2-24.裏方作業とお昼ご飯
次の日の朝、ノアから届いた手紙にはマフィンのお礼が綴られていた。
昨日のうちにマルクに頼んで宿舎に届けて貰って本当に良かった。ノアからの手紙を指でなぞりながら笑みが漏れた。
──美味しかった。誰にも渡したくなくて、ラルスに強請られたけどやらなかった。
二人のやりとりが想像できてしまって、可笑しくなってしまう。
まさかこんなに喜んでくれると思わなかったから、何だか恥ずかしい気持ちもあるけれど。
手紙にはマフィンのお礼の他に、わたしを心配する文も綴られていた。
明日から出勤する事を手紙に書いたから、やっぱり不安に思うらしい。事情もちゃんと書いたし、裏から出ないという事も記したからか、反対する事はしなかったけれど。
──出来るだけ様子を見に行く。
ノアもお仕事が忙しいのに。
でもその心遣いが嬉しかった。迷惑にならないよう、明日は本当に裏から出ない。食堂にも行かないし、一人にならない。
改めて、自分にそう言い聞かせた。
そして、翌日。
気持ち良く晴れた、いい天気だった。
マルクにお願いして、馬車で図書館まで送って貰う。周囲に誰もいない事を確認して、急ぎ足で館内に入るわたしはとても怪しかっただろうと思うけれど。
上司にも連絡をしておいたから、わたしは出勤してすぐに職員専用区域の中にある会議室へと向かった。今日は完全に裏方作業だから、制服に着替える事もない。
会議室の机の上には、既に本が山積みになっている。用意されているリストと照らし合わせ、図書館所有の印を付け、分類ごとに整理していく仕事だ。
少しの量なら館内で別の仕事をしながら行うのだけど、これだけの量ならこの作業に専念した方がいい。今日は表に出たくないわたしにぴったりの仕事だと思った。
もう始業時間だし、早速始めよう。
腕まくりをしたわたしは、気合を入れてまず一冊の本を手に取った。
異国のレシピをまとめたお料理本だ。これは後でわたしも読みたいから、覚えておこう。
あまりりす亭に持っていったら、きっと美味しく作ってくれるから。
あまりりす亭にもしばらく行っていない。
エマさんとランチを一緒に食べてから、もう随分と経ったように感じてしまう。
ノアのお仕事が落ち着いたら絶対に行こう。ううん、今日で色々終わるんだから、もう明日でも明後日でも行けるかもしれない。
ノアと一緒に、あまりりす亭で美味しいご飯を食べる。それからお酒を楽しむ事を想像すると、それだけでお腹が空いてくるようだった。
お昼を告げる鐘が鳴って、わたしは大きく伸びをした。
背中がパキパキと小さな音を鳴らすくらいに、同じ姿勢を取り続けてしまっていたみたいだ。
周囲を見回すと作業の終わった本は半分ほど。これなら今日の終業までには全部終わらせる事が出来るだろう。書架に並べるのは明日以降になるけれど、でもこの作業さ終わっていればいつでも出せる。
わたしが立ち上がるのと、会議室の扉がノックされるのとは同時だった。
誰か分からないから、怖くて返事が出来ない。まさか王女様ではないと思うけれど、でも……。
「アリシア、私よ」
「……ウェンディ」
わたしの不安を読み取ったように、明るい声が掛けられる。ウェンディだ。
昼食を食堂から持ってきてくれると言っていたから、きっとそれだろう。ほっとしながら扉に近付いて、大きく開ける。
ウェンディは両手にそれぞれトレイを持っている。きっと重たかっただろうと、慌てて一つを受け取った。
「ごめんなさい、重かったでしょう」
「大丈夫よ、気にしないで」
食堂から会議室までは距離もある。重かっただろうし、苦労もしたと思う。申し訳なくて再度謝罪を重ねようとしたら、ウェンディが首を横に振った。
「そこまではラルスさんに手伝って貰ったの。だから大丈夫よ」
「そうだったの。でも、本当にありがとう」
「どういたしまして。さ、食事にしましょう」
本が並んでいる場所からは距離を取って、空いたテーブルを食事の場とした。
今日のメニューは鶏のトマト煮だ。それにいちじくとトマトのサラダ、十字にクープの入った丸パン。デザートはレモンムースのようだ。
「美味しそう」
手を組み、感謝の祈りを口にする。
スプーンを手に取ったところで、ひとつ思い出した事があった。手を伸ばせば届く位置にあるバッグを引き寄せる。席を立てばすぐなのだけど、ぎりぎり届く場所だから、少し横着してしまった。
「これ、わたしが焼いたマフィンなの。よかったら食べて」
「美味しそう。遠慮なく頂くわね」
二つずつ包んだマフィンをウェンディに渡す。
これはまた昨日焼いたもので、ドライフルーツが入っている。連日のマフィンになってしまったけれど、これは父と兄にリクエストされたものだ。紅茶のマフィンはあっという間になくなってしまったから、もっと食べたかったと言われてしまったのだ。
ウェンディはマフィンの包みを開けている。食事の前だけど……と言いかけたわたしに、悪戯っぽく笑いかける。
「食べたいものから食べなくちゃ」
「ふふ、それもそうね」
確かにわたしも、逆の立場なら同じようにマフィンから食べていただろう。それに食べてくれるのが嬉しくて、笑みが零れた。
わたしはスプーンを鶏のトマト煮に沈めた。
鶏肉を口に入れると、ほろほろと解けてしまうくらいに柔らかい。トマトの酸味と、ほどよい甘味がとても美味しい。コリコリとした食感は、キノコだろうか。
「このマフィン、とっても美味しいわ。後で作り方を教えてくれる?」
「もちろん。うちのハウスメイドのドロテアが教えてくれたレシピなのよ」
「わたしでも作れるかしら」
「とても簡単なの。今回はドライフルーツだけど、紅茶だったりチョコレートを入れてもいいわよ」
ウェンディはあっという間に一つをぺろりと食べてしまった。
もう一つのマフィンに手を伸ばして……さすがにやめたようだ。名残惜しそうな視線を送っているけれど、それだけ気に入ってくれたかと思うと嬉しくなってしまう。
「そういえば……王女様が出発される時間は決まっているの?」
サラダを食べながら、ふと気になった事を聞いてみる。
いちじくは甘くて、とろみがある。オレンジソースが掛かっているようで爽やかな香りが鼻を抜けていった。うん、これも美味しい。
「お昼頃の予定と聞いているわ。帰ったのを確認したら教えるわね」
「ありがとう。ラジーネ団長も大変だったんじゃない?」
「ええ、詳しい話をされたりはしないけれど、きっと大変だったと思うわ。でもそれよりも王太子殿下の方が疲れているかもしれないわね」
確かにそうだ。
王女様が何かをする度に、王太子殿下が駆り出されていたもの。日々の執務の中で、忙しくしていた事だろう。
ウェンディと顔を見合わせて、二人して苦笑いが漏れてしまった。
「ちゃんと帰ってくれたらいいわね」
「嫌だわ、怖い事を言わないで」
ウェンディの言葉に、なぜだか体が震えた。嫌な予感……とまではいかないけれど。
でもまさか帰らないという事もないだろう。だからきっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、大きく切られたトマトを口に入れた。
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