番外編 甘いチョコレートを一緒に(コミックス2巻発売記念SS)
冬にしては暖かい日だった。
薄く溶けた雪が凍った道を濡らしている。滑ってしまいそうで少し怖いけれど、それでもわたしは走っていた。待ち合わせの時間にもう遅れてしまっているからだ。
踏み出した先に水溜まりがあったようで、飛沫が靴を濡らす。さすがに足を止めて、足回りやコートが濡れていない事を確認した。うん、大丈夫。
上がった息が落ち着くのを待っていられずに、わたしはまた走り出した。
待ち合わせ場所は飴細工のチョコレートケーキが美味しいカフェ。
最初に来た時の嫌な記憶は、それ以降の楽しい思い出で上書きされている。
ドアを開いた先で応対してくれた店員さんに待ち合わせだと告げて中へ進んだ。席の半分ほどは埋まっていて、密やかな声でお喋りを楽しんでいる人がほとんどだった。
店内を見回して、目を引くのはテーブルに肘をついた猫背姿。
壁を向いているけれど、その人が待ち合わせの相手だとわたしには分かる。
「お待たせ、ノア」
テーブルの側で声を掛けると、コーヒーカップを口元に寄せていたノアが顔を上げた。
髪を下ろして顔を隠し、黒縁眼鏡をかけている。露わになっている口元が弧を描いた。
「お疲れさん」
「待たせてごめんなさい。思ったよりも遅くなってしまって」
「のんびりしてたから気にしなくていいぞ」
立ち上がったノアが、わたしの席に回って椅子を引いてくれる。椅子の背にコートをかけてから椅子に座った。「ありがとう」と言うと、笑みを浮かべてまた自分の席に戻る。さりげない優しさに、夫婦となった今でもときめいてしまうのは、もうどうしようもないのかもしれない。
「さて、何にする? なんて聞くまでもないか」
「そうよ、ずっと楽しみにしていたんだもの。期間限定のオレンジタルト」
「それからホットチョコレートもだろ?」
「甘いものに甘いものを重ねちゃうなんて贅沢かしら」
メニューを見ないでも、食べたいものを口にするわたしに、ノアがおかしそうに肩を揺らす。
でもずっと楽しみにしていたのだ。期間限定とはいえ、オレンジタルトは提供される期間も長い。でもホットチョコレートは今日まで。絶対に飲みたいと思ったけれど、やっぱりそれはノアと一緒がいい。
わたしとノアのお休みが合う日は、ホットチョコレートの提供期間だとちょうど今日だけだったのだ。
店員さんを呼んで、ノアが注文をしてくれる。
楽しみでそわそわしてしまうのも仕方がない事だろう。本当に楽しみだったんだから。
「仕事は大丈夫だったか? 昨日も遅かったのに大変だったな」
予定通り、新刊が納入されたのが昨日の事。
いつもなら一人が裏で作業をすれば終わる量なのだけど、昨日はいつもの三倍近くの納入になったのだ。しかも昨日は休暇を取る人が多かった。用事だったり急病だったりするけれど、休むのはお互い様だから問題ない。
昨日の終業後に上司にも手伝って貰いながら何人かで手分けしたけれど、終わらずに今日も急遽午前中だけ勤務してくる事になったのだった。
「大変だけど、どんな本が入ってくるのか先に見られるのは特権よね。それにこうしてホットチョコレートにも間に合ったからいいのよ」
「そうだな。お疲れ様」
「ありがとう」
労ってくれる声が優しくて、思わず笑みが浮かぶ。
久し振りに外での待ち合わせだから、何だか浮かれてしまっているのかもしれない。
「お待たせしました」
可愛いエプロンを着けた店員さんが、わたし達の前に注文した品を並べてくれる。
わたしの前にはオレンジタルト、ノアの前にはチーズケーキ。ホットチョコレートも二人分だ。
両手を組んで祈りを捧げてから、まずはホットチョコレートのカップを両手に持った。白いカップになみなみと満たされたチョコレート。軽く揺らすとどろりとしているのが分かる。
立ち上る湯気も甘くて、大きく息を吸い込むと胸いっぱいにチョコレートの香りで満たされた。
「いい香り」
「熱いから気をつけろよ」
「ノアもね」
ふぅふぅと何度か吹き冷ましてから、口元に寄せたカップを恐る恐る傾ける。
