3-7.ワインとクネル
「乾杯」
軽く掲げたグラスを口元に寄せると、フルーティーな果実の香りが鼻を擽る。淡い金色がテーブルを飾るキャンドルの明かりを映して揺れた。
ディナーに選んだレストランは、適度な賑わいが心地よい空間だった。地元の人にも観光客にも人気らしく満席で、昼の間に予約をしておかなければ席には着けなかっただろうと思う。
白ワインを一口飲むと、思ったよりも口当たりが重く、キンとした芯のある味わいだった。舌に乗せると硬さを感じて、甘さは控えめ。余韻が長く残るようなワインは、エストラーダ南西部特有のものだという。
「美味しい。すごくしっかりとしたワインね」
「ああ、飲みごたえがあるな」
いつも飲んでいるものとは違うけれど、これも美味しい。
違うものを楽しめるのも、旅行の醍醐味だ。帰国したら飲めないわけじゃないけれど、旅行先で口にしたものは、やっぱり特別感が強いのだ。
薄くスライスされたサラミを一枚つまむ。塩気の強いサラミにはピスタチオが練り込まれていて香りがいい。辛口のワインによく合うおつまみだった。
ワインを楽しんでいると運ばれてきたのは、王都の名物でもあるクネルだ。
パンパンにふくれて、まるでスフレのように見える円筒形のものは白身魚をすり身にしたものらしい。
掛けられているのは海老のソース。濃いオレンジ色のソースはお皿の端の方で少し焦げていて、なんとも食欲をそそる香りを漂わせていた。
「熱いから気をつけろよ」
「分かってる。でも──」
「美味しいものは美味しいうちに、だろ?」
「そう。よく分かってるじゃない」
「それでよく口の中を火傷しているのも分かってるけどな」
くつくつと可笑しそうに低く笑うノアに向けて、大袈裟に肩を竦めて見せた。
火傷する事だってあるけれど、それでも熱いうちに食べた方が美味しいものだって沢山あるのだ。出来るなら一番美味しい時に食べたいと思うから、多少の火傷くらい我慢する価値はあると思う。
「そういうわたしの事も、可愛くて好きなのよね?」
「違いねぇ。けど、キスした時に痛がるからな」
「それは……まぁ、申し訳ないとは思うけれど……」
揶揄うつもりが、揶揄い返されてしまった。
顔に熱が集まる事を自覚したわたしは、カトラリーを手にしてクネルと向き合う事にした。これ以上揶揄ったら、ダメージを負うのはわたしの方だもの。
店員さんが持ってきてくれたときより、膨らみは少ししぼんでしまったように見える。
それでもふかふかしていのは見るだけで分かる。
真ん中にナイフを入れてみると、さっくりとした感覚が伝わってくる。湯気が溢れるのと引き換えに、ふっくらしていたすり身は一気にしぼんでしまった。
一口サイズに切り分けたすり身に、たっぷりと海老のソースを絡めてから口に運ぶ。
口に入れた瞬間、海老の強い香りが鼻から抜けていった。コクのあるソースがとっても美味しい。噛む度にお魚の旨味が溢れてくる。
「美味い」
「ええ、とっても。ふわふわの食感が軽くて食べやすいわ」
「ソースが濃厚だから、淡白なすり身によく合うよな。他の店のソースも食ってみたい」
「いいわね。色んなお店に行きましょう」
すり身自体がシンプルだからこその楽しみ方だ。
かといってすり身に味がないわけではなく、ほんのりと甘くてこれだけでも充分美味しい。
またワインを一口飲む。
キリっとした硬さのある味わいだから、口の中をさっぱりと洗い流してくれるようだった。ワイン単体で楽しむよりも、お料理と合わせると更に美味しい。
「……この国のお料理にすっかりハマってしまいそうだわ」
「悪いことじゃねぇだろ? 好きなものが増えるのはいい事だ」
「そうだけど。……お屋敷でも作ってくれるかしら」
「お前が食べたいって言ったら、うちのシェフだって何でも作ってくれるさ。それにあまりりす亭が再開したら、きっとマスターも作ってくれる」
「ふふ、マスターだったらどんなソースを合わせてくれるかしら」
「楽しみだな」
朗らかで優しいエマさんと、物静かだけど気遣ってくれるマスター。
そんな二人が迎えてくれるあまりりす亭が、恋しい。胸の奥がぎゅっと詰まっているかのように苦しくて、何だか泣けてしまいそう。
そんなわたしの様子に気付いたように、テーブルの上でノアがわたしの手に触れた。
手の甲を包むようにぎゅっと握ってから、親指がするりと肌を撫でる。
その温もりに救われているって、ノアは知っているのだろうか。
わたしが今もノアに恋をしている事も。
***
お腹もいっぱいになったわたし達は、宿への道を歩いていた。
色の違う石を使って石畳の道に描かれているのはアネモネの花。可愛い赤色を踏むのは憚られて、ひょいと飛び越えてみる。
「転ぶなよ」
「助けてくれるって知っているもの」
「信用されているのは嬉しいけどな」
ふふ、と笑うわたしの吐息も酒精が濃い。
少し飲み過ぎてしまったかもしれないけれど、楽しいのだから仕方がない。
そんな風に少し浮かれているわたしの手は、ノアがしっかりと握ってくれている。
もう少しで宿に着く──そんな時だった。
道の向こうから歩いてきた人が、わたし達を見て大きく手を振っている。遠くからでも分かるその人は、ヨハンさんだった。
「こんばんは。お会い出来て良かったです」
「ヨハンさん、こんばんは。もしかして待たせてしまいました?」
「いえ、今来たところです。留守だったら手紙を残していこうと思っていたので、お気になさらず」
にこにこと笑うヨハンさんは、夜も遅いというのにアンハイムの文官姿だった。
こんな時間まで仕事をしていたのかもしれないけれど、その顔に疲れの色は見えない。
どこかお店にと誘うノアに、ヨハンさんは眉を下げながら首を横に振った。
「あまりジェイド様のお側を離れるわけにもいかないので。あの人、僕が目を離したらずっと仕事を続けるものですから。そのせいでエストラーダでは図書館に入り浸る事も出来なくて、本当に参っちゃいますよねぇ」
あはは、と笑うヨハンさんの姿に、ルガリザンドに来ていた時の事を思い出す。あの時は毎日開館から閉館までずっと図書館に通ってきていたけれど、それもジェイド殿下が側にいないから出来た事だったのか。
「ああ、そんな事よりも。お二人の事情をジェイド様にお話したら、お手紙を渡すお手伝いをして下さるそうです。王弟殿下に直接お会い出来るような場を整えると約束して下さったので、もう少々お待ち頂けますか?」
「助かる。ジェイド殿下にも君にも迷惑をかけてしまうな」
「迷惑なんてとんでもない。お二人には借りがありますからね」
明るい調子で紡がれた言葉に目を瞬いた。
借りというのは……カミラ王女の事だろう。でもそれはもう終わった事だ。
「借りだなんてそんな事、気にしなくてもいいんですよ」
「アリシアさんもアインハルト殿もそう思ってくれるのは分かっているんですけどね。まぁこれは僕達側の心の問題って事で。まぁそれとは別に、僕はお二人のお手伝いが出来る事が嬉しいので、お気になさらず」
無理をしている様子もなく、それがヨハンさんの本心だというのは伝わってくる。それなら、わたしがこれ以上何かを言うのも野暮というものだ。
有難く、甘えさせてもらおう。
「ありがとうございます、ヨハンさん」
「ありがとう」
わたし達の感謝の言葉に、ヨハンさんはまたにっこりと笑った。
マスターと会える準備が整い次第、また連絡をくれると言ってヨハンさんは来た道を戻っていった。
ヨハンさんを見送るわたし達の影が、月明かりに照らされて長く伸びていた。
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