2-17.負けたくない

 喧噪が遠ざかっていく。

 足元がふらついたのは、息を詰めていたからかもしれない。息が上手く吐けなくて、目の前が暗くなる。ウェンディがわたしの腕を掴んで支えてくれているから倒れずには済んだけれど、気持ちが悪い。


「ブルーム嬢……顔色が悪いな。深呼吸をした方がいい」


 ラジーネ団長が声を掛けてくれるけれど、浅くて短い息しか吐けなくて、胸が苦しい。

 ウェンディが背中を撫でてくれて、やっと呼吸を取り戻す事が出来た。深く吐いて、深く吸う。ただそれだけなのに、自分の体がいう事をきいてくれなかった。


「ウェンディ、何があったのか後で教えてくれ。まずはブルーム嬢を休ませた方がいい」

「そうですね。帰りましょう、アリシア。もう大丈夫だから」

「……ええ。ありがとう、ウェンディ。ラジーネ団長も申し訳ありません」

「君が謝る事なんて何もない。……迷惑を掛けているのはこちらの方だ」


 すまなさそうに頭を下げる団長に、首を横に振る事しか出来なかった。気の利いた言葉を返す余裕なんてなかった。


 馭者の手を借りて、馬車に乗り込む。ウェンディが寄り添うように隣に乗ってくれて、それから静かに扉が閉まった。


 ゆっくりと馬車が動き出す。

 寒さはまだ、消えてくれない。腕を摩っていたら、馬車に用意してあったらしいショールを、ウェンディが掛けてくれる。淡いピンク色で織られたそのショールはウェンディの瞳にも似ていた。この上質な絹はウェンディの実家であるクレンベラー領の特産だろう。


「アリシア、あの人の言う事を……気にしないでっていう方が無理よね」


 気遣うような声に顔を上げると、ウェンディはいまにも泣いてしまいそうに顔を曇らせていた。

 友人にそんな顔をさせてしまうほど、わたしもきっとひどい顔をしているのだろう。

 

「大丈夫よ、ウェンディ。ちょっとびっくりしたし、傷付かなかったわけでもないし……実家にも何かあるんじゃないかと思ったら怖い気持ちもあるんだけれど。でもね、それよりも……腹立たしくて仕方がないの。あんな脅しに負けたくない」


 そう。腹が立って仕方がない。

 どうしてあんな事を言われなければならないのか。あの人の言葉に傷付くだけ馬鹿らしい。

 ぐっと拳を握ると、その拳にウェンディが手を添えてくれる。


「そうね、怒ってもいいわ。王女だからって、人の心を踏み躙っていいわけじゃないもの。無理矢理にアインハルト様を連れていく事なんて出来ないし、あなたの家の事だってシリウス様達が守ってくれるはずよ」

「ええ、ありがとう。もしかしたら……王女様にとって、結婚は好きでもない人とするものなのかもしれない。だからわたしとノアの婚約に、心があるって思っていないんじゃないかしら」

「だからってあんなひどい言葉を掛けていいわけじゃないわ」

「それはもちろんよ」


 わたしとノアの婚約に、あの人が口を出す権利なんてないもの。

 王族の婚姻に、恋心はないのかもしれない。でも、だからって……それをわたし達にも強いるのは違う。


 深く息を吐くと、少し気持ちが落ち着いてくるようだった。


「家に帰ったら、父にも相談してみるわ。商会に迷惑が掛かってしまうかもしれないけれど……でもきっと、わたしの味方で居てくれると思うから」

「忘れないでね、私だってあなたの味方よ」

「ありがとう」


 揺れの少ない馬車がいくつかの角を曲がる。

 ゆったりと動く馬車が住宅街に入ったのが分かった。もうすぐ家に着くのだろう。


「ねぇ……少しお休みをしたらいいかもしれないわ。アインハルト様も日中は王都を離れているし、あなたの事が心配なの」


 それはわたしも考えていた。

 わたしが出勤する事で、色々な人に迷惑を掛けてしまう。それを理解するには、今日の事だけでもう充分過ぎるくらいだった。


「そうね。お休みするのも、皆に迷惑を掛けてしまうけれど……」

「迷惑だなんて。あなたが無事で居てくれる事が一番大事なのよ。……さっきの件はシリウス様にも全てを話すつもりなの。知られたくないかもしれないけれど……」

「それは全然構わないから気にしないで。知っておいて貰った方がいいだろうし」

「……シリウス様からアインハルト様にも話が伝ってしまうかもしれない」


 申し訳ないといった風にウェンディが眉尻を下げるものだから、わたしは彼女の手を両手で握っていた。それを大きく振りながら、大丈夫だと微笑んで見せる。


「わたしからも伝えるつもりだったから大丈夫。……ノアは気にしてしまうかもしれないけれど、これだって彼のせいではないんだし。黙っていたらわたしが怒られてしまいそうだから、ちゃんと話して、わたしと一緒になって怒って貰おうと思うの」

「ふふ、そうね。それがいいわ」


 ほっとしたように、ウェンディの頬に赤みがさした。

 前のわたしなら、落ち込んで、一人で抱えて、行き詰まっていただろうと思う。


 ノアが気にしてしまうからと黙ったとして、いつかは彼の耳に入るのだ。

 この一件にノアの悪い所なんて一つも、欠片だってないのだから、黙っている事だってない。

 そう思えるようになったのは、ノアがわたしに会いに来てくれて、手紙をくれて、想いをちゃんと伝えてくれているから。

 わたしとノアの間には絆があるもの。だから、怖くなんてない。


 馬車がゆっくりと減速する。

 窓から外を伺うと、もう家の門の側までついていた。いつものようにマルクが立っていて門を開けてくれるけれど、ラジーネ家の馬車に驚いているのが伝わってくる。


「送ってくれてありがとう。さっきもウェンディが側に居てくれて、心強かったわ」

「そう言ってくれると嬉しいわ。お休みは明日からでもいいから、無理はしないでね」

「ええ、ありがとう」


 借りていたショールを返すと、もう寒さは感じなかった。

 馭者が明けてくれた扉から降りると、マルクが深々と頭を下げている。ウェンディは手を振ってくれて、また静かに馬車が動き出した。


「……何かございましたかな?」

「そうなの、とっても腹が立つことよ。父さんたちはもう帰ってきている?」

「はい。食堂でお待ちになっています」

「着替えたらすぐに行くわ」


 何かを察したらしいマルクと共に玄関の扉を潜る。

 さて、父さんたちに事情を説明しなければいけないのだけど……わたし以上に怒りそうだ。

 外れないだろう未来を思って、少し笑った。

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