第2話 鏡面
夜間の車の走行中に、車内灯をつけてはいけない。
つけると、車内から外へ向かう光量の方が勝り、外の様子が伺えなくなる。それはちょうど、夜に明かりをつけた部屋の窓から外を覗こうとするのと同じだ。窓には自分の顔が写りこむだろう。
それと同じだ。鏡のように、車内だけがフロントガラスに反射して自分の瞳に映りこむ。明かりを消さないと外は見えないのだ。
常に息苦しかった。
いつも誰かに見られているような気がしていた。そんなはずはない、自分のような人間をわざわざ人は観察したりはしない。そうわかっていた。
しかし、常に視線を感じていた。すれ違った人間、飲食店の店員、職場の同僚。全ての人間に見られていると思っていた。
きっと、自分のことを嘲笑っているのだろう。そして、嘲り、嘲笑し、意気揚々と私についてのことを話している。それは多分に、悪言の類だと思っていた。そう感じていた。そんなわけはない、そうに違いない。見られている。観察などされる価値もない。見捨てられている。それでもいい。
開放されたかった。
そんなことばかり考えていたからだろうか。ある日、幻覚を見た。実家に帰っているときのことだった。家の人間すら、自分の悪いところを論おうとしているように感じていた。
座敷から、服の入った大きな段ボール箱を運んでいた。大きな段ボール箱だったので、両手で持たなければならず、座敷の障子戸は閉められなかった。居間までダンボールを運んで、下ろした。座敷の障子をしめなければ、そう思って振り返った。
座敷に、それはいた。小さな子供のようだった。
戦慄した。真っ黒の眼窩、原色の体、不自然な存在だった。それが、座敷の障子戸に体を半分隠すようにして、こちらを見ていた。
怖くて堪らなかった。それは、確かに、こちらを見ていた。居間から座敷までの真っ直ぐな距離を隔てて、私とそれはまるで鏡面のように邂逅を果たした。
それ以来、その幻覚と向かい合った。誰よりもそれは確実に私を見てきた。私は狂ってしまったのだと思った。それは、ふと、気がつくと物陰からこちらを覗いている。真暗の瞳、瞳孔も、白目も何もない。黒いだけの目。くすんだ肌、原色に彩られた服。どれをとっても異常だった。細い腕も、怖かった。
見られ続けている。幻覚がそれを後押しした。悪夢のような日々のなか、それは発生した。
安アパートで禁止されているのに飼っていた猫だった。いつもは親しげにこちらを見つめる猫の視線が次第に私に寄せられなくなった。
いつもは餌を求めて私のことを見つめる猫、いや、この言い方は少し間違っている。猫は確かに私のことを呼んだ、にゃあ、と鳴いて、私の注意を惹いた。
しかし、餌をやる際や、頭をなぜたりしても、目線だけは合わされなかった。
そのうちに、そのほかでも同じような現象が起こった。アパートの大家が目をあわさなくなった。家賃を手渡す際もこちらの目線を合わせることはなかった。店で買い物をしても、目を合わされることがない。それらは急激に起こったわけではない。
ゆっくりゆっくりと腐敗するように、じわじわと起こった。
会社の同僚も、誰もかもが目を合わせなくなった。そして、いつしか幻覚は消えていた。本当に狂ってしまったのだ。そう思った私は医者にも行った。医者はカルテに何か書き込みながら答える。
「どうでしょうか、見られることが辛いという貴方の深層心理がそのように周りを認識しているのだと思われます。休養をとってはどうでしょうか?体と心を休ませることです。何より、自分を大切にしてくれる人間と時間を過ごしなさい。」
彼の目は、私を見てはいなかった。目玉はこちらを向いているかもしれない。しかし、それは私の眼と向き合ってはいない。見つめあった視線同士というものは、確かに感覚として理解できる。それがなくなった。
私は次第に気が楽になっていた。よく考えればこれで誰にも見られずにすむのだ。そうすれば私は解放状態でいられる。
誰とも向き合うことない。そう思っていた。
しかし、世界は悪いほうへと転がりたがるものだ。あるとき、上司が私を叱った。こっちを見ろ、そういった。最近の君はどうしたんだ、私の眼をみて話せ。彼に視線を合わせると、彼はやはり私と目線をあわせようとはしなかった。
そういったことが増えた。友達には「最近、お前ってなんかどこをみているのかわからないよ」そういった。しかしそれでも私はどうしようもなかった。私自身は快適だった。こちらから目を合わせようとしても避けられているのだ、私にはどうしようもなかった。
ある日、会社のトイレの洗面台の前で、同じ部署の同僚と話をした。鏡のなかの彼と私は、絶対に視線を交じらせることはなかった。彼が手櫛で髪を整える。彼の整髪剤を借りていいか、そう尋ねると、鏡の中の彼はやはり視線を合わせずに返事をした。鏡越し、鏡面の向こう、通信回線の向こう。写真や映像などを除いて、生きた人間との視線の交流は存在しなくなった。
そんな生活をしていると、合コンに誘われた。何とはなしに参加した。私はその席で会社の同僚であるサチコさんと遭遇した。まったくの偶然、お互いに別の付き合いのなかから合コンに誘われていた。彼女は酒を飲むと楽しそうに話した。彼女に心ひかれた。目線を、視線を合わされないからといって何だというのだろうか。
帰りに、彼女を送っていった。車で二人っきりというシチュエーションのなか、彼女はやはり視線を合わせたりしなかった。少しさびしく思う。恋心を寄せている相手からも見てもらえないというのは、ひどく哀しいことなのである。
「ついたよ。」
私がそういうと、彼女はちょっともじもじしてから、顔を赤くして言った。
「あ……あの、ずっと、…スキでした。」
突然の告白だった。返事の代わりにキスをした。交際が始まった。
清く健全な交際、そんな言葉は私の年齢になると忘れられる。しかし、それがやはり辛い。ベッドの中だろうが、キスの最中だろうが、彼女は私をみることはないのだ。
私の心の中にあったあの見られている感覚は、誰にも見られないことと交換されてしまったのかもしれない。私は考える。それは、どれだけ辛いことなのだろうか。
恋人や、肉親すら私を見ない。このままでは母や父などが死んだ際にも、視線を交じあわすことがないのだ。それは寂しすぎる。次第に今の状況を悲しむように、私はなった。将来子供が出来ても、子供と私は向き合うことが出来ない、視線はすれ違ってしまう。
やがて私は悲しむようになった。仕事もほとんど手につかなくなった。誰かに見て欲しい。私はここにいるのだ。
それを、誰かに知って欲しかった。いや、見て欲しかった。私の眼を見てくれ、私は眼を持っているのだ。それらの言葉にどれだけの意味があろうか。
わがままなのはわかっている。当たり前が欲しかった。
私は寝るために布団を敷いた。窓のカーテンは閉めなかった。朝日が入らないと目を覚ますことが出来ないからだ。窓の直ぐ傍に布団を敷いて、外を眺めようとした。しかしそこには自分のやつれた顔しか映らなかった。部屋の中が明るすぎるのだ。
電灯からぶら下がる紐を引っ張った。
部屋の中が暗くなり、外の景色が窓から見える。
そこに、それはいた。
窓の直ぐ傍に立ち、真っ黒の眼でこちらを見ていた。暗い眼窩、原色、腕。
暗闇のなか、窓の開く音がした。
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