少しだけ流れ込んできたチョコレートは全然冷めていなくて、熱さに肩が跳ねてしまって飲めなかった。それでもめげずにまた少し傾ける。
甘いけれど、くどくない。ミルクと混ざった優しい甘さが口の中に広がっていく。
「美味しい」
「うん、美味いな。こっちはコーヒー風味だが飲んでみるか?」
「いいの?」
頷きながらノアがカップをわたしの方に寄せてくれる。わたしの方も試して貰おうと自分のカップをノアの方にずらすと、大きな手で受け取ってくれた。
ノアのカップはわたしのものより高さがある。
両手でカップを包むと手の平にじんわりと熱が伝わって、そのままカップを口に寄せた。
そうっとカップを傾けると、口に入るよりも先にコーヒーの香りがふわりと漂う。それに目を瞬くと口の中にはチョコレートの甘さが広がった。でもわたしが頼んだものよりほろ苦い。
「美味しい。こっちの方が少し苦いのね……チョコレート自体もビターなものが使われているのかしら」
「こっちは甘いな。美味いけど」
お互いまたカップを戻して、今度はフォークを手に取った。
舟型のタルトには皮の剥かれたオレンジの果肉が綺麗に並べられている。飾られているベリーの赤色が可愛らしい。
フォークで一口大に切ってみるとたっぷりのカスタードクリームが艶々と輝いていた。
一口分を口に入れる。思ったよりもオレンジの酸味が強い。カスタードが甘いから、これくらい酸っぱい方が美味しいのかもしれない。注文を受けてからクリームを注いだのだろうかと思うくらいに、生地はさくさくとしていて美味しかった。
「美味しい。良かった、食べられて」
「もっと早くに来れたら良かったんだけどな。ラジーネ夫人と一緒に来ても良かったんだぞ」
「それもいいけど……」
休みが合わない事を気にしてか、ノアはウェンディと一緒に行ったらどうかと勧めてくれたのだ。
そうしても良かったのだけど、でも――
「やっぱり、美味しいものはノアと一緒に食べたいもの」
ぽつりと漏れた本音に、ノアが嬉しそうに笑う。
ノアはチーズケーキを食べる手を止めて、またカップを口元に寄せた。
「可愛い事ばかり言ってくれるな」
「チョコレートより甘いでしょ」
「そんなに甘い事言ってると食べられるぞ」
「な、っ……!」
揶揄うつもりが、逆に揶揄われた気がする。
顔に熱が集まるのを隠そうと、オレンジタルトにフォークを沈めた。視界の端で肩が揺れているのが見えるけれど、文句を言う余裕はなかった。
「アリシア」
「……なに?」
顔を上げずにタルトを食べる事に集中する。
ノアが低く笑うのが聞こえるから、照れ隠しだというのは全部お見通しなんだろう。
「家でもホットチョコレートを作ろうな」
優しい声で紡がれる、魅力的なお誘いに思わず顔を上げてしまった。
前髪の隙間から、夕星の瞳がわたしを見つめている。色を濃くした紫の瞳に、胸の奥が甘く疼いた。
だってその眼差しも、わたしを好きだと言っているかのように甘やかだから。
「……作る。コーヒーもいいけど、赤ワインも合うんじゃないかしら」
「いいな。色々試して、お気に入りを探そうぜ」
「ふふ、楽しそう」
「今夜から早速試してみるか?」
「それもいいけど、今日はあまりりす亭に行くでしょ? 帰ってから作れるほど、お腹に余裕があるかしら」
「……明日以降にした方がよさそうだな」
お互い顔を見合わせて笑ってしまった。
美味しいものと、楽しい時間を重ねていく。それがノアと一緒ならもっと幸せで。
これからもずっと、そんな時間を過ごしていけますように。
そう思っていたら、テーブルの上でノアがわたしの手を握る。温かくて大きな手が愛しくて、手を返すようにしてわたしから指先を絡めた。
チョコレートの甘い香りが、わたし達の間にずっと残っていた。
**********
本日2月20日、コミックス2巻の発売日です!
花散の書き下ろしSSの他、作画のもみじ先生描き下ろしの漫画もあります。
かきおろしは合わせて13ページ!ボリュームもときめきもいっぱい詰まった2巻となっていますので、どうぞ宜しくお願い致します!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます