2-32.恋に落ちる

 あまりりす亭を出た時には、もうすっかりと夜が深くなっていた。

 久し振りだから少し長居しすぎてしまった。足元がふわふわと楽しいのもお酒を飲み過ぎたのかもしれない。


「大丈夫か?」

「ええ、楽しいだけ」

「それならいいんだが。具合が悪くなったらすぐに言えよ」

「運んでくれるの?」

「もちろん」


 その言葉に嘘が無いのは分かっている。

 昨日、実際にわたしを抱き上げた時のノアは、何の躊躇も無かったもの。


 そんな場合じゃなかったから、あの時は気にしていなかったけれど……今思うと少し恥ずかしい。

 何だか胸の奥がそわそわして、ノアの腕に両腕で抱き着いた。


 結構な勢いで抱き着いたのに、ノアはびくともしない。余裕そうに笑っているだけで、それが少し悔しくて。

 

「お前、さては酔ってるな?」

「お酒を飲んだんだもの、そりゃあ酔うでしょ」

「いつも以上にって事」

「どうかしら」


 曖昧に笑いながらも、酔っている自覚はある。

 だって美味しいご飯があって、お酒があって、それを好きな人と楽しめるんだもの。幸せでつい飲み過ぎてしまうのも仕方がない事だろう。

 わたしはずっと、こういう日々を待ち望んでいたのだから。


「少し公園でも寄ってくか。少しは酔いも醒めるだろ」

「別に平気なのに」

「まぁ付き合えよ。酔い醒ましってのもただの後付けみてぇなもんだし」

「わたしとまだ一緒に居たいのね」

「おう」


 揶揄うように言葉を紡いでも、そんな真っ直ぐに返されたら赤くなるのはわたしの方だ。

 それが悔しくてぎゅうぎゅうに抱き着くと、おかしそうに低く笑われてしまった。


「あ、でも……ラルスさんにそれを届けなくていいの?」

「朝飯にしてもいいだろ」


 ノアはわたしが抱き着くのとは逆手に、紙包みを持っている。

 マスターにお願いして作って貰った夜食なのだけど、ラルスさんに差し入れするらしい。本当は今日、ラルスさんもあまりりす亭に来たがったそうなのだけど、ノアが絶対に嫌だと拒んだんだとか。

 それでもお土産を用意していくあたり、二人の仲の良さが窺えるようだった。



 帰り道にある公園。

 日中は賑やかな憩いの場だけど、いまはわたし達の足音しか響かない。


 近くのベンチに腰を下ろして、わたしは両腕を天に向けて大きく伸びをした。


「んー、お腹いっぱい」

「タルトを二つ食った後に、ポトフを食べたらそうなるだろ」

「でも美味しかったわ」


 低く笑ったノアがわたしの肩を抱き寄せる。

 されるままに体を預けると、触れる場所から伝わる温もりが気持ち良かった。


 見上げた空には星が瞬いている。

 雲もなく、風もない。静かな夜だった。


「結婚式だが……早めるって事でいいよな?」

「ええ。でもお屋敷の改装は間に合うかしら」

「もう手配してある。夏中には終わるから大丈夫だ」

「それなら良かった。ふふ、楽しみ」

「それは図書室が? それとも俺と暮らすのが?」


 揶揄うような声に目線を上げると、前髪の隙間から紫色が覗いている。悪戯っぽく笑うその様子に、鼓動が跳ねた。


 そんなの決まってる。

 ノアと結婚する時をわたしがどれだけ心待ちにしているか。一緒に暮らすのはもちろんだけど、繋がっている心を──見える形にしたいって思ってる。


「……アリシア」

「ん?」

「……口に出てるぞ」


 はっとして、自分の口を両手で押さえた。

 なんて気持ちを伝えようか考えていただけなのに。恥ずかしさで心臓はばくばくとおかしく騒ぎ出すし、顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。


 でも──


「……ノア、照れてる?」


 下から覗くノアの顔に、薄く朱がさしているような気がして。

 ふい、と顔を背けられるけれど、覗く耳も熱を持った色をしていた。


 恥ずかしいのはわたしだけじゃないようで、ほっとしたらくすくすと笑みが零れてしまった。


「笑いすぎ」

「だって……珍しくて」


 いつも翻弄されているのはわたしだから、ノアのそんな姿にも嬉しくなる。

 酔っているのもあって、笑いが収まってくれない。堪えようとしても肩が震えてしまうのだから、ノアにはバレバレだろう。


 ふぅ、と息を吐いたノアが前髪をかきあげる。上げた前髪を眼鏡で留めると、わたしの手を口元から下ろさせてしまった。

 間近に見る夕星に、わたしだけが映っている。


「早く一緒になりてぇな」

「そうね」


 結婚しようと思えば、今すぐにだって出来るのだ。

 でも結婚式とか新居とか、そういう準備が出来てからというのは……彼の優しさと誠実さなのかもしれない。


 ノアの指がわたしの唇に触れる。形を確かめるようになぞられて、擽ったさと恥ずかしさで吐息が漏れてしまう。


 その指がわたしの顎にかかり、上を向かされて。その先に何があるのか分かっているから、ゆっくりと目を閉じた。


 吐息が触れて唇が重なる。

 彼の手が顎から頬、それから後頭部へと移っていく。くしゃりと下ろしたままの髪を乱されて、それだけで何だかドキドキしてしまう。


 触れる唇が熱い。

 少しの間だったのに、炎のような熱が灯されるには充分過ぎた。


 ゆっくりと唇が離れるけれど、夜気でもその熱を引かせる事は出来ないみたいだ。


「顔が赤いぞ」

「……誰のせいだと思っているの」

「俺の」


 目を開けた先では嬉しそうにノアが笑っている。

 そんな顔をされたら文句なんて言えるわけもなくて。だから彼の胸に顔を埋めて、ぎゅっと抱き着いた。両腕を背中に回して、これ以上はもう無理だというくらいに強く。


 くく、と喉奥で低く笑ったノアは、わたしを両腕で包み込んでくれる。

 この温もりが愛しいって、どうしたら伝わってくれるのだろう。


「愛してる」


 耳元で囁かれる低音に、くらりと眩暈がしてしまいそう。

 わたしも愛してる。そう紡いだ言葉は、わたしの鼓動に掻き消されているんじゃないだろうか。


 でも彼がわたしを抱く腕に力が籠もったから、きっと伝わったんだと思う。


 好きだという気持ちは溢れるばかりで、底が見えない。

 胸元から目線を上げると、彼が微笑んでいるのが見える。わたしを愛おしむような夕星の輝きに、また──恋に落ちた。

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