58 フリーズの果てに

 芹香が予約してたのは、ホテルの最上階にあるレストランだ。

 25階の一面ガラス張りの窓際席から見下ろす新宿の夜景を楽しみながら、高そうなコース料理とワインに舌鼓を打つ。


「おいしいね」


「ああ、うまいな」


 平日の夜だからか、客の姿はややまばらだ。

 俺と芹香が並んで座る席の周囲は空いている。


 俺は夜景を眺めながらぽつりとつぶやく。


「すごいよな、芹香は」


「え、なに、急に?」


「あ、いや。ダブルフラッドでエキチカダンジョンのフラッドを止めたのは芹香だろ。芹香がこの街を守ったんだなって」


「それは悠人もでしょ。光が丘公園ダンジョンのほうがむしろ危なかったかもしれないくらいだよ」


「俺は行きがかり上やるしかなかっただけだ。最初からそういう役目を背負ってたわけじゃない」


 俺が芹香の立場だったら重圧で潰れてしまうかもしれない。


「これからは悠人も助けてくれるんでしょ?」


「そうだな……。俺が手伝うことが、少しでも芹香の助けになればいいんだが」


「なるよ」


 と、芹香は断言する。

 ワイングラスに伸びかけてた俺の右手に、芹香の左手が重なった。


「……悠人がいてくれれば、私はどんなに大変でもがんばれる」


「芹香……」


 芹香の手は、アルコールのせいか、しっとり湿って温かい。

 少し赤らんだ目を、芹香が俺に向けてくる。


「実力の問題じゃないよ。ううん、もちろん、実力にも不足はないんだけど……それ以上に、悠人が一緒にいてくれるのが心強い」


 潤んだ瞳が、俺の目を覗き込む。


「……ね、悠人。じ、実は……その、ね」


「な、なんだよ」


「……部屋、取っちゃったんだ」


「えっ、部屋って?」


「この下の……」


「この下……」


「だからぁ、この下の…………ほ、ホテルの、部屋」


「…………」


「…………」


 俺の頭は――凍っていた。


 フリーズしていた。


 これがパソコンだったら、すかさずCtrl+Alt+Deleteを押してタスクマネージャを開いてる。


 そして、アプリのメモリ使用率が98%とかになってるのを確認し、「最近よく落ちるな」とかなんとかぼやきながら、アプリを強制終了してるだろう。


 だが、これは現実だ。


 ……いや、ほんとに現実か?


 デートなんていう未実装イベントがいきなり発生したかと思ったら、その日のうちにこれである。


 こんなことが本当に俺の人生に起こるのか?


「え、えっと……ほら、これ」


 芹香が照れ顔でハンドバッグから取り出したのは――ホテルの鍵だ。


「あ、あはは。はしたないよね。ふつう、男の人がやるもんだと思うんだけどさ……。で、でも、悠人にそんな甲斐性あるはずもないじゃん? ほ、ほのかちゃんとかはるかさんとか出てきて私も焦ったっていうか……ち、ちょっと、大胆にならなきゃいけないのかなって……」


 早口になって芹香が言う。

 俺の右手にかぶさった芹香の左手が熱を帯び、照れ隠しのように俺の手の甲を撫でている。


 が、俺の頭はなお真っ白。


 だって、なんて答えればいいんだよ?


 部屋に行こう、は直球すぎる。


 そんな行為にまで及んでしまったら、あとであれは勢いでしたなんて言い訳は通用しない。


 芹香のことは嫌いじゃない。

 むしろ、大事に思ってる。

 俺なんかのことをずっと待っててくれたんだからな。


 芹香は、俺にとって大切な存在だ。

 でもそれだけに、芹香の人生を半分背負う覚悟が決められない。

 俺の人生の半分を背負わせてしまう覚悟もな。


 そもそも、「部屋に行こう」の前に、「好きだ」の一言を囁くべきなんじゃないか?

 それが順序ってもんだよな?

 芹香が焦ってるのは本当だとしても、その焦りに乗じるようにして関係を深めてしまうのはどうなんだ?

 芹香が後になって後悔しないと言い切れるのか?


 芹香のことは……そうだ、俺は芹香のことが好きなんだ。

 明確に言葉にしたことはなかったが、ここまで来れば、逃げようもなくわかってしまう。


 これまでその気持ちに蓋をしてきたのは、どうせ叶うはずもない想いだし、万一叶ったとしても俺では芹香を幸せにできないと思ってたからだ。


 要は、自信がなかったんだ。


 だが、今の俺は探索者としてやっていけそうな目処が立ってきた。

 芹香も俺と同じく探索者だ。

 所属するギルドも同じ。

 芹香のステータスを見たことはないが、今の俺のステータスならそう見劣りはしないだろう。

 そういう外面だけを見るなら、俺は芹香と釣り合うかもしれないところまでは来れている。


 俺なんかを芹香のような魅力的な女性が好きになることはありえない――ずっとそう思い込んでいて、だからこそ自分の気持ちに正直になれずにいた。

 叶わないことがわかりきってるなら、余計な夢は見ないほうが傷つかずに済むからな。


 でも、それは俺の思い込みだったらしい。

 さすがの俺も、今日の芹香の様子を見てれば、「芹香って俺のことが好きなんじゃ」という淡い期待が、俺の自意識過剰なんかじゃないことくらいは実感できた。


 なら、芹香に芹香の望んでる言葉を告げて何が悪い?


 言おう。

 言いたい。


 だけど、怖い。


 だって、俺は元ひきこもりだぞ?

 その前には、いじめからかばった後輩の女子に自殺されたこともある。


 俺のような人間と一緒になることで、芹香は本当に幸せになれるのか?

 今俺に向けられてる芹香の好意は、いつまでも変わらないと言えるのか?

 遠からず俺に失望し、今夜のことを芹香は後悔することになるんじゃないか?


 俺に、この手を握り返す資格があるんだろうか?


 テーブルに、沈黙が降りる。


 言うなら、今しかない。

 このときを逃すわけにはいかない。

 そんなことくらいは俺にもわかるさ。


 だが、覚悟は全然固まってない。

 こんなことになるなんて、今朝の時点では思ってもみなかった。


 これが恋愛シミュレーションゲームなら、選択肢を前にセーブできる場面だろう。


 でも、これは現実だ。


 「好きだ」と告げるべきなのか。

 「部屋に行こう」と誘いに乗るべきなのか。

 流れに乗らず、芹香を尊重しながら日を改めるべきなのか。


 わからない。


 恋愛ごとの経験値がろくにない俺にはわからない。


 間違えられないというプレッシャーからか、俺の心に「逃げたい」という言葉がどこからともなく浮かんでくる。


 もちろん、この状況で逃げるなんてのは最低の選択肢だ。

 それだけは、ない。

 ただ反射的に、そういう言葉が浮かんだだけだ。


 だが、心の準備を整えたいという気持ちが俺の頭を塗り潰しているのもまた事実だった。


「……ね、ど、どうかな……?」


 俺の右手を握り、上目遣いに見つめてくる芹香。


 破壊力抜群のその表情に凍りつくこと、1、2、3秒。



 ……察しのいいやつは、そろそろ気づいたんじゃないだろうか?

 嫌な予感がしてるとしたら、たぶんそれが正解だ。



 きっかり3秒が経ったその瞬間。


 世界はカキン!と金属質な音を立てて凍りつき――俺は、異空間にいた。

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