2-26.夕焼けの中、響く声
夕方までに作業は終わって、書架に並べやすいようワゴンに載せるところまで出来た。
使った道具も片付けて、腕時計を確認すると終業までもうあと僅かという時間だった。
わたしはバッグから手帳とペンを取り出して、ワゴンの前にしゃがみこんだ。
借りたい本があるから、メモをしておいたほうがいいだろう。書架に並んで暫く経って、借りる人がまだいないようだったらわたしが借りよう。
そう思って背表紙を指でなぞりながらタイトルを確認していく。
「この上下巻のミステリーもの、面白そうだと思ってたのよね……。それと、レシピ本と……」
──コンコンコン
ノックの音に顔を上げる。
手帳を閉じてバッグにしまいながら扉に近付くと、「俺だ」とノアの短い声がした。
扉を開けると、まだ騎士服姿のノアが立っていて、わたしを見ると紫の瞳が優しく細められた。
「終わったか?」
「ええ。ノアはこの後もお仕事?」
「もう少しな。そんなにかからねぇとは思うが」
終業の鐘が鳴る。図書館はもう閉館しているけれど、今日はそちらに出ないでこのまま帰っていいと、上司に言われている。
後で上司の手が空いた時に、会議室を確認して施錠してくれるそうだ。
「じゃ、行くか。マルクさんはどこに来る予定だ?」
「裏門の方に」
頷いたノアが手を差し出してくれるから、バッグを肩に掛けてから手を繋いだ。伝わる温もりが愛しくて、合わせてくれる歩調も優しくて、頬が緩むばかりだった。
でも、そうやって浮かれてばかりもいられなくて──
「……王女様は?」
廊下を歩きながら問いかけると、ノアが形の良い眉を下げた。
それだけで、この後の答えが分かってしまう。
「まだ部屋に閉じこもっているらしい。何をするか分からなくて、こじ開ける事も出来ないそうだ」
「そうなの……」
「ジーク殿下が言うには『もう少し』らしいけどな。まだ胃薬が手放せないと思うぜ」
王女様が何かをする度に、飛んできていたジーク殿下が思い浮かぶ。休まる時なんて無かったんじゃないだろうか。
きっとそれはノアもだけど。この件が終わったら、本当にゆっくり過ごして貰いたいと思う。そして出来れば、その隣にわたしも居たい。
裏口の扉を開けたノアが、周囲へ目を向ける。探るような様子は真剣そのもので、声を掛ける事が出来ないくらいだった。
「……誰もいないか。マルクさんが来たら、お前もすぐに帰った方がいいな」
「ええ、そうする。ノアも帰れそう?」
「宿舎に戻るより詰所に籠ってた方がバレなさそうだからな。王女殿下が帰るまでは詰所に居るさ」
「早く帰れるといいわね」
「そうだな。アリシアは明日の仕事はどうする?」
裏口から裏門へ歩みを進める。
夕焼けが石畳を照らして眩しい程だった。すっかり陽も長くなって、夜の気配はまだ遠い。
空に浮かぶ雲も金色に染まっていて、目の上に
「明日は出勤するつもりだったんだけど……
「休んだ方がいいかもしれねぇな」
「ノアはどうするの?」
「そうなったら俺も休むさ。どこか出掛けるか」
ずる休みをするみたいで気が引けるけれど、魅力的なお誘いをすぐに断る事も出来なくて。庇にしていた手を下ろしながら、悩ましさは呻くような声になって漏れてしまった。
「んん……行く」
「そう言ってくれると思った」
「でも明日、お休みをしなくちゃいけなくなった場合よ。そうじゃなかったら出勤するもの」
「分かってるって」
機嫌よさげなノアの様子に、つられるようにわたしの心も弾んでいく。
どこに行こうか。ノアと一緒ならどこでも楽しいのだけれど。
やってきた裏門に、まだマルクの姿はなかった。
でも人影がひとつ──あれは、ヨハンさんだ。
「……アンハイムの文官だな」
「ええ。図書館によくいらしていたし、ラルスさんとも仲が良くなったみたいで……」
「じゃあ厄介な奴じゃないって事だな」
少しばかり警戒していたらしいノアが、ラルスさんの名前を聞いたらちょっと力を抜いたのが分かった。
ヨハンさんはわたし達に気付くと、ほっとしたように笑みを浮かべている。
「アリシアさん、いいところに! 正門の場所は……んん? あなたはアインハルト殿ですね! うちの王女が本当にご迷惑を……」
ヨハンさんはぺこぺこと何度も頭を下げている。
ノアは片手を上げてそれを制止しつつ、わたしを庇うように一歩前へと出た。
「ここは裏門で、正門は反対側になる。貴殿はなぜこのような場所に?」
「正門に行くつもりが、迷ってしまったようで……お恥ずかしい」
「……ヨハンさんは道を覚えるのが、ちょっと……苦手みたいで」
方向音痴とはっきり言うのも憚られて、そんな言葉を口にしたけれどノアは納得してくれたようだ。ラルスさんと仲が良い、というのもあるのかもしれない。
「ここを真っ直ぐに行くと図書館の裏手に出る。図書館を迂回すれば正門に近いが……」
「図書館まで行ければきっと大丈夫です! 僕までご迷惑を掛けてしまって、もうどうやってお詫びをしたらいいのか。でも、
もう少し。
さっきもこの言葉を聞いた気が……そうだ、ノアが話していたジーク殿下の言葉。わたし達の知らないところで、何か進んでいるのだろうか。
「では失礼します。アリシアさん、図書館も凄く楽しかったです! 出来る事なら全てを読むまで僕だけでも滞在したかったんですが、またそれは別の機会にでも」
そう言って手を振ったヨハンさんは、ノアの言った通りの道を進んでいく。間違わないか心配だったけれど、何とか大丈夫そうだ。
「……変わった人だな」
「凄く本が好きみたいで、館長とも仲良くなって語り合っていたらしいわ。それより……ヨハンさんももう少しって言っていたけれど、何があるのかしら」
「さぁな。だが──」
「アインハルト!」
ノアが言いかけた言葉は途中で遮られる。
静かだった裏門に響く、どこか焦りを含んだような声。そちらを見ると、ラルスさんが走ってくるところだった。
随分急いでいるようだけど、一体何があったんだろう。
「逃げろ!」
物騒な言葉が聞こえた。
何から、とか。どうして、とか。頭の中を疑問が沢山巡るけれど、そんなわたしと正反対にノアの行動は素早かった。
躊躇いもなくわたしの事を横抱きにしたかと思えば、その場を駆けだした。
でも──裏門を蹴破るようにして入ってきた兵士達に、わたし達はあっという間に囲まれてしまった。
「くっそ……遅かったか」
人垣の向こうで、ラルスさんが肩で息をしている。
わたし達を囲んでいるのは……アンハイムの兵士達だ。
「ここが王宮の敷地内だと知っての狼藉か」
「あらあら、怖い声。久し振りに会えると思ったのに、逃げ出すなんてひどいわ。そこの騎士も……逃げろだなんて随分な事を口にするのね」
くすくすと笑みの混じった声が聞こえる。
兵士達が二つに割れて道を作る。ゆったりとした仕草で歩いてきたのは、侍女を引き連れた、カミラ王女だった。
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