42.美味しい時間

 宵の頃。

 少しずつ姿を現す月は糸のように細い。凛然りんぜんとした寒空に吐息が白く上っていく夜だった。


 ノアが開けてくれた、あまりりす亭の扉をくぐる。わたし達の姿に気付いたエマさんは、嬉しそうに表情を綻ばせた。


「いらっしゃい! 婚約おめでとう!」

「おめでとう」


 厨房からマスターも出てきて、お祝いの言葉をくれる。それが恥ずかしいのと嬉しいのとで、わたしは笑みを零していた。


「ありがとう」

「まさかノアくんがアインハルト様だったなんてね。うちの人は気付いていたみたいだけど。仲良しだった二人が結婚するなんて、自分の事のように嬉しいのよ。アリシアちゃんとシュークリームを食べた時の事を思い出すと、もうなんだか胸が詰まっちゃってね……」


 言いながら、感極まった様子でエマさんが目尻を拭っている。

 苦笑いのマスターがエマさんの肩を抱いて、厨房へと促してながら肩越しに振り返った。


「今日はとっておきのワインを出す。俺達からのお祝いだ」

「ありがとう、マスター」


 ノアの声も嬉しそうに弾んでいる。

 引いて貰った椅子に座って、隣に座るノアへと目を向ける。椅子一つ分空いていた距離が、今じゃこんなにも近い。


「どうした?」

「ううん。最初はもっと離れた場所に座っていたなって、思い出しただけ」

「婚約者がいるお嬢さんだったからな。下手に近付いて醜聞になっても申し訳ないだろ」

「そういう気遣いは前から変わらないわね」


 思い出すのは、楽しい事ばかりではないけれど。でも過去よりも、今のわたしはずっと幸せだ。

 ここで知り合った人と、こうして婚約をするなんて当時のわたしには想像も出来なかったけれど。楽しかった時も苦しかった時も、婚約破棄を突きつけられて悲しかったあの夜も。ノアはわたしの傍に居てくれた。



「はい、お待たせ。芽キャベツのチーズフリットと、モッツアレラ焼きサンドよ」

「このワインは美味いぞ。飲んでくれ」


 両手にお皿を持ったエマさんが、わたし達の前に料理を並べてくれる。

 マスターはワイングラスとボトルを持ってきて、そのボトルを見たノアが驚いたように立ち上がった。


「マスター! これすげぇ稀少なやつでしょ。ほとんどが王家に献上されて、一般には出回らないやつ」

「よく知っているな」

うち伯爵家で探しても手に入らなかったんだよ。なんでこれを……」

「色々ツテがあるもんでね」


 悪戯に笑ったマスターは、ごゆっくりと言葉を残してエマさんと一緒に厨房へと戻っていく。

 椅子に腰を戻したノアは呆れたように低く笑った。


「本当にあの人、何者なんだ」

「そんなに珍しいワインなの?」

「ある畑からしか取れない葡萄を使ってんだよ。生産数も少なくて、一般には出回らないんだが……」


 まじまじとワインのボトルを見ると、貼られた白いラベルさえ神々しく見えてくる程だ。

 そんな稀少なワインをいいんだろうかとも思うけれど……お祝いと言ってくれたマスターに、今日は甘えてしまおう。


 コルクを開けたノアが、グラスにワインを注いでくれる。その瞬間に広がる香りに、わたしは目を瞬いた。熟した果実のような甘さかと思えば、バターのような香ばしさも伝わってくる。

 差し出されたグラスを受け取り、ノアと一緒に掲げてから一口を飲んだ。

 飲みやすい辛口なのに、葡萄の優しい甘さが広がっていく。凝縮された果実を口に含んでいるような瑞々しさに体が震えてしまう。

 ノアも一口飲んでから、驚いたようにワイングラスを揺らしていた。


「なんだこれ。眩暈がしそうなくらい美味い」

「こんなワインを知っちゃったら、他のワインだと物足りなくなってしまいそうだわ」

「確かにな。毎日は無理だけど、記念日には飲めるように頑張ってみるか」


 グラスを置いたノアは、焼きサンドとフリットをお皿に取ってわたしの前に置いてくれる。ありがとうと告げると、ノアの口元が綻ぶのが好きだ。

 手を組んで感謝の祈りを捧げてから、カトラリーを手に取った。


 焼きサンドは薄切りにしたバゲットにチーズが挟んであるようだ。こんがりと美味しそうな焼き色をつけたサンドに噛りつくと、びよんとチーズが伸びる。表面はカリっとしているのにバゲットはしっとりしている。そこにもっちりとしたチーズ!

 卵と牛乳に浸したのかほんのりと甘いバゲットに、チーズの塩気が抜群に合っていてこれは美味しい。


「すっごい美味しい。これは家でも食べたいくらいだわ」

「このフリットも美味い。衣にチーズが混ぜてあんのかな」


 美味しい食事に美味しいワイン。

 それを一緒に楽しめる人が居て、幸せだと心から思った。


「……相変わらず美味そうに食うよな」

「美味しいんだもの」

「その素直さに惹かれたんだな、俺は」

「いきなりどうしたの」

「可愛いなって思って」

「……はいはい」


 急にそんな事を言われて恥ずかしくないわけもなく。軽く流したけれど、顔が赤いのなんて鏡を見なくてもわかりきっている。

 分厚い前髪の奥で、きっとノアは目を細めているんだろうな。

 羞恥を誤魔化すように、フリットにフォークを刺した。



「なぁ、本当に家はあれでいいのか? 新しく建ててもいいんだぞ」


 食事を楽しむ中で、そういえばとばかりにノアが口を開く。

 結婚して新しく住む場所として、ノアの実家である伯爵家が王都に持っている屋敷のひとつを譲ってくれるそうなのだ。有り難くそこに住む、という話で落ち着いたはずなのに、ノアは新しく建てた方がいいんじゃないかと言い出している。


「いまから建てるなんて、どれだけ時間が掛かるか分からないわよ。結婚式の後に完成する事になるかもしれない」


 結婚式は一年後を予定しているけれど、それでも準備の時間が足りないと母が笑顔で悲鳴をあげていた。


「……それは嫌だな」

「でしょ。あのお屋敷なら職場にも近いし」

「まぁ、そうか」

「家具の事なんだけど、倉庫を見に来たらいいって兄が言っていたわよ。その中から好きなものを選んでもいいし、気に入った職人さんが居たら希望を聞いて作って貰えるって」

「じゃあ次の休みに行くか」


 結婚式の準備だけでなく、新居の準備も進めないといけない。

 忙しいけれど充実していて、色んな人にお祝いして貰うのはとても幸せな事だと思う。


 一口大のフリットを口に運ぶと、少し柔らかな衣からはチーズの香りがした。芽キャベツの瑞々しさが閉じ込められていて、噛む度に旨味が広がっていく。これも美味しい。


「ハウスメイドなんだが何人ほしい?」

「何人って……何人つけるものなの?」


 家事が出来ない事もないけれど、屋敷の大きさを考えると、わたし一人では手が届かないところばかりになるだろう。


「何人でもいいぞ。伯爵家から回してくれるから、信頼できるしな」


 そうか、新しく募集なんてしたら”アインハルト様”目当ての人がやってくる可能性もある。伯爵家に仕えていた人なら、ノアも安心出来るのだろう。


「その辺りは慣れていなくて、ちょっと分からないの。うちは一人だったけれど、貴族はまた違うでしょうし」

「じゃあ家に聞いておく。それからまたお前に相談するから」

「ええ、ありがとう」


 この人はいつもこうやって、わたしの事を尊重してくれる。

 一人で決める事なく、わたしの意見を受け入れてくれる。それが嬉しくて、わたしの頬は綻ぶばかりだ。


「機嫌がいいな」

「そうね。あんたの事が好きだって、実感してた」

「……あー、それは狡い」


 ノアはグラスを呷って、ワインを飲み干してしまう。そのグラスにまたワインを満たしてから、わたしにもグラスを空けるよう手で促してくる。

 ワインを飲み干すと、ふぅと強い酒精が漏れた。時間が経つほどに味わいが変わってくるようだ。

 わたしのグラスにワインを注いだノアは、自分のグラスを掲げた。


 その仕草にまで胸が高鳴ってしまうのだから、わたしも相当だななんて、少し笑った。


 

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