第9話
仕事に励み順調に経験を積み重ねた先で勧められたのは結婚だった。守るものができれば視野も広がるとのことだったがまったくもって理解できなかった。
「クラウス、お前にもいつか見つかる」
機会がないわけではなかった。
でもそのたびにじっとりと張り付くような下心が透けて見えて気持ちが悪くどうにもできなかった。
そんな折に上官から呼び出され新たに仕事を任せられた。
「お前には今日からトリシア様の警護についてもらう」
トリシア様といえば現国王の娘で第三女だ。どうしてわたしがとは思ったがこれも仕事なのだから仕方がないと頭を切り替える。なんでも手を焼いているらしく男手が必要とのことだった。
上官からの指示を受けたその足で指定されたトリシア様の王宮へと向かうと女性が待っていた。
「助かります。デクスターがいなくなるので私たちだけでは厳しくて」
「……デクスター?」
「トリシア様専属の面倒を見ている方ですよ」
「なんでも上からの指示で移動が決まったらしいです。せっかくトリシア様も懐かれていらしたのに」
案内されてやってきたのは王宮の廊下をえらい長いこと歩いた先の部屋の前だった。
その前には使用人らしき人々が集まり中をのぞいていた。
「どうしたのです」前を歩いていた女性が訊ねる。
「それが……、デクスターさんが今日辞めることを知らなかったみたいで……」
開いた扉の奥からは幼い少女の咽び泣く声が聞こえる。
「デクスターの嘘つき!」
「トリシア様おやめください」
トリシア様は手を握り締め肩で息をして目から涙をぼろぼろとこぼしていた。
部屋の中に立ち尽くす少女の周りにはあらゆるものが散乱し足の踏み場がなくなっていた。
女性に促され中に入っていきデクスターらしき人物に声をかけ紹介を受ける。
「トリシア様、こちらは私の後任の方です」
「トリシア様、本日から護衛を務めさせていただきます。クラウス・ラグドール=ジルと申します。クラウスとお呼びください」できるだけ穏和な声を絞り出す。
「あんたなんていらない!」
「トリシア様」デクスターがぴしゃりと嗜める。
「なによ、デクスター、あなただってやめるくせに」
「トリシア様」
「もう知らない。デクスターなんて嫌い、大っ嫌い!」
「はいはいわかりました、わかりましたから物を投げるのはおやめください。あなたが怪我をされたら困ります」
「うるさい! もうデクスターには関係ないじゃない、出てって! 出てってよ!」
乱暴に扉は閉められた。
「油を売っている暇はないはずですよ、はやく戻りなさい」
先程の女性の声で使用人らしき人たちは各々の持ち場へと戻っていく。
「トリシア様もいつかわかってくださるわ」と声をかけてその女性も行ってしまった。
申し訳ありません、私でどうにかできればと思ったのですが。とデクスターはため息を吐いた。
「私がトリシア様の専属をやめることになり不安定になったんでしょう。癇癪も部屋にこもり少しすれば落ち着くと思いますが」
「そうですか」
初日からこれではこの先やっていけるのか心配だ。子供なんて相手にしたこともない。
「これを使ってください」
それは手帳だった。
「これは?」
「トリシア様への接し方が書かれています。少し不安定ですがトリシア様の場合、人への接し方がわからないのでしょう。だから少し時間はかかるかもしれませんがどうかあの方のそばにいてあげてください」
ページをめくると事細かに書かれている。
それには明らかにトリシア様への愛情のようなものが読み取れた。
「あんたじゃ駄目なのか?」
まずいことを口走ったと口を覆った。
取り繕おうとしたが「私では駄目みたいです」と彼は悲しげな顔で笑うだけだった。
「トリシア様をよろしくお願いします」
深々と頭を下げてから踵を返すと行ってしまった。その背中はしゃんとしているはずなのにまるで泣いているように見えた。
彼に手渡されたあの手帳は彼女と接する上で大いに役にたった。
例えばご飯を食べない時、勉強をしない時、夜眠れない時、機嫌が悪い時。この手帳を開くとそこには事細かな対処法が記入してある。幾重にも更新されて書き込まれトリシア様との戦歴を感じた。おそらくとても苦労したんだろう。
デクスターはもともと王宮勤を経てトリシア様の専属になったと聞いた。二年もの間共に過ごされていく中で仕事も真面目に取り組み周りからの信頼もありトリシア様も懐かれていた。それが解任された理由としては未だ不明だ。
デクスター程ではないだろうがトリシア様の専属の世話係に就いて数週間経ち最初よりはだいぶ距離が近づいたのではないかと思う。
わたしの役目としては一日のほとんどをトリシア様と過ごすことにある。トリシア様が起床されて就寝される間ずっとだ。
部屋の扉をノックして声をかける。
「トリシア様。クラウスです」
返事はない。
朝が弱く返事がないのはいつものことだった。
「失礼いたします」
扉を開けて中に入ると一直線に窓辺に向かいカーテンを引き部屋の中へ朝の光を取り込んで窓を開けていく。
「トリシア様」
声をかけてみるも一向に起きる気配はなく枕元ものぞきこむとうつ伏せに寝たトリシア様が、いない。
シーツを剥がしてみるが、やはりいない。
ベットと枕にはまだ温もりがあった。
バスルームやクローゼットやテラスも確認してみたがいない。
胸ポケットから手帳を取り出しページをめくる。
以前読み込んだ際に確かこの対処法も載っていた覚えがある。
『部屋からいなくなった場合庭園にいる。なにか悩みがある可能性が高くトリシア様と話し庭園を散策。帰りに厨房に寄りパンケーキを食べる。甘いものがお好き』
確か庭園はこの部屋からも見えたはずだ。
テラスから見渡すと、いた。
栗毛の少女が芝生の上に座り込んでいる。
胸を撫で下ろし部屋を出て厨房によりバスケットとブランケットを幾つか持って庭園へ向かう。
「トリシア様」
声をかけると振り返ったトリシア様のぱああぁと光り輝いた顔がしぼんだ。
「デク、……クラウス」
そばによりトリシア様にブランケットをかけてもう一枚のブランケットは敷いてトリシア様に座ってもらう。バスケットからポットとカップを取り出して中身を注いでいく。
「今日は天気も良いですしこちらで朝食にいたしましょう。どうぞミルクティーです」
「……あったかい」
「本日はわたしの作った朝食です。お口に合えば良いのですが」
有り合わせの食材をパンに挟んだものでトリシア様に出すにはあまり見慣れないのか目を輝かせていた。
「クラウスは料理も上手なのね」
「お褒めいただき光栄です」
「せっかくだからクラウスも一緒に食べましょう?」
「いいえ、わたしは」「これは命令よクラウス」
「……かしこまりました」
「ねえ、クラウス」
「なんでしょう」
「どうして王宮から出てはいけないの?」
「危険だからですよ」
「絶対駄目?」
どうしてそんなことを。
「なにかあるんですか?」
「……べつになんにもないわ」
視線を逸らして器に乗った食後のアイスにスプーンをザクザクと刺しながら答えている。それは彼女がなにかをためらっている時の仕草だった。
「トリシア様。もし思うことがあるなら口にしてください。私はあなたがなにを口にされたとしても驚きません」
「本当に?」
「はい」
「……デクスターに、会いたいの」
絞り出すような声が耳に届く。
「一度だけ。遠くから見るだけでいいの。どうしてるかなって、見るだけでいいの。だから……」
絞り出した声はだんだんと小さくなりついには俯いてしまった。
「わかりました。行きましょう」
「……いいの?」
「はい。いつ行くか決めていますか?」
「デクスターがどこに住んでるか、知らなくて」
「わかりました。お調べいたしましょう。そうですね数日お時間をいただきますが」
「日数は気にしなくていいわ。ありがとうクラウス」
今まで見たことがない程にトリシア様はとても嬉しそうに笑った。
聞き込みをしてまわったところ彼は王宮の仕事も辞めて街で暮らしていることがわかった。どうやら彼は武術を師事して生活をしているらしく子供たちに稽古をつけているとのことだった。
トリシア様に報告する間彼女は淡々と聞いていた。
「報告は以上になります」
「そう」どこか寂しそうな相槌だった。
「今日はいかがですか?この時間ですとおそらく稽古をつけているかと」
「今日は無理よ、心の準備ができていないわ」
「思い立った時に行動しなければ次が来ることさえなくなるかもしれませんよ」
「それは嫌!」
「でしたら今日参りましょう」
「……でも」
なかなか踏み切らないトリシア様に発破をかける。
「そうですねぇ、もしかしたら彼のいつもとはちがった姿を見られるかもしれませんよ」
「ちがった姿?」
「はい」
「トリシア様はデクスターの剣を振るっている姿を見たくはありませんか?」
「立ちなさい。こんなことでへばっていては国を守れませんよ」
地面に倒れた青年の首元に剣先が向けられる。
街の外れの住まいのとなりではデクスターと青年が剣を交えて稽古に励んでいた。
「少し休憩にしましょう」
へたり込んだ青年に手を差し出していた。
それからまた稽古を始める。
それを数回繰り返した頃。
「もう、じゅうぶんだわ」とトリシア様が声を上げた。
「帰りたい」
ふと疑問に思ったことを聞いてみる。
「会われなくてもいいんですか?」
「……デクスターに酷いことを言ったから会いたくない」
酷い事。
逡巡して思いついたのは彼女の警護に就いた日のことだった。
あれを気にしていたのか。
「そうですか」
ここまで来て会えないのは辛いのではないか。少しだけ考えて行動に移すことにした。
「馬車を回してきますのでここで待っていてください」
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