番外編 星降りの夜に①

※婚約中、結婚前の夏のお話です。

(2-32と2-33の間の出来事です)


 ******


 馬車を降りるとまだ熱気を孕む夕風に、一本に束ねた髪が揺らされた。

 陽は沈んでも遠くの山は赤を残している。空に浮かぶ雲も金色を映しているけれど、空は次第に夜色を濃くしていって、一際明るい星がその姿を主張し始めていた。


「ありがとう、マルク」

「いえいえ。どうぞ楽しい夜を」


 馬車で送ってくれたマルクは、頭に載せた帽子を取ってにこやかに笑う。またその帽子をひょいと頭に載せてから、手綱をしっかり握り直す。石畳に蹄の音を響かせて、馬車は来た道を戻っていった。


 その姿が角を曲がるまでを見送ってから、背後のお店を振り返る。今日も温かな色で照らされた看板に何だかほっとしてしまった。



 あまりりす亭の扉を開けると、いい匂いが広がってくる。

 顔が綻ぶのを自覚しながら店内に足を踏み入れると、カウンターからエマさんが明るい笑顔を向けてくれた。


「いらっしゃい、アリシアちゃん。今日は一人?」

「ノアは遅くなるから、先に行ってくれって言われたの」


 後ろ手に扉を閉めてからカウンターの席に向かう。

 テーブル席は半分埋まっているけれど、カウンターに人はいない。椅子に座りながらエールを一つと注文をする。エマさんはそれに頷きながら表情を少し曇らせた。


「一人で来るのは危なくない?」

「家の馬車で送って貰ったから大丈夫。ありがとう」

「それなら安心ね。今日は何が食べたい?」

「ノアが来てからおすすめを頂こうと思うんだけど、その前に軽く出して貰える?」

「はーい」


 厨房から顔を覗かせたマスターにもわたしの注文は届いていたようだ。小さく頷いてまた厨房に戻っていく。

 入れ替わるように、なみなみとエールの注がれたジョッキがわたしの前に用意された。


「まずはエールね」

「ありがとう」


 両手で受け取ったジョッキはずっしりと重い。口をつけるといっぱいに広がる爽やかな酸味と苦味。喉越しが良くて一気に半分ほど飲んでしまったのは、自分でも気付かないうちに喉が渇いていたのかもしれない。


 ジョッキから口を離して深い息を吐く。うん、美味しい。

 やっぱり夏はエールが一際美味しく感じる気がする。冷えているお酒なら何でも美味しいのかもしれないけれど。でもやっぱりエールは格別なのだ。


「はい、お待たせ。オレンジとにんじんのサラダなんてどう?」


 エマさんがわたしの前に置いてくれたのは美しいオレンジ色のサラダだった。

 細く切られたにんじんの上には薄皮の剥かれたオレンジがちょこんと載っているのが可愛らしい。


「美味しそう」

「ノアくんが来たらおすすめを出すわね。今日のも美味しいわよ~」


 明るい声でエマさんが笑うから、わたしもつられるように笑ってしまった。

 ごゆっくり、と言ったエマさんは注文を取る為にテーブル席の方へと向かう。賑やかだけれど騒がしいわけではない、そんな心地の良い雰囲気が広がっていた。


 両手を組んで祈りを捧げたわたしは早速サラダを一口食べてみると、白ワインの香りが口いっぱいに広がった。しゃきしゃきとした食感もいいし、オレンジの酸味とにんじんの甘さがよく合っている。

 刻まれたくるみがいいアクセントになっていて、とても美味しくて食べやすいサラダだった。


「んん、美味しい」


 またエールを一口飲む。

 賑やかな笑い声を背中で聞きながら、自分の他には誰も座っていないカウンター席へと目を向ける。


 ここで待ち合わせをしているから、この後に会えると分かっていても。それでも早く会いたいと思ってしまう。この気持ちが落ち着く時が来るなんて、まだ想像も出来ないけれど。


