番外編 星降りの夜に②
美味しいものを食べて、お腹もほどよく満たされて。
まだ賑わうあまりりす亭のカウンターに座って、わたしとノアはお酒を楽しんでいた。
お店の扉が開く音がして、そちらに目を向ける。扉を開けて顔だけを外に出したエマさんが空の様子を確認しているのだけど……これももう五回目だ。
厨房から出てきたマスターがエマさんの腕を引っ張って戻っていくのも同じだけ見ているものだから、くすくすと笑みが漏れてしまった。
笑みが口元に残っているのを自覚しながら、デザートに出して貰ったタルトへと目を向ける。桃のタルトにフォークを入れて一口を食べてみた。
「んー、このタルト美味しい。桃は甘いのに口当たりはさっぱりしているの。クリームにはチーズが混ざっているのかしら」
薄切りの桃がお花の形に飾られているのも可愛らしい、小さなタルト。水分を含んだタルト生地はフォークだけで切り分けられるくらいしっとりしている。
中に満たされているクリームには仄かな酸味があって、桃の甘さを緩和しているようだった。
一口分を切り分けて、タルトを載せたフォークをノアの口元に寄せてみる。
ジョッキをテーブルに置いたノアは、躊躇せずにタルトを食べてくれた。前にもこんな事があったけれど、あの時とわたし達の関係が変わった今もまだ少し恥ずかしく思ってしまう。
「うん、チーズかな。美味い」
「ね、さっぱりしていて美味しいでしょ。ノアはタルトを頼まなくて良かったの?」
「今日は塩気のあるものが食いたくて」
「飲んでいるのもエールじゃないわよね」
「エールをレモネードで割ったやつ。飲んでみるか?」
「いいの?」
もちろん、とノアはジョッキをわたしの方に寄せてくれる。早速ジョッキを両手で持ってエールを口にしてみると、思っていたよりもレモンが強く香っていった。
エール独特の苦みもあるのに、レモネードの甘さなのか飲みやすくなっていると思う。うん、これも美味しい。
「美味しい」
「だろ。ラルスに勧められたんだが、たまにはこういうのも美味いよな」
ジョッキをノアに返して、今度は自分のグラスを取る。満たされている白ワインはお店の明かりを受けてきらきらと輝いていた。
「ラルスさんも飲みに出たりするの?」
「行くみたいだぞ。どこに行ってるかは聞いてないけど」
「一緒に飲みに行ったりはしないのね」
「宿舎じゃたまに一緒に飲むけどな」
「ふふ、楽しそう」
宿舎での共同生活はどういうものなんだろう。家から出た事がないわたしには想像しか出来ないけれど、きっと賑やかで楽しいんじゃないだろうか。
「結婚して宿舎を離れたら、ノアも寂しくなっちゃうんじゃない?」
「お前がいる場所に帰るのに、何を寂しく思う事があるんだか」
当然とばかりにそんな言葉を口にされて、グラスを傾ける手が止まってしまった。ノアを見ると口元はいつものように弧を描いていて、分厚い前髪でそれ以上の表情は窺えない。
「きっと早く帰りたくて、日中ずっとそんな事ばかり口にしていると思うぜ」
「それは……わたしも、そうかもしれないけれど」
ぽつりと漏らした本音に、ノアが固まったのが分かった。
何かを言おうと開いたノアの口から言葉が紡がれるより早く、エマさんがカウンターに身を乗り出してきた。
「もう少しで星降りが始まるわよ! 二人とも見るでしょう?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ外に行きましょう」
わくわくした気持ちを隠せていないエマさんの様子に、また笑みが漏れた。
エマさんが扉を開いて、お客さん達が外へと出ていく。わたしとノアもそれに続いたら、最後尾にはマスターがいた。
「明かりは落ちるが、俺は入口で店を見ているから安心していいぞ」
「マスターもちゃんと星が見える?」
「ああ、問題ない」
街の明かりが全体的に少し落とされてしまうから、防犯の意味もあるのだろう。マスターに甘えて、わたしとノアもあまりりす亭の外に出た。
