2-30.久し振りの時間

「乾杯」


 わたしとノアの声が揃う。

 掲げていたグラス越しにノアの笑みが見えて、それだけでドキドキしてしまうけど、きっと落ち着く事はないんだろうな。


 グラスを口元に寄せて飲むのは白ワイン。前にエマさんが言っていた、『美味しい白ワイン』だ。

 爽やかな酸味が口いっぱいに広がって、すっきりと飲みやすいワインだった。少し辛口で、とても美味しい。

 ついた息から香る酒精は華やかで、それに誘われるようにもう一口飲んだ。


「二人とも全然来てくれないから寂しかったのよ~」

「災難だったな」


 料理を持ったエマさんとマスターがカウンター越しに言葉を掛けてくれる。

 あまりりす亭に来るのも久しぶりだ。柔らかな雰囲気は何も変わっていないし、ここに来るとやっぱり楽しい気持ちが胸を満たしていく。


 わたし達と入れ替わりにお客さんが帰っていったから、お店にはわたしとノアがカウンターに座っているだけだった。


「でも終わってほっとしたわ。ね?」

「ああ。すっげぇ長かったけどな」


 料理を受け取りながらそんな事を口にすると、ノアがわざとらしく深い溜息をつくものだからおかしくなって笑ってしまった。


 今日の料理はラザニアと、トマトの肉詰め。

 ラザニアは焼きたてなのか湯気が立っている。ぐつぐつと踊るチーズも美味しそうで、手を組んで捧げる祈りが早口になったのもいつもの事。


「今日はゆっくりしていってね」


 そう言って厨房へと戻っていくエマさん達は笑みを浮かべている。

 腕まくりをしたエマさんの袖をマスターがそっと直していて、ふとあの二人は喧嘩をしたりするのだろうかと思った。


「やっとここの飯が食える」

「ふふ、楽しみにしていたものね」


 カミラ王女が帰国されたのは昨日の事。

 戻ってきた日常で、まずわたし達がしたかったのはあまりりす亭でお酒を飲む事だった。


 今日はお休みを取っていたノアは、わたしの仕事が終わるのを待っていてくれて。

 二人で並んで歩いていても、ノアが周囲に過剰な警戒をする事もない。それに何だかほっとしてしまった。


「どうぞ」

「ありがとう。美味しそう……熱いのは分かっているんだけど」


 取り分けてくれたラザニアは、見るからにまだ熱そうだ。チーズは落ち着いているように見えるけれど、断面からも立ち上る湯気が多い。

 ナイフとフォークで一口大に切り分けて、吹き冷ます……まだ熱いのは分かっているのに、食べたい誘惑には勝てなかった。


「んんっ!」


 熱い。

 チーズが全然冷めていないし、ミートソースもベシャメルソースも熱い。

 はふはふと息を取り込んで、時間をかけて何とか飲み込む頃には涙目になってしまっていた。でも美味しい。やっぱり熱々を食べて良かった。


 焼けるような口をワインで冷やして、やっと一息。


「美味しい。お野菜が柔らかくて、もっちりしたパスタによく絡んでる」

「それでももう少し冷ました方が良かったんじゃねぇか」


 笑いながらノアもラザニアを口にする。わたしよりは冷ましたようだけど、口に入れた瞬間に肩が跳ねたからきっと熱かったんだと思う。その様子に笑みが漏れてしまった。


「あっつ……うん、でも美味い」

「熱いものは熱いうちに食べないと」

「それも分かる。でもそれで口の中を火傷したこともあるだろ」

「口の中ってすぐに治るじゃない? だから火傷したっていいのよ」

「キスしたら痛むぞ」

「……っ、なっ」


 いきなりそんな事を口にするから、飲んでいたワインが変なところに入ってしまった。

 口に手を当ててごほごほと咳き込んでいると、音を聞きつけたのかエマさんがお水を持ってやってきてくれた。

 ゴブレットを受け取っても、まだ咳き込みながら水を飲むわたしを見たノアは笑いを堪えるように口元を手で隠している。


「アリシアちゃん、大丈夫?」

「だい、じょうぶ……ありがとう」

「ノアくん、また揶揄ったんでしょ。可愛くて仕方ないのも分かるけど、ほどほどにしなさいよ」

「はぁい」


 エマさんの言葉にノアは頷くけれど、まだ肩が震えている。そんなに可笑しかっただろうか。

 きっと厚い前髪の向こうでは、夕星が細められているんだろうな。


 エマさんがわたし達の前に、白ワインで満たされたグラスを出してくれる。明かりを受けてきらきらと煌めく琥珀色がとっても綺麗。

 飲みかけだったワインを一気に飲んで、空いたグラスをカウンターに返した。


「でも二人がそうやって仲良く過ごしているのが見られて、あたしも嬉しいわ」


 優しい声に頷く以外に出来なくて。

 エマさんはわたしに見えるように片目を閉じてから、また厨房へ戻っていった。


 ランチを一緒にした時に、わたしが不安を零した事を気にしていたのかもしれない。

 あの時にエマさんとお話出来たから気持ちが落ち着いた。いまのわたしはきっと、あの時よりも笑えているだろうと思う。


「……可愛くて仕方ない?」


 ワイングラスを口に寄せながら、エマさんの言葉を繰り返す。

 一口大に切ったトマトを口に運ぼうとしていたノアの手が止まった。


 フォークを置いたその手で、眼鏡のつるをそっと持ち上げると紫の瞳がちらりと覗いた。


「本音を言えばずっと腕の中に閉じ込めておきたいと思うくらいに、可愛い」


 囁くような声も、露わになる瞳も、熱を帯びている。

 揶揄うつもりが反撃されて、わたしはテーブルに突っ伏す事しか出来なくなってしまった。


 そんなわたしを見ておかしそうに笑ったノアは、眼鏡を元の位置に戻してからまたフォークを手に取った。

 切り分けていたトマトをわたしの口元に寄せてくれるのを視線の端に見てしまっては、起き上がる以外に出来るわけもなくて。


 まだ顔が熱いけれど、その顔がどんな色をしているか自覚もしているけれど、寄せられたフォークに顔を寄せてトマトを食べた。


「美味しい」

「これは火傷する心配もねぇしな」


 肉汁を吸い込んだトマトは焼かれているからか、とても甘い。

 ノアもまた切り分けたトマトを口にして、美味いと頷いている。


 同じものを食べて美味しいと言い合える。

 それだけなのに胸が詰まるように苦しくなって、好きっていう気持ちが溢れ出てくるみたいだった。


 ノアが隣に居てくれて、笑ってくれる。

 それが幸せで、ずっとこうしていられたらいいのにって思ってしまう。


「どうした?」


 ぼんやりとそんな事を思っていたら、またノアがフォークを口元に寄せてくる。

 今度はラザニア。とろけたナスがチーズを纏っている。


「幸せだなって思って」


 そう言ってまた寄せられたフォークでラザニアを食べる。やっぱり美味しい。

 

「そうだな」


 ノアの声も柔らかくて、わたしと同じ気持ちなのが伝わってくる。

 それが嬉しくて、笑みが零れた。

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