2-22.紅茶のマフィン
仕事を休んで二日目。
今日はいつもの時間に起きられたから、ゆっくりと過ごす事が出来そうだった。
カーテンを開けた先には綺麗な青空が広がっている。雲もなく、朝だというのに既に陽射しが強い。今日は暑くなりそうだ。
朝に届いていた手紙に添えられていたのはカンパニュラ。鮮やかな青紫の花は、揺らすと鐘の音が鳴ってしまいそう。その花姿も可愛らしくて、わたしの大好きな花だ。
机においてある花瓶にそれを挿すと、贈られてくる日々の花で賑やかになってきたのが嬉しい。昨日貰ったブーケはベッドサイドのテーブルに飾ってある。
薄紫の封筒を開くと、綺麗な文字が並んでいた。
指先でなぞればその熱さえ伝わりそうな想いが綴られていて、幸せな気持ちで満たされていく。
「昨日も会ったばかりなのにね。でも、わたしも会いたいわ」
そう呟きながらなぞったのは、『会いたい』の一文だった。
午前中はクローゼットの整理に費やした。
母と一緒にのんびりと昼食をとり、それから何をしようか悩んだわたしは──お菓子を作る事にした。
選んだのは紅茶のマフィン。
これなら日持ちもするし、作るのだって難しくない。何度も作った事があるというのも決め手だった。
調理場には夕食の仕込みをするドロテアもいるけれど、どうしてあんなに手際がいいのかと目で追いかけてしまうほどだ。
幼い頃からそれが不思議で、何度となく問いかけても「慣れているから」以外の答えが返ってきた事はない。
「ねぇ、わたしが何でも好き嫌いなく食べられるのって、ドロテアのおかげよね」
「どうしました、アリシア様」
柔らかくしておいたバターを泡だて器を使って混ぜながら、ふと思った事を口にする。
ドロテアはお鍋をかき混ぜていたのだけど、わたしの言葉に振り返りながら可笑しそうに笑った。
「だって何でも美味しいんだもの。苦味の強かった野菜だって、骨の多いお魚だって、ドロテアが美味しく作ってくれたから食べられたのよ」
「アリシア様は何でも召し上がって下さいましたからね、作り甲斐がありました」
「見た目が美味しそうだから、初めて見る食材でも口にする事が出来たのよね」
「ありがとうございます。……アリシア様もお嫁にいかれたら寂しくなりますね。どれくらいの量を作ればいいのか、間違ってしまいそうです」
そうだ、ノアと結婚したらドロテアの料理も食べられなくなるのだ。
幼い頃からずっと食べてきたから、少し寂しくなってしまうのも仕方がない事だろう。
バターが白っぽくなってきたところで、計っておいたお砂糖を二回に分けて加えた。その都度よく混ぜると、ざりざりとしていた感覚がしだいに混ざっていくのが分かる。
溶き卵も二回に分けて混ぜる。それから……茶葉。
「わたしも寂しくなるわ。このマフィンもドロテアに教えて貰ったのよね」
「今では私よりもお上手ですよ」
「ううん、まだまだドロテアの味には敵わない。これからも教えて貰わなくちゃ」
「私で良ければ、いつだって喜んでお教えします」
紅茶缶を開けるといい香りが広がって、胸いっぱいにそれを吸い込むと紅茶が飲みたくなってしまった。
今日のおやつの時間はアイスティーを楽しもう。少し濃い目のものがいい。
材料を混ぜているボウルの中に、茶葉を入れる。少し入れ過ぎたかもしれないけれど、いいでしょう。
牛乳を入れながらまたかき混ぜる。色々なものが混ざって、ひとつになっていくのを見るのは楽しい。美味しいものは、様々なものを重ねて出来あがっているのだ。
ふるって、合わせておいた粉ものも二回に分けて混ぜ合わせる。
ここで混ぜすぎてはいけないと、ドロテアに口を酸っぱくして言われた事を思い出す。最初はその言いつけを守らずに、思いっきりかき混ぜたから上手く膨らんでくれなかった。
それでも家族やドロテア、マルクは美味しいと言ってくれたけれど。やっぱり守らなければならない手順もあるのだ。
「アリシア様、オーブンの準備が出来ましたよ」
「ありがとう」
型にはマフィン用の紙カップを敷いてある。
たっぷり入れたくなるけれど、生地は七分目まで。これも守らなくてはいけない事。
もったりとした生地を、スプーンを二本使って入れていく。
たっぷり食べたいからって、ちょっと作りすぎたかもしれない。出来上がる数は全部で三十二個の予定。
美味しく出来たらノアにも届けよう。
思えば、わたしが作ったお菓子を渡すのも初めてなのではないだろうか。今までにそんな機会もなかったけれど、もし喜んでくれたら……もういらないと言われるまで作り続けてしまうかもしれない。
そんなわたしを想像して、思わず笑ってしまった。
型に入れ終えたものから順番に、オーブンに入れていく。
熱いから触ってはいけませんと、型を入れるのはドロテアに任せてばかりだった。いつから自分で入れるようになっただろう。それがきっと、もう幼い子どもじゃないとドロテアに思って貰えた時だったのだろう。
「あとは焼き上がりを待つだけね」
「お疲れ様でございました」
オーブンの側にいるだけでひどく暑い。
窓を開けているけれど、涼やかな風もオーブンの熱気には負けてしまうようだ。
「アイスティーを用意してございますよ」
「ありがとう! 今日はアイスティーが飲みたかったの」
「それはようございました。サロンでお飲みになりますか?」
「ううん、ここで飲むわ」
「かしこまりました」
調理台の端に椅子を持っていくと、そこに背の高いグラスとマカロンの載った皿が用意される。氷で満たされたグラスにドロテアがアイスティーを注ぐと、一気に浮かび上がった氷がぶつかり合って澄んだ音を立てた。
大きなガラスポットにはまだアイスティーがたっぷりと入っている。それをグラスの横に置いて、ドロテアは調理場を後にした。
料理だけでなくこの屋敷の家事を全て担っているから、ドロテアはいつも忙しいのだ。にこやかで焦っている様子は見た事がないけれど。
さっそくグラスを手にしてアイスティーを一口飲んだ。
少し濃い目に淹れてあって、それもわたしが飲みたかった通りの味だ。
暑かった体がゆっくりと冷えていく。
窓から入り込む風と、冷たいアイスティー。こんなのんびりする午後もいいなと思った。
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