2-14.幸せの在処

 楽しい時間はあっという間に過ぎて行ってしまう。

 ノアが時間を確認すると、もう日付も変わろうとしていた。


 お互い、明日もお仕事がある。

 特にノアは朝も早いのだから、あまり付き合わせるわけにもいかない。……本当は、ずっと一緒に居たいけれど。


 絞り出すような「帰りましょうか」なんていう声は、自分でも笑ってしまうくらいに震えていて。ノアは全部分かっているとでもいうように微笑むと、わたしの頭を撫でてくれた。


 片付けをしてごみを捨てて、やる事なんてあっという間に終わってしまって。

 帰るのを先送りにしたくても、それは叶わなかった。



 手を繋いで夜道を歩く。

 夏の色が濃い、夜の匂い。なんとも言葉にしにくいけれど、幼い時を思い出させるような夏の夜の匂いがした。


「そういえば最近の本で、面白い本はあるか?」

「わたしが面白いと思ったのは……神殿を舞台にしたミステリー小説ね。少し怖い場面もあるんだけれど、ハラハラして最後まで一気に読んでしまったわ」

「へぇ、読んでみたいな。図書館にあるのか?」


 きっとノアも好きだと思っていたから、そう言ってくれるのが嬉しい。

 読んでくれたら、色々考察したり出来るだろうしそれも楽しみだ。


「まだ入っていないから、わたしが持っているものを貸してあげる。手紙と一緒に届けるわ」

「ありがとう。楽しみだな」

「それはどっちが楽しみなのかしら。わたしの手紙? それとも本?」

「言わせんなよ。分かってるだろ」


 大袈裟に肩を竦めて見せるから、思わず笑ってしまった。

 静かな夜に響くのはわたし達の笑い声だけ。それが楽しくて、嬉しくて、ずっとこうしていたいと思ってしまう。


 繋ぐ手が温かい。

 いつもよりもゆっくりとした歩調なのは、彼もそう願ってくれているのだと思う。


「このままお前を連れ去りたいくらいだ」


 その言葉の半分くらいは、もしかしたら本当の気持ちなのかしら。

 わたしもそうだと頷いたら、連れ去ってくれたりするのだろうか。


「ノア……」

「なんてな。あと数日なんだから我慢すれば日常に戻れるってのも、分かってはいるんだが」


 その声に熱が潜んでいるようで、わたしの胸の奥が締め付けられる。切なくて、恋しくて……触れているのに、もっと触れたい。


「ねぇ……結婚を早められないかしら。今すぐが難しいのは分かっているけれど、その……冬じゃなくて、秋とか」

「俺はそうしたいな。秋どころか今すぐでもいいくらいだ」

「もう、それが難しいって言ってるでしょ」

「はは、それくらい焦がれてるって事だよ」


 わたしの言葉に頷いてくれるノアの口元が弧を描く。きっと夕星の瞳も優しく細められているのだろう。


 頬を撫でる風が優しい。

 商店街に明かりのついているお店も無くて、本当に静かだった。わたし達の足音だけが響いて、寄り添う影だけが長く伸びている。


「でも、そうだな。本当に結婚式を早めよう。俺ももう、色々しんどい」


 そう呟いたノアが、不意に足を止める。

 つられるように立ち止まったわたしに向かい合ったノアが、わたしの顎に手を掛けて──唇が重なった。


 唇に宿る熱が、漣のように体に広がっていく。

 繋ぐ手に力を込めても足りなくて、彼の腰に手を回して抱き着いた。彼も片手できつく抱き締めてくれるから、触れ合う場所が増えるのに熱も欲も増していくばかりだ。


「……アリシア」


 低く掠れた声で名前を呼ばれて胸の奥が切なくなる。彼の事が好きだとわたしの全てが叫んでいる。



 ゆっくりと唇が離れていく。

 熱い吐息が夏の夜気に消えていった。


「だめだな、このままだと本当に帰せなくなる。……行くか」

「……ええ」


 まだ唇が熱を持っている。夜風が心地よいくらいに。

 ノアもそうだったらいいなって見上げたら、口元を手で押さえて顔を背けてしまった。これは……きっと照れている。

 何だかそれが可笑しくてくすくすと笑みを零したら、頭をこつんと小突かれてしまった。



 この角を曲がったら、もう家が見えてくる。

 楽しい時間は終わってしまうけれど、でも……明日からも頑張れる。そう思えるくらいに、優しい夜だった。


「ノア、今日は本当にありがとう。少し滅入っていたんだけど、ノアが来てくれたおかげで気持ちが凄く楽になったの」

「俺が会いたくて来ただけだからな、気にしなくていいんだが」

「ふふ、優しいんだから」


 わたしに気負わせないように、いつもこうして気遣ってくれる。その度に彼を好きだと言う気持ちが溢れていくけれど、収まる時なんて来るんだろうか。

 想像できない未来を思っていたら、もう門の前。


 こんな時間でも門灯と、玄関の灯りは煌々とつけられている。

 もう皆は眠っているのだろう。どの部屋の明かりも落とされていた。


「じゃあ、また」

「ええ。手紙を書くわ」

「楽しみにしてる」


 彼の事を見送ってから、家に入ろう。

 そう思ったのに、彼が動く気配はなくて……一体どうしたのかと首を傾げた。


 ノアは前髪をあげたと思ったら、掛けていた眼鏡も外してそれで髪を留めてしまう。

 露わになった紫の瞳に、わたしだけが映っていた。


「なぁ。もし……俺が国を離れると言ったら、ついてきてくれるか」

「もちろん」


 躊躇いがちに紡がれた言葉に、すぐに頷いた。

 ノアは驚いたように目を丸くして、それから困ったように笑ってしまう。


「お前は……もう少し悩むとかねぇのかよ」

「ないわね。だってきっと色々考えた結果にそれを選ぶなら、ついていくだけだもの」

「今の幸せを手放しても?」

「前に言ったでしょう。【わたしの幸せは、あなたと共に】って」


 彼がわたしにプロポーズをしてくれたあの日から、その気持ちは変わらない。

 そんな思いで返した言葉に、ノアは嬉しそうに笑っている。


「……そうだったな。俺も、もう少し頑張ってみるか」

「無理はしないでよ? いざとなったらっていう話だと思うけど、いつだってわたしはついていくわ」

「お前のそういうところ、本当にすごいと思うよ」

「惚れ直した?」

「それはいつもだ」


 低く笑ったノアがわたしの頬に口付けをくれる。

 それから手を振って去っていくその姿は、いつものような猫背ではなかった。騎士としての、アインハルトとしての、姿にも見えた。


 その背が見えなくなるまでを、わたしはずっと見つめていた。

 目を離すことが出来なかった。


 部屋に戻ったらすぐに手紙を書こう。

 わたしがどれだけノアのことを想っているのか、少しでも伝わるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る