2-23.寂しい気持ち

 本を持ってきたらよかった、なんて思いながら調理台の上に両腕を重ねてそれを枕にする。

 自室まで取りに行けばいいだけなんだけど、何だかそれも面倒で。


 離れた場所にあるオーブンの中が、暖かなオレンジ色で満たされているのをぼんやりと眺めていた。


「あら、いい匂いね」


 不意に聞こえた声に顔を上げる。

 調理場に入ってきたのは母だった。この中は暑いのか、手にしていた扇を開いて、ぱたぱたと扇いでいる。


「マフィンを焼いているの。お母さんもアイスティーを飲む?」

「いただこうかしら。私もここで、焼き上がりを待っていても構わない?」

「それはもちろん。でも暑いでしょう」

「アイスティーがあるなら平気よ。それに焼きたてを食べたいもの」


 ふふ、と悪戯っぽく笑う母の様子につられてわたしも笑ってしまった。


 席を立ち、食器棚からグラスを取る。ドロテアがアイスペールを用意してくれていたから、グラスの中に氷を入れた。カラカラと響く高い音が涼やかだ。


 調理台へ戻ると、母が椅子を運んできたところだった。

 ピッチャーからグラスへアイスティーを注ぎ、母の前に置く。


 わたしのグラスは結露してしまっていたから、ナフキンで水を拭きとった。指先に触れた水が冷たくて気持ちいい。


「今日はジョエル君は来ないのね。みんな、残念がっていたわよ」

「お仕事だもの。今日と明日も都外へ出るみたい。明後日は騎士団の詰所に戻ってくるみたいだけど」


 手紙の内容を思い出しながらそう口にする。

 今日も商会の職員が来てくれているのだけど、余程昨日ノアに剣を見て貰った事が嬉しかったらしい。わたしも何度も聞かれたもの。「アインハルト様はいらっしゃらないんですか」と。


「そうなの。あなたはもう暫く休むのよね?」

「それが……明後日は行こうかと思っているの。後で上司にもそれを伝えなきゃいけないんだけど」

「あら、でも……王女様が帰るのはその明後日でしょう? 会ってしまうんじゃない?」


 アイスティーのグラスを口元に寄せながら、心配そうに母が表情を曇らせる。

 わたしはマカロンの小皿を母の方へ動かしながら、大丈夫だと笑って見せた。


「明後日は新刊がたくさん入ってくるの。人手が居るから、わたしも行こうと思って。裏で作業をするから、王女様に会うような事はないわ。それに……帰る当日に絡んでくるような時間も無いだろうし」

「それはそうかもしれないけれど……。まぁあなたが決めた事なら反対はしないわ。ただ気を付けて欲しいって、そう思うだけよ」

「ありがとう、お母さん」


 大事にされていると思う。

 母も、父も兄も……家族だけじゃなくて、友人や近しい人達にも。

 何だか今日はそれを強く実感してしまって、胸の奥が切なくなってしまう。込み上げてくる感情を飲み込もうと、アイスティーを口に含んだ。


「そういえば昨日の新居はどうだった?」

「とっても素敵だったわ。でも裏庭に東屋を作る事になったから、また工事が入るの。図書室から裏庭に行くための扉もつけてくれるって」

「あらあら。結婚式がまだ先で良かったわねぇ」


 おかしそうに母が笑う。マカロンを摘む細い指には、父の瞳と同じ色の指輪が嵌められている。昔からその指輪を撫でる癖があるのだけど、母は気付いているのだろうか。


「それがね……お母さん、わたし達……結婚式を早めたいの」

「ええ?」

「冬の予定だったけど、秋とか……。準備が大変なのは分かっているけれど」


 母は小さく頷いて、ピンク色のマカロンを齧った。

 無理を言っているのは分かっている。アインハルト伯爵家にも伝えないといけないし……それはノアがしてくれると言っていたけれど、あちらのお母様ともまたその事で話さなければならないだろう。