他のお店からも人が出てきていて、広い通りが人で埋まっていく。他の人にぶつかってしまうような程ではないけれど、思っていたよりも人が多い。あまりりす亭の壁際で空を見上げたら、ノアが肩を抱いてくれた。
「大丈夫か?」
「ええ。人が多いからびっくりしちゃった」
わたしを守るようにノアが抱き寄せてくれている。その腕に体を預けると、少しずつ外灯が光量を下げていくのが分かった。お店の明かりも落とされて、空に浮かぶ星の瞬きがはっきりと見える程に夜闇が足元まで広がっていく。
こんなに暗い街を見るのは初めてで、少しドキドキしてしまう。でも恐ろしいと思わないのは、ノアが傍に居てくれるからだって分かっている。
見上げる空に、星が一つ流れた。
誰かが感嘆の声をあげたのが聞こえた。漣のようにその声が広がっていく。
声に呼応するかのように、流れる星はその数を増していくばかりだ。
「綺麗ね」
「ああ」
何度見ても心が震える。流れては消えていく星々が儚くて、美しくて、目が離せない。
「……去年までは一人で見たり、見なかったり、宿舎で誰かと見たりだったんだけどな。今年はこうしてお前と一緒に見られるのが、なんかいいな」
小さな声は優しい響きに満ちていた。
わたしと一緒に見るこの星降りを、特別なものだと思ってくれている。そんな優しい声だった。
「そうね、わたしも……ノアと一緒に見られてよかったって思ってる。去年まではずっと、家族と見ていた空だけど、これからはノアと一緒に見ていくのね」
「来年は庭の東屋で見るか。二人だけで」
「いいわね。約束よ?」
「ああ、約束。来年も、その先もずっと一緒に見ような」
その約束に胸がぎゅっと締め付けられる。嬉しいのと、切ないのと、恋しさが全部混ざって、わたしは頷く以外に出来なかった。口を開いたら、何だか涙まで零れてしまいそうだったから。
ノアは分かっていると言わんばかりに、わたしの肩を抱く腕に力を込めた。力強いその温もりに、星空が滲んで見えてしまったのはわたしだけの秘密だ。
星降りは数分で終わってしまう。
段々と数を減らした流れ星に終わりを予感していたら、長い軌跡を残した星を最後に空は静寂を取り戻した。明るい星もささやかな星も、何事もなかったかのように瞬いている。
人の波が動き出しても、わたしとノアは同じ場所から動かずにいた。壁際だから迷惑になる事もないだろう。
目的地のあまりりす亭は目と鼻の先だから、急ぐ事だってない。余韻に浸った人達がそれぞれのお店に戻っていくのを眺めながら、わたしは深い息をついていた。
「今年の星降りも素敵だったわ。一つくらい手の平に落ちてきてしまうんじゃないかと思うくらいだった」
「星がお望みか?」
冗談めかしてノアが笑った。わたしの肩を抱いていた手は落とされて、次は手を繋いでくれた。わたしよりも温かくて大きな手に包まれるのが好きだ。
人の波が引いていく。外灯やお店の明かりも先程までと同じように灯されて、あっというまに賑わいが戻ってくる。
「星を頂戴なんて言ったら叶えてくれる?」
「もちろん」
「星の形の砂糖菓子とか?」
わたしも軽口を紡いで笑ったのに、ノアは眼鏡のつるに指をかけて持ち上げる。前髪の向こうから覗くのは色を濃くした──紫の瞳。金の虹彩が輝いていた。
「夕星なんて言われるこの瞳も、お前だけのものだ」
甘い声に眩暈がした。
溺れるくらいに深い紫が、わたしを真っ直ぐに見つめている。
「その夕星に、ずっとわたしを映してくれる?」
「当たり前だろ」
優しい声で笑ったノアにつられるように、わたしも笑った。
流星群より特別な星が、想いを宿してわたしだけを見つめてくれる。
それが嬉しくて、幸せで。口にしても足りない想いを伝えたくて、繋ぐ手にぎゅっと力を込めた。
*****
番外編にお付き合いありがとうございました!
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