3-11.マスターの事情

 ヨハンさんと共に王宮内の奥へと進む。

 ルザリガンドの王宮内にもあまり足を踏み入れた事はないのだけど、エストラーダの王宮内は何だか物々しい雰囲気で満ちていた。


 緊張しているのか呼吸が浅くなるのを自覚したわたしは、意識してゆっくりと息を吐き出した。

 それに気付いたノアが窺うように顔を覗き込んでくる。


「大丈夫か?」

「ええ。ちょっと……緊張しているみたい」


 小さな声でそう答えると、宥めるように肩がぽんと叩かれる。その温もりにほっとしながら、静かな廊下を進んでいった。



 ヨハンさんが足を止めたのは、大きな扉の前だった。焦げ茶色の重厚な扉は金細工で飾られている。扉の前には兵士が一人立っていて、ヨハンさんを見て一礼をした。


「リガス殿下への客人をお連れしました」

「伺っております。少々お待ちください」


 兵士が扉をノックしてから、薄く開く。

 話が聞こえていたのか、中からは「通してくれ」と低い声が聞こえた。


 その声に、わたしは隣に立つノアを見上げた。ノアもわたしを見て、嬉しそうに表情を和らげている。間違いない、マスターの声だ。


 扉が大きく開かれて、中に入るよう促される。足を一歩踏み出そうとしたところで、動こうとしないヨハンさんに気が付いた。


「僕はジェイド様の元に戻ります。どうぞごゆっくり」

「ありがとうございます、ヨハンさん」


 にっこりと笑ったヨハンさんは、軽く手を振ってから来た道を戻っていく。

 その背中を少しだけ見送って、わたしとノアはお部屋の中へと足を踏み入れた。


 暖かな部屋には大きな執務机がある。そこに座っていたのは、短く整えた銀髪と薄いオレンジ色の瞳をした男の人。

 わたし達を見てほっと表情を和らげたその人は、間違いなくマスターだった。


「マスター!」


 思わずわたし達は駆け寄ってしまったのだけど、先に気付いたのはノアだった。わたしの腕をぐっと掴んだノアの表情は、少し固い。


「……リガス殿下にご挨拶を──」

「やめてほしい。いま、この位置に戻っているのも不本意なんだ。俺はただの食事処のマスターだ」


 苦笑いしたマスターがノアの挨拶を止めて、立ち上がる。

 執務机の近くに誂えられた応接セットを手で示されて、わたし達は並んでソファーに腰を下ろした。


 マスターも向かい合うソファーへ座る。


「来てくれてありがとう。エマは元気にしているだろうか」

「エマさんは……」


 エマさんがどんな状況なのか、伝えてもいいのだろうかと一瞬悩んでしまった。心配させるだけかもしれないけれど、でも……嘘をついたって意味がない。


「窶れてしまっていたわ。マスターからの連絡がなくて、憔悴してた」

「……そうか」

「マスターはエマさんに手紙を出したりしていたんじゃないのか? 今のエマさんを放置しておくような人には思えないんだ」

「ああ、手紙を送っていた。トラブルがあってまだ帰れないという事も、伝えたかったんだが……そうか、届いていなかったか」


 難しい顔をして考え込むマスターに、何だか胸が痛くなる。

 マスターもエマさんも想い合っているのに、お互いを大事に思っているのに、それを阻む何かがあったという事が苦しいのだ。


「エマさんからお手紙を預かっているの」


 バッグからお手紙を取り出して差し出すと、マスターは「ありがとう」と受け取ってからすぐに封を切った。

 紙をめくる音だけが静かな部屋に響く。手紙を読むマスターの眼差しは、あまりりす亭でエマさんに向けられるのと同じで、温かなものだった。


 それだけで、あまりりす亭を思い出してしまって……何だか泣けてしまいそうだった。


「……エマはアリシアの実家にいるんだな。エマを支えてくれてありがとう」

「ううん、気にしないで。うちの家族は世話を焼くのが好きというか……お節介ともいうんだけど」

「いーや。ブルーム家は面倒見がいいんだよ。温かい家だろ」

「ふふ、ありがとう」


 ノアの言葉に嬉しくなってしまう。自慢の家族だから、そう言って貰えるとやっぱり嬉しいのだ。

 

「それで……マスターはまだ帰れないのか?」

「ああ。少し、その事について話をさせて欲しい」


 そう言ってマスターは立ち上がる。

 部屋の端に用意されているティーワゴンに向かい、お茶の準備をしてくれるようだ。


 そんな事をして貰うのも申し訳なくて立ち上がると、「座ってくれ」と言われてしまう。

 慣れた様子でお茶の支度をするマスターを見ていると、そこがあまりりす亭なのかと勘違いしてしまいそうなった。


 いつも見ていた姿だから、そこにエマさんがいない事がひどく寂しい。

 それはノアも同じだったようで、またソファーに腰を落ち着けたわたしの肩をそっと抱き寄せた。


「……あまりりす亭と一緒だな」

「ええ、でも……寂しいわ」

「そうだな」


 とても静かだった。

 茶器が触れ合う音、ポットにお湯が満たされる籠った水音。時折暖炉の薪が爆ぜて高い音が聞こえる。

  

 少しの時間が経ち、三人分のカップをトレイに載せて、マスターが戻ってくる。

 テーブルに用意されたカップとソーサーを持ち、綺麗な琥珀色をした紅茶を一口いただいた。


 ふわりと香る柑橘系の香り。

 爽やかな苦味が口の中いっぱいに広がっていく。


「美味しい……」

「紅茶を淹れるくらいしか自分で出来なくてな。思いっきり料理がしたいよ」

「俺もマスターの作った料理が食いたい」

「お酒もね。冬になるとホットのロゼワインが飲みたくなるの」

「ああ、アリシアは気に入ってよく飲んでいたな」


 あまりりす亭には思い出がたくさんあるのだ。

 美味しいご飯も、大好きなお酒も。

 あの場所はわたし達の日常の、一つだった。


 カップをテーブルに戻したマスターが居住まいを正す。

 まだ帰る事の出来ない事情について触れるのだろう。そう思ってわたしとノアもカップを置いた。


「俺がこの国に来たのは、エマが妊娠したからなんだ。俺は王籍を離れているが、王位継承権については曖昧なままになっていた。これは兄の元に子どもが一人だというのも関係しているんだが。……だがエマが妊娠した事で、このままにしておけないと思った。俺が王位継承権を正式に返上しなければ、俺の子にもそれが受け継がれてしまうからな」


 直系王族の継承権を、国として残しておきたかったのだろう。

 国としての事情は理解できる。でも、マスターに子どもが出来た今は、それが火種になる可能性もあるのか。


「その手続きの為に来て、俺はすぐにルガリザンドに戻るつもりだったんだ。だが……兄が病に倒れた」


 強い風が吹いて、窓が揺れる。

 先程までよりも天気が悪くなっているようだ。窓向こうの木々が大きく揺れているのが見える。風に巻き上げられた雪が遠くの景色を霞ませていた。


***

このお話で100話目となりました!

いつも応援ありがとうございます。これからも頑張ります!

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