2-31.不安だったのは
厨房からは水が流れる音と、楽しそうなエマさんの笑い声が聞こえてくる。
朗らかな雰囲気に口元が緩んだ。
手にしているグラスからは葡萄が華やかに香っている。少し温くなってしまったそれを一口飲んで息をつく。エマさんが美味しいというだけあって、本当にこの白ワインは美味しい。
「……何だか、本当に色々あったからノアも疲れたでしょ」
「お前もな。でも……もっと上手く立ち回れたんじゃねぇかって、そう思うよ」
静かにグラスを置いたノアが、溜息交じりにそんな言葉を口にするものだから、グラスを口元に寄せようとしていたわたしの手が止まった。
分厚い前髪と黒縁眼鏡でノアの表情は見えない。口はいつものように弧を描いているけれど、彼がどんな顔をしているのか見たいと思った。
「カミラ王女が俺に意識を向け始めた時に、もうお前を攫って逃げれば良かった」
その声に潜む後悔に、胸の奥が苦しくなる。
きっとノアは……ずっと悔やんでいたんだ。わたしが不安に思った事、わたしが……巻き込まれた事。そんなの、ノアが一人で抱える事でもないのに。
グラスを置いて、ノアに手を伸ばす。
前髪をそっと横に流しても、ノアはわたしの手を厭ったりはしなかった。眼鏡の奥の紫が不安に揺らいでいるように見える。それでもその視線は真っ直ぐにわたしに注がれていた。
「……バカね。攫ってじゃなくて、手を取り合ってでしょ」
「はは、そうだったな。それを選んでいたら、お前を辛い目に遭わせる事もなかったのに」
前髪から手を離して、そのまま彼の手に自分の手を重ねた。わたしよりも大きくて、骨張った手。この手にいつも守られてる。
「それは結果論でしょ。わたしが不安になってしまったのはどうしようもない事だけど、それを解消するのにノアはいつだってわたしに寄り添ってくれていたわ。辛くなかったと言えば嘘になるけど、それはノアのせいじゃない」
ノアがそこまで抱え込む必要なんてないのだ。
伝わるようにと願いながら彼の手をぎゅっと握る。手を返したノアが、指を絡めて手を握り直してくれた。その温もりに、力強さに、胸が切なくなる。
「むしろノアの方が大変だったのに、わたしはいつも受け取るばかりであんたに何もしてこなかったんじゃないかって、そう思って──」
「それは違う。お前が居てくれたから俺は耐えられた」
言葉を遮るノアの声が、いつもよりも余裕がない気がして。
目を瞬かせていると、繋ぐ手に力が籠められた。前髪の隙間から覗く夕星がわたしを見つめている。
「じゃあきっと、あの時のわたし達は間違っていなかったんだわ」
想いが胸の奥で切なく疼く。何だか泣きたくなってしまって、それを誤魔化すように笑って見せても、きっとノアにはばれてしまっているのだろう。
「お前の不安を除きたいって言いながら、不安だったのは俺の方だ。……俺の問題にアリシアを巻き込んじまって、嫌気がさしていないかって」
「いくらでも巻き込めばいいじゃない。二人の問題にしてしまえば、一緒に解決できるもの」
「お前は……」
ノアの表情が和らいで、つられるようにわたしも笑った。
繋いでいる手は、もうお互いの熱が混ざり合って同じ温度だ。
「大変な事だって多かったけど、ノアがわたしに寄り添ってくれた。わたしの事を好きだとちゃんと伝えてくれたから、大丈夫だって思えたの。ありがとう、わたしの事を守ってくれて」
「……おう」
ノアの浮かべる笑みが深くなる。
ゆっくりと離れた彼の手はわたしの頭に移動して、ぽんぽんと軽く撫でてくれた。
「アリシア」
「ん?」
「……ありがとな」
「どういたしまして」
またワイングラスを手に取って掲げて見せる。
わたしの頭に触れていた手が滑り落ちて、彼も同じようにグラスを持って掲げてくれた。
何度目かになる乾杯をして、グラスを口に寄せる。飲み干したワインは温くなって、甘みが強くなっていた。
「まだ飲むか?」
「そうね、もう少しだけ飲もうかしら。ノアは?」
「俺も。エマさん、ワインのお代わり頂戴」
厨房からは「はーい」と朗らかな声が返ってくる。
その声を聞くだけで、わたしも元気になるような気がするのだから、エマさんは不思議な力を持っているのかもしれない。
「デザートも食べる?」
「食べる! 今日のデザートはなぁに?」
思わず前のめりで返事をしてしまうと、隣でノアが笑っているのが分かる。
ノアだって食べたいくせに、と思いながら差し出されたワイングラスを受け取った。
ワインをくれるエマさんの後ろからやってきたマスターの手には、お皿がふたつ。
青紫色が美しい、ブルーベリーのタルトだろうか。
マスターはそれをわたし達の前に置いてくれたけど、そういえば気になっていた事があったんだった。
「マスター。前に貰ったクッキーもとても美味しかったんだけど、型まで自分で作ったの?」
「型?」
ノアが驚いたように声をあげる。それも分かる。わたしもエマさんに聞いた時にはびっくりしてしまったもの。
マスターは頷いた後に、少し困ったように笑った。
「作ってみると面白くてな」
「今は型押し用の複雑なものを彫っているのよ」
呆れたようにエマさんが笑うけれど、その眼差しは優しいもので。
「出来上がったら渡すから食べてみてくれ」
「楽しみにしてるわ」
エマさんとマスターは「ごゆっくり」と言葉を残してまた厨房へ戻っていく。
その背を見送ってから、タルトの載ったお皿へと目を向けた。
小さなタルトにはたっぷりのブルーベリーが載せられている。明かりを映して艶々に煌めくその様は、まるで宝石のように綺麗だった。
「あの人、本当に何者なんだ」
「型を作ったり彫り物をしたり……出来ない事ってあるのかしら」
「料理だって何でも作るしな」
「そういえばマスターの名前も知らないわ」
お喋りをしながらタルトにフォークを沈めていく。
思ったよりも柔らかなタルト生地で、簡単にフォークで切り分ける事が出来た。ブルーべリーの下には、紫色のクリームが敷き詰められている。これもきっとブルーベリーなのだろう。
一口大に切りわけたそれをフォークに載せて食べてみる。
爽やかな酸味と、クリームの甘やかさ。口の中でほろほろと崩れるタルト生地もほんのり甘い。
「んん、美味しい」
「美味いな。マスターの名前、俺は聞いてみた事があるんだけど流されて教えて貰えなかったんだよな」
「そうだったの。エマさんも『うちの人』しか言わないのよね」
「確かに。でも前にワインを融通してくれた事からも、ただの料理人って感じはしないんだよな」
そうだ。以前に希少なワインをご馳走してくれた事があった。
不思議な人だと思うけれど、でも──
「まぁ気にしても仕方ないわね」
「そうだな」
ここの料理が美味しくて、マスターとエマさんが仲良しで、雰囲気が良い。
それだけでいいんじゃないかと思う。
またブルーベリーを口に運ぶ。
これは酸っぱくなかった。
美味しくて、幸せな時間。
日常が戻ってきたのだと改めて実感して、ほっと息が漏れてしまった。
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