番外編 パンケーキと独占欲①

 冬の終わり、春の始まりを感じさせるような暖かい日の事だった。

 これは例年の事。またすぐに寒さがぶり返す事を知っているけれど、それでもぽかぽかとした陽気は気持ちがいい。


 しずり雪が、水分を含んだ湿った音と共に屋根から落ちていく。

 喫茶店の窓からそれを眺めていると、扉が開く音がした。扉につけられたベルが高く澄んだ音を奏でてとても綺麗。


 音に誘われそちらを見る。わたしの居るテーブルにまっすぐに近付いてくる姿を見て、笑みが零れた。


「悪い、遅れた」

「いいのよ。忙しかった?」

「いや、朝から団長に捕まった。迎えに行けなくて悪かったな」

「大丈夫よ」


 苦笑いをしながらノアはわたしの前の席に座る。

 今日は前から約束をしていた日で、ノアがわたしを家まで迎えに来てくれる予定だった。それが朝になって、現地集合にして欲しいと手紙が届いたのである。何かあったのか心配していたけれど、大きな問題ではなさそうで内心で安堵の息をついた。


 注文を聞きにきたマスターに、二人揃ってコーヒーを注文する。それから、おすすめだというパンケーキ。初老のマスターは穏和な笑みでひとつ頷くと、足音を立てずに厨房へと戻っていった。


「素敵なお店ね。落ち着いていて雰囲気がいいわ」

「団長がおすすめのカフェを聞いて回ってたって、前に話した事があっただろ? お前の同僚と初めて一緒に行くって時」

「ええ、覚えているわ」

「その時に候補に上がってた店なんだよ。自分で見つけた店って言えないのが癪なんだが」

「なぁにそれ。素敵な場所を教えて貰えたんだからいいじゃない」


 相変わらずの分厚い前髪の向こうでは、きっと紫瞳が細められているのだろう。口元が楽しそうに弧を描くのを見て、つられるようにわたしも笑った。



「そういえば、こないだの顔合わせ。準備も大変だっただろ」


 先日にうちで開かれた、両家の顔合わせ食事会の事だ。

 

「大変じゃなかった、なんて言ったら嘘になるけれど。でもそれ以上に楽しかったからいいのよ。おもてなしに不備があったんじゃないかって、そっちの方が心配なくらい」

「不備なんてねぇよ。両親も喜んでた」


 その言葉に安心して、ほっと胸を撫で下ろした。

 思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。そんな優しさに溢れた日だった。


「素敵なご家族ね。まさか留学してる弟さんも、一時帰国して下さるとは思わなかったわ」

「それだけ俺達の婚約を喜んでるんだよ。一生結婚しないと思っていた俺が婚約して、まさか兄弟の中で一番先に結婚するとは思わなかったみてぇだしな」


 顔合わせは両家の両親の他に、兄弟も参加してくれた。嫁いでいるわたしの姉も来てくれて、女性陣は様々な話で大いに盛り上がってしまった──もちろん、わたしも含めて。

 男性陣は仕事の話の他に、趣味の話で交流をしていたらしい。華やかではないけれど、落ち着いてゆっくりと話が出来たと、父も兄も大変満足そうだった。


「お待たせしました」


 ふわりとコーヒーの良い香りが鼻を擽る。掛けられた声に顔を上げると、笑みをたたえたマスターがわたし達の前にコーヒーを並べる。そして中央にはパンケーキ。カトラリーの入った籠を置いて、ごゆっくりと去っていく様は何だかとても格好良かった。


「はい、どうぞ」


 早速ノアが小皿に取り分けてくれる。綺麗な真ん丸のパンケーキは厚くて、手の平半分ほどの大きさだ。粉砂糖が振りかけられているのは、まるで雪のような美しさ。

 生クリームと真っ赤なイチゴも添えて、綺麗に盛り付けられた皿がわたしの前に用意された。


「ありがとう。凄く綺麗ね」


 蜂蜜をたっぷり掛けると、砂糖が溶けて消えていく。ナイフを入れると、じゅわっと溢れるのは蜂蜜だけじゃなさそうだ。一口大に切り分けて口に運ぶと、バターの風味がいっぱいに広がった。


「んん、美味しい」


 思っていたよりもふわふわとした生地だった。まるでスフレのような生地はキメが細かいのか、しっとりと口の中で溶けていく。


「うん、美味い」


 パンケーキを味わうノアも、満足そうに頷いている。その長い指がカップを持って口に運ぶ。流れるような仕草に思わず見惚れていると、コーヒーを飲んだノアが驚いたように吐息を漏らした。


「何だこれ」

「どうしたの?」

「今まで飲んだ中で一番美味い」


 そう言われて、わたしもカップを手に取った。

 立ち上る芳醇な香りは心地よさを感じさせる程だ。誘われるように一口を飲むと程好い苦味の後にほんのりとした甘さが残る。それが驚くくらいに飲みやすくて、わたしは目を瞬いた。


「本当。凄く美味しい」

「豆の販売してんのかな。帰りに聞いてみるか」


 しているのならわたしも買っていこう。ここまで美味しく淹れるのには技術が必要かもしれないけれど。



 扉が開いて、またベルが鳴る。

 澄んだ高い響きは喧しいわけでなく、この空間を包み込むようだった。


 入ってきたお客さんはまっすぐにカウンターへと座る。注文をして、懐から本を取り出している。

 見れば周りはそんなお客さんばかりだ。一人で来ている人も多く、複数でも声を抑えて穏やかに会話を楽しんでいる。そんな雰囲気が心地良い。


 わたしはパンケーキに生クリームを乗せてから口へと運んだ。

 甘さが控えめで食べやすい。口当たりの良いクリームはパンケーキと一緒に溶けてしまうけれど、口当たりが変わってこれも美味しい。


「本当に美味そうに食うな」

「そういうわたしが好きでしょ」

「お、言うようになったな」


 可笑しそうにノアが肩を揺らす。

 食べ終えたのにフォークを手にしたノアは、大皿に残っていたイチゴを刺して、それをわたしの口元へと寄せてきた。

 口を開けろとばかりに揺らされるイチゴに、頬が熱を持っていくのが分かる。羞恥に鼓動も早まって、わたしは軽くノアを睨んで見せた。


「照れ屋なところは変わらないんだな」


 ノアの声が甘い。


「ああ、クリームが足りないか」


 イチゴにクリームを纏わせて、またわたしの口元でそれを揺らす。美味しそうだけど、美味しいのは分かっているけれど、どうにも恥ずかしい。

 でもこの男が引かない事は分かっているから、わたしは意を決して口を開いた。食べたイチゴは甘酸っぱくて、悔しいくらいに美味しい。


 文句を言おうにも、ノアがあまりにも嬉しそうに笑うから。

 それで絆されるあたり、わたしはノアの事が好きなんだと思い知らされるばかりだった。

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