 なんだかそわそわしてしまって、緩む頬を隠すようにジョッキを持ち上げると、思っていた以上に軽くなっていた。これはもう飲んでしまって新しいものを頼もう。

 ぐっと一気にジョッキを傾けると扉が開く音がした。そちらに目を向けると、中に入ってきたのは黒髪を下ろした猫背の人──ノアだ。


 ノアは真っ直ぐカウンター席に進み、わたしの隣に腰を下ろしながら楽しそうに笑った。


「……何かおかしかった?」

「エールを飲み干してるところが流石だと思って」

「美味しいものは美味しいうちに、でしょ」


 確かに、なんてまたノアが笑うと、気付いたエマさんが厨房から顔を出してくれる。


「いらっしゃい、ノアくん」

「エールを……ふたつ。それから何かおすすめ頂戴」

「はーい」


 にこやかに頷いたエマさんがまた厨房に戻っていったと思ったら、すぐにジョッキを二つ持って戻ってきた。受け取ったジョッキはエールで満たされていて、わたしとノアはそれを掲げて乾杯をしてから飲み始める。


 二杯目でもやっぱり美味しい。


「もう少し遅くなるかと思ってたんだけど、大丈夫だった?」

「ああ、書類仕事が残ってただけだったから平気。さっさと終わらせてきた」

「それなら良かった。お疲れ様」

「お前もお疲れ様。ちゃんとマルクさんに送って貰ったのか?」


 分厚い前髪の向こう、眼鏡の奥の瞳は心配の色に染まっているのだろうと分かる。声にもそれが溢れていた。

 心配性だと笑う事も出来ないくらい、今年の夏は色々とあったから。その気持ちが嬉しかった。


「ええ、送って貰ったから大丈夫」

「安心した」


 ノアがほっとしたように笑う。その口元が笑み綻ぶだけで、わたしの鼓動は早まるのだからどうにかならないものだろうか。


「はい、お待たせ~。今日は鯛と夏野菜のソテーよ」

「ありがとう」


 エマさんとマスターが、わたし達の前にそれぞれお皿を置いてくれる。

 ふわりとバジルの香りが立ち上って食欲をそそった。


「ごゆっくり」


 マスターが軽く会釈をして、エマさんと一緒に厨房へと戻っていく。腕まくりをしたエマさんは何か笑ってお喋りしながら、マスターの背中を叩いていた。


 カトラリーを取ったわたしは、改めてお皿へ視線を向けた。

 ソテーされた鯛の切り身に添えられているのは、ズッキーニ、なす、トマト。色鮮やかな野菜は見るからに美味しそう。


 鯛を食べやすい大きさに切って、口に運ぶ。

 焼かれた皮も香ばしくて美味しい。焼き目のついたズッキーニにバジルソースを絡めて食べてみると、溢れる旨味に吐息が漏れてしまった。


「美味いな」

「ええ、とっても。お野菜も美味しい」


 美味しいご飯で気持ちが満たされていく。

 さっきまでのそわそわした気持ちが落ち着いたかと思ったら、楽しさとか嬉しさとか、色んな気持ちが溢れてくるようだった。


 ノアに会えて、一緒にご飯を食べる。

 もう当たり前のようなこの時間が愛おしい。


 そんな事を考えていたら、パチンと独特の音がした。

 聞き覚えのあるそれは、懐中時計の蓋を閉める音。どうかしたのかとノアに目を向けると、彼は時計をポケットにしまってからジョッキを手にしていた。


「まだ時間があるなと思って。見るだろ、流星群」

「ええ。この日を楽しみにしていたんだもの」


 そう、今日は星降りの日。

 一年に一度、決まった時間。東の空に沢山の星が流れる日。


 そんな特別な日だから、今年はノアと一緒に過ごしたいと思っていた。


「俺も楽しみにしてた。お前と、一緒に星を見られる日を」


 想いの乗せられた甘い声。

 顔が熱いのはきっとエールのせいだけじゃなくて。


 おかしそうにノアが笑うのを横目に、わたしは二杯目のエールを飲み干していた。

 恥ずかしさを誤魔化す為なのも、きっと彼には伝わっているだろうけれど。


******


明日も更新しますので、お付き合い頂けたら嬉しいです。

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