3-8.幼馴染
今日の空は薄曇り。遠くの山に掛かる雲は厚く霞んでいて、きっと向こうでは雪が降っているのだろう。
夜の間に少しだけ積もった雪がブーツを濡らす。滑って転ばないように気をつけようと思うけれど……わたしの手はノアと繋がれているから、転ぶ心配はなさそうだ。
ヨハンさんが訪ねてきてくれたのは昨夜のこと。
動きがあるまで待たなくてはならないし、まだエマさんに報告出来るような成果もない。今の状況だけで連絡をしてしまうと、ただ不安を煽ってしまうだけだろう。
ノアと相談して、マスターに会えてから連絡をする事にした。
マスターがお返事を書いてくれたら、ブルーム商会の荷積みの便に載せてもらって、エマさんの元に届くようになっている。普通の郵便よりも早く届くから、商会の支店を頼るように父からは言われている。
ということで、わたし達は待機という事になる。
気持ちは急いてしまうけれど、今のわたし達に出来る事はないのだから、ヨハンさんから連絡が来るまでは、旅行計画の通りに動く事にした。
という事で、今日のわたし達の目的地は──とある文豪の生まれた家。
「広場には銅像が建ってるらしいし、帰りにそっちにも寄ってこうぜ」
「それって露店が並んでるっていう広場? お話所縁のお土産が売られているって聞いたんだけど」
「たぶんそう。色々見てみたいな」
エストラーダで生まれた児童文学の巨匠、ロサ・イブリット。
優しくて、希望に溢れるお話を書く作家だ。お屋敷の図書室にも彼のお話は全て揃っているくらいに大好きで、時折読み返しては勇気を貰えるような気がしている。
没してもう二十年程になり、彼の生まれ育った家は今では観光地として公開されているのだ。彼のお話によく出てくる、屋根裏部屋の天窓からの景色も見られるそうだから、それを楽しみにしていた。
「ノアはイブリットの本は読んでいた?」
「大人になってからだな。お前の持ってきた本で初めて触れた話も多い」
「そうだったのね。これから行く家は、【隠れ家の妖精】ってお話の舞台とされているのよ。楽しみだわ」
繋いでいるノアの手を揺らしながら言葉を紡ぐと、ノアが可笑しそうに肩を揺らす。
はしゃぎすぎてしまっただろうか。少し恥ずかしくなって、マフラーに口元を埋めたわたしの顔をノアは覗き込んでくる。
「……浮かれ過ぎた、かも。恥ずかしいわ」
「どうして。可愛いのに」
「子どもっぽかったでしょ」
「好きなものを教えてくれて、俺は嬉しいけどな」
「お喋りで面倒にならない?」
「ならねぇよ。だからこれからも、遠慮なんてしないで色々教えて欲しい」
「……ノアもよ? あんたの事、もっと沢山知りたいから」
好きなものも嫌いなものも、それがわたしと意見の違うものだって。
ノアの事なら何だって知りたいと思ってしまうのだ。
そんな事を考えながら、ノアの肩にそっと頭を寄せてみる。
応えるようにノアが繋いだ手に力を込めた。目を上げると、わたしを見る夕星と視線が絡まった。
いつもの前髪を下ろした姿で、眼鏡姿。それでもその奥の眼差しがわたしへの想いを映しているようで、また鼓動が大きく跳ねた。
「……アリシア?」
不意に、名前を呼ばれた。
探るようなその声の主へと顔を向ける。そこに立っていたのは、濃紺の長髪をうなじ辺りで一つに結んだ男性だった。
驚きに丸くなっている瞳は、柔らかな茶色をしている。
隣に立つノアが警戒するように、わたしの前に一歩出たのが分かった。でも大丈夫。わたしはこの人を知っている。
「もしかして、エミル?」
「やっぱりアリシアだった。どうしてここに?」
「旅行にきたの。エミルは……そうだった。あなた、このエストラーダの出身だものね」
彼はエミル・ヴェヒター。わたしだけでなく、兄や姉とも親交のある幼馴染である。
「何年ぶりだろう……七年くらい経つか?」
「そのくらいかも。よくわたしだって分かったわね」
「分かるよ、アリシアの事なら」
そう言って穏やかに笑うエミルは、昔と何も変わらない。
わたしより二つ年上の彼は、わたしのもう一人の兄のようだった。
「ノア、紹介するわね。彼はエミル・ヴェヒター。わたしの幼馴染なの」
ノアにエミルを紹介すると、ノアは胸に手を当てて会釈をした。騎士の時にしているような表情をしているから、何だか不思議な感じがする。
「エミル、こちらはジョエル・アインハルト。わたしの夫よ」
夫婦になって時間が経ってはいるけれど、まだ彼を夫というのにドキドキしてしまう。少し擽ったくて、幸せな気持ちで胸がいっぱいになってしまうのだ。
「……夫? そう、か。結婚したのか。おめでとう、アリシア」
「ありがとう。エミルは文官になったって、兄様から聞いたわ」
「うん、今は外務担当の部署にいるんだ。今年はルガリザンドに行けるかなと思ってたんだけど……」
「あら、来たらいいじゃない。兄さん達も喜ぶわ」
「その時は連絡するよ。まだしばらくこの国にいるのか?」
「もうしばらくは」
「じゃあまた会えるかもしれないな。……アインハルト殿、アリシアをよろしくお願いします」
エミルは穏やかな笑みのまま、ノアに向かって笑いかける。そんなエミルにノアは一つ頷いた。口端には薄く笑みが乗っている。
「ええ、彼女は私の唯一で、大切な人ですから」
繋いだままの手にぎゅっと力が籠もる。
くん、とその手が引かれたから、それを目で追いかけると、わたしを見下ろすノアと目があった。その瞳には熱が籠っている。蕩けるような微笑みに、顔が赤くなってしまったのが自分でも分かった。
「……では、また」
「あ、うん。エミルもお仕事頑張ってね」
笑って手を振ったエミルが、人の波に姿を消す。
それを見ながら懐かしい気持ちに浸っていると、また繋いだ手を引かれた。
どうしたのと問うより早く、ノアは繋いだ手を口に寄せてわたしの指先に口付けをした。
「ノ、ノア?」
「……幼馴染ねぇ」
「そう、だけど。え? どうしたの?」
何だか怒っているようにも見える。さっきまでは蕩けるような視線を向けてくれていたのに、その温度差に戸惑ってしまった。
「……言っておくけど怒ってはねぇ」
「でも機嫌が悪そうだわ」
「機嫌は、まぁ。……ちょっとそこの店に入ろうぜ」
わたしの返事を待たず、ノアが近くのカフェへと足を進める。手を繋いでいるしついていくしかないのだけど、一体どうしたというのか。
「ノア?」
戸惑いを隠せずに呼びかけると、ノアは繋いでいるのとは逆の手で自分の口元を覆い隠す。繋いだ手が熱を持っているように熱い。
「お前が悪いわけじゃない。ただ、ちょっと……妬いただけで」
「妬い、た……?」
予想外の言葉に目を丸くしてしまった。
だってエミルとの間には何もないし、今だってヤキモチに繋がるようなやりとりなんてなかったはずだ。
「妬くに決まってんだろ。ほら、入るぞ」
手を引かれて入ったお店は、甘い焼き菓子の匂いがした。
最初の目的地とは違うけれど、甘いものを楽しむ日にしてもいいのかもしれない。
わたしの大切な人がヤキモチを妬いたというのだから、何でもないよと伝えなくちゃいけないもの。そっちの方が大事なのだ。
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