書委員がこっぴどく叱られていたのを思い出す。
俺は、彼女が話しかけてきたことに動揺しながら、彼女の次の言葉を待ってみた。
が、彼女は数秒宙を見ていたかと思うと、何事もなかったかのように手元の本に目を戻してしまった。
ならもういいだろ、ということで、俺も手元の退屈な本に目を戻す。
夏目紗雪という後輩女子との交流は、そんなふうにいつもぶつぎりだった。
このとき話しかけてきた動機もよくわからん。
先輩に気を使って多少ともコミュニケーションを取ろうとしたのか、それとも単に思いついたことを口にしただけだったのか。
さっぱりわからない。
ただ、俺としても後輩の女子なんていう扱いに困る相手と積極的にコミュニケーションを取りたかったわけでもない。
彼女の重い沈黙は、無理に会話をしなくていいですよ、という一種の免罪符になっていた。
そんな、関係ともいえない関係の後輩が――ある日、手首にあざを作っていた。
だが、浅い関係の俺にそれを尋ねてみる勇気はない。
彼女がいじめを受けていることを知ったのは、他の場所でのことだ。
階段の裏で派手な感じの三年生の女子たちから殴る蹴るの暴行を受けているのを目撃してしまった。
しかも、その三年生の女子のリーダー恪には見覚えがある。
――
天性の苛烈な性格で、この高校の生徒はもちろん、教師すらも言いなりにしていると噂の女子生徒だ。
俺がその光景を見ていることに、氷室純恋は気づかなかった。
その取り巻きたちも気づかなかった。
だが、夏目紗雪は気がついた。
気がついて、直後に、気がつかなかったふりをした。
もし彼女が俺に気づいたことを氷室純恋に悟られれば、俺までもがいじめの標的にされかねない。
傍観するだけで助けに入るわけでもない俺を見て、失望することもなく、ただ巻き込むまいとする彼女。
強い、と思った。
それにくらべて、俺はなんと弱いのか。
実際、ここで割って入ったところで、氷室純恋はのらりくらりと言い逃れをするだけだ。
俺が割って入ったことで、かえってその後の状況が悪くなることだってありえる。
そういう諸々まで含めて解決してしまえるような話術だったり胆力だったり人間力だったりが俺に備わってるはずもない。
俺は喉に込み上げる苦いものを呑み込んで、その場を逃げるように立ち去った。
そして、帰り道の途中で嘔吐した。
夏目紗雪は俺に何も期待していない。
どうせ何もできないと思ってる。
いや、正しくそう認識している。
それでいて、俺に責はないと正しく判断し、俺を責めるつもりもない。
明日図書委員としてカウンターに並んで座ったら、いつも通りの重い沈黙を貫いてくれるのだろう。
――ただの男子高校生なんだからしょうがないですよね。そんな義理があるわけでもないですし。
彼女の声でそんな幻聴が聞こえてくる。
セリフ回しはそれっぽいが、彼女はそんな嫌みを口にすることすらないだろう。
俺の罪悪感が勝手に作り出した幻聴だ。
冷静に考えれば、俺に彼女を助ける義務なんてない。
彼女なら、助けが必要なら適切な相手に助けを求めることができるはずだ。
それをしないということは、現状を受け入れたほうが害が少ないと判断してるってことだろう。
氷室純恋は三年生だ。
長くとも一年後にはいなくなる。
気まぐれな性格のようだから、その前に飽きる可能性も高い。
そんなふうに思ってるのかもしれないな。
「でも、そうじゃないかもしれない……」
本人にあまり自覚はないようだが、夏目紗雪は相当に変わった女の子だ。
単に内気だったり、気弱だったりということなら、いじめる側もすぐに飽きる。
あるいは、周囲がそれとなくかばっていじめられないようにするかもしれない。
だが、彼女はああ見えて芯が強い。
その心の中に秘められた内面の強さ、深さは、彼女の髪のように真っ黒で底が知れない。
彼女のそういう折れない部分が、氷室純恋の嗜虐心を刺激するのではないか?
彼女の普段の対人関係からして、彼女をかばってくれる人も少ないだろう。
「……いや、夏目自身がかばわれることを拒むのか」
さっき俺を遠ざけたように、彼女はこの問題を一人で抱える気でいるのだ。
「恋愛感情……じゃないよな」
当時俺が異性として気になってたのは、同じクラスの女子の一人だ。
席が近くてたまにだが話す機会がある。
それだけで「この子は俺に気があるのかも!?」なんて勘違いするのもどうかと思うが、まあ、その子のことが恋愛的に気になってたのはまちがいない。
夏目紗雪は、同じ図書委員というだけの、ちょっと変わった後輩にすぎないのだ。
「それでも、あんな場面を見せられて『どうせ助けられないですよね』と言わんばかりなのは腹が立つな」
いじめが許せないという正義感ももちろんある。
ただ、それだけなら俺の仕事ではないはずだ。
保護者、教師、スクールカウンセラー、もっと関係性の近いクラスメイト……他に適任者はいくらでもいる。
なんとなくだが、彼女なら本当にのっぴきならなくなったら警察に訴えるくらいのアクションを起こしそうでもある。
氷室純恋がいじめに飽きるか、危険を感じた夏目紗雪が反撃に出るか。
時間が経てばおのずと結果が出るだろう。
だけど、
「このままじゃかっこ悪すぎだろ、俺」
自分が特別な人間だなんて思ってないが、なんの期待もされないのも腹が立つ。
――そんな勝手なむかつきからだ。
俺がダンジョンに潜ることになったのは。
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