2-16.黄昏、帰る間際に
終業後に色々と片付けをしていたら、すっかり暗くなってしまった。
ラルスさんとヨハンさんはもう図書館を離れているけれど、二人が居てくれたおかげで安心して過ごす事が出来たと思う。
地下まではまさか来なかったとは思うけれど、それでも。一人で立ち向かうには勇気がいる人だから……王女様は。
黄昏の空に細い月が掛かっている。輝く
帰り支度をして図書館を出ると、門の前には馬車が止まっていた。
今日は迎えを頼んでいないし、うちの馬車ではない。あの紋章は……ラジーネ家のものじゃないだろうか。
そんなわたしの考えに答えるように、馬車から降りてきたのはウェンディだった。
先に帰ったはずなのに、どうしたのだろう。
「アリシア、お疲れ様」
「どうしたの? もう帰っていたと思ったけれど……」
「ええ。少しお喋りをしながら帰りたくなってしまって。家まで送るから、付き合ってくれる?」
「ありがとう。じゃあお願いしようかしら」
にこやかに微笑むウェンディが目配せをすると、馭者が馬車の扉を開けてくれた。
きっと……ラルスさんがわたしの警護についた事と、関係しているのかもしれない。わたしを送るよう、ラジーネ団長に頼まれたのかも。
申し訳なさと有難さで、何だか落ち着かない。明日はマルクに送迎を頼んだ方がいいだろう。わたしの為にも、皆の為にも。
「アリシア・ブルームさん?」
ウェンディが馬車に乗り、わたしも後に続こうとしたその時だった。
不意に掛けられた声に足が止まる。振り返ると、こちらに近付いてきている人影が三つ。馭者の方が警戒したように動いたのが視界の端に見えた。
「はい、何かご用でしょうか」
外灯の下、その姿がよく見えた。
アンハイムから来ている侍女が二人。それから兵士が一人。嫌な予感しかしないけれど、返事をするしかなかった。
「ふふ、やっとお話が出来るわね」
澄んだ声が夕闇の中に響く。
その声に体が固まってしまったのは、わたしだけじゃなくて。馬車からまた降りようとしていたウェンディも、ステップに足を掛けた姿勢で止まってしまっている。
侍女の一人が俯いていた顔を上げながら、髪を包んでいたスカーフを解く。
風にながれる金の髪。青い瞳は楽しそうに煌めいていた。
「……カミラ王女殿下に、ご挨拶を──」
「ああ、そういう堅苦しいのは良くってよ。楽にして頂戴な」
わたしとウェンディが膝を折ろうとすると、朗らかな声でそれを制止されてしまった。
逆に怖いのだけど……と思っていると、図書館の窓から上司がこちらを見ている事に気付いた。慌てたように走っていったから、きっと助けを呼んでくれるのだとそう期待するしかない。
「わたくしね、アリシアさんとお話がしたいだけなのに、どうにも邪魔が入ってしまって。ジーク兄様も、そちらのご主人も、ちっとも時間を作ってくれないんだもの」
拗ねたように口を尖らせる様子は可愛らしく見えるのに、わたしは背中に嫌な汗を感じていた。口の中が渇くのは、緊張しているのかもしれない。
「あ、あの……護衛騎士もつけずに出歩かれるのは……」
ウェンディがそう口にするけれど、彼女の声も少し震えている。
馭者がまた少し、わたし達に近付くように動いていた。
「いいじゃない。別に危ない事なんてするつもりはないのよ。皆がわたくしの願いを聞いてくれたら、こんな事だってしなくて済むのに」
ほっそりとした手を頬にあて、王女様は溜息をつく。
その願いというのは……ノアの事なのだろうと思った。
「ねぇアリシアさん。わたくしね、どうしてもアインハルトを連れていきたいのよ」
「お言葉ですが、彼はそれをお断りしているかと……」
「ええ。でもそれって、あなたという婚約者がいるからでしょう?」
胸の奥がざわざわとして落ち着かない。
本格的な夏を迎えようとしているのに、寒ささえ感じてしまうくらいに鳥肌が立っている。
「あなたがアインハルトとお別れをしてくれたら、アインハルトだってわたくしと共に来るのじゃないかしら」
「…………」
何と言ったらいいのか分からない。どれだけ言葉を探しても、王女様に伝わるのかが分からない。
王女様はわたしの様子などお構いなしに、にっこりと美しい笑みを浮かべている。
「聞けばあなたは一度婚約を解消しているそうじゃない? もう一度婚約者がいなくなったって平気だと思うのよ。慣れているのだから」
「な、っ……!」
この人は何を言っているのだろう。
頭に血が上るけれど、想いが、怒りが心の中でぐちゃぐちゃに掻き回されて、言葉が出ない。口を開いても漏れるのは震える吐息ばかりだ。
「カミラ王女殿下、お言葉が過ぎます」
ウェンディの声が固い。
それもどこか遠くに聞こえる。水の中に居るみたいに、耳も目もぼやけてしまったみたい。
「そうかしら。どうしても結婚したいっていうのなら、わたくしが懇意にしている商人のご子息を紹介してさしあげるわ。その方がご実家のご商売的にも宜しいんじゃなくて?」
「いえ、わたしは……彼と婚約を解消するつもりはありません」
「そうなの。……残念だわ。ご実家はアンハイムとも取引があったと思うけれど……ご商売が、上手くいくといいわね」
含んだようなその言葉も何もかも、本当にもう嫌だ。
だってそれって……もう脅しているのと同じじゃない。
どうしてここまでされなくてはいけないの。
不敬だとかはもうどうでもよかった。言い返そうと口を開いた時、こちらに近付いてくる複数の足音が聞こえてきた。
「あらあら、時間切れかしら」
「おい、カミラ! 侍女の真似をして勝手に抜け出すなんて、お前は何をやっているんだ!」
ジーク王太子殿下の怒号が響く。
その後ろには騎士とラジーネ団長の姿が見えて、きっと上司が報せてくれたのだろうと思った。
「ちょっとお喋りをしていただけよ。またね、アリシアさん」
ふふ、と笑い声を響かせながら侍女と兵士を連れて王女様は王宮の方へと歩いていく。
それを追いかけながら王太子殿下はまた怒っているけれど、王女様には何も響いていないように思えた。
残されたわたし達の影だけが、外灯の下で長く伸びていた。
肩を落としている自分の影が悔しくて、せめてもと胸を張ったけれど……あまり効果はなかったみたいだ。
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