3-4.エストラーダ王都

 晴天。

 広がる青空の下、わたし達の乗る馬車は隣国エストラーダへと向かっていた。

 冬にしては暖かな日で、溶けた雪が車輪に絡むような湿った音が聞こえてくる。歩く時にも気を付けた方がよさそうだ。


 出発して半日ほど。

 夕方には道中の町で一泊し、エストラーダの王都に入るのは明日の夕方になる予定だ。アインハルト伯爵領に行くよりも、エストラーダの王都に行く方が近いというのは何だか不思議な感じがする。


 わたしとノアは馬車の座席に並んで座り、足元に置いた携帯用の小さな薪ストーブで暖を取りながら読書に勤しんでいた。

 換気の為に開けた少しだけ開けた窓からは、冷たい風が入ってきている。でも寒いというわけではなく、心地よく馬車の中を巡っていた。


 ノアが小さく息を吐き、読んでいた本に栞を挟んだのが視界の端に見えた。

 読書は一旦お休みだろうか。そう思いながら、わたしも栞を挟む。レースで編まれた細い栞はわたしのお気に入りのものだ。


「疲れた?」

「ん? ああ、いや……何だか集中が切れちまって」


 本を閉じたノアはそれを向かいの座席に置くと、わたしの腰に腕を回す。わたしからも寄り添うように体を預けつつ、わたしは閉じたばかりの本を膝に置いて表紙の装飾を指でなぞった。


「……マスターが王弟殿下だったとはな」

「そうね。驚いちゃった」


 昨夜、エマさんから預かった指輪に刻印されていた王家の紋章。

 ノアがそれに気付くと、エマさんはマスターがエストラーダの現国王陛下の弟だと教えてくれた。


 マスターはエマさんと出会い、二人で一緒に暮らす為に王籍を抜けたそうだ。

 別に駆け落ちしたとかそういうわけではなく、正規の手続きをふみ、承認されたものだったという。

 きっとそれは大変な事だったのだろうけれど、そこまでしてもエマさんと一緒に居たかったのだ。マスターの深い愛情を改めて知ってしまった。


 だからこそ、マスターが連絡もせずに帰ってこないというのが信じられない。そこにマスターの意思はなく、きっと何か不慮の事態が起こってのことなのだろうと思う。

 それにエマさんのお腹には赤ちゃんがいるのだ。そんなエマさんを残してマスターがいなくなるなんて考えられないもの。


「王弟って言われたら納得できる事もあるんだよな」

「例えば?」

「前にすげぇ希少なワインをご馳走してくれたのを覚えてるか?」

「ええ。婚約のお祝いに飲ませてくれたワインね」

「あれって王家に献上されるのがほとんどで、普通は見る事さえ出来ねぇんだ」


 婚約が決まって、あまりりす亭でマスターがお祝いにくれたワイン。

 確かにノアが一般には出回らないワインだと、そんな事を言っていたのを思い出す。王家に献上されるワインなら、マスターがツテを使えば手に入れる事も難しくないのだろう。


「確かにそうね。……でもきっと、マスターはわたし達が畏まるのは嫌いそうね」

「そうだな。俺達にとっては気に入りの店のマスターだ」

「早く帰ってきてもらわないと。エマさんの事も心配だけど、マスターのご飯を食べたいもの」

「そうだな。俺はマスターの作った鶏もものナッツソースが食いたい」

「わたしはサーモンの入ったポトフ。それからホットのロゼワイン」

「冬になるとそれを飲むよな」

「美味しいんだもの。すっかりはまっちゃった」


 美味しいご飯の話をしていたら、空腹を訴えてお腹がぐぅと鳴ってしまう。その音が聞こえていたらしいノアはくつくつと笑い声を噛み殺している。


「そんなに笑うなら、おやつのクッキーはわたしが全部食べちゃうんだから」

「はは、悪い。可愛くて、つい」

「可愛いって言えばわたしが黙ると思ってるでしょ?」

「いや? 思った事を言ってるだけなんだが。俺の妻はいつだって可愛いなって」

「素直なノアにはクッキーを分けてあげましょう」

「有難き幸せ」


 胸に手を当てたノアが、澄ました顔でそんな事を口にする。まるで騎士服を着ている時のような、少し固い声で。

 そんな様子が可笑しくて、愛しくて。

 何度だって、こんな些細なやりとりでさえも、わたしはノアへの気持ちを再確認してしまうのだ。


 ***


 予定通りに馬車は進み、わたし達がエストラーダの王都に入ったのは出発翌日の夕方だった。

 兄がとってくれたホテルに入って荷物を預けてから、わたし達は早速街へと出掛ける事にした。

 マスターの居るというお屋敷に向かうにしても、もう夕方になってしまっている。こんな時間から訪ねるというのも憚られるから、明日の午前中に行く事にしたのだった。


 王都の街並みは川に沿って作られていた。

 地図を見ると大きな二本の川が合流する地域にある。建物の屋根は赤茶色で統一されていて、道を彩る石畳は石の濃淡をうまく使って絵を描いている場所もある。

 それがなんだか可愛らしくて、歩く為の場所なのに踏んでしまうのが躊躇われるほどだった。そう思うのはわたしだけではないようで、花の絵が描かれている場所をぴょんと飛び越えている人達もいる。


 ホテルの従業員に教えて貰った繁華街へと向かう。そこは旧市街と呼ばれている地区らしく、様々な飲食店が軒を連ねている場所だった。

 どのお店も川を見下ろすテラス席が誂えられていて、まだ陽が暮れたばかりだというのに賑わっていた。


「すごく賑やかな街ね」

「そうだな。飲食街が発展してるのは、さすが美食の国の王都といったところか」

「どのお店も気になっちゃう。メモしてきたお店を見つけるのも大変そうね」

「それは明日からの楽しみにして、今日は気になるところに入ってみるか」

「いいわね。お腹空いちゃった」


 手を繋いでのんびり歩き、何を食べようかお喋りをする。そんな時間が好きだと実感する。

 美味しいものを食べるのは幸せだけど、やっぱりノアと一緒に食べるから美味しいのだ。


 そんな事を思いながら、繋ぐ手に力を込める。それに気付いたノアがわたしに顔を向けて笑った。下ろした前髪と黒縁眼鏡の奥で、夕星が蕩けるように細められた。

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