「今回の件があったからでしょう。気持ちは分かるわ、早く一緒になって安心したいのよね」

「ええ。……婚約者よりも、強い繋がりになりたいの」


 ふぅ、と深く息をついてから母は優しく微笑んだ。

 調理台の上にあるわたしの手に、母の冷たい手が重なる。ぎゅっと優しく握ってくれるその温もりは、わたしが幼い時から変わらなかった。


「あなたも忙しくなるから、覚悟なさいね」

「ん……分かってる」

「……冬までは一緒に過ごせると思ったけれど、少し早くなってしまうのね」

「お母さん……」

「あなたが幸せになるのは嬉しいのよ。でも寂しく思ってしまうのはどうしようもないわね。結婚したってあなたは私の娘だし、ここがあなたの家だというのは変わらないのだけど」


 わたしも寂しい。

 ノアと一緒になりたいけれど、この家を離れるのはやっぱり寂しい。

 泣きそうになるのを堪えていると、くすくすと笑い声を漏らした母がわたしの眉間を指でつついた。


「ひどい顔をしているわ。あなたはまだお勤めするし、新居だって近いからいつだって会えるのよね。セシリアとも会えているんだから、あなたとも会えるわ」


 姉のセシリアは子爵家に嫁いでいる。

 お腹が大きくなってきたのと、悪阻がひどくて屋敷で休んでいる事が多いと聞いた。姉の体調が良くなったら、お見舞いに行こうと兄と今朝話したばかりだ。


 ジリリリリ……とベルの音が調理場に響いた。

 焼き上がりを報せる音に、慌てて椅子から立ち上がる。


「いけない、すっかり忘れていたわ」


 オーブンの隣に置いてある厚地のミトンを手にして扉を開けた瞬間、マフィンのいい匂いが一気に溢れ出てくる。


 四つの天板を順番に引っ張り出し、調理台の上に並べていく。

 うん、綺麗な焼き目がついている。焦げてはいない。


 一応確認の為に串を刺してみるけれど、生地がついてくる事はなかった。

 大丈夫、今日も美味しそうに出来上がった。


 全部を型から外していくのは大変だった。なんせ三十二個もあるのだから。

 用意したお皿に一つずつを載せて母の元に戻ると、母は手を合わせて小さな拍手をしてくれた。ナイフとフォークも手渡して、わたしもまた席につく。


「綺麗に焼けたわね。美味しそうだわ」

「まだ熱いから気を付けてね」

「ええ。でもこの熱いうちに食べるのが美味しいのよね」


 母もいつもマフィンは手で食べるけれど、さすがに熱すぎる。わたしもナイフとフォークを使って、食べやすい大きさに切り分けた。


 マフィンを刺したフォークを口に寄せると、紅茶の香りがふわりと漂う。

 湯気が立っているのも美味しそう。ふぅふぅと気持ちばかり吹き冷まして、まだ温かいそれを口に入れた。


「んん! 美味しい、けど……っ、あっつい」


 吐く息まで熱くなってしまっている。何とか咀嚼して飲み込むと、熱い口をアイスティーで冷やした。

 茶葉を入れ過ぎたかと思ったけれど、これくらいでちょうど良かったみたいだ。バターの風味の中に、紅茶の香りがしっかりと溶け込んでいる。もう少し甘くてもいい気がするけれど、冷めたらきっと甘さを感じるだろう。

 焼きたてだから表面が少しサクサクしているのも美味しい。冷えたらしっとりするから、これはやっぱり焼き上がりを待っていた人の特権だろう。


「とても美味しいわ。それにしても随分作ったのね」

「いっぱい食べたいと思って……でも本当ね、ちょっと多すぎたかも。ノアにも届けようと思っているの」

「きっと喜んでくれるわね」


 母の言葉に頷いてから、アイスティーを口にした。


 きっと……ううん、絶対喜んでくれる自信がある。

 だってこんなにも美味しく出来たんだもの。ノアなら、少しの失敗くらい笑ってくれる気もするけれど。


 会いたいな、なんて思うのは何度目になるだろう。

 今日の手紙は、その気持ちを素直に綴ろう。そう思いながらマフィンを切り分けた。

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