2-27.拒絶

 ノアはわたしをそっと下ろしてくれた。

 まさかの展開に心臓がばくばくと騒がしい。不安と、恐怖が綯い交ぜになってわたしの胸を巡っている。


 肩に掛けたままのバッグのひもを両手でぎゅっと握り締めていると、ノアが腰を抱いて引き寄せてくれる。それだけで、強張っていた体から少し力が抜けたのが分かった。


「あなたがわたくしの護衛から離れたりするから、こんな手を使わないといけなくなってしまったのよ」

「お部屋に籠もっていたのでは?」

「部屋なんて朝から抜け出していたわ。お昼にあなたが図書館に入るのを見かけたから、きっとアリシアさんも来ているのだと思って。予想が当たっていて良かった」


 隣でノアが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。


「わたくしはお願いを聞いて欲しいだけなのよ。ちょっとした、ささやかな願いでしょう」

「何度も申し上げておりますが、その願いが叶えられる事はありません。カミラ王女殿下、兵を使うのはさすがにやりすぎです。外交問題に発展してもおかしくない事態故、退かれた方が宜しいのではないでしょうか」

「別に国から兵を呼び寄せたわけではなくってよ。彼らも使節団の一員だもの、入国の許可は得ているわ」


 ノアは何の表情も浮かべていないけれど、苛立っているのが伝わってくる。その怒気にあてられて、わたしまでそわそわと落ち着かなくなってしまうくらいに。


 視界の端に、ラルスさんが動いたのが見えた。この場を離れようとしているけれど、兵の一人がしっかりとその腕を掴んでいるから難しいようだ。


「わたくし、これでも考えたのよ。婚約者が居て国を離れられないなら、アリシアさんに婚約を解消して貰おうと思ったの。でもそれもだめなんでしょう?」


 ふぅと深い溜息をついているけれど、正直なところ、溜息をつきたいのはわたし達の方だと思う。

 持っていた羽の扇をゆっくりと開いたカミラ王女が、それで自分を扇ぎながら表情を笑みに一転させた。


「だからね、アリシアさんも連れてきていいわ。名案でしょう?」


 いい事だと信じているように、それを口にするカミラ王女の表情は明るい。

 ノアが先程よりも大きな舌打ちをしたけれど、聞こえていないのだろうかとハラハラしてしまう。


 それよりも──名案とは。

 まるで、カミラ王女が妥協をしているみたいだけれど。どうしてわたし達が、そんな我儘に付き合わないといけないのか。

 わたしだって、苛立っている。


「わたくし、別にあなた達を引き裂きたいというわけではないのよ。わたくしはアインハルトを側に置きたい。あなた達は一緒に居たい。それなら皆でモンブロワに行くのが一番良い事なんじゃないかしらって」

「……お断りします。私も、アリシアもあなたについていく事はない」

「もう、我儘ねぇ。あなたの家はともかく、アリシアさんのご実家は困るんじゃないかしら」


 また、ブルーム商会の事を……!

 怒りで目の前が赤くなる。心臓が騒がしくて、呼吸が不自然に乱れた。

 もうどうなったっていいから、この人に──


「アリシア」


 全ての怒りをぶつけようかと、そう思った時に聞こえた声はとても柔らかだった。自分の名前がこんなに綺麗に聞こえるのは、彼が口にするからだって知っている。

 顔を上げると、わたしを見つめる夕星が優しく細められていた。


「落ち着け」

「でも……!」


 わたしの腰を抱いていた手が肩に移る。ぽんぽんと宥めるように優しく叩かれて、気持ちが落ち着いていくのが不思議だった。


「カミラ王女殿下、あなたがブルーム商会との取引を選べるわけではありません。商会が選ぶ側だとご理解なさっては?」

「……アインハルト。随分とわたくしを軽んじてくれるのね?」

「事実を述べたまでですが。ブルーム商会ともなれば、アンハイムとの取引が無くなったところで痛手はないでしょう。むしろ困るのはそちらの国で、そんな事態を引き起こした王女殿下の責任になるのかと」

「たかが商人の家でしょう。他に商家なんていくらでも──」

「商人を侮らない方がいい。特にブルーム商会の次期会長は敵には容赦しないのでね」


 次期会長といえば……兄なんだけれど。

 カミラ王女に対していい感情を持っていない兄が、過激な発言を繰り返していたのは家の中だけだったはずなのに。


 でもノアの言う通りだ。

 もしアンハイムから圧力を掛けられたとして、兄はすぐさまアンハイムを切るだろう。そしてそれは他の商会にだって影響があるはずだ。きっとわたしの考えも及ばないようなことまでやるだろう……あの笑顔で。


「商会の件で彼女を脅そうとしても無駄です。私もアリシアもあなたの望む玩具ではない。あなたの我儘に付き合うつもりは欠片としてありません。甘やかされた子どものままで居られるのも結構ですが、それはあなたの世界の中だけにして下さい。私達を巻き込むのはいい加減に迷惑です」

「な、っ……不敬が過ぎるわ、アインハルト。その罪を贖う為として、無理矢理連れて行ったっていいのよ」


 きっぱりと拒否の言葉を紡ぐノアの姿に、わたしの怒りはどこかに消えてしまったようだ。わたしが言いたかった事を、ノアが全て口にしてくれたから。


 もしもこれでノアが何か罰を受けるような事があれば、共に行こう。

 国を出る覚悟だって、とっくに出来ているのだから。


 そんな事を思っていたら、こちらに近付いてくる複数の足音が響いた。目を向けるとラルスさんがお腹を抱えて笑っているのが見える。

 わたしと目が合ったラルスさんは、こちらに向かって「よく言った」と親指を立てていた。


「何の罪だ。カミラ、いい加減に藪を突くのはやめるんだな」


 疲れが滲んでいながらも、その声はよく通る。

 戸惑うように道を開けた兵達の向こうから現れたのは、ジーク王太子殿下とラジーネ団長だった。後ろには騎士達が隊列を組んで続いている。

 腕を振りほどいたラルスさんが、その隊に加わるのも見えた。


「やってくれたな、カミラ。アンハイムに正式な抗議文を送らせて貰うぞ」

「別に危害を加えたわけではなくってよ。ちょっとお話をしていただけじゃない」


 カミラ王女の様子に、ジーク殿下の黄瞳が怒りを帯びて色を濃くしているように見える。

 そんなジーク殿下を見ても、カミラ王女は気にした素振りなく羽扇を揺らめかしていた。


「……お前のところは教育を間違ったようだな」

「耳が痛い」


 ジーク殿下の声に応えた声の主は、隊列を組む騎士達の中から聞こえた。

 訳が分からないのはわたしだけではないようで、カミラ王女も眉を寄せてそちらを見ている。


 騎士の中から前に進み出た人は、金の髪に青い瞳──カミラ王女によく似ていた。


「……アンハイムの第二王子だ」

「え?」


 小声でノアが教えてくれる。

 わたしの肩を抱きながらノアが少し下がった。わたし達を囲んでいる兵士達もどうしていいのか分からないようで、わたし達を止める様子はない。


「もう帰っていいんじゃねぇかな、俺らは」

「さすがにだめだと思うわ」


 わたしだけにしか聞こえないような声で、ノアがそんな事を言うものだから、苦笑いしか出てこなかった。

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