59 スキルよりも大事なもの

 世界が凍りついていた。


 目の前にあった芹香の顔はその色味を失い、透明な薄紫の輪郭と化している。


 芹香だけじゃない。

 レストランも、新宿の夜景も。

 すべてが半透明の薄紫に染まっていた。


 そして、それらのすべてが停まっていた。


「なん、だ……!?」


 うろたえ、身構える俺。


 「索敵」や「気配探知」を使って周囲の気配を探ってみるが、なんの手応えも感じない。


「敵はいないな……」


 この場合の「敵」というのが何かはわからないが、ともあれ敵らしき反応はない。

 いや――違う。


「気配が、ひとつもない……!?」


 レストランの中に人の気配がまったくないばかりか――俺の隣にいる芹香の気配すら感じないのだ。


 まるで、俺だけが位相の異なる別の世界に迷い込んでしまったかのように――


「……って、別の世界? しかも、時間が停まって……?」


 俺はようやく、自分の身に起きたことがわかってきた。


 ……わかりたくなかったが、わかってしまった。



「まさか……これが、『逃げる』のスキルレベル2だっていうのか!?」



 俺はスマホを取り出しDGPを開く。



Skill─────────────────

S.Lv2「現実から逃げる」

使用条件:

(5-S.Lv)秒間、現実から逃れたいと強く念じ続ける。


特記事項:

「現実から逃げる」で入ることができる異空間では、自分の意思によって現実と異空間の時の流れの相対速度を変化させることができる。変化させられる幅は(0~S.Lv)倍まで。

元の現実に戻る意思を失った場合には、異空間から出ることができなくなる。

連続して使用するほどに元の現実に戻りたくなくなる。

────────────────────



「『現実から逃げる』……このタイミングでかよ!?」


 たしかに、芹香の(事実上の)告白に動揺して、反射的に「逃げたい」と思ってしまったことは否定できない。


 もちろん、芹香が嫌なんじゃない。


 大切だからこそ、うかつな返事はできないと思った。

 考える時間がほしいと思った。

 心の整理がしたいと思った。


 だが、それを身も蓋もなく表現すれば、この場から「逃げたい」という言葉にならなくもない。


「さ、最低だな、俺!?」


 芹香が勇気を奮って誘ってくれたのに、その答えが「逃げたい」だなんて!


「う、がああああっ! なんだよそれはぁぁっ!!!」


 恥ずかしさに悶え、情けなさに喚く。


 落ち着こうとワイングラスに手を伸ばすも、時間停止したワイングラスはテーブルに根を張ったように動かない。


「ま、待てよ? 結果的に落ち着いて考える時間ができたと思え――思えるかあああああっ!!!」


 芹香の気持ちに対し、スキルを使って時間を稼いで最適な答えを返します、なんてのは卑怯以外の何物でもない。

 それで最適な答えが導けるとしても、そんなことは絶対にしたくない。


「くそっ、すぐに戻る! すぐにだ!」


 俺はすぐさまスキルの解除方法を探すことにした。


 ……えっ? まさか、「現実では時間は止まってるはずですよね? せっかくスキルを発動できたのだから、その性能を確認してからのほうがいいんじゃないですか?」なんて言わないよな?


 そりゃ、探索者としての最適解はそうかもしれないが、人間としての最適解はそうじゃない。


 この空間で時間を止めて長考するのは反則だ。

 もし、戻った先で答えに窮することがあったとしても、その場で考えてできる限りの答えを返したい。

 それで恥をかいたとしても、ズルしてカッコつけるよりずっとマシだ。


「どうやったら戻れるんだよ!? ええい、俺は現実に戻るぞ!」


 俺がそう叫んだ直後、世界に色とざわめきが戻ってきた。


「あ、あれ?」


 芹香がいきなり自分の手の中から俺の手が消えたことに驚いている。


 ……しまった。元の体勢に戻るのを忘れてた。


 俺は自分の席に座り直す。


 さっきまではフリーズしてた俺だが、今はいくぶん冷静さを取り戻していた。


 「現実から逃げる」が発動したおかげで、結果的にこの状況から逃げない覚悟が固まった。

 なんとも皮肉なことだよな。


 ここで冷静になれただけでもちょっとずるいが、さすがにこれ以上はどうしようもない。


「芹香の気持ちは、とても嬉しいんだ」


 俺はそう言ってワインをあおる。


「その気持ちに応えたいと思ってるのは本当だ」


「う、うん……」


「でも、ほら、俺、探索者としてまだまだだからさ……芹香の隣に立っていけるか、正直まだ自信が持ててない。だから、応えたいけど、応えられないというか……」


「悠人はもっと自信を持っていいと思うけど。私が幼なじみだから言ってるんじゃないよ? 客観的に見て、それだけの実力を持ってるってこと」


「そうなんだろうな。実感がないけど」


 かといって、じゃあどうなったら自信が持てるのかというと、はっきり言ってよくわからない。


 Aランクダンジョンを攻略したら?

 ステータスでレベルランカーすら圧倒できるようになったら?

 もっと金が稼げるようになったら?


 どれも違うような気がするよな。

 物質的に成功して得た自信は、はたして本物の自信なんだろうか?

 すくなくとも、芹香の隣に立つために必要な自信は、そういうものじゃないはずだ。


 俺の顔を覗き込んでいた芹香は、ワインを一口飲んでから、おずおずと切り出した。


「怒らないで聞いてくれる?」

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