37.正体に気付く事はなく


 風が冷たい。

 ぶるりと体を震わせたわたしは、羽織っていた厚地ストールの前を両手で合わせた。


 王宮内で働く文官の方から依頼を受けて、資料の本を届けた帰り道。わたしは図書館裏手の広場を足早に進んでいた。近い距離だ、コートを着るまでもない。そう思っていたけれど、やっぱりストールだけだと厳しかったかもしれない。


 灰色の空から落ちる、細かな雪。風に煽られて舞うそれが、わたしの髪を濡らしていく。

 帰宅する時には髪を整えないと。今日はあまりりす亭でノアと会う日だ。そしてわたしにはひとつ、決意している事があった。


 ノアに気持ちを伝える事。

 好きだと、一緒に居たいと伝えたい。気持ちをくれているからじゃなくて、わたしの気持ちを受け取ってほしい。そう思えたのはウェンディのおかげだし、前にエマさんが言っていたように、芽生えた気持ちが勇気となってくれているからかもしれない。



 そんなわたしの足を止めさせたのは、進路を塞ぐように三人の女性が立ち塞がったからだった。

 真ん中で腕組みをしている女性の姿に、わたしは漏れそうになった溜息を飲み込んだ。


 蜂蜜色の髪か可愛らしく巻かれてリボンが飾られている。最初に見た時は不安そうに揺れていたはずの緑の瞳は、鋭くわたしを睨んでいた──キーラ・フリッチェ男爵令嬢だ。


「よろしいかしら、アリシア・ブルーム」

「……何かご用でしょうか」

「白々しい。あの方の人生を潰しておいて、よく平気な顔をしていられるものだわ」


 キーラ嬢のわざとらしい溜息に、背後に控える二人の女性が大きく頷いている。ちらりとそちらを伺うと、ひそひそとわたしを見ながら何かを囁きあっているのが見えた。ろくな話ではないだろう。

 キーラ嬢と同じような町歩き用のドレスを着ているから、きっとこの人達も貴族のご令嬢なんだろう。


「わたしはなにもしておりませんが」

「フェリクス様を廃嫡に追い込んでおいて、そんな事を言うのね。本当に恐ろしい女だこと」

「わたしが何かをしたわけではございません。トストマン子爵家内での話し合いの結果だと伺っております」

「ふん、どうやっても認めないつもりね。これだから平民女は矜持も無くて嫌なのよ」


 相変わらずの物言いだ。感情的に反論した方が馬鹿を見る。

 わたしは無表情でやり過ごす事に決めた。ストールを握る指先が悴んで、手袋をしてきたら良かったと思いながら。


「職務中ですので、失礼しても宜しいでしょうか」

「待ちなさいよ、話は終わっていないわ」


 キーラ嬢が肩に掛かる髪を片手で払った。ふわふわとした淡いピンクのケープに積もっていた雪が、その拍子にきらきらと舞った。


「あなた、アインハルト様と接点があるわよね?」

「はぁ、そうですね。ございますが……」


 キーラ嬢は以前、わたしに絡んでいるのをアインハルト様に注意されている。

 わたしとノアの関係を知っているとかではなくて、司書と騎士様の接点の事を言っているのだろう。


「私達をアインハルト様に紹介なさい」

「……はい?」

「どうとでもなるでしょう。紹介したい素敵な令嬢がいると、簡単な事じゃない」


 いや、あなた……わたしに絡んでいるのを見られているじゃない。

 それに婚約している男性にも節操がない令嬢だと、知られてもいるのに?


 わたしが唖然としていると、キーラ嬢は眉をひそめた。後ろの令嬢達も腕組みをして、「気が利かない」だの文句を言っている。


「それは……」

「出来ないなんて言わせないわよ? あなたのせいで、わたしとフェリクス様は引き裂かれてしまったんだもの。あなたはわたしに償いをするべきよ」

「ええと……わたしは全く関係がないと思うのですが」

「平民風情が口答えをする気? あなたの店を潰したっていいのよ」


 そんな力があるとは思えないけれど。

 何を言っても伝わらないし、ここは不敬だと言われても論破するべきか。それとも強行突破で走り抜けるべきか。


 よし、走ろう。

 そう思った時、キーラ達の視線がわたしの後ろに向いた。誰か来たのかとその視線を追いかけると、そこには分厚い前髪に猫背姿のノア・・がいた。


「何をしてる?」


 間延びしたような落ち着いた声。それでもその声に、棘が含まれているのは気のせいではないと思う。


「誰よあんた」


 あなたが紹介してほしいと言った、アインハルト様です。

 内心でそんな事を考えながら、わたしは隣に立つノアを見上げた。


「手が真っ赤だ。絡まれて戻れなかったのか」


 ノアはわたしの両手を取ると、暖めるように摩ってくれる。ありがたいけれど、そんな事をしている場合じゃなくて……。

 わたしの動揺を見透かしたように、ノアの口元が悪戯に弧を描く。


「ちょっと! 無視しないでよ!」

「彼女は職務中だ。くだらない話で足を止めさせるのはどうかと思うぜ」

「くだらないとは何よ。関係ないんだからどこかに行きなさいよ」


 顎を上げてノアの事を睨むキーラは、片手で追い払うような仕草をする。

 ノアは気にした様子もなく、わたしの手を握りしめたままだ。


「アリシアの迷惑になる事は見過ごせないんでね。君達も家に話がいく前に、さっさと帰った方がいいと思うが」

「あんた、その女にご執心なのかしら。平民女には相応しい、垢抜けなくてだらしない男ね。お似合いだわ」


 わたしの事が憎いのは分かるけれど、ノアは関係がないのに。

 先程から燻っていた感情に火が点いて、目の前が赤くなるようだった。


「人の価値を見た目や裕福さでしか測る事の出来ないあなたには、この人の素敵なところがわからないんですね。可哀想でとても残念です」

「な、っ……不敬よ! 平民のくせに!」

「平民なら理由もなく蔑んでも宜しいわけではありません。平民が営む店には御用もないでしょう。皆様とブルーム商会のお付き合いは切らせて頂くよう、父に進言させて頂きます」


 父の威を借りるようだけど、平民だと嘲られて蔑まれて、にこにこしている事も出来ない。

 平民の店に用向く事もないだろうに、キーラの後ろにいる二人は見るから狼狽えている。あとでウェンディか姉に聞けば、この二人の家も分かるだろう。


「ふん、そんな男の素敵さなんて分からなくてもいいわ。それにあんたの店なんて、こちらからお断りよ!」


 キーラは雪が積もっているにも関わらず、足元に注意も払わずに勢いよく歩いていく。あれではいつ転んでもおかしくないのだけど、ヒールの靴じゃないからまぁ大丈夫でしょう。

 付き従う二人はちらちらとこちらを伺いながら、キーラの後を追いかけていった。



「……垢抜けない男ですって」


 ぼそりと呟くと、堪えられないとばかりにノアが大笑いをした。お腹を抱えて息も出来ないのか、時々噎せて咳き込んでいる。


「その前には”アインハルト様を紹介しなさい”なんて言っていたんだけど……」

「くくっ、あー……笑える。目の前にいても気付かないもんだな」

「分からないのも当然だと思うわ。そういえばどうしてその姿なの?」


 頭の雪を払いながら問うと、ようやく笑いが落ち着いたらしいノアが眼鏡を外している。指先で目元に触れているのは、笑いすぎて涙が出たのかもしれない。


「今日は非番なんだよ。ちょっと詰所に顔出して、お前の仕事が終わるのを待ってようと思ってたんだ」

「せっかくの休みなんだから、ゆっくりしていたら良かったのに。でもまぁ、助かったけど」

「そうだろ。仕事が終わる頃、図書館の前で待ってる」

「ええ、ありがとう」


 ノアはわたしの肩にも積もった雪を払うと、優しく笑った。掛けたばかりの眼鏡を押し上げて、露になった夕星がわたしを見つめている。


 わたしが歩き出してもついてくる事はない。

 でもその場に立って、わたしが図書館に入るまでを見送ってくれている。その気遣いが嬉しくて、胸に光が灯されるようだった。


 退勤時間まで、あと少し。

 待ち合わせに弾む心を隠せるかどうかは、怪しいけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る