3-3.指輪

 さらりと告げられた言葉に、自分の目が丸くなっているのが分かる。

 驚きと……じわじわと広がる、喜び。その感情のままに、わたしは笑みを零していた。


「おめでとう。びっくりしたけれど、わたしも嬉しくなっちゃった」

「俺も。おめでとう」

「ありがとう。だから病気というわけではないのよ。心配させてごめんね」

「ううん。病気じゃないといっても、体は大変でしょう? それでそんなに窶れてしまったのね」


 わたしの言葉に小さく頷いたエマさんは、お腹をそっと撫でている。まだ膨らんでいないその場所だけど、確かに命が宿っているのだ。

 そう思うと、何だか胸に温かいものが広がっていくのが分かる。嬉しい。


「マスターがエストラーダに帰っているのは、その事に関係があるのか?」


 ノアが落ち着いた声で問いかける。その言葉に少し困ったように笑ってから、エマさんは頷いた。

 口を小さく開いては閉じる。それを繰り返す様子は、言葉を選んでいるみたいに見えた。


「……あの人ね、家の人との関係はいいんだけど。それでも色々あって、国を離れていたの。でもあたしが妊娠して、このままにしておけない事もあって……それで、ちゃんと片付けてくるっていって国に戻ったのよ」


 たぶん、言えない事もあるのだろう。

 ぼかされた言葉に隠されたものを、問うのも躊躇われる。それでもエマさんをそのままにしておけないと思った。


「片付いたらすぐに帰るって言ってたんだけど……帰ってこないの。連絡もない。あの人があたしの前からいなくなるなんて、想像していなかったから……どうしていいのか」


 力なく笑うエマさんの様子に胸が締め付けられた。

 エマさんは一人で抱えていたのか。この国の出身ではないのなら、頼れるような身内もいないのかもしれない。そんな中で、マスターの帰りを待っていたエマさんの事を思うと、目の奥が熱くなってしまう。


 わたし達に出来る事が、あるのなら。


 そう思ってノアを見ると、ノアもわたしを見ていた。厚い前髪と眼鏡の奥でも、その力強い眼差しが分かる。

 テーブルの下で、ノアがわたしの手を握った。それは一つの合図だったのかもしれない。

 わたしもぎゅっと手を握り返して、それに応えた。


「エマさん、俺達は明日からエストラーダに行くんだ」

「……え?」

「長期休暇を貰える事になったから、旅行に行こうって……行き先はエストラーダ。美味いもんが沢山あるらしいしな」

「だからね、わたし達に出来る事はない?」


 そう問いかけると、エマさんの黒い瞳から涙が零れた。

 それに気付いたエマさんが笑おうとするけれど、涙が止まる気配はない。手の甲でいくら拭っても涙は溢れるばかりで、呼吸も次第に乱れていく。

 両手で顔を覆ってしまったエマさんの様子に、わたしの目からも涙が零れた。


 席を立ち、エマさんの隣に座り直す。

 その震える肩を抱くと、以前に触れた時よりも体が薄くなってしまったのがよく分かる。それにまた泣けてしまった。


***


「ごめんなさい、取り乱しちゃった」


 大きく鼻をかんでから笑うエマさんの表情は、先程よりも晴れ晴れとしているように見えた。目元はまだ赤いけれど、それでも今日最初に会った時のような悲愴感は消えている。

 それにほっとしたわたしは、新しく注文したコーヒーにミルクを注いだ。沈んだミルクが渦を巻いてコーヒーと混ざり合う。


 エマさんの隣で横顔を見る。ああ、やっぱり窶れている。


「二人がそう言ってくれるのは有難いんだけど……折角の旅行なのにいいの? 迷惑をかけちゃうわ」

「迷惑なんてとんでもない。わたし達がどれだけエマさん達に支えられたと思ってるの」

「目的地が一緒なんだから、気にしないでいいぜ」

「ふふ、ありがとう」


 気持ちを切り替えるように深く息を吐いたエマさんは、首に掛けていたネックレスを外した。

 鎖の先には指輪が通されている。


「手紙を書くから、それを届けて欲しいの。ああ、王都だから安心してね。国のはじっこだったら流石にお願い出来ないもの。届け先の人にこの指輪を見せたら、あたしとあの人の友人だって分かるから持って行って」

「分かった」

「本当ならあたしが直接行けばいいんだけど、長距離の移動になると思うと中々難しくて」

「無理しないでくれて良かったわ。体調だって良くないんだし」

「二人には申し訳ないけど甘えさせて貰うわね」


 差し出された指輪を受け取ったノアは、その指輪に刻まれた紋章を眺めている。家紋なのだろうか。細やかな装飾が施されている、銀の指輪だった。


「出発は明日……よね? 朝にはお屋敷に手紙と住所を届けるから──」

「──エマさん、マスターが帰ってくるまでうちの実家に来ない?」


 言葉が、勝手に口から漏れていた。


 驚いたように目を丸くしているエマさんと、ノア。

 そんな二人の様子に、自分が何を口にしたか改めて考える。


 実家──ブルーム家に身を寄せないかと提案したのだ。

 口を押さえながら、その事について思いを巡らせた。口からぱっと出てしまった提案だけど、悪くないのではないかと思う。


 誰かが近くにいるなら、エマさんの気も紛れるかもしれない。

 いまのエマさんにはのんびりと過ごしてもらいたいと思うのだ。栄養のあるものを食べて、ゆっくり眠ってもらいたい。エマさんのためにも、お腹にいる子どもの為にも。


「でも……これ以上の迷惑をかけるわけには……」

「エマさん、俺もブルーム家に居た方がいいと思う。一人でいてほしくないんだ」

「ノアくん……」

「迷惑なんて思わないで。このままエマさんを帰したら、きっと母に叱られてしまうわ」


 わたしの言葉に、エマさんが視線を彷徨わせる。わたしはテーブルの上に置かれているエマさんの手に自分の手を重ねた。


「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね」

「ええ。お手紙や住所もうちで書いたらいいわ。一度エマさんの家に戻って、荷物を持ってきましょう」


 母達は驚くだろうけれど、断るような人達ではないと分かっている。

 早速お店を出ようと立ち上がった瞬間だった。


「……これって」


 ノアがエマさんから受け取った指輪を見ながら、驚きの声をあげた。

 その指輪で何か分かるのだろうか。ノアと指輪を交互に見てから、その視線をエマさんに向ける。

 エマさんは、少し困ったように笑っていた。


「ずっと気になってたんだ、この指輪の紋章が。やっと思い出した。エマさん、これって──」


 一度言葉を切ったノアが、ゆっくりと息を吐く。その顔はひどく真剣なものだった。


「エストラーダ王家の紋章だ」


 エマさんは眉を下げたまま、ただひとつ頷いた